第七章 隠されたマナ

T. オースチン-スパークス

「神のパンとは、天から下って来て、世の人に命を与えるものです。(中略)わたしが天から下って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。(中略)わたしの父のみこころは、子を見て彼を信じるすべての者が永遠の命を持つことです。わたしの肉はまことの食物であり、わたしの血はまことの飲み物です。」ヨハ六・二八~三四、三八、四〇、五三~五八

「だれでも彼のみこころを行おうとする者は、その教えについて、それが神からのものか、わたしが自分から語っているのかわかります。」ヨハ七・十七

「わたしの食物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、彼のみわざを成し遂げることです。」ヨハ四・三一~三四

私たちの主イエスのこの発言は、三つのことを示唆しています。

第一に、主イエスには隠れた力の源がありました。「わたしには、あなたたちの知らない食物があります」。

第二に、神のみこころと命との間にはある関係がありました。この時、主イエスは空腹でとても弱っておられたことを、私たちは覚えています。彼は旅の疲れで井戸のところに座られました。弟子たちが町で食物を買って戻ってくると、彼らは彼が大いに回復しておられるのを見いだしました。「だれかが彼に何かの食物を持ってきたのだろう」と彼らは思いました。しかし、彼の命が新たにされたのは御父のみこころを行ったためであることを、主は彼らに説明されました。これは、神の御心を行うことと「命」との間の密接な関係を示しています。

第三に、この間にある関係は、神の御旨とその成就でした。「わたしの食物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、彼のみわざを成し遂げることです」。御父のみこころは神の御旨を意味し、主イエスは「わたしはこの御旨と関係がある」と述べておられます。この神の御旨を成し遂げることに、彼は地の物事よりも大いなる満足を覚えました。彼は神のみこころを行うことの中に彼の命を見いだされたと言えます。

ですから、私たちにとって重要な一つの要素は、従順は神の豊かさへの道であるということです。主イエスの場合、そうでした。彼は「なぜなら、わたしの父のみこころは、子を見て彼を信じるすべての者が永遠の命を持つことです」と言われましたが、これは、キリストとの合一は神のみこころによると私たちにとって命を意味することを、明らかに示しています。ですから、神の御心は御子との命の関係と一つの中にあります。

さて、食物を摂るのは自分の命を維持するためです。それは私たちの必要を満たし、私たちの発達・成長に役立ちます。しかし、これはみな神のみこころと関係しています。神のみこころを行うことは、生きるために食物を摂ることと似ています。私たちが神のみこころを行う時、私たちは自分の命を維持するものを摂っているのです。私たちの必要は満たされます。霊的成長が維持されます。主イエスはご自身について、「わたしは父のゆえに生きます」「わたしを食べる者はわたしのゆえに生きます」と言われました。主イエスは御父との合一のゆえに生きました。そして、私たちは御子との私たちの合一のゆえに生きます。

この合一に必要不可欠なものは従順です。サタンが主――最後のアダム――の命を損なうためにやって来ました。それは最初のアダムを損なうのに成功した方法によってであり、神に対して不従順にならせることによってでした。しかし、主イエスは神の御言葉に訴えることによって悪魔を対処されました。三回彼は悪魔に「こう記されています」と言われました。これによって彼の命は維持され、暗闇と死の君は征服されました。

啓示された神のみこころに対する従順は死からの解放を意味します。これが、命の維持という句で私たちが言わんとしていることです。神の御子は全生涯この姿勢を保たれました。死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順だったので、彼は死を征服されました。それゆえ、彼は永遠に生きます。ですから、命の問題においては、すべてが従順と関係しています。神に対して従順でなくなるやいなや、私たちは自分の内にある主の命を停止させて、それが前進するのを不可能にしてしまいます。従順は命です。

この霊の糧は私たちの命を維持するだけでなく、私たちの命を増し加えます。それは私たちをキリストの豊かさの中に導きつつあります。私たちはこの糧を摂ることによって成長します。そして、命は従順によって増し加わります。ピリピ二章は、主イエスは御父に徹底的に従われた、と私たちに告げています。「それゆえまた神は彼を高く上げて、あらゆる名に優る名を彼に与えられました」。これは従順から生じた豊かさです。新たな従順の行いのたびに、私たちはキリストのさらに大きな豊かさの中に、霊的拡大の中に導かれます。しかし、不従順は制限をもたらし、命の流れを差し止めます。

ですから、霊の食物とは、あらゆることで彼に対して従順になって、彼のみこころを行うことです。霊の養いは、キリストの復活における私たちの彼との合一と関係しています。それは、死と復活におけるキリストに基づいて生きることです。ヨハネ六章の背景には過越があります。それが霊的に意味するものとの関連で、主イエスは大群衆を養われました。ユダヤ人たちは過越の小羊を食べようとしていました。しかしその出来事の前に、ここに飢えた群衆がいます。そして、彼――神の小羊――は「わたしは命のパンです」と述べてパンで彼らを養われます。彼はこれを過越、十字架、屠られた小羊と結び付けて、事実上、「わたしはあなたたちのものです。わたしの死と復活の中で、すなわちわたしの中で、あなたたちは命を得ます」と言われました。それは私たちに分与されるキリストです。

さて、ヨハネ六・二七に注目すべき句があります。そこで主は、「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る永存する食物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたたちに与えるものです。それは彼に、父が証印を押されたからです」と述べておられます。主がこの御言葉を語られた人々は、主が言わんとされたことをよく知っていました。過越のために小羊なら何でも食べてよいわけではないことを、彼らは知っていました。それは傷の無いものでなければなりませんでした。次に、小羊はみな宮に連れてこられて、全く完全かどうか祭司たちに検査されなければなりませんでした。そして、それが要求される条件に適っているなら、祭司たちはその小羊に宮の証印を押しました。そして、小羊は屠られました。その証印の意味をすべての人が知っていました。ですから、主イエスはこのおなじみの慣習を取り上げて、それをご自身に関連付けて、「彼に、父が証印を押されたからです」と言われたのです。キリストは、御父が「全く完全である」と宣言された者として、彼の民に彼ご自身を与えようとしておられました。彼は彼らの食物となるために彼ご自身を与えようとしておられました。それは彼らが彼によって生き、彼が御父に対して従順だったように彼に対して従順に歩むためでした。

私たちも私たちの主イエスを信じる信仰によって「証印を押され」ます。使徒パウロはエペソ人に、彼らは約束の御霊によって「証印を押されて」いる、と書き送りました。神は彼らがご自身のものであることをご存じです。私たちは彼のものです。私たちが御父の証印を受けているのは、彼が私たちを選ばれたこと、私たちは愛されている方にあって受け入れられていること、彼は私たちを拒まれなかったことの保証としてです。私たちはキリストにあって完全な者として受け入れられています。キリストとの完全な交わりは、彼への徹底的明け渡し、個人的なものや自己の意志をすべて放棄すること以外の何ものでもありません。それは私たちが「私はキリストと共に十字架につけられました。キリストが私の内に生きておられます」と真に言えるようになるためです。

食物と飲み物は霊的なものです。それは「キリストの中に」住むことを意味し、私たちの生活のあらゆる部分で御父の御旨を行うことと関係しています。しかしここで「私たちは生きることを本当に望んでいるだろうか?」という疑問が生じます。覚えておいてください。私たちが真に「生きる」のは、私たちが私たちの主のみこころを成し遂げるとき、私たちの命となることを主イエスに許すとき、彼に完全に従順であるときだけです。私たちの意志は腐敗した意志です。個人的願望は常に腐敗しています。私たちは肉です。しかし、「キリストの中」にそのようなものがあってはなりません。罪は十字架で対処され、裁かれました。そこで、キリストの完全な人性は最後まで保たれ、いかなる腐敗からも自由だったことが明らかにされました。今や、神の完全な小羊が私たちのために与えられています。彼を受け入れること、彼の中に住むことを、私たちは許されています。神のみこころを完全に成し遂げた御方が私たちの中に住んでくださいます。それによって私たちは成長します。彼の肉を食べ彼の血を飲むことは彼の中へと成長し込むことを意味します。それは私たちの内にある彼の力が明らかになるためです。私たちが彼の似姿に変容されるまで、彼のかたちが私たちの中に見えるようになるまで、彼は増し加わるでしょうし、増し加わらなければなりません。

さて、私たちに対する神の御旨は何でしょう?主イエスは、御父のみこころは「彼の御業を成し遂げること」である、と言われました。その御業とは何だったのでしょう?もう一度四章を見て、サマリヤの女の必要を見ることにしましょう。彼女は真の命を知りませんでした。彼女が井戸に来た時、彼女は大きな必要を抱えていました。命に関する主との会話に導かれて、彼女はキリストが命であることを最終的に理解しました。「わたしを信じる者は永遠の命を持ちます」。そして女は信じました。弟子たちが町から戻って来ると、彼らは主イエスが驚くほど回復しておられるのを見いだしました。彼は満足しきっておられました。なぜなら、彼は御父のみこころを成し遂げたからです。そのみこころとは何だったのでしょう?それは、御父が彼に与えられたすべての者に命を与えることでした。

神の御業は哀れな魂を導いて、キリストにある命を知るようにすることです。私たちが他の人々に対する命の経路となって自分の務めを果たす時、これは他の何ものにもまして満足を与えるものであることがすぐにわかります。一人の魂をキリストに導くなら、何という満足が得られるのかがわかります。必要を抱えている魂に神の命をもたらすことは心を大きな喜びと満足で満たすため、地的願望は消え失せます。哀れな罪人たちをキリストに導くよう努めようではありませんか。なぜならその働きの中にある時、真の命とは何か、御父のみこころにささげられた、神に対して完全に従順な命とは何か、わかるようになるからです。これが主イエスの命の法則でした。これは隠されたマナ、私たちの命を支える秘密の食物です。主を知らない人々はこれについて何も知りません。しかし、キリストによって生きている人はこの食物を知っています。神の御心を行うことは命であることを知っています。私たちが神の命に従順であればあるほど、ますます彼の命の川々が私たちの内に流れます。この類の食物を求めようではありませんか。この食物を世人は知りませんが、この食物について主は「わたしの食物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、彼のみわざを成し遂げることです」と言われました。

「なぜなら私たちは彼の傑作であり、良い働きのためにキリストにあって創造されたからです。神は、私たちがそのよい働きの中を歩むように、あらかじめ備えてくださったのです。」(エペ二・十)