「父は、ご自身の中に命を持っておられるように、子にも与えて、彼自身の中に命を持つようにしてくださいました。」ヨハ五・二六
「彼の中に命があった。」ヨハ一・四
「わたしは父のゆえに生きます。そのようにわたしを食べる者は(中略)わたしのゆえに生きます。」ヨハ六・五七
「あなたは彼にすべての肉に対する権威を与えてくださいました。それは、あなたが彼に与えてくださったすべての者に、彼が永遠の命を与えるためです。」ヨハ十七・二
「その証しとはこれです。すなわち、神が私たちに永遠の命を与えられ、そしてこの命が彼の御子の中にあることです。」一ヨハ五・十一
「わたしは最初であり最後であり、また、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、永遠にわたって生きている。」黙一・十七~十八
前の章では、私たちが主イエス・キリストの内に持っている第一の供給源について取り扱いました。そして、それは開かれた天であることを見ました。今、第二の供給源、すなわち天的命の所有について考えることにします。
先ほど読んだ聖書の最初の御言葉では、御父は御子に命を与えて、彼自身の中に命を持つようにされたこと、「彼の中に命があった」ことが述べられています。二番目のヨハネ一・四の節は、その命の働きを私たちに示しています。「彼の中に命があった。そしてその命は人々の光だった」。三番目の節はその命の御父に対する関係を私たちの前に示しています。主イエスは「わたしは父のゆえに生きます」と言われました。これは、彼の命は彼が持っていた御父との特別な関係に基づいていたことを意味します。ヨハネ十七・二の最後の部分は、彼には命を与える権威があることを私たちに示しています。「あなたは彼にすべての肉に対する権威を与えてくださいました。それは、あなたが彼に与えてくださったすべての者に、彼が永遠の命を与えるためです」。
さて、この命の分与について、そして他の人々の中でのその働きについて、一ヨハネ五・十一~十二で私たちに示されています。そこには、「その証しとはこれです。すなわち、神が私たちに永遠の命を与えられ、そしてこの命が彼の御子の中にあることです。御子を持つ者は命を持ちます」とあります。最後に黙示録一章は、この命がその実際性に関して攻撃を受けて試される地点に私たちをもたらします。主イエスは「わたしは最初であり最後であり、また、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、永遠にわたって生きている。そして、わたしは死とハデスの鍵を持っている」と言われました。主イエスの十字架において、この命は攻撃を受けました。地獄がその命を消すために立ち上がりました。そこで死の勢力との恐ろしい戦いがなされました。しかし、彼の中にある命が死を征服しました。なぜなら、それは破壊不可能な命だったからです。死はこの命に対して何の力もありませんでした。彼は死の領域の中に下って行きましたが、死を征服されました。なぜなら、「彼がその中に捕われることはありえなかった」からです。彼は死とハデスの鍵を持っておられました。鍵は権威の象徴です。今や、主イエスが鍵を持っておられます。この権威は、彼を通して死を征服した永遠の命に基づきます。
私たちは今、これらの節の各々の意味を見て、少し詳しく考えることにします。
まず、私たちの主イエス・キリストの中にある命は際立った要素であることに注意しましょう。それはキリストを人々の間で独特な者としました。彼は神の被造物の他のすべてとは異なっておられました。それはキリスト特有の命でした。この意味で、他のどんな被造物にも言えなかったこと、すなわち、「彼の中に命があった」と彼について言うことができました。主は、ご自身と他の者たちとの間に大きな違いがあることをご存じでした。人々は、彼の中には自分たちとは全く異なる何かがあること、自分たちにはそれを説明できないことに気づきました。この違いは教育や社会的地位とは何の関係もありませんでした。なぜなら、それは天然の領域に属していなかったからです。それは霊の領域のものであり、ただ彼の内にある命に起因するものでしかありえませんでした。この神聖な命が彼の知性を力づけたので、彼は常に他の人々と知的に対等だったものの、彼の知性は他の知性よりも優っていただけでなく、その種類も異なっていました。その秘訣は霊的視力でした。エルサレムの最高の宗教的権威たちが彼を捕えて、彼を罠にかけようとしました。しかし、彼は常に彼らから逃れました。なぜなら、彼の知性は神の御霊によって彼に供給されていた神の命によって力づけられていたからです。何回彼の敵たちは彼の前で唖然としたことでしょう!何回彼らは「どうしてこの人は学んだことがないのに文字を知っているのだろう」と言って彼の知恵に驚いたことでしょう。
彼は知性と心の両方に関して優っておられました。彼の同情心とあわれみは神の命によって力づけられていたので、人のどんな同情心やあわれみよりも優れていました。彼の愛は異なる愛でした。彼は人々の手によって大いに苦しみましたが、決して同情心を失われませんでした。彼はエルサレムが自分を十字架につけることを知っていましたが、「エルサレム、エルサレムよ……」と言ってその都のために泣かれました。彼の心はあわれみによって突き動かされており、ご自身の者たちを忍ばれました。彼ら自身が彼について、「彼はこの世にいるご自身の者たちを愛して、彼らを最後まで愛された」と証ししていないでしょうか?彼らはこのような愛に値したでしょうか?彼らの内の一人は彼を否みました。それでも、彼は彼らやペテロに対するあわれみを決して失われませんでした。彼の心と同情心は、彼の御父の愛の高い水準に保たれていました。
彼の意志に関しては、彼の行動は上からのこの命によって力づけられており、彼の確信に関しては、彼はあらゆる試みを経ても持ちこたえました。彼は決して彼の御父の信実さを疑いませんでした。
私たちの主イエスの独特な命や性質の現われについて調べるには何時間もかかるでしょう。復活後の四十日の間、彼は多くの確かな証拠や、弟子たちと共に食べ飲みすることにより、ご自身が生きていることを示して、弟子たちを確立しようとされました。しかし五十日目は諸々の事実に優る最も大いなる日でした。その日、彼はご自身を彼らにとって内なる実際とされたのです。この五十日目がやって来た時、「ペンテコステの日が満ちた時」、復活した主が弟子たちの心の中に住んで彼らの命、彼らの力となるために到来されました。それは神の新創造でした。彼らの内におられるキリストという基礎に基づいて、彼らは彼の証し人に構成されました。
御霊の務めは命の証しです。もし私たちの務めが証しでないなら、それは真の務めではありません。務めの核心は私たちの内におられるキリスト、彼の復活の表われです。私たちはキリストを命として示さなければなりません。なぜなら、彼の中に命があったからです。私たちがこのようにキリストに仕える時、彼は私たちを通して光、自由として明らかになります。主は「あなたたちは真理を知ります」と言われました。これは光です。「そして真理はあなたたちを自由にします」。これは自由です。務めは言葉の問題ではなく、言葉によるキリストの分与です。それはキリストについての情報や、麗しい話ではありません。務めは主イエスを示すことであり、キリストが私たちを通して復活の主として現れることです。
これが教会の務めです。主の会衆は命を供給し、自分たちの内にあるこの命を生き生きと証しするよう召されています。私たちが主の御名の中に共に集まる時、それは私たちにとって命を意味してしかるべきです。主の民が彼の命の中で共に集まる所では常に、彼らの中の彼の命は新たに力づけられ、その力は新たにされます。私たちに知性は生かされ、雲は晴れ、体さえもその命の豊かさの益にあずかるようになります。おそらく主の民の中には、肉体的に疲れ、疲弊・落胆して、一日の終わりに共に集まる人々もいるでしょう。もし彼らの集まりがキリスト・イエスの中にある命の御霊によるものなら、彼らの体さえも生かされるでしょう。彼らは肉体的・精神的・霊的に新しくされて、集まりから去る時、新鮮で喜びに満ちているでしょう。なぜなら、彼らは命の中に共に集まったからです。これは、集会中ただ座ってメッセージを聞くのとは全く違います。多くの時、御言葉の務めは説教者に任されます。そして、人々は「話が面白くて目を覚ましていられるといいなあ」と期待しつつ、説教者から何かを受けるのを待っています。だれも何も貢献しません。団結してキリストの命を握りません。それはいつもと同じ昔ながらの習わしであり、何かを達成することを願う望みと共に始まり、常に落胆で終わります。
さて、主は敵がご自身の復活の事実を隠そうとすることをご存じでした。「主はご自身の者たちの間で生きておられる」というこの確信をめぐって最大の攻撃がなされることを、主はご存じでした。そこで、主は彼らと共に長い間とどまって、ご自身の復活の証しを彼らの中に確立し、彼らをご自身の証し人とされました。しかし、敵の手段や方法は無数です。敵の策略の一つには二つの面があります。敵は霊的死の雰囲気であなたを包み込もうとするか――そこではすべてが全く死んでいるように思われますし、信仰は空虚な虚構となるよう試みられます――、あるいは偽りの命をもたらします。敵は聖書を用いて、感情を大いに張り詰めた雰囲気の中で掻き立てようとします――そこでは大きな魂の力が働いて、御霊の奇跡に似た奇跡を生み出します。しかし、それらは嘘、偽りのしるしにすぎません。
あることが神からかどうかを知る唯一の道は、「これは私たちにキリストを供給するだろうか?」と自問することです。大事なのは感情を掻き立てることではなく、キリストが増し加わるようにすることです。経験にしがみつくことではなく、私たちの内にキリストを知る内なる知識を造り込まれることです。すべてを試す試金石は、私たちにキリストが供給されるかどうかです。霊的死はなんと身近なことか!主の復活の命に対して私たちの周りで戦いが常になされています。それは霊の命に立ち向かう霊的死です。死はきわめて執拗なものであり、私たちのすべての敵の中で最後のものです。「滅ぼされるべき最後の敵は死です」。
私たちは次の事実の中に私たちの信仰を保たなければなりません。すなわち、イエス・キリストは復活されたこと、彼の中に私たちは命、新しい命、まさに神の命、永遠の命を持っているということです。
次に、信仰の協力があります。私たちは自分の中にその命のための場所を設けなければなりません。受動的態度、内省の状態ほど致命的なものはありません。命は活動的です。私たちが信仰に触れるところではどこでも、活発な愛が生じますし、またそうでなければなりません。信仰は常に活動的です。なぜなら、愛はたんなる受動的なものではありえないからです。それは必ずしも外面的活動ではないかもしれません。時として、その活動は霊の姿勢、待つ状態にすぎないかもしれませんが、神の勝利は確かであると信じつつ、神の信実さはしくじることがありえないと堅く確信し続けます。
私たちの命はたんなる抽象的なものではありません。それはキリストの内にある命、彼との交わりの中にある命です。そして私たちはキリストの生けるパースンに触れているので、不可視の世界の同じ供給源を私たちも利用できます。この供給源に基づいて彼は汲み出されました。「彼の中に命があった」。ですから、「神は私たちに永遠の命を与えてくださったこと、そしてこの命は御子の中にある」ことに対して、私たちは感謝でいっぱいですし、言い尽くせない喜びでいっぱいです。
どうか主ご自身が、絶えず流れ込んで私たちに命を供給するこの秘密の泉である彼の復活の命の意義と価値を、私たちに教えてくださいますように。