第六章 神との交わり

T. オースチン-スパークス

「子は、父が行われることを見ないでは、自分から何もすることができません。(中略)なぜなら、父は子を愛して、彼御自身が行われるすべての事を子に示されるからです。(中略)私は自分からは何も行うことができません。(中略)なぜなら私は自分自身の意志を求めないで、私を遣わされた方の御旨を求めているからです」ヨハ五・一九~二〇、三〇。

「彼、すなわち真理の霊が来る時、彼はあなたたちをすべての真理の中に案内します。なぜなら、彼は自分自身から語るのではなく、彼が聞くことを語るからです」ヨハ一六・一三。

「命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、私を自由にしました」ロマ八・二。

「……彼は神を御自身の父と呼んで、御自身を神と等しくされた。(中略)なぜなら、父は死者を起こして彼らに命を与えられるように、子も自分が与えたい者に命を与えるからです」ヨハ五・一八、二一。

最初に、聖書のこれらの節を注意深く読んで心に留めるようお願いしたいと思います。御父と御子、御子と御父との間にはすばらしい一致があることがわかるでしょう。この一致は「もまた」というささやかな句によって表されています。

特別に注意すべき点は、自分からは何も行えないことを主イエスが強調しておられることです。もしこの発言の重みが心に完全に迫るのを許すなら、私たちの黙想の最初に専念したこと、すなわち、主イエスは御父に絶対的に拠り頼む立場を自発的に受け入れたことが新たにわかるでしょう。彼は自己を徹底的に空しくする立場を受け入れました。彼の供給源の源は彼の中にではなく、御父の中にありました。「子は自分から何もすることができません」。彼自身のパースンの中には、物事をなす供給源は何もありませんでした。事実上、彼は「すべての供給源は御父の中にあります。私はすべてを御父から引き出さなければなりません。御父なしでは私は決して何もすることができません」と述べておられました。これを御子が述べるのは途方もないことです。それは御父との隠れた交わり・交流を大いに決定的なものとします!しかし、御父とのこの完全な交わりの必要性こそ、彼の隠れた供給源の一つだったのです。

さて、これらは単なる事実であるだけではありません。彼と他の人々との間の大きな違いもわかります。天然の人は自分自身から行動します。天然の人の特徴は自己十全性です。彼は常に自分の供給源の源を自分自身の中に見い出します。私たちはこれをアダムに見ます。最初、ある時点に至るまでは、彼の供給源は神の中にありました。彼は神から指導と知恵を得ました。すべては神からでした。神に対する従順の道により、彼は神との交わりの中にありました。しかしその後、彼が自分自身から行動し始める瞬間が来ました。悪魔の巧妙なそそのかしにより、彼は自分自身のために理屈を考え始め、とうとう自分自身の意志によって欺かれ、神に対する不信が彼の心に忍び込むようになりました。彼は物事を神の御手から奪って自分自身の手中に収めました。彼は神から自分の資源を引き出すのをやめて、自分自身の中に資源を持つことができると考えました。これが今日に至るまで、アダムの中にある天然の人の姿勢です。

天然の人は自分自身の天然の知恵にしたがって働きます。彼は状況について合理的に考え抜き、その状況の利点と不利な点を見定め、自分が「常識」だと思うところにしたがって進もうとします。彼は自分自身の天然的な知恵と理性によって行動します。ある人々の場合、理性が彼らの中で最も強い部分です。彼らが物事をなす供給源は彼ら自身の理性の中にあります。そして、彼らが考えて理解しようとするものしか、彼らにとって価値はありません。他のものはみな価値がありません。他の人々の場合、感情が最も強力な要素です。自分が感じるところにしたがって彼らは行動します。

しかし注意して下さい。天然の人が歴史の中で発達していくので、この経綸の終わりには天然の人(堕落した状態にある人)が極みまで発達することになります。自分自身から行動する独裁者たちや超人たちが登場するでしょう。自分自身が自分に対する法律となるので、彼らは他人に相談しません。彼らが感じ、願い、考えることは、なさずにはいられません。この状況は反キリストへと至ります。彼は自己充足の人であり、天然であるすべてのもの――理性、願望、意志――の総計の象徴となります。彼は神を敬わず、神よりも大きくなります。人類の成熟に達した堕落した性質を彼は体現し、全人類を神に敵対させます。

反キリストに言えることは、部分的に、人類のすべての構成員にも言えます。天然の人は自分自身から行動しますが、その結果は常に死です。もし私たちが自分自身の意志、自分自身の願望、自分自身の理性を物事に投影するなら、それらがどれほど生き生きとしているように見えても、その結果は死です。神から発するものだけが命です。これに関して、「子は自分から何もすることができません」という主イエスの御言葉の意味には第一義的な重要性があります。他の人々が「自分にはできる」と信じたとしても、御子にはできません。これが主イエスと私たちとの大きな違いです。彼は御父から行動することしかできません。御父が彼を導かれる時だけ、彼は進むことができます。

さて、これらの御言葉が語られたのは、無力な人の癒しの時でした。この出来事の背景は、その内的意義に関して多くの光を与えます。ここに、何年も無力だった一人の人がいます。彼は長年の間、癒されるために池に入ろうとしてきましたが、駄目でした。彼には全く望みがありませんでした。自分の助けは他の人にかかっていることを、彼は知っていました。彼は何と哀れだったことでしょう。「水がかき立てられる時、私を池の中に入れてくれる人が誰もいないのです!」。彼の唯一の望みは他人でした。そして「誰もいな」いところに、ある日イエスがこちらの方にやって来て、彼に起きるよう命じられました。その無力な人はこの命令に関して議論せずに、「私は何回もそうしようとしてきましたができませんでした。そうする力が自分の中にないのです」と言いました。彼は自分の信仰をキリストの中に置きました。自分ではできなかったことを、彼は別の方――キリスト――の力の中で行いました。自分自身の自己を放棄して、彼はキリストを着ました。そして、自分の救いはこの別の御方の中にあることを彼は見い出しました。そこで、この御方に信頼して彼は立ち上がりました。キリストが彼の力になられたのです。これが命です。

さて、この出来事はこの章全体の上に多くの光を投じます。ユダヤ人たちはこれに反対しました。なぜなら、彼らは外側の律法によって支配されていたからです。律法の要求は文字を実行することであり、その結果は命よりもむしろ死でした。「なぜなら文字は殺しますが、御霊は生かすからです」。ユダヤ人たちは、律法の代わりにキリストに働いてもらうよりも、むしろ、その人を死に至るまで絶望状態のまま放っておいたでしょう。キリストは内なる法則によって支配されていました。その法則は命の法則であり、それゆえ命をもたらしました。彼は言われました、「私の父が働いておられるので、私も働きます。(中略)なぜなら、父がなさることは何でも、子も同じように行うからです」。ここに御父と御子の素晴らしい一致、内なる法則、命における神との合一があります。この合一の中から神の数々の働きと、命の数々の現われが流れ出ます。

律法とは何だったのでしょう?ユダヤ人の律法は「あなたは……しなければならない」と「あなたは……してはならない」から成っていました。しかし、ユダヤ人の律法は安息日に癒すことに反対しましたが、御父はそうではありませんでした。それは御父の御旨であり、主イエスは、神秘的な方法で、御父が働いておられること、御父がそれをなさることを理解されました。それで、癒しをなさったのです。主イエスを行動に促したのは、御父との内なる伝達・交わりの法則でした。彼は天然の知性や律法の文字によって支配されていませんでした。彼は御父の御旨が何か推論しようとはしませんでした。彼の内にある命の御霊の法則が御父の御旨を彼に示したのであり、彼の行いに関する内なる確信を彼に与えたのです。そして、それは内なる聴力と視力に由来するものでした。彼は御父に関して、「私を遣わされた父が、私について証しして下さいます。あなたたちは彼の御声を一度も聞いたことがなく、彼のかたちを見たこともありません」と言うことができました。御父と御子の関係には、ある秘訣がありました。この関係における御子の力の隠れた源は、それが御霊による命の関係だったからです。

さて、この同じ関係が私たちにも成り立ちます。ローマ人への手紙の中で使徒パウロは、「命の霊の法則が、キリスト・イエスの中で、罪と死の法則から、私を自由にしました」と述べています。罪の法則から自由です。死の法則から自由です。それはキリストによる、神の中にある命の自由です。

ここで少し立ち止まるようお願いします。あなたはこれを真に理解しているでしょうか?それはあなたにとって内なる実際となったでしょうか?主イエス・キリストとの私たちの関係は、御父とのこの地上における彼の関係と全く同じ基礎に基づくことを、あなたは真に理解しているでしょうか?それは御霊の中にある命の関係です。すべてがそれにかかっています。それは私たちを新しい世界にもたらします。それはキリスト教的真理や教理を外面的に受け入れることと、御霊によって啓示されて造り込まれるものとを区別します。キリストとの私たちの関係は、私たちの内に働く命の御霊に基づきます。

さて、この関係の効果について、少しばかり述べることにしましょう。それは命による関係であり、その証しは命です。主イエスの場合、これがいかにそうだったのかに注意して下さい。彼が「私の時」という表現を彼の生涯のあいだどれほど使われたのかは意義深いです。それは、彼の全生涯が御父によってどれほど支配されていたのかを、私たちに明らかに示します。彼の行動や動きは神の時によって導かれていました。時として、それは時や分の問題にすぎないこともありました。しかし、彼の生涯には全うされなかった瞬間はありませんでした。それにもかかわらず、彼は決して急ぎませんでした。彼の生涯のすべては、見事に時が定まっていました。時宜に適わないことはなく、常に時宜に適っていました。神の時ではない時に物事を果たそうとすることは、死を意味したでしょう。カナで、生じた必要を満たすよう彼の母が彼を説得しに来た時、彼は「彼の時」――それはおそらく数分後のことだったでしょう――が来た時はじめて行動されました。さらに、彼の弟子たちが病で危篤のラザロを助けてもらうために彼を迎えに行った時、また、彼の兄弟たちが「あなたは弟子たちと共にエルサレムに上って祭りに行かないのですか」と尋ねた時、彼は適切な時、御父の命令を待ちました。これらすべての事例において、私たちは彼の内にあったこの同じ制約を見ます。彼は自分自身の理屈には従わず、御父が定められた時を待ちました。彼が語った御言葉についても同じでした。すべての言葉が御父からであり、彼自身からではありませんでした。時、行動、言葉――すべてが御父によって支配されていました。「私の父は働いておられます――私も働きます」。

しかし、彼はどうやって御父の御旨を知ったのでしょう?まるで声が絶えず彼の元に届いて彼を導いたかのように、天然の耳で聞くことにはよりませんでした。キリストは御父の御旨を内なる命の御霊によって知りました。彼の内にある一つの命の交わりによって、彼は神の御旨と神の働きを知る内なる知識に導かれました。神の命は単なる賜物や預金ではありませんし、私たちの中に退蔵しておくべきものでもありません。この命は私たちの内に働く力です。それは内なる命の御霊によって与えられる神の指示です。これらの手段によって神は支配し、命じられます。彼は私たちの内におられる命の御霊によって御旨を私たちに啓示されます。

主イエスは内側の生かす御霊によって御父の御旨を知りました。まさに彼が言われた通りです、「死者が神の子の声を聞く時が来ます。それは今です。そして、聞く者は生きます」。主イエスがここで述べているのは肉体的に死んでいる者のことではなく、霊的に死んでいる者のことです。また、彼が述べているのは音声のことではなく、内側の生かす御霊――それによって神の御子の声を聞くことができます――のことです。「私があなたたちに話した言葉は霊であり命です」。それは内側で働く神の力です。神は私たちの心に語られます。私たちが新しく生まれたまさに最初の時から、私たちは私たちの内側で語る神の語りかけを理解することを学ばなければなりません。御霊の言葉があります。私たちは私たちの内におられる命の御霊の生かす働きに注意しなければなりません。神の御子の声を聞くのは、内側の生かす御霊によります。主の場合もそうでした。彼は自分自身の内におられる神の御霊によって生かされました。主の場合に言えることは私たちにも言えます。私たちも同じように治めてもらわなければなりません。「神の御霊によって導かれている者はみな、神の子です」。子たる身分は私たちの彼との関係によります。この子たる身分の保証は御霊によるのであり、御霊は私たちの霊と共に証しして、「あなたは神の子供です」と言って下さいます。「それは私たちの内にある命の証しです。私たちは自分の霊の中で、自分が神の子供であることを知っています。私たちの罪深さ、私たちの過ち、私たちの欠点にもかかわらず、私たちはそれを知っています。私たちは彼から発する命の御霊によって治められています」。

さて、述べてきたことをまとめると、キリストとのこの関係、この交わりを、私たちは復活の立場に基づいて利用できることがわかります。キリストは彼の命の中で、私たちを彼とのこの合一の中にもたらして下さいました。これは三つの決定的段階を要求します。これらの段階はとても重要です。

一.主とのこの関係は命の御霊においてでなければならないこと、これは事実であることを、私たちははっきりと理解しなければなりません。私たちは誠実かつ極めてはっきりと理解しなければなりません。この関係は「私たちの内におられるキリスト」は事実であるということであり、すべては命の御霊によって支配されなければならないのです。

二.私たちの中の命の御霊の法則に完全に従順でなければなりません。従順はキリストの生活の法則でした。彼は決して人々や環境によって影響されませんでした。人々が「このことやあのことをしなさい。他の人々もそうしています」と述べたとしても、彼は人々が自分の歩みを決定するのを許しませんでした。それがなすべきことの理由になることはありませんでした。彼は決して決定を人々に委ねませんでした。なぜなら、御父が望んでおられることを彼は自分の心の中で知っていたからです。彼はあらゆることで、神と共に働かれました。外観や他人からの言葉によってではなく、彼の中の命の御霊によって働かれました。彼は御父に完全に拠り頼んで生活されたのであり、彼のすべての御旨に完全に従順でした。

三.御霊の中を歩むことが不可欠です。肉の中に生きてはなりません。肉の中に生きることは、物事を自分自身から行うこと、自分自身の意志を行うことを意味します。しかし、御霊の中を歩むことはすべてを神から行うことであり、聖霊によって治められることです。

最後に、御霊にあるこの命は漸進的な成長するものであることを忘れないようにしましょう。最初、私たちはこれを全く知りません。私たちは学ばなければなりませんし、学ぶ際、私たちはしばしば間違いを犯します。しかし、私たちが主に対して忠信で従順なとき、私たちは一歩ずつ導かれて、どのように御霊の中を歩むのかを学びます。私たちは経験によって学ばなければなりません。しかし、私たちが主イエスを知れば知るほど、彼の豊かな栄光の全き救い――それは私たちのためです――という事実の中に入れば入るほど、この命は私たちの中でますます成長します。そして、私たちは光の中を歩むようになり、したがって神の子らの自由の中を歩むようになります。

御霊の中を歩むこの歩みは、私たちの生活の背景でとてもすばらしいものとなる可能性を秘めています。なぜなら、私たちは私たちの内におられる命の御霊――命におけるキリストとのあの隠れた関係と交わり――をますます知るようになるからです。