第一章 十字架についての新たな理解

T. オースチン-スパークス

これに関して特に私たちの前にあるのは士師記です。時として私たちはこの書のことを、全聖書の中で最も悲劇的な書である、と思ってきました。これがそうなのかどうか、私にはあまり確信がありません。おそらく、マラキ書については大外れではないかもしれませんが、士師記は全聖書の中で最も悲劇的な書であることは確かです。それは失敗と徹底的弱さの書です。

この書の内容は、おそらく、霊的弱さを全聖書の中で最も完全に啓示・提示するものです。私たちはこの弱さに関する書を見ることによって霊の力の秘訣を学ぶつもりですし、弱さの原因を理解するつもりです。御存知のように、この書は歴史のかなりの期間を網羅しています。それは神の民の三百年の生活を示しています。この三百年間は、憐れみによる主の二、三の介入(それらは暗い歴史の中の明るい点です)がなければ、神の民の間の、霊的に最も哀れな年月でした。そこには明るい点もあります。私たちは熱心にそれらの点を握り締めてきました。ギデオンは麗しいですが、あまりにも欠け目があります。デボラは偉大ですが、長く続きません。最大の士師であるサムソンに至るまでに、他の人々もいます。サムソンで最後に達しますが、それが告げるところは自明です。

この書の中の歴史的な文字通りの状態は、霊的意義の象徴的示唆に満ちています。じっくりとこの書を読み通してこれらの状態に注意するべきではない、と私は思います。この書の一つの特徴が弱さと失敗であることはわかります。飢餓の状況が存在しました。哀れなギデオン!彼は壁の後ろの一角で小麦を打っています。主の民の食物を隠れた場所にしまわなければなりません。さもないと、ミデアン人の目に触れて、奪われてしまいます。この食糧問題は確かにとても厳しいものでした。

主の民の戦力は鍛冶職人のペリシテ人によって損なわれ、彼らは戦うためのいかなる武器も造ってはなりませんでした。イスラエルに戦う力はまったくなく、この一般的情勢に抗うこともまったくできませんでした。ここに弱さがあります。さて、私たちはその理由を知りたいと思います。その原因は何でしょう?もちろん、ヨシュアに続く士師たちに関して極めて陳腐に思われる観察をするなら、この問いに対する全く包括的な答えを得ます。表面上、これはあなたにあまり多くのことを伝えません。ヨシュアはどのような人物だったでしょう?ヨルダン川を渡った民は、神が自分たちに与えることができるものに関して、まったく確信していました……彼らには恐れるものが何もなく、疑う理由が何もありませんでした。むしろ、彼らがその地に入る前に、カナン人の気力はすでに失せていました。主が彼らと共におられ、主は彼らの手にその地をお与えになりました。彼らに必要なのは、勝利の信仰を行使して、主が確保して下さった地位に完全に着くことであり、すでになされた事柄の効力に基づいて、主とその民の敵対者である他のすべての住人たちから奪うことでした。

しかし、ある命令が常に繰り返されましたが、この命令がこの征服の支配的特徴であり要素でした。その命令とは、彼らは完全に征服しなければならないこと、そして、この征服を邪魔するものをすべて滅ぼさなければならないことでした。これは主が彼らに対してとても明確にされたことであり、彼らは進み続けて、その道中、神に敵対するものを何も残してはなりませんでした。そのようなものをすべて滅ぼすことは、絶対的・完全・決定的なものでなければなりませんでした。そして、彼らがこの命令に従って進む間、何ものも彼らの道に立ちはだかることはできませんでした。神は彼らと共にあり続け、力が彼らの不変的所有・特徴でした。「中に入り、上に上って、これらの諸国民をすべて完全に滅ぼしなさい」――これがヨシュアでした。

士師たちが続きます。士師記一・一九を見ると、「主がユダと共におられたので、ユダはその山地の住民を追い出したが、低地の住人たちは鉄の戦車を持っていたので、これを追い出せなかった」とあります。主はできる限り彼と共におられました。主はできる限り私たちと共にいて下さいます。以下の御言葉を見て下さい。

「低地の住人たちは鉄の戦車を持っていたので、彼はこれを追い出せなかった」(一・一九)。

「ベニヤミンの子たちはエルサレムに住んでいたエブス人を追い出さなかった」(一・二一)。

「マナセはベテシャンの住人たちを追い出さなかった」(一・二七)。

「彼らはカナン人を労働に服させ、彼らをことごとくは追い出さなかった」(一・二八)。

「エフライムもカナン人を追い出さなかった」(一・二九)。

「アセルもアッコの住人たちを追い出さなかった」(一・三一)。

「彼らは彼らを追い出さなかった」(一・三二)。

「ナフタリもその住人たちを追い出さなかった」(一・三三)。

「そしてアモリ人はダンの子らを山地に追い込んだ」(一・三四)。

九回、彼らは彼らを追い出さなかった、追い出せなかった、と述べられています。これがこの書の概要です。

なぜ彼らは彼らを追い出せなかったのでしょう?神にはそれができなかったからでも、主が彼らのためにその地を確保されなかったからでも、その契約を主の側が破られたからでもありません。さらに読み進むと、この最初の章はそれに続く諸章の要約であることがわかります。それは後の歴史を要約の形でまとめたものであり、さらに読み進むと、これらの「できなかった」はすべて弱さを物語るものであることがわかります。それは彼らがその地の人々と妥協した結果だったのです。彼らは彼らと一種の混合状態に陥りました。彼らは彼らのことを完全に滅ぼすべきものと見なすのをやめてしまいました。そして、妥協することによって同じものを得ることができる、と考えました。そして、その地で妥協して、自分たちの妥協によって弱くなったため、その地の外からの敵が彼らを見つけて、ペリシテ人や他の人々が彼らを制圧しました。

私たちは今日、霊的に、士師記の状況の中に生きています。弱さと失敗の状態があり、敵は追い出されていません。主の民が周囲の勢力に対して霊的に完全な優位に立たない限り、状況は不自由で麻痺した敗北の状態のままです。私が述べているのは一般論です。食物の問題はとても厳しく、今日、壁の後ろの狭い隠れた場所でしか霊的食物を見い出せません。これは全般的なことではありません。ここに言わばギデオン党がいて、秘密裏にすべての食物を貯蔵しています。そして、それを探し出さなければなりません――今日それを至る所に見い出すことはできません。この食物の問題は霊的にとても厳しい問題です。私たちは使徒行伝の状態の中にはありません!私たちは使徒以下の時代にいます。

ヨシュア記には、生きているあいだ物事を神にしたがって維持した偉大な指導者たちが登場します。彼らが死に、ヨシュアが死に、カレブが死んだ時、士師たちの時代になりました。神のために物事を保つことに関して、大いに低く劣った水準になります。使徒たちは生きているあいだ物事を神のために保ちました。彼らが去った時、状況は悪化しました。神のために何かを回復する何らかの務めをここかしこに神が起こされるのはたまにしかありませんでしたし、今もたまにしかありません。そして、それが過ぎ去ると神は別の何かを起こされますが、それもまた過ぎ去って行きます。

もう一つは次の点です。すなわち、この人々がある時点で主が必要としておられることを行って神と共に道を進み通すことに失敗した時――妥協し、自分たちの水準を引き下げ、受け入れることを神が決して意図されなかったものを受け入れ、それらの事柄が残ったり入り込んだりするのを許し始めた時――その時以降、主は敵をまったく追い払われなかったのです。彼は「これらすべての諸国民を滅ぼせ、という私の言葉にあなたが従わなかったので、彼らはいつまでも残って、あなたの脇腹のとげとなる」と言われました。ですから、この期間全体を通して、完全な除去はなされません。むしろ、彼はこれらのものを残されました。第一に、一方において、彼の民全般の不忠信さに対する証しとしてであり、他方において、特別な民の忠信さを試すものとしてです。彼らの存在は、全般的に神の民は不忠信だったことを表しました。彼らの存在は、他方において、主の特別な民の何人が忠信であるのかを試すものとなりました。ですから、三万二千人の中から選ばれたギデオンと三百人がいます。他の人々には最後まで進み通す気がありません。士師記の時代、神が御自身の偉大な勝利を獲得されるのは、妥協した一団の人々によってではなく、彼と共に最後まで進み通す幾人かの人々によってです。今日、私たちはこのような状態の中にあるのではないでしょうか?これに疑問の余地があるとは私は思いません。今日のような背景全体は、霊的に、妥協による弱さを表しています。今は小さな事柄の時代であり、主と共に最後まで進み通そうとするときに力を得る時代です。

弱さの秘訣は妥協であり、力の秘訣は神のみこころへの徹底的明け渡しです。これはヨシュア記を数語で要約したものです。すでに述べましたが士師記はヨシュア記に続くものであり、これがその鍵です。

ラオデキアにある教会へのメッセージを私たちは読みました。それはキリスト教の経綸の最終局面の一般的状況を示している、と私たちは信じています。これらのメッセージや状態は、キリスト教時代にわたる教会史の異なる期間を表している、というあの解釈を私たちは受け入れます。ラオデキアは諸々の状態の最終局面、最終段階を表しています。ラオデキアが妥協したことを示しているのは何でしょう?なまぬるさです。二つのものを容れようとしてその真の性格を失うことです。「私は愛する者たちを叱ったり懲らしめたりする」目的は、彼らをこの妥協した状態から引き出すためであり、彼らが勝利する者たちになるためです。

妥協の時代にあって、主は妥協から抜け出して絶対的優位の状態に至るものを求めておられます。士師記の最後には再び、「王はなく、人々はおのおの自分たちの目に正しいことを行った」とあります。そこには妥協があり、主権・統治・力に対する拒絶がありました。妥協から抜け出しなさい、なぜなら神から出ているものはすべて御座へと導くからです。

主が今日求めておられるものは大いに明かです。ラオデキアと士師記は、同じ原因から生じた状態として、共に進みます。どの章もこれらの事柄でいっぱいです。第一章を見て下さい。イスラエルの諸部族と、彼らに対する主の御旨について述べられています。この一覧にある名はどれもある霊的原則を表しています。次に、諸国民の名がこの書の中にあり、それらは一組の対立する諸原則を表しています。(これらの名の意味は自分で調べて下さい。)これらの諸国民が表しているそれらの霊的原則がその地で優勢になった時、それは妥協のせいでした。次に、外部からの侵略軍への扉が開かれ、バビロン捕囚への最初の示唆を私たちは見い出します。王たちの一人が遠方から来て、ここでこの人々を征服しました。この王はアラムから来ました。まさにバビロン捕囚の発端だったこの地は、士師記と関係していたのです。

主が最終的に必要としておられたのはレムナントでした。衰退と挫折の時代、主はその中から何かを得ようとしておられます。それはまったく彼御自身のためのものであり、彼御自身からのものです。これが彼が為そうとしておられることです。遂にはペンテコステ的状態が戻ってくることを、あなたは祈り、望み、期待しているでしょうか?あなたは自分の時間を浪費しています。使徒行伝が繰り返されることは決してありません。そのようなことが起きるのを多くの人々は期待しています。そのようなことは起きません。それを期待する根拠は神の御言葉の中にありません。士師記の状況は、神が証しのために敵を残しておかれるというものです。その証しは神の民の不忠信に対するものです。次に、彼は何かを獲得され始めます。それはまったく彼御自身のためのものであり、そのような状況のただ中における勝利に対する彼の証しです。そうです、神はほむべきかな、依然として主イエスの勝利の偉大な表われは可能ですが、神がそれらの表れのために要求しておられるのは、まったく彼の御心に適っている人々です。その御心とは、これらの人々によって表されているこれらの事柄のための場所がその地になくなること、また、ペリシテ人たちが一度限り永遠に始末されることです。

ペリシテ人たちは大敵であり、長いあいだ優勢でした。ペリシテ人たちは、神の事柄を牛耳る天然の人の原則です。天然の人が霊の事柄を牛耳り始める時、天然の人はそれらの価値を台無しにします。あなたの力を奪い去ります。霊の事柄に対して天然の理屈を働かせるなら、あなたに力はまったくなくなります。二人の人がまったく同じことを言うかもしれません。一人はまったく正しくて聖書にあることを言いますが、何かがなく、何かが欠けています。それはたんなる引用であり、完全に正しいのですが満足を与えず、強めることもありません。他の人は一言一句同じことを言うかもしれませんが、それはあなたの心に届いて、その影響をあなたは感じます。それは命であり力です。一方はペリシテ人であり、他方は違います。一方はペリシテ人であり、肉を断ち切られたことがありませんが、他方は死と復活における主との一体化を知っています。これは人からのものと聖霊からのものとの間に大きな違いを生じさせます。ペリシテ人たちは力を奪い去ります。サムソンの力はペリシテ人たちによって弱められ、徹底的に弱くなりました。霊的真理の領域で人々を興じさせるとき、弱さ、敗北、麻痺が生じます。ですから、この対比により、力の秘訣の何たるかを私たちは理解できます。

まず第一に、ヨルダン川を発効させなければなりません。ヨルダン川はどのように発効されるのでしょう?ギルガルにおいてです。「ナイフを研ぎなさい」。士師記二・一は、「そして主の御使いはギルガルからボキムに上って言った、『私はあなたたちをエジプトから連れ出した』」と述べています。そして御使いは、彼らの素晴らしい解放と良き地の相続についての物語を告げ、それから、「なぜあなたたちは私の声に従わなかったのか?」と告げます。主の御使いはギルガルからボキムに上って行きました。主の住まいはギルガルにありました。主はギルガルに住んでおられました。問題は、人々がもはやギルガルに下って行かないことでした。ギルガルはヨルダン川が経験的に発効される場所であり、十字架が働いて肉を断ち切る場所です。神はそこに住まわれます。そしてヨシュア記では、人々が戦いに出かける時は常にギルガルに戻りました。今、彼らはギルガルに戻りませんでした。主は「上って行きなさい」と私たちに命じておられますが、私たちは自信、高ぶった思い、自尊心から離れなければなりません。ギルガルは主イエスが自己を空しくされた十字架を表しています。主の御使いが上って行ったのは、人々が下って行かなかったからです。彼は「悲しむ人々」を意味するボキムに上って行きました。霊的に、それは涙の場所です。私たちの肉を十字架の下に保つ必要性を意識しなくなるやいなや、力は失われます。あなたは十字架について不平を述べているのでしょうか?この磔殺の働きはとても辛いものです――常に十字架に付けられなければなりません。何度も何度も、ますます十字架に付けられなければなりません。そして、私たちは悲しく感じます。

あの十字架を私たちの生活の中に保つ必要性を認識しそこなうやいなや、私たちが涙を流すことになるのももっともなことです。十字架は喜び・勝利・命の道です。それを正しく理解するなら、それは涙を伴わない道です。敵のあらゆる優位性の根拠は、あの十字架によって取り除かれます。それは喜ぶ機会を与えてくれます。私たちは十字架についての新たな理解を得なければなりません。私たちはそれを何か恐ろしいものとして考えてきました。私たちを滅ぼすために敵が頼りにしているものはあの十字架によって無効化されること、そして、私たちがそれを認識しそこなうやいなや、敵が立場を得て、私たちは霊的に涙を流すことになることがわかります。今日、とても多くの人々が、失敗と敗北のせいで、霊的に涙の中にあります。至る所で彼らの呻きとため息が聞こえます。彼らには何の力もありません。正しく理解するなら、ギルガルはこれを正します。主はどこにおられるのでしょう?主イエスの十字架の意義が生活の中で有効化されて経験的なものになっている所に、常に主を見い出します。その場所であなたはそれを見い出します。彼はギルガルに住んでおられます。これが士師記の中に何度も何度も繰り返されています。

何らかの新たな歩みにより、神のみこころを暗示する何らかのものの中で、主と共に進み続けるのをためらうやいなや――もし差し控えたり保留したりするなら――その瞬間、敵が忍び込んで麻痺させます。そして、躊躇した後でその一歩を踏み出すのは非常に困難であることをあなたは見い出します。主の民の歴史全体の中に忍び込んだすべての麻痺させる誤りを辿るなら、麻痺させる誤りが機会を得たのは彼らが主と共に進み続けることに失敗したからであることがわかるはずです。これについて考えてみて下さい。これは思い付きで述べたことではありません。これについてはよく考えました。誤りが忍び込んで麻痺させました。そして、その誤りのための機会が忍び込んだのは、主の民が前進する代わりに立ち止まった時でした。前に進む代わりにためらった時でした。

霊の力を守る最大の手段の一つは進み続けることです。最も災いなことの一つは、聖霊によって神のみこころとして知らされたものに関してためらうことです。たった一つのことでも、私たちが主と共に進み続けるのを止めるなら、私たちは彼に従うことに失敗します。敵は見張っていて、主と共に歩む私たちの歩みはただちに何かに突き当たります。それを主は指摘されるので、私たちはその一歩を踏み出せません。敵は何か別のものと共に突入してきます。その別の何かは代替案、先入観、その問題を先延ばしにする何らかの致命的力の示唆として臨みます。そして後になると、その一歩を踏み出すのは十倍困難になります。なぜなら、積極的な何かが介入するからです。敵は中立を信じていませんし、主も中立を信じておられません。もしイスラエルが進み続けて、エブス人や他のすべての「~人」と妥協していなければ、士師記が書かれることは決してなかったでしょう。士師記は次の事実に関する一大宣言です。すなわち、神の民は自分たちが神の中に持っている豊かさの中に入らなかった、という事実です。これは私たちに対するとても厳粛な言葉です。これは、なぜ新約聖書が成熟に至ること、進み続けることを要求しているのか、その理由を示しています。なぜなら、進み続けないなら、神のみこころでは決してなかったものに占有されるおそれがあるからです――宗教的な何かに熱中する危険性があるからです――そして、神の御旨をすべて見落として、敵が大混乱を引き起こし、あなたから霊の力を完全に奪うおそれがあるからです。

霊の力は前進すること、そして前進し続けることの中にあります。何があっても立ち止まらず、何ものにも妥協しないことの中にあります。ここでの絵図はヨセフの家であることがわかります。彼らはべテルを取りに出かけました。彼らは斥候を遣わしました。主が「私はそれをあなたに与える」と言われたのに、なぜ斥候を遣わすのでしょう?主が「私はそれをあなたに与える」と言われる時、斥候を遣わす必要はありません。彼らはべテルの人を見つけて、「都に入る道を教えてくれるなら、私たちはあなたを優しく扱いましょう」と彼に言いました。するとその人は、自分の親族を救うために、中に入る道を彼らに示したので、彼らは彼を放しました。その結果、その人は逃げ去って、別の都を築き、それをべテルと呼びました。ヨセフの部族は肉の水準に下って、それからこの哀れなごろつきに道を示すよう求めました。その場でその人を殺さなければならなかったにもかかわらずです。天然的に話して、彼らは妥協に基づいて彼を容赦したのです。彼らは言いました、「事実、主はそれを行うことができません。私たちはこの人から、神が滅ぼせと言われたものに属している人から、情報を得なければなりません」。彼らは彼を優しく扱って、彼を去らせました。すると彼は逃げ去って、別の都を築いたのです。

もし神が自分に告げられたことをしないなら、本物の偽物を打ち立てる力を解放することになります。本物でないもの――偽物――を打ち立てる何かを解放することになります。そして、敵は至る所でこれらの戯画を打ち立てています。自分の生活の中に間違った何かがただちに生じることになります。あの妥協をしてしまったのです。何かをいっそう簡単に手に入れるためにほんの少しでも容赦するなら、たんなる偽物を打ち立てることになります。それに価値はありません。それに代価が必要なことを私は知っています。この戦いを私は知っています。しかし、主の証しが真に確立されることをあなたは望んでいるでしょうか?主は御自身の証しのために、御自身の民の中に霊の力を回復することを望んでおられます。

私たちは力についてあまり述べませんでした。今日多くの人々が、偉大な人物になるために、人々に対する力を得るために、力を持つことを願っているからです。肉が力を握る時、その究極的結果は神にとって非常に不名誉なものであり、その路線上にはあらゆる種類の危険があること、そして肉は自分自身のために力を求めてはならないことを、主は私たちに示して下さいました。力について話すのを私たちは恐れています、それでも、私たちにはそれが必要です。

敵を屈服させなければなりません。あらゆる真理、光、知識をもってしても、敵は屈服しません。私たちを切り抜けさせて敵を行動不能にする力は、そこにはありません。敵を屈服させるには、ごく些細な問題でも肉・悪魔・この世と妥協しない地点に至らなければなりません――主と共に完全に進み続けて、自分たちにいっそう有利な道を与えてくれる自分自身の議論をすべて拒否する地点に至らなければなりません。内側に生じるあらゆるものが、「もしあなたがその一歩を踏み出すなら、それによってあなたは諸々の事柄と衝突することになりますし、人気を失うことになります。あなたに対して門戸は閉ざされ、あなたは疑われることになるでしょう。あなたは多くの友人を失うでしょう」と語りかけます。それに耳を傾けるやいなや、あなたは停止し、力を失い、妥協することになります。その行く末はとてもがっかりするものになります。肉に対して、自分自身に対して、この世に対して、一顧だに与えてはなりません。なぜなら、敵がそこに横たわっていて、妥協の瞬間を待ち構えているからです。それは本物ではない何かを携えて突入し、神の御旨全体を損なうためであり、神に反撃して、神に損失と不名誉をもたらすこのような物語を打ち立てるためです。

力を得る一つの偉大な包括的秘訣は、ためらうことなく、妥協することなく、信仰の従順の中を進み続けて、キリスト・イエスの中にある豊かさに至ることであることを、主が私たちに見せて下さいますように。