第八章 「私の平安をあなたたちに与える」

T. オースチン-スパークス

「……あなたたちはあなたたちの魂に安息を見い出します」マタ一一・二九~三〇。

「……真理はあなたたちを自由にします(中略)ですから、子があなたたちを自由にするなら、あなたたちは本当に自由なのです」ヨハ八・三二、三六。

「平安を私はあなたたちに残します。私の平安を私はあなたたちに与えます」ヨハ一四・二七。

「これらのことを私があなたたちに語ったのは、あなたたちが私の中で平安を持つためです……」ヨハ一六・三三。

これらの節は私たちに、イエス・キリストの供給源のもう一つの特徴への鍵を与えます。それはすなわち、密かな安息と自由です。私たちの主イエスの生活は霊の平穏さと心の真の安息によって特徴づけられていました。彼の生活の中にはそうではなくさせるものがたくさんあったにもかかわらず、これに疑いはありません。彼の上に課せられた要求は甚大でした。なすべきことがたくさんありました。しかし、彼は決してそれによって打ちのめされませんでしたし、決して悩まされませんでした。彼は全き心の平安と安息の中で、それを通り抜けられました。聖書には「主イエスが走った」とは記されていない、と誰かが述べたのも至極もっともです。彼には時間が足りなくてあせることは決してありませんでした。彼の全生涯は内なる安息と平安によって特徴づけられていました。

この問題を調べると、主イエスはこの安息と平安を三つの領域で享受されたことがわかります。この三つの領域で彼はどの人とも異なっていました。

第一に個人的な罪の領域で、彼は完全な安息を持っておられました。彼は個人的な罪の問題によって悩まされることが決してありませんでした。彼の平安は内なる罪によって乱されることが決してありませんでした。彼の中には罪がありませんでした。彼はしばしば間違った道を取るよう圧迫されました。しかし、彼は決してこの誘惑に屈しませんでした。そして彼には苦難に耐える力があったので、彼は自分自身を救うよう誘惑されました。この誘惑はある日ペテロを通してやって来ました――それは彼を十字架の道から逸らさせるための誘惑でした――彼の弟子は彼に言いました、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起きるはずはありません」。彼には苦難に耐える力があったので、敵によって誘惑されることが可能だったのです。それは外側からの誘惑でした。しかし、それは彼の内なる平安を乱すことはできませんでした。なぜなら、彼は御父のみこころに委ね切っていたからです。御父に対する彼の忠誠によって、誘惑は失敗しました。彼の平安の秘訣は御父との合一でした。

次に、彼御自身の存在と性質の領域がありました。キリストは統一のとれた人物でした。彼の魂は統一のとれた魂であり、彼の思いは一つ思いでした。彼の中には、相争う二つの考えはありませんでした。彼御自身の考えと彼の御父の考えとの間に争いはありませんでした。彼の心も分かれてはいませんでした。彼には相争う二組の願いはありませんでした。さらに、彼の意思は一つであり堅固でした。彼の意思と御父のみこころとの間に争いはありませんでした。

彼が通られた誘惑はみな、彼を彼の御父から引き離すためのものでした。彼の御父からではまったくない願い、考え、意志を持たせるためのものでした。しかし、そのような姿勢は彼にとって問題外でした。彼の御父のみこころからそれることはまったくありませんでした。そのすべての背後には、彼の御父を信じる完全な信仰と彼の忠信さがありました。彼が苦しまれた時、それは神のみこころにしたがってであり、彼御自身のみこころと争っていたからではありませんでした。苦難は彼を際立たせましたが、決して彼を逸らしませんでした。彼の生活の中には、あつれきや神との内なる論争はまったくありませんでした。彼は全く安息しきっていて調和が取れていました――統一のとれた人物だったのです。

私たちの生活における平安の欠如の多くは、私たちの統一性の欠如に由来します。私たちは私たち自身の考え、私たちの願い、私たちの意志との争いの中にあります。私たちは二つの方向に引き裂かれており、私たちの中で争っている物事のゆえに悩んでいます。多くのとき、私たちは相争う二人の人のようであり、安息のない状況の中にあります。同じことが神との私たちの関係でも起きます。私たちの思いや願いは神の思いや願いと争っています。主イエスの場合とは何とまったく異なっていることでしょう!彼は内なる平和の意味を御存知でした。

主イエスが完全な安息と自由を享受された三番目の領域は、律法の要求の領域でした。「あなたは……しなければならない」「あなたは……してはならない」を伴う律法、なすべき無数のことやしてはならない無数のこと、モーセの律法がユダヤ人に課した規則や遵守事項はみな、大きな重荷でした。そのどれか一つを破るなら、全体に関して有罪となりました。次に、律法学者やパリサイ人たちによる律法の解釈と適用がありました。彼らに対して主イエスは言われました、「まことに、あなたたちは重くて負いきれない重荷をくくって、それを人々の肩に載せています」。

その領域で主イエスは完全に安息しておられました。彼は決して律法に束縛されませんでした。彼は律法の要求を成就して生活されたので、他の誰にもない確信と堅固さがありました。なぜ律法が与えられたのでしょう?何の目的のためでしょう?たった一つの目的のためです。律法の意図は神の地位と神の権利を確保するためだったのです。さて、律法の要点は偶像崇拝に反対することでした。偶像崇拝はとても広範に及んでいます。それは、神からその地位を奪うための悪魔の目論見に沿っています。貪欲、すなわち自分のために物を欲しがることは偶像崇拝です。不敬は偶像崇拝です。神を礼拝しないようにさせます。情欲、すなわち肉を満足させることは神の地位を奪います。多くの形の偶像崇拝があります。これらの「あなたは……しなければならない」「あなたは……してはならない」を見れば、それらはみな偶像崇拝と関係していることがわかります。それは神の地位と権利を奪います。

さて、神は主イエスにあって御自身の完全な地位と権利を獲得されました。彼は律法を必要とされませんでした。彼は霊の中で律法を完全に成就されたからです。彼は高次の法則によって律法の働きから解放されていました。律法遵守の問題に関して、彼の心は完全に安息していました。彼にあって、律法の最も深い意義が確立されました。神の地位と権利がキリストにあって完全に確保されたのです。

ヘブル人への手紙には、安息について多く記されています。彼の安息が私たちの安息でなければなりません。「私たちは罪なき完全の状態になければならない」とか、「私たちが再び罪を犯すことはありえない」とあなたたちに告げようとするつもりはありません。しかし、罪の問題は真っ先に対処されなければならないことを、私たちは認めなければなりません。私たちの罪はすべて、キリストにあって除き去られています。イエス・キリストは私たちを一度限り永遠に罪から解放して下さいました。「ですから今や、キリスト・イエスの中にある者たちには何の罪定めもありません」。何の罪定めもない!なぜでしょう?キリスト御自身が過去・現在・未来の罪の問題を永遠に対処されたからです。罪のゆえに私たちを神から隔てていたものはすべて赦されています。そして、私たちは信仰によって神の御前で完全に義なる地位に置かれています。私たちが再び罪を犯した時でも、永遠の赦しがあります。私たちの贖いは永遠の贖いです。なぜなら、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、彼は信実で義であられるので、私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」「御子イエスの血は私たちを清めます(清め続けます)」と記されているからです。それは今や、彼との私たちの合一の問題です。キリストとのこの合一の中にとどまるなら、五分間も罪定めの下にいる必要はありません。失敗した時でも、自分の罪を認めて告白するなら、それらは赦されます。ですから、内側の平安と自由の基礎はキリストにあります。私たちが解放されるのはキリストを通してであり、キリストにあってです。私たちはローマ八章を真剣に受け止めなければなりません。その上に立って喜びに満ちていなければなりません。「ですから今や、キリスト・イエスの中にある者たちには何の罪定めもありません。命の御霊の法則がキリスト・イエスにあって私を罪と死の法則から解放したからです」。これは地位に由来する状態です。「キリストの中に」自由があり、そこに罪定めはありません。キリストが御父の中に住んで罪に対して完全な平安を持っておられたのと同じように、私たちも――キリストの中に住むことにより――完全な平安を持つことができます。それは私たちから罪が放逐される平安ではなく、御血の清めの効力の継続に由来する平安です。

しかし、どうやって私たちは私たちの分裂した性質を経験的に克服して、このような一つ、このような安息、このような平安の中に入ればいいのでしょう?その方法はまさに次の通りです:主イエスが私たちの心の中で優勢になるにつれて、私たちはますます彼と一つになるのです。私たちが彼に服せば服すほど、思い・心・意志のすべての葛藤は止みます。キリストの姿勢は御父への絶対的明け渡しでした。彼は何ものも差し控えず、御父のすべてのみこころを行う用意がありました。それに関して何の葛藤もありませんでした。彼の全存在は御父と一つでした。私たちが自己の命を去らせて、キリストに私たちの内で支配してもらうようになるにつれて、彼は内側の葛藤をすべて終わらせて下さいます。全く主のものである心は安息している心であり、キリストのかたちに同形化される心です。主は「私の荷を負いなさい」すなわち「私と完全に一つでありなさい」と言われました。くびきは二者を一つにします。そのため、旧約聖書では釣り合わないくびきを用いること、ロバと雄牛を一つのくびきの下につなぐことを禁止していました。なぜなら、この二者は全く異なるものだったからです。そのようなくびきは両者を引き裂いて傷つけます。しかし、私たちは主イエスと一つのくびきを共にすることが許されています。このくびきは一つ、交わり、一つの意志によって治められることを物語っています。このようにして、私たちは自分の魂に安息を見い出します。

ですから、律法の領域における平安に関して、安息日を守ることに関する問題は、主イエスを少しも悩ませませんでした。人民の支配者たちは絶えず彼に律法を押し付けましたが、神は彼の中に完全な地位と権利を得ておられました。彼の人生は日々刻々、彼の神、彼の御父のものでした。彼は御霊の中で律法を完全に満たされました。パリサイ人たちは外面的な形式、文字を守ることを要求し、そうすることによって、安息日の御霊に対して罪を犯しました。律法の下にあるクリスチャン、それゆえ束縛の中にあるクリスチャンが大勢います。この束縛から逃れる道はキリストです。キリストがあなたの心の中でであるなら、安息日に関して心配する必要はまったくありません。律法が与えられたのは、神の地位と権利を彼のために確保するためです。キリストが私たちの生活の中で主であるなら、私たちは安息日を守っているのです。キリストが主である者たちには、毎日が安息日なのです!もし私たちが律法の真の霊的意義の中に生きているなら、外面的形式、文字について心配する必要はありません。私たちは文字に関しては間違っているかもしれませんが、それでも神の御前では正しいのです。大事なのは霊的意義――命――神との私たちの合一であり、私たちの内で働くことを彼に許すことです。キリストは文字による安息日を破りましたが、全宇宙の中で彼ほど完全に律法を成就した者はいません。彼は「あなたたちは真理を知り、そして真理はあなたたちを自由にします」と言われました。キリストは真理であり、単なる文字を超越しています。キリストが私たちの中に住んでおられるなら、私たちは彼の安息と平安の中に生きることができます。こうして、罪は私たちに対して何の力も持たなくなります。私たちは自分自身に関して心配する必要はありません。私たちの日々の生活の失敗について恐れる必要はありません。

キリストは私たちの平安です。キリストは私たちの安息です、安息と自由は常に力を意味します。もし私たちに安息がないなら、私たちは効力に欠けます。キリストは私たちの十全性です。なぜなら、私たちの供給源はすべて彼の中にあるからです。

どうか主が彼御自身の平安の中に私たちを導いて下さいますように!