第三章 主と共に進み続ける

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:士師記一章

すでに指摘したように、士師記の悲劇は、それがヨシュア記に続くものであるため、なおさら目立ちます。この二つの書を一緒に読んで一方から他方に移ると、気分が滅入る感じがします。ヨシュアの時代の奇跡、神の御旨の可能性、希望、ヨシュアの偉大な業績、神の御旨の何たるかを見た後ではそうです。その後、士師記に入って、その続きを見ることになります。

この二つの書に対応するものが、私たち自身の経綸の中にあります。使徒の働きではヨシュア記の状況です――霊的征服、勝利、優位性、主の右手による力強い御業の素晴らしい物語です。その後、新約聖書が終わる前に、士師記の状況の中に移ります。そして、最初の啓示――諸教会への七つのメッセージ――の中に自分がいることに気づきます。それ以前に、士師記の状況がコリントに入り込み、ガラテヤや他の地域にも忍び込むのがわかります。そして今日、私たちは疑いなく士師記の状況の中にいます。霊的失敗、とても弱い状況、敗北と失望が蔓延しています。これがそうであることは(ヨシュア記でもそうであるように)主の御心にしたがっていない、それとは全く逆の多くのことが主の民の間で優勢である事実からわかります。主の御旨の外にあるものが優勢であり、主の民は神のみこころとは逆のものに大いに束縛されています。

これについてはもっと特別な方法で話すために少ししたら戻ることにしますが、ここに神の意図とは正反対の状況を示す士師記があります……主がご自身の民に望んでおられるよりも遥かに低い状況です。普遍的栄光・勝利・喜び・賛美よりも、むしろほとんど抑圧下の呻き、弱さゆえの溜息、無力さと束縛ばかりです。真に神からのものは、どこか遠くの隠れた二、三の場所にしか見つかりません――ミデアン人を恐れて壁の後ろで麦を打っていたギデオンのようにです――まさにそのようです。今日、私たちは霊的に士師記の状況の中にあることがわかると思います。この状況を認識して、私たちはその根本原因を調べなければなりません。この状況の根本原因は何でしょう?先ほど読んだ章から、そのすべての原因がはっきりとわかります。そして、霊的弱さや失敗の状況がある時は、この同じ原因が常に根本にあります。次の句が常に繰り返されます。九回繰り返されています。「彼らは彼らを追い出せなかった」「彼らは彼らを追い出さなかった」。これがすべての根本であり、状況・状態全体の背後に横たわっています。

最初に述べたように、これは主と共に進み続けて主が意図された全き豊かさの中に入ることに失敗したことによります。どこかにためらい、留保、議論、疑問があったのです。どこかで差し控えたのです。どこかの時点で結果に伴う代価を計算して、抵抗の少ない道を取ってしまったのです。どこかで何らかのささやかな個人的利益を考慮してしまったのです。どこかで完全に滅ぼすことを主が要求しておられるものを容赦してしまったのです。主が指さして「これを放棄しなければなりません」と言われたのに、それを放棄しなかったのです。主は一歩踏み出すことを要求されたのに、踏み出さなかったのです。完全に十字架に渡されるべき肉を少しばかり容赦してしまったのです。そしてこのようなことが起きる時は常に、このように保留し、容赦し、個人的な考慮をするときは常に、失敗が続きます……これが起きる時は常に、直ちに妥協することになります。敵が有利になります。そして神の民の力は弱まって、自分たちが悪の力を解放してしまったことに気づきます。この悪の力は徐々にゆっくりと働いて優勢になり、ついには彼らは自分たちに対する神の御旨よりも劣ったものの中に自分たちが陥っていることに気づきます。

神が意図されたのは豊かさ、絶対的状態、最終的状態、至高性、主権でした。しかし、これらの様々な理由のどれか一つか二つ以上により、彼らは御霊が導かれるように神と共に進み続けることに失敗しました。そしてこの失敗により、彼らは行き詰まっただけでなく、何らかの明確な悪に対して扉を開けてしまいました。そしてその悪が中に入って来て、彼ら自身が主の御名の中で占領すべきだった土地を占領してしまいました。ですから、彼らはこの標準に達することなく、束縛の中に陥って、最終的に敵を追い出さなかったので最終的に敵を追い出せなくなったことに気づきました。それはこのように作用します。すなわち、それをしないなら、それができなくなるのです。主と共に進み続けないなら常にこうなります。ああ、これらの霊的事実をこのように力強く示すことにより、どうか主がこれを私たちの心にはっきりとわからせてくださいますように……主と共に進み続けることに関して疑問を持つこと、主が「進め」と言っているのに一瞬でも立ち止まること、私たちのなすべきことを主が私たちに教えてくださっているのに、それ以外の考えが侵入して私たちに影響を及ぼすのを許すことは、きわめて危険であることを、主が私たちに徹底的にわからせてくださいますように。

また、私はあなたたちに次のことに注意していただきたいと思います。すなわち、それを行う一団は他のすべてに影響を及ぼしたのです。印象深いことに、これらの人々はみな共にこの状況の中に集められ、その中で相互に関わりを持ちました。彼らは自分自身のために生きたり死んだりはしません。それは孤立した一つの団体の問題ではなく、各々が他のすべてに影響・効力を及ぼします――途方もない責任の問題です。

ユダがその実例です。ユダは戦いに出ていくことにかけては常に指導的部族でした。彼らは戦いにおける指導者たちであり、ユダは「賛美」を意味します。興味深いことに、賛美によって道を戦いへと導くことが常に主の御旨でした。また、主の戦いの中に入るにあたって、常に賛美は一撃を加える前に勝利を得ている印です。ユダはそこそこ進みましたが、途中でやめてしまい、それを成し遂げませんでした。それで完全勝利の賛美は終わってしまったのです。

十分な賛美、十分な確信ではなく、中途半端な音色と共に戦いの中に入るやいなや、中途半端な勝利しか得られないことがわかります。何かが失われることになります。切り抜けて主の御旨に至ることはありません。ユダは手前で止まってしまいました。これは、ユダが行ったことは、他のすべての部族に影響を及ぼしたことを意味します。他の部族もみな同じように手前で止まってしまったことがわかります。神のみこころとつながっている一人の男性または女性、キリストのからだの中にあるその民の一部の群れが、主が彼らに行うよう要求されたことに直面して、道を半分か四分の三進んだところで止まってしまい最後まで進み通さないなら、これは他の者たちを停止させる力を及ぼします。霊の中できわめて密接な関係にある一人の男性または女性には、霊的に他の者たちを停止させ、神の全き御旨を停滞させる力があります。彼らは個人的に主と共に進んでいないからだけでなく、敵の何らかの妨害する力が入り込む入口になってしまったからです。彼らが止まるやいなや、敵が入って来て何らかの霊的影響を及ぼし、主の民の活動全体を妨げます。

新約聖書を見ると、これがわかります。コリントで一人の人が会衆全体を妨げていました。そこには「放棄せよ」と神が言われた何かがあったからです――偶像崇拝があったからです。その人がそこにいたせいで、コリントにおける交わり全体が巻き込まれました。そこで使徒は「共同体は責任を取ってそれを裁かなければならない」という明確な指示を与えました。彼らはそれを対処しなければなりませんでした。これは士師記のこの点に導きます。この人々はなぜ士師と呼ばれているのでしょう?もちろん、それは公務または公的地位を表していますが、それ以上のものを表しています。なぜなら、士師記の時代、破綻・停滞・逆転した状況がはびこっていたことがわかるからです。これを再び読んでください。この人が裁いていた間は状況は好転しましたが、この士師が亡くなるやいなや、状況はまたもや悪化したのです。

別の士師が起こりました。停滞していた状況は、一時のあいだ正されました。彼が亡くなるやいなや、状況はまたもや悪化しました。

前の章ではオテニエルについて述べました。オテニエルはイスラエルを裁き、戦いに出て行きました。戦いに出て行く前に、内側を裁かなければなりません。出て行って征服・勝利しようとするなら、まず神にしたがっていない事柄を裁かなければなりません。さもないと、成功する見込みは全くありません。この士師記の原則が、偉大な活動的・霊的原則にならなければなりません。敵に対抗して出て行って何らかの成功を収めるには、内側の間違いを裁かなければなりません。ですから、士師たちは内側の状態を対処することに取り組みました。これが毎回起きるのを見てください。

ギデオンが選ばれるやいなや、主の御使いは指示して言いました、「勇敢な勇者よ、主があなたと共におられます」。彼はミデアン人を恐れて壁の後で麦を打っている弱虫です!しかし、主はご自身の器を知っておられ、器を得るならそれからどんな器を造れるのかをご存じでした。ギデオンは言いました、「ああ、わが主よ、もし主が私たちと共におられるなら、どうしてこのようなことがすべて私たちに降りかかったのでしょう?」――心を探る問いです。内側で考慮して自分の民の状況について尋ねた結果がわかるでしょうか?その結果、彼は諸々の祭壇を打ち倒し、林を切り倒し、自分の父の家や親族の中にあった偽りの礼拝をすべて滅ぼしたのです。彼は核心を突きました。彼は自分自身の問いに対する答えを見いだしました、士師になるべき人として、彼は自分自身の身内の内側で、神にしたがっていないものを裁かなければなりませんでした。もし影響力のある自分の身近な身内の中にある事柄を裁いていなければ、ギデオンはミデアン人の前で完全に敗北していたでしょう。裁きは神の家から始まらなければなりません。敵が握っているものを清算しなければなりません。何らかの勝利の見込みを持つには、地位と優位性が主の民の群れの内側に確立されなければなりません。

これが士師記です。オテニエル、エホデ、デボラがイスラエルを裁き、その後、状況は主の御心にかなうものになりました。そして、主が彼らと共におられることが明らかになりました。ですから、「士師」というまさにこの称号の原則は、物事が神にしたがっているかどうかを内側で調べることです。神にしたがっていないものをすべて裁かなければなりません。あるいは、少し前に考えた特別な考えに戻ると、私たちの心に対する神の働きかけを私たちは見なければなりません。主は私に何かを示されたでしょうか?私の心に何かについて語られたでしょうか?ある特別な方法で私を導こうとされたでしょうか?ある特定の事柄に関して私の中に疑問を起こされたでしょうか?何らかの事柄で私を訓練されたでしょうか?私はそれをどうするべきでしょうか?それに直ちに向き合って主が要求しておられるものを主に与え、応答し、従い、何の疑問や躊躇もなく主と共に道を進み通さないかぎり、最大の代価を払って主と共に前進しないかぎり、私は行き詰まり、主はその度合いに応じて私から離れてしまわれます。それだけでなく、前進するのを今よりも十倍困難にする実際的な事柄を招来してしまいます。それにより、神が私をその中に置かれた働きの中に邪魔する力が入り込みます。そして、その度合いに応じて、私は全体に影響を及ぼし、神がそれに対して意図された豊かさがそれから奪われてしまいます。

だれでも主と共に前進することに失敗すること、何らかの事柄に関して主に語られたのに尻込みすることは、重大な責任問題です。それは主の誉れを巻き込んで、霊の領域で敵に大きな利益を与えます。敵はその利益を決して取りそこないません。むしろ、その地の諸国民のように、こっそり隠れてそれに基づいて働き始めます。その機会を捉えて、少しずつ、ほとんど気づかれずにその利点を用いて優勢になります。そして間もなく、全く恐ろしいことに、悪の勢力が優位に立って、神の働きと神の民を停止させてしまいます。これを遡って追跡するなら、その隠れた理由が見つかります。どこかの時点でだれかが保留して、主に示されたように進み通さなかったのです。

これらのことを急いで後にするのを私は控えています――ここにいる人の何人かにとってこれは自明かもしれません。これは、直面すべきあなたの人生の過去の何らかの出来事の理由を解き明かすかもしれませんし、あるいは、将来のための警告となるかもしれません。いずれにせよ、これを心に留めてください。

士師記は、霊的弱さとその原因を示す、聖書の中で最も大きな区分です。その原因とは、民が主と共に前進しなかったことです。その地が彼らの前にありました。神は「所有して完全に滅ぼせ」と言われましたが、彼らは「これらのものの中には滅ぼすのが惜しいものもあります……それらを利用して役立てられないでしょうか?」と言いました。その地は肉を表しています。前の章で述べましたが、オテニエルは肉に直面しなければなりませんでしたが、そのどれにおいても何らかの形で肉との戦いがあります。これらの戦いはどれも異なっていました――アマレク人、アモリ人、ペリシテ人、モアブ人、あるいは他の何であれ――何らかの形の肉があります。ある意味において、それらは時としてとても魅力的な形をしていることもありましたし、時として霊の事柄にとてもよく似た、そのまがいものであることもありました。しかし主は、それらを利用可能なものと見なしてはならない、むしろ滅ぼさなければならない、と命じておられました。何の妥協もしてはなりませんでした。

すでに指摘したように、この体系全体の一部を容赦したことが、制限であり征服すべきものである事柄を設立する機会となりました。べテルの人の事例について私たちは述べました。ヨセフの子孫である彼らがべテルを取るためにその都に来た時、主はその都を彼らの手に渡されました――彼らに勝利を保証されました――しかし彼らはそれよりも遥かに低い水準に降りて、この人に「中に入る道を教えてください。そうすれば、私たちはあなたを親切に扱います」と求めました。そして、彼は自分自身を救うために、自分自身の民の中に入って彼らを滅ぼすための道を彼らに教えました。彼は逃げて別の都を建設しました。そのため、対処すべき悪は一つではなく、今や二つになりました。彼はそれを「べテル」と呼びました――それは偽物であり、神の家ではありませんでした。彼らはこの体系のほんの一部を容赦して、それを親切に扱いました。そしてそれにより、神のみこころに明らかに反するものを設立する力を解放してしまいました――利益を得るために、容易な道を取ったのです。私たちは肉の一部を優しく扱い始めてしまいます。なぜなら、それは何かの役に立つからです。そうする時、あなたは何かを解放するのです。それにより、征服するのがいっそう困難な別の何かが設立され、偽りであるもの、本物らしく見えるものが築かれることになります。

敵は言います、「この一歩を踏み出しさえすれば、最も抵抗の少ない道を取りさえすれば、あまり代価を払う必要はありません……。あなた自身の上にあまり問題を招くことはありません……」――主は言われます、「駄目です!一片、一かけらたりとも容赦してはなりません。すべて放棄しなければなりません」。そして、これが力、勝利、支配の道であることが徐々に分かるようになります。それに対して、自分の益になる何かを得るために保とうとしたものは弱さの源となり、私たちから力と勝利を奪います。

これは厳粛な言葉です。この言葉の霊的意義をすべて心に留めようではありませんか。使われている象徴は忘れてください。主は常にたとえで話されました。これらは、ある意味、たとえなのです。主は、「わたしの前におけるあなたの実行はどうですか?」と私たちに言われるでしょう。何事かに関して、何らかの生活方法や習慣に関して、あなたに対する彼のみこころを遅れさせる何かに関して、取るべき一歩に関して、主があなたに語っておられることは何でしょう?ここに一つの民がいます(これを述べるのは悲しいことです)。彼らは聞きましたし、見ました。彼らにとってこれ以上明らかなことは何もありえませんでした。それなのに、彼らは主に対して従順な歩みをしませんでした。神の霊の力の大きさが本来よりも小さかったのは、これが理由の一つではないでしょうか?今この瞬間に至るまで、主が進むように自分を召された道をずっと進んできた、とあなたは確信しているでしょうか?あなたは座して、主と共に清算することができるでしょうか?「主が私に示されたことを、私は彼の恵みによりすべて行ってきました。主の前で未処理の項目は何もありません」と私たちは言えなければなりません。

もし欄外に未処理の項目があるなら、それは停滞を招き、ある力を招き入れます。その力により、二、三週間、二、三か月もすると、それを行うのが百倍困難になります。また、それにより、キリストのからだ全体が影響を受けて何らかの損失を被ることになります。これは厳粛ですが真実です。私たちは前進しそこなうおそれがあります。

この問題に関してパウロのもとに行くことにしましょう。彼はコリント人たちに言いました、「兄弟たちよ、私はあなたたちに対して霊の人に対するようには話すことができず、むしろ肉の人に対するように話しました(中略)私はあなたたちを肉ではなく乳で養いました。あなたたちはそれに耐えられなかったからです。あなたたちそれぞれが『私はパウロにつく、私はアポロにつく』と言っているのは、あなたたちが肉的だからではないでしょうか?」。これらの個人的要素、個人的好み、好き嫌いが入り込むとき、その結果は何でしょう?「私はあなたたちに対して霊の人に対するようには話すことができませんでした」。彼が言わんとしたことが同じ段落に記されています。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことのないものを、神は彼を愛する者たちのために備えてくださいました。しかし、神はそれらを御霊によって私たちに啓示されました」。主は私たちのために、今ここに、主イエスの中にある豊かさを用意してくださいました。キリストの中にある彼の豊かさというカナン生活を用意してくださいました。「なぜならすべての豊かさが主イエスの中に宿っており、あなたたちは彼にあって完成されて(満ち足りて)いるからです」。私たちが今この豊かさの中に入ることを、主は願っておられます。

今、私たちは光の中にある聖徒です。もし光の中にないなら、私たちは光の中にあるようにならなければなりません。私たちが栄光に至る時、そこには光の中にある子らのための嗣業、神を愛する者たちのために用意された嗣業があるでしょう。しかし、「私はあなたたちに対して霊の人に対するようには話すことができません」。そのため、あなたたちは「神が用意してくださったもの」を得ていません。ヘブルの信者たちも同じでした。ヘブル五・十二、「この方については言うべきことがたくさんありますが、私は話すことができません。あなたたちはそれに耐えることができません。なぜなら、あなたたちは時間的には教師になっていなければならないのに、依然としてキリストに関する初歩的原理を教えてもらう必要があるからです。(中略)この方については言うべきことがたくさんありますが、あなたたちはそれらに耐えられません」。なぜでしょう?あなたたちはどこか手前で止まってしまったのです。進み続けなかったのです。コリント人たちとヘブル人たちは成長するのをやめてしまっただけでなく、敵が状況を混乱させる危険性の中にありました。敵はそれをコリントで行っており、ヘブル人の信者たちの間でもしようとしていました。私たちは妥協や保留をせずに進み続けなければなりません。それが全き豊かさの中に入る唯一の安全な道です。私たちは引き下がってはなりません。このような状況を引き起こしたもの、あるいはこのような状況を引き起こそうとしているものは、何でも裁かなければなりません。士師たちが登場しなければなりません。

主は私たちに自分自身を裁く恵みを与えてくださいます。これは絶えず自分自身を分析する病的な内省を意味しません。それは束縛の道です。自己を裁くというこの問題は、すべて主と関係しています。主が示し、語り、要求されたものが何かあるでしょうか?主が知らせてくださったことが何かあるでしょうか?もし主が知らせておられないなら、あなたは安息することができます。あれこれ他のことを行うべきかどうかに関して、あなた自身の霊の中を調べ始めないでください。主を見続けてください。主との接触を保ってください。主が語られたら従ってください。しかし、主が主導権をとるようにしてください。主に主導権をとる機会を与えてください。私たちの霊的生活のすべての重荷を私たちが引き受けるのを、主は望んでおられません。主が私たちに望んでおられるのは、私たちを導くことだけです。それは、私たちが主と共に親密に歩んで、即時の完全な従順という道を維持するためです。「主が私に示されたことは何でも、私は彼の恵みにより、ためらわず熱心に行うよう努めてきました」と言えるなら、私たちは平安・安息・勝利・賛美の状態にあるにちがいありません。ですから、前進して戦いの中に入りなさい。なぜなら、もしあなたが何かを保留したり、主と口論したりしているなら、あなたは決して戦えないからです。

これが述べうる他の一切のことに対する鍵であると思います。これに続くものはみな、その結果にすぎません。主が望んでおられるのは、私たちが徹底的従順によって全く降伏して明け渡すことです。これが特に問題とならない人もいると思います。あなたは主の御顔を見つめて、「拒んだり棚上げしたりしたことを主に示されたものを、私は何も知りません」と言えるでしょう。これは幸いな状態であり、このような状態にあることは可能です。しかし、覚えておいてください。あなたは絶望的状況に遭遇して、その状況に処する方法を知りたくなるかもしれません。

霊的束縛の十中八九は、主と共に神のみこころの中を進み続けることを拒んだ点にまで遡れます。神の人は自分の働きのために徹底的に整えられなければなりません。これがまず第一に課題として私たちの心に臨まなければなりません。そして、私たちは神の御前で自分自身を訓練しなければなりません。しかし、私たちがその中に召されたもののために、彼もまた私たちを備えなければなりません。なぜなら、至る所にいる神の民の霊的状態と私たちは関係しているからです。これらの士師たちはみな、民の状態によって、個人的に厳しい苦しみに遭いました。そして、それによって彼らは士師になることができたのです。主が他の人々を解放するために一人の僕を用いようとされるとき、主はその僕にある個人的な経験を通らせなければなりません。その経験は今日のこの世の状態のように全体の状態に関するものです。主が望んでおられるのは、主の栄光へと至るものを回復することです。主はご自身の御言葉を私たちの心に印象づけなければなりません。