第二章 天におられるキリストは私たちの十全性である

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:コロサイ二章

この集会の期間に関して主の御前で待ち望んでいた時、「主は私たちの十全性であるキリストに私たちを専念させることを望んでおられる」という思いが私の心に浮かびました。

聖書のいくつかの節に向かいましょう。

「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの神また父。この方はキリストにあって、天上にあるあらゆる霊の祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。」エペ一・三~四
「……彼らは、彼らについて来た霊の岩から飲んだのです。その岩とはキリストでした。」一コリ十・一~四
「この人が御使いと共に荒野の集会にいて(中略)生ける言葉を受け、私たちに与えたのです。」使七・三八
「……私たちの十全性は神からです……」二コリ三・五
「しかし、私たちはこの宝を土の器の中に持っています。それは、その力の卓越した偉大さが神のものであって、私たち自身からではないことが、現れるためです。」二コリ四・七

これらの節はみな、何らかの形で、十全性と関係しています。この十全性は私たちの主イエス・キリストと密接な関係にあります。さて、ここで私たちは、ある問いに触れることに専念します。その問いに関して、クリスチャンはみな、その答えについて大いに確信していなければなりませんし、明確でなければなりません。その問いとは、「神の子供の生活を支配する最高の目的は何か」というものです。私たちはこの問いに答えられなくてはなりません。これはとても重要です。正しい答えは「神の子供の生活の最高の目的は――キリストを学ぶことである」と、私は信じています。

神はそのあらゆる豊かさをもってキリストを満たされました。彼の中に知識と知恵とのあらゆる富が宿っています。そして、その豊かさは私たちのためです。使徒パウロは、私たちは「キリストにあって天上にあるあらゆる霊の祝福をもって祝福」されていると述べて、これを告げています。ですから、信者としての私たちの仕事はキリストを学んで、イエス・キリストの豊かさの中に生き生きと入ることです。これがすべてを支配します。神の子供に対する神の取り扱いはすべて、キリストを知るさらに豊かな知識へとその人を導くことです。私たちの生活の残りのものはすべて、この知識の所産・結果にすぎません。

多くの人々が「神が私たちを救われた目的は、私たちが他の人々を救うためです」と言うのを、私は聞いてきました。しかし、これは神の御旨の一部にすぎません。主を知る個人的知識がなければ、主のための真の奉仕はありえません。自分のものでない知識にだれかを導くことは決してできませんし、私たちがキリストを生き生きと知っている地点を超えてだれかを導くこともできません。ですから、すべてはイエス・キリストを知る私たちの知識の大きさにかかっています。

たとえメトセラのように長生きしても、イエス・キリストの豊かさは決して使い尽くせません。常に、さらなる豊かさを彼の中に見いだします。ですから、永遠における私たちの仕事はキリストをますます知ることである、と私は信じています。私たちの人生の目的は、私たちのためのイエス・キリストのあらゆる豊かさの十全性の中に入り込むことです。これが全く明らかになるとき、「どうすればキリストを学べるのか?」という問いが生じます。

どうすればキリストを学べるのか?

この問いに答える前に、キリストのあの豊かさと十全性の背景をまず見ることにしましょう。「この背景は荒野である」と私が言ったら、あなたは驚くかもしれません。すすんで荒野の中に行く時だけ、私たちは私たちの主イエス・キリストの十全性を知ることができます。

さて、荒野は常に霊的教育のために最善の場所でした。荒野では学べることがあまり多くない、とあなたは考えるかもしれません。ですが、多くあるのです。荒野は天の事柄を学ぶ最善の場所です。アブラハムがそうでした。モーセについてもそうでした。イスラエルもそうでした。荒野はパウロの人生でも決定的地位を占めていました。字義的方法で理解するにせよ、霊的方法で理解するにせよ、事実として、神の民は、何度も何度も、荒野に送られました。そのような「荒野」が何を意味するのか、私たちの多くは知っています。

神が一つの民の上に御手を置かれる時、神は常にご自身からではない一切のものから彼らを切り離されます。つまり、神は彼らの天然の命の全領域から彼らを切り離し、言わば、天然の世界の外側に彼らを置かれるのです。イスラエルの民の事例からこれがわかります。パロは彼らが荒野に行くのを許しました。彼らが中途半端な気持ち――エジプトを思う気持ちと良き地を思う気持ち――で神に仕えるようパロは望みました。しかし、そのような気持ちは決して神に役立ちません。神の最低限の要求は「ひづめ一つも残してはならない」でした。神の民はエジプトから絶対的に分離されなければなりませんでした。ですから、紅海が神の民とエジプト人を隔てました。神は、彼らがその学課を学ぶまで荒野にとどまるようにされました。神には、そこで彼らに教えるべき数々の大きな学課がありました。荒野におけるイスラエルの放浪は、後代のために一つの例としての役割を果たさなければなりませんでした。教会の経綸――それはずっと先のことでしたが――に、人々は彼らから教訓を得る必要がありました。荒野で神は数々の永遠の原則を据えられました。イスラエルに起きたことは「私たちへの教訓」のためでした。

神はご自身の民を天然の領域から切り離されます。天然の人が荒野ではどれほど少ししか役に立たないか、あなたはご存じです。その天然の能力がどれほど理知的で、どれほど力強いかは関係ありません。荒野ではあまり役に立ちません。あなたは優秀な学生、秀でた商売人・まとめ役かもしれませんが、これはどれも荒野ではあまり益になりません。砂漠の真ん中にぽつんと置かれた人にとって、その人自身の賢さはあまり役に立ちませんし、その天然の能力もあまり遠くには及びません。

ですから、何が大事か分かります。神が私たちを御手の中に握られる時、神は私たちを生来の私たちの領域から連れ出されます。これが荒野の意味です。神の御旨はキリストをすべてとすることです。私たちが自分で事を行える限り、自分自身の内に資源がある限り、私たちはイエス・キリストを知ることはできません。キリストは私たちにとって未探訪の領域のままです。

コリント人への第一の手紙の中に、荒野におけるキリストに関する幾つかの明確な叙述が見つかります。「彼らはみな、同じ霊の食物を食べ、同じ霊の飲み物を飲みました。彼らは彼らについてきた霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストでした」。イスラエルが新たな欠乏の状況に至る時はいつでも、神がこの必要を満たすために彼らのために行われたことは、彼らにキリストの絵図を与えることでした。彼らが食物を必要としたとき、天がそれを供給しました。彼らが受けたのはキリストの型でした。ですから、彼らは荒野でキリストを自分たちの食物・飲み物として知ることを学びました。これは教会にとって、天のキリストは教会の十全性であることを示す、一つの偉大な歴史的絵図です。

イスラエルに関して歴史的に言えたことは、必然的にイエス・キリストにも言えました。キリストはご自身のためにこの依存的地位を受け入れられました。この地上におけるキリストに関するものはみな、彼の貧しさを告げます。彼はこの世の富を何も持っておられませんでした。彼はこの世が与えられる利益を享受されませんでした。彼はとても貧しい家庭に生まれました。彼の人生の初期、彼は自分の生計のために働かなければなりませんでした。彼の人生の天然的な面は、最後まで制限されていました。しかし、彼はそれをよしとされました。地的手段よりも天的資源に基づいて生きることを彼は選ばれました。これについては後でさらに見ることにします。

教会は、全く主の御手の中にあるなら、同じ方法で導かれ、この依存の中に導かれます。天然のものはみなやまなければなりません。それは、教会の命はすべて天のキリストと密接な関係にあること、また、教会の資源はすべて彼のみにあることを、教会が学ぶためです。

しかし、天上に住むのは実に素晴らしいことです!それは絶えざる発見、絶えざる驚きの領域です。毎日、天然的な観点から見ると、状況の手に負えなさを感じます。自分では状況に対処して必要を満たせないことがわかります。私たちの天然は「自分にはできない」というこの深刻な句によって支配されています。私たちはこれをパウロの人生の中に見ます。彼は天然の人について、天然の人は「神の事柄を知ることができない」と述べています。これが、天然の能力が神の事柄の領域では役に立たない理由です。しかし、この事実の理解の中に導かれることは、私たちに対するキリストの富と豊かさに関する、素晴らしい経験と絶えざる発見の領域の中に導かれることです。自分自身の弱さと失敗を理解する人だけが、キリストの中に何と素晴らしい力と豊かさがあるのかを知ります。時の流れの中で、私たちは無理な状況に出くわします。その必要に応じる力は私たちの内にありません。どうやってそれを切り抜けたらいいのかわかりません。もし放置されたら、私たちは失敗するでしょう。しかし今や、私たちは新たな経験の中に入りつつあります。かつて知らなかったことを学びつつあります。キリストのさらなる資源を発見できるような状況の中に、主は私たちを導いてくださったことを理解します。最初、「自分は挫折する」と私たちは思いました。しかし進むうちに、いかなる外観にもかかわらず、私たちはこの荒野の学課をゆっくりと学びます。それは、さらに大きな要求に応じられる新しい内なる立場に私たちが達するためです。

こうして、主はあらゆる状況に応じられること、キリストは私たちに必要なものを持っておられることを、私たちは経験によって学びます。たとえ自分の内にある力が以前の力に優るものではなくても、私たちは落胆する代わりに勝利の霊を帯びます。それまでと同じように私たち自身は無能です。しかし、主がいかに有能なのか、空っぽな私たちの中にあるその豊かさがいかに偉大なのかを、私たちは見いだし始めます。彼は弱い私たちの力であり、愚かな私たちの知恵です。私たちの能力はもはや地的な能力ではなく、キリストにある天的な能力です。

牢獄にいた時、これをパウロは経験しました。自分が彼の立場だったら、と想像してみてください!現世の祝福から切り離され、諸教会における彼の働きは終わったように見えました。自由は奪われ、肉体的にもこの世的にも確かに必要を抱えていました。彼の状況は、全く憂鬱なものでした。彼の処刑は差し迫っていました。そのような時に、「ほむべきかな、私たちの主イエス・キリストの神また父。この方は天上にあるあらゆる霊の祝福をもって、私たちを祝福してくださいました」と彼は書き始めます。彼は「荒野」の中にいますが、キリストという礎に基づいて生きています。ですから、彼は勝利でした。

そして、彼はキリストを大いに学んでいたので、今日に至るまで無数の信者に対する祝福となることができました。彼の数々の手紙に向かう時、私たちはそのページから常に新たな祝福を受けます。イエス・キリストの富が、その僕パウロを通して、私たちに豊かに流れ込みます。パウロはキリストを知っていました。しかし、その生涯の背後には霊的荒野がありました。つまり、天然が助けにならない領域があったのです。ですから、「私たちはこの宝を脆い土の器の中に持っています……」と彼は記します。脆い土の器――これは私たち自身の天然という荒野です。「私たちの外なる人は朽ちていきます」。パウロは天然の人という荒野の中で、自分自身に対するキリストの十全性を学びました。

ですから、信者の最大の課題はキリストを学ぶことであることがわかります。これは私たちを霊的な力と豊かさの地位に導きます。これは勝利する実り豊かな人生を送ることを意味します。

この荒野を持たない多くの人々がいます。彼らは自分自身の力で主のために働きます。このような人々は主イエスを知りません。彼らはキリストを学びません。しかし、私たちが自分の生活の中で主にその地位を与えるとき、もしかすると主は私たちを荒野に導かれるかもしれません。それは、主が彼の豊かさを私たちに啓示するためであり、私たちがキリストとその十全性を学ぶためです。

どうか主が、私たちの貧しさを私たちに示し、そして彼の豊かさを私たちに啓示するために、これらのメッセージを用いてくださいますように。