第四章 開かれた天

T. オースチン-スパークス

「また、あなたは垂れ幕を作らなければならない。(中略)そしてその垂れ幕は、あなたたちのために聖所と至聖所とを分離する」出二六・三一~三六。

「すると見よ、宮の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた……」マタ二七・四六~五一。

私たちの黙想の対象は、私たちの十全性である天におられるイエス・キリストです。すでに見たように、私たちの主イエスの供給源は、彼がこの地上におられた時、御父から来ました。彼は自発的に、御父に絶対的に拠り頼んで生活されました。彼はそうするよう心掛けました。彼は自分自身のうちに何かを持つことを拒否されました。必要なものをすべて、彼は天から引き出しました。彼はそれを上から受けました。

私たちがキリストとの復活合一の中にある時、聖霊は私たちを私たちのために天におられる御方との一つの中にもたらします。これは、主イエスがそれに基づいて生活されたすべての供給源を私たちは自由に利用できることを意味します。これらの供給源は隠れた供給源でした。つまり、それらはこの世の知らないものでした。彼の周りにいた人々は、彼の力の源に関して全く暗闇の中にありました。彼と彼の御父との間には隠れた関係があり、それによって彼らは感銘を受けました。彼の生活の背後には何かがあること、人にとってただならぬ神秘的な力と知識があることを、彼らは見ました。誰も持たない関連する供給源すべてを彼は自由に用いることができました。人の理解を遥かに超える知識を彼は持っていました。そして彼は隠された生活、彼の御父の中にある生活を送られたので、彼の供給源は人にとって神秘的で不思議なものでした。

もし私たちが聖霊によってイエス・キリストとの天的合一の中に生きるなら、同じ供給源を私たちも用いることができます。私たちの黙想の基礎である御言葉、「私たちの主イエス・キリストの父は、キリストにあって、天上にあるあらゆる霊の祝福をもって、私たちを祝福して下さいました」を思い出しましょう。これは、キリストの中にあるすべての供給源を私たちは利用できることを意味します。しかし、彼が肉身を取っておられた時に彼が御父との親しい交わりの中に生活されたように、私たちも彼とのそのような親しい交わりの中を生きることを学ばなければなりません。

さて、これらの隠された供給源のいくつかを見るためにヘブル書九・三~四に向かうことにしましょう。「また第二の幕の後ろにある幕屋は、至聖所と呼ばれています」。これは聖所と至聖所とを伴う、地上にあった幕屋のことです。聖所は地を表していました。そこには燭台、香檀、備えのパンの机があり――予型的に――主イエス・キリストを指し示していました。さてイエス・キリストはその幕を通って、未来の現実である場所の中に入って行かれました。そこではすべてがキリストであり、キリストがすべてのすべてです。キリストがその幕を裂かれて以来、天は開かれています。天然の人に対して天は閉ざされています。これに含まれるのは、私たちがいつの日か行くことになる天だけではありません。それは一つの領域、現在神が活動しておられる領域をも表すのであり、私たちはその領域に彼との合一によってあずかることができるのです。

私たちも開かれた天を持っています。パウロは「私たちの国籍は天にあります」と述べています!この地上における私たちの歩みが天的なものとなるには、私たちは開かれた天を持たなければなりません。なぜなら、私たちは霊的祝福のために完全に天に依存しているからです。天の扉は天然の人に対して閉ざされています。ニコデモのような人ですら、それを見ることはできませんし、ましてや入ることなどできません。

繰り返しましょう。幕屋の「聖所」は地を表し、「至聖所」は天を表します。一方の場所には天の事柄の数々の予型があります。他方には神御自身がおられました。その二つの間に幕がありました。神の特別な命令によるのでない限り、その幕を通って至聖所の中に入ろうとする者には、誰であろうと死が臨みました。

その幕はキリストの肉体の型だったことを、ヘブル人への手紙はさらに私たちに告げます。私たちの主イエス・キリストのパースンには二つの面があります。(地に向かう)地的な面と(神に向かう)天的な面です。天と地の間に幕があり、キリストの肉体がその幕でした。イエス・キリストが十字架上で死なれた時、宮の中の幕は上から下まで裂かれました。今や、予型は現実に場所を譲りました。神を指し示す示唆にすぎなかったものは過ぎ去って、人は神に近づくことを許されました。私たちの主イエス・キリストの肉体は、神の現実と人とを隔ててきた人間的制限を物語っています。幕屋の聖所を見れば、人の制限のために設けられた天的事柄の数々の特徴や絵図がわかります。

旧約聖書全体がこれらの実物教材を私たちに与えています。人は生来、神の事柄の現実の中に入れないからです。神は天的事柄について、地的表象によってしか、人に述べることができませんでした。人が子供を教えるように、神は神聖な事柄に関するこれらの絵図やたとえを与えることによって、人を教えなければなりませんでした。これが「聖所」の意味です。誰もその幕を通って入ることを許されませんでした。その幕が至聖所から聖所を分離していました。それらは地と天の型でした。

さて、イスラエルはその生活によって、神の事柄の絵図、模型を示すことになっていました。イスラエルに起きたことは、私たちのためのたとえです。それゆえ、イスラエルの経歴は私たちにとって大いに意義深いです。私たちは新約聖書の光により、今や、これらの旧約聖書の予型の中に神聖な実際を見ることができるようにされているからです。

一年に一度、贖いの日に、その幕は上げられました。多くの準備の後、大祭司は「至聖所」に入ることを許されました。しかしそれは一年に一度だけであり、その後、幕は再び閉ざされました。しかし贖いの日は、神の御旨のさらに深い何かを物語っていました。その日は、神の御旨によると、次の事実を指し示していたのです。すなわち、その幕は永遠に存続してはならないこと、むしろ、贖いがなされて、それによって天が永遠に開かれたままになるだろうことです。

キリストが十字架上で死なれた時、その幕は裂かれました。神が永遠の時の前から計画しておられたことは、彼にあって成就されました。今や、神への道は永遠に開かれています!キリストにあって裂かれた幕がその道を開きました。彼は神の御子として肉身を取って来られ、誰もなしえないあの御業をなされました。復活したキリストにはもはや幕はありません。人の子として彼は私たちの人間的制限を受け入れました。人の子として彼はの代表でした。しかし、神の子として彼は天とつながっていました。彼のパースンは幕屋の垂れ幕でした。彼は天と地との間に立ちました。人の限界と神の豊かさの間に、予型と現実の間に立ちました。彼が人々の間で生活された時、彼はたとえによって天の事柄について述べました。それらを理解できない人の数々の制約のためです。そこで、彼は天の事柄を地的な形で示されたのです。彼は言われました、「私があなたたちに地の事柄を話しても、あなたたちは信じないのなら、私が天の事柄を話しても、どうしてあなたたちは信じるだろうか?」。彼が言わんとされたのは、「私が天の事柄を地的なたとえや型の形で述べても、あなたたちは理解しないのなら、私が天の言葉であなたたちに話した場合、あなたたちはどのように理解するというのか!」ということでした。

今や、これらの制限はすべて過ぎ去りました。キリストは真に「」です。彼は、御自身の肉体の幕を通って、最も奥にある聖所、すなわち至聖所の中に入り、その道を開かれました。私たちを神の直接的臨在の中に至らせる道である方は、十字架に付けられたキリストです。

彼が「私は真理です」と仰せられる時、その意味は、あなたが見ているものはすべて絵図の役割を果たす型や象徴にすぎないということです。それら自身は天の事柄ではありません。がこれらすべての事柄の実際です。の中に実際があります。祭司たちは、来る年も来る年も、幕屋の中で働きましたが、彼らの働きは「死んだ」働きであって、決して神との生ける合一の中に導くことはできませんでした。今やキリストは「私は命です」と仰せられました。ただキリストの中にのみ命があります。山羊と雄牛の血や、その血の中にある命は、備忘録、型にすぎませんでした。キリストをおいて他に誰も命を与えることはできません。彼は生ける実際です。

今や、天と地は復活・昇天したキリストにあって結ばれていることがわかります。彼は仲介者です。彼はヤコブが夢の中で見たはしごです。そのはしごの上を神の御使いたちが上り下りしていました。主はナタナエルに話された時、こう述べてそれに言及されました、「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたは見ることになります」。べテルでは予型にすぎなかったものが、キリストにあって生ける実際となりました。彼は天と地とを結びつけておられます。彼にあって――彼の性質の二つの面にあって――神と人は一緒にされ、天と地は結ばれます。彼は道です。天と地のための唯一の伝達路です。キリストとの合一は、開かれた天の下で、神の臨在の中に、新しい命のあらゆる実際の中に生きることを意味します。

聖霊はこの根拠に基づいて私たちに与えられています。主イエスがヨルダン川でバプテスマを受けた後、聖霊が彼の上に臨みました。天が開かれて、聖霊が彼の上に下りました。今や、復活したキリストは開かれた天を意味します。油塗りの御霊が私たちの上に臨むのは、十字架に付けられた御方が復活したからです。御霊は、神の御子が私たちのために開いた開かれた天から出て、私たちに臨みます。

しかし、油塗りにはどのような価値があったのでしょうか?それは私たちを神との天的合一の中にもたらします。主イエスは、「彼、御霊が来る時(中略)彼はあらゆる真理の中へとあなたたちを案内します」と言われました。ヨハネはこれを、「あなたたちが受けた油塗りが(中略)すべての事に関してあなたたちに教えます」と述べて確証しています。これは上り下りする御使いたちによって示されています。聖霊は私たちに伝達していますが、キリストは地から天に至るはしごです。このはしごはどこにあるのでしょう?この世にはありません。このはしごは私たちの心の中に設けられています。それは私たちの心の中におられるキリストです。私たちの心の中には、開かれた天からの道があります。それはキリスト御自身であり、私たちをまさに神の臨在の中に導きます。聖霊はキリストと連携して動き、キリストが彼の御父との交わりの中におられるように、私たちをキリストとの交わりの中にもたらします。

キリストの十全性が、この基礎に基づいて私たちのために確保されています。私たちは天上にあります。キリストが私たちの中におられるからです。私たちの心の中には開かれた天からの道があります。彼のパースンに結合されるとき、諸々の制限は終わります。そこには神との直接的なじかの交わりがあり、聖霊は私たちに天の事柄を啓示することができます。

こうして、すべてをキリストにあって神から直接受けることの意味を、私たちは理解します。私たちの内におられるキリストは、神を知る内なる知識、彼との心の関係を意味します。それは神からの内なる命、神の内なる力です。しかし、それは世が知らない、また知ることのできない奥義です。私たちの主イエスは、罪は別として、その全く同じ生活基盤を、私たちがその中に生きている制限と共に、喜んで受け入れて下さいます。しかし、御父との交わりの中で、彼は常にこれらの制限を打ち破り、ただ御父だけからすべての供給、すべての豊かさを引き出して、それらを征服されました。彼が十分だったのは御父によりました。

ですから、私たちは御霊により、私たちのあらゆる弱さに勝利する生活、キリストがすべてである生活、彼の勝利が私たちの勝利となる生活を送るよう召されています。十字架の御業は完了しています。幕は裂かれています。道は開かれています。

このように、復活したキリストは私たちにとって開かれた天を意味します。そこでは、私たちはキリストにあって何でもできます。それは私たちが彼に栄光を帰すためです。すべてのものが彼にあって私たちに与えられています。そして、それは私たちにすべてのことを教える油塗りです。