第四章 霊の事柄のための霊的能力

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:黙示録二・八~三・一~六

霊の力の回復に関して主が私たちを導いてこられたこの道について続けることにします。ご存じのように、私たちは私たちの光の大半を士師記から見いだしています。この書は霊的弱さと霊的失敗の書です。それは、主の民が完全に失敗したことを示しています、主が彼らのために備えられたものを、彼らは活かしきれなかったのです。彼らは霊的無能さ、束縛、敗北、圧制の状況の中に陥りました。私たちはこのとても恐ろしい物語――それは長期間にわたりました――から、霊の力の秘訣の幾つかを学ぼうとしています。そして、主が述べようと望んでおられることがこの主題全体の中枢である、と私は感じています。すべてが一つの響き、一つの強調点、一つの点に集約されるのを、それは示しています。

さて、私たちはこの書を調べてきました。士師記を見てきました。主の民に敵対して働く勢力、優勢な悪の勢力を見てきました。これらの状況を対処するために起こされた人々の霊的意義を見ると、すべてを解き明かすものが実は一つだけあります。それは主の絶対的主権と至高性に関わることでした。それは他のすべてを包む一つのものであり、それにより他のすべては説明がつきます。それは、主の民の生活のあらゆる領域、あらゆる細部において、主の絶対的主権と至高性に対する大きな挑戦だったのです。

すでに述べたように、士師記はヨシュア記に続くものであり、この事実によりこの書にはとても大きな意義があります。ヨシュア記に戻ると、ヨシュア記に記されていることはみな、主の完全な主権と絶対的主権を示していることが思い出されます。

申命記の終わりの数章を読むと、徹底的勝利による占領に関する数々の輝かしい預言を見いだします――保証を見いだします。主はすでにすべてを確保しておられ、彼らがなすべきは、主がすでに所有しておられるものを信じる信仰を活用して、その立場に基づいて所有することだけでした。ヨシュア記を開くと、同じ点が強調されていることがわかります。主はそれを御手の中に持っておられます。主はすでにこの状況を完全に支配しておられますし、確かにご自身の敵をすべて徹底的かつ完全に打ち倒されました。彼らがその地に足を踏み入れる前に、主はすでにその地を彼らに与えておられました。彼らが前進するずっと前に、主の主権が高らかに宣言されます。その後、ヨシュアを通して、「これにより、天と地の主があなたたちと共におられることを、あなたたちは知ります。見よ、主の契約の箱があなたたちに先立ってヨルダン川の中へと進みます」(ヨシ三・十~十一)という言葉が発せられます。ご存じのように、これは主イエスが勝利のうちに死の中に入り、それを通過されたことを表しています。とても印象深いことに、これは次のことを暗示します。すなわち、主イエスが死と墓を通って勝利のうちに道を切り拓かれたがゆえに、主の民のために完全な支配が保証されているのです。そして、勝利のうちにその結果を十分かつ決定的に保持しておられる主が、その立場に基づいて彼らと共におられるのです。「これにより、生ける神があなたたちの間におられることを、あなたたちは知ります」(ヨシ三・十)。

「天においても地においてもすべての権威がわたしに与えられています――見よ、わたしは常にあなたたちと共にいます」。主は率先して自らそれを保証してくださいました。彼は状況全体を支配される主です。そして、御言葉を全く疑わない信仰の中で、御言葉に基づいて前進することが、所有する方法です。エリコの周囲を七日間黙って包囲したことは、主の御手の中にある絶対的勝利を、疑わず、ためらわず、議論せずに受け入れたことを表しています。人々は見世物になること、笑われること、この奇妙な振る舞いに関するすべてを受け入れる覚悟をしました。なぜなら、信仰は常に、天然的観点からすると奇妙な馬鹿げた状況、天然の人から極端で風変わりに思われる状況の中に私たちを導くからです。しかし、彼らはそれをすべて受け入れました。「神を信じる」以外なにもしてはならなかった事実、神は状況の支配者であられた事実により、信仰は完成されました。先立ってヨルダン川を渡ったあの箱は、全く首尾よく行くこと、すべては神の中でまた神によってなされることの印でした。

ですから、この勝利の日々の最初からずっと、絶えざる進歩と勝利は、主は主権者であるというこの強調点にかかっていました。そして戦いで勝利を得るために――その戦いに関して彼らはすでに勝利を得ていました――彼らが出て行った時、ひとりの人が抜き身の剣を持ってエリコに向かって立ち、自分は主の軍勢の将として来た、と宣言しました。主の主権、私たちの救いの将であるキリストの将帥権は、彼がすでに征服者だからです。彼は主権により当時責任を担われました。実証されたのは主は主であるという事実、主は主権者であり、その主権は絶対であり、その支配は完全であり、状況全体に対する彼の優位性に関して何の疑いもないという事実でした。主は至高であること、彼は天と地の主であることが、それによって実証されました。それに続く士師記の不幸な結果はみな、この主権に対する反抗、この主権を主の民の間で無に帰そうとする強力な試みを表しています。

主の主権と至高性は、主の民の経験と生活における真の戦場です。これがそれに関係していることです。士師記のすべてはこれによって説明がつきます。この書の中の主の民は、彼に主権を与えるどころではないことがわかります。主の御名は侮辱され、彼の勝利の証しは損なわれています。御旨であるヨシュア記の状況とは別の状況がはびこっています。

神の民に敵対していた様々な勢力、そして彼らを束縛の中に陥らせ、彼らの力を奪い去って、失敗と弱さのこの状況を招いたこれらの勢力に関して、士師記の背景を調べるなら、それらはその民における主の主権を制限するこれらすべての手段や方法を表していることがわかります。これに目を留めなければなりません。この問題の大きな核心は、主の民が主の全き主権の中に立つことです。どうすれば、主の民を主の至高性から引き出したり、あるいはその中に入るのを妨げたりできるのでしょう?これらの勢力を見てください。そうすれば、新約聖書が大いに明らかにしていることに関する旧約の絵図が得られます。

私たちは士師たちの最初であるオテニエルと、圧制を初めて打ち破るために彼が参入した戦いについて述べました。オテニエルはアラムの王であるクシャン・リシャタイムを対処しなければならなかったことを、私たちは見ました。アラムは後にバビロンになりました。また、これは地的・人間的に産出・構築された宗教というバビロンの体系全般を表すことを、私たちは見ました。それはこの書の中に見いだされる最初の圧政的権力であり、これをオテニエルは対処しなければなりませんでした。オテニエルは打倒して、オテニエルの時代の間ずっと、人々は勝利と支配の状況の中にありました。そこには解放と霊の力の回復がありました。

とても単純な解釈により、これがこれまで述べてきたことといかに調和しているのかがわかります。宗教、キリスト教を導入すること――自分のクリスチャン生活を地的水準に落としてそれを人の産物とならせること――ほど、神の民の中の証しに関する神の至高性を難なく損なうために仕組まれたものはほとんどありません。私たちはこれを黙示録の中の諸教会への最初のメッセージである、エペソへのメッセージと関連付けました。ご存じのように、エペソ人への手紙の立場は天上にあります(彼は私たちを天上に座らせてくださいました)そして私たちの所有は天上にあります。嗣業、その地(ヨシュア記!)、キリストのあらゆる霊的祝福は天上にあります。そして、天上における戦いでこの手紙は終わります。

彼のからだである教会の地位はとても高い地位です。教会はその命と豊かさを上から引き出します。これは人からではなく神からです。その地位を人間的操作や人の支配――統治や裁きに関する地的水準――から隔てておかなければなりません。そして、その民のためにすべてを主から得なければなりません。これがエペソ書の立場です。諸教会に対する黙示録の最初のメッセージでは、「あなたがどこから落ちたのか思い出しなさい」という恐ろしい非難が述べられています。天的地位は失われ、彼らはそれより低い水準に落ちました。主は次のような強烈で恐ろしい言葉を述べなければなりません。「とても良い、称賛すべき点もあるかもしれませんが、これは他のどれよりも重大です。なぜなら、そこでは天的・霊的地位が失われたからです」。「あなたは落ちました」。これはあなたがバビロンに来たことを意味します。黙示録を読み進んで、最後の方に近づくと、二つの絵図が並行しています。バビロンを取り扱っている絵図は、平野に、その水準に連れ出されて、そしてバビロンを示された使徒を示しています。次の章では、とても高い山に連れて行かれて、新しいエルサレム――天的なもの――を示される使徒を見ます。バビロン、地のものを見るのに高く上る必要はありません。それが最初に侵入して主権、主の主権の証しを損なったものでした。バビロンの侵入によって彼らは自分たちの天的地位を失いました。彼らは人間的判断の指示に従って行動し、天然的状況に沿って進みました。そして、聖霊は上から、主からすべてを治めてはおられませんでした。

主権の問題は私たちにとって非常に重要な問題です。それは今日の問題です。主の民にとって最大の問題は、主の絶対的かつ完全な主権と卓越性を、御民においてまた御民を通して、表現・顕現させるという問題です。これは私たちがなすべき最大の、最も重要なことです。それは、あらゆる状況やあらゆる問題において、主が絶対的主権の中で切り抜けて、主の民がそれにあずかるという問題です。それはご自身の民の生活の中で顕現・表現される主イエスの絶対的主権です。これによって戦い、圧迫、誘惑、試練はすべて説明がつきます。敵がしようとしているのは、主の主権を失った立場に私たちを引きずりおろすことです。「天においても地においてもすべての権威がわたしに与えられています」という御言葉を私たちは引用しましたし、この御言葉を私たちは神の民のこの世での活動に関してよく引用しますが、この御言葉は今日どれくらい経験・享受されているでしょう?現状はほとんどその逆ではないでしょうか?そこそこ進みますが、その後、敗北して、止まってしまいます。道を徹底的にふさぐ勢力に遭遇します。そして、その地点で敵はあなたを笑います。これは今日、世界中の神の僕たちの多くの物語です。これは霊的な思いを持つ民がそうであることを認めているだけでなく、他の多くの形でこの事実が普遍的に告げられています。

宣伝や、出し物の計画や、人々を教会に引き寄せて教会に来てもらうようにするための取り組みは、一体なぜでしょう?どうにかしてキリスト教を維持するために用いられているこのような膨大な量の事柄はみな、次のことを自ら白状するものであり、自ら暴露するものです。すなわち、霊的失敗を明らかにしているのです。これらすべての背後には、人々は神の要求に応じておらず、主に出会っていないという事実があります。人々を立ち上がらせて注目させるものを教会は持っていないという事実があります。

他の多くの形でも、主イエスの主権は彼の民の中で十分ではない事実が暴露されています。私たちはこれを自分自身の経験から知っています。確かに、私たちは諸々の勢力――それらに対して私たちには何の力もありません――を知っています。自分自身の心の中ではわかっています。ああ、この力強いキリストの力が介入して諸々の状況を対処することが必要です。まさにそのとおりです。天と地における主の権威の行使以外の何ものも、主の民の間の現在の状況を対処できません。功を奏すために彼らが行おうとしていることはみな破綻します。敵に対してイエス・キリストの至高性がもっと十分に表されることが大いに必要です。彼はこの主権をご自身の民とは別に実証しようとはされません。もし彼らが妥協の状態に陥ろうものなら、主イエスの主権は後退します。地の水準に降りたせいで、このすべてが生じたのです。それはバビロンです。それは人の宗教体系であり、地から出た人造のキリスト教です。

キリスト教は今日、大半がこの世からのものです。かつて力があったものは、今日、この世の庇護下にあります……彼らは維持と保持のために、影響力、力、富を持つ人々を求めています。どうにか維持してもらって、進み続けさせてもらうために、この世のものを何でも求めています。彼らはあの束縛の中に陥り、彼らの証しを失いました。有名人に参加してもらって、自分のキリスト教活動を人気あるものにすることが、今日の慣わしです。これがそうであるかぎり、主イエスの至高性に関する真の証しはありません。それはその立場を失いました。この地上、この世のものになりました。ここからオテニエルは開始しました。イスラエルのために彼が直面したのは、原理的にはこれでした。それに続くものはみな、この同じことの別の面にすぎません。

エホデが次に登場します。エホデはエグロンを対処しなければなりませんでしたが、エグロンは同盟の長でした。彼のもとにモアブ、アンモン、アマレク、オテニエルの死後イスラエルを束縛・敗北・弱さの中に陥らせたこれらすべての者たちが集まりました。モアブはロトを通して生じたイスラエルの天然的な親族でした。ロトはアブラハムに従いました。アブラハムは主に従いましたが、ロトはどこでもアブラハムに従いました。しかしついにある日、彼は自分自身の立場を明らかにせざるをえなくなりました。彼は自分自身の足で立たざるをえない地点に追い込まれ、ソドムの方角にあるよく潤った緑地を選びました。この惨めな物語はすべてご存じでしょう。アンモンもロトの長女の子でした――さらに悪いことに――イスラエルと天然的関係にありました。アマレクはエサウから出ました。私たちはエサウの物語を知っています。彼は御霊に属する事柄、神に属する事柄を蔑み、自分の生得権を売りました。ああ、何という分があの生得権の中に含まれていたことか!その後、永遠に、主はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神として知られることになりました。ヤコブがその中に入ったのは、エサウが彼の生得権を売ったからです。イスラエル――神の皇子――となったヤコブの神。エサウはこれを一杯のスープのために売りました。これはみなイスラエルとの肉における天然的関係であり、アブラハムの真の霊的産物ではありません。この信仰の人、神と共に歩んだこの人から直接発したものではありません。それは反対の関係です。これをすべてまとめて、それが何を表すのかを見てください。口先だけで中身がなかったのです。これらのものが入り込みました。それが示唆するところはこの線に沿ったものでした。

さあ、私たちはもともとイスラエルと関係しています。なぜ私たちは滅ぼされなければならないのでしょう?なぜ一緒に暮らしてはいけないのでしょう、なぜ私たちは物を共有してはならないのでしょう?私たちの間にこの天然的つながりがあることがわかります。これは何と巧妙でしょう。今日、教会の不幸は何でしょう?口先だけの者たちと真の信者たちとのつながりや関係――混ざり合った群衆――です。この人々は神の事柄の中に入って来ましたが、新生によってではありません。彼らは肉の経路に沿って入ってきました。そして、彼らは口先だけの何らかの関係を持つがゆえに、自分たちは同じ事柄、同じ神を信じており、同じ関心を持っていると公言します。そして、そのような天然的つながりがあるので、主の民は「ああ、彼らはとても良い人々です。彼らは良い意図を持っています……」と言いました。彼らは、これらの人々が上から生まれているのかどうかについて、問題の根幹に迫りませんでした。

新生の問題は、私たちが理解している以上に遥かに大きな問題です。この問題は神の教会の証し全体に影響を及ぼします。悪魔がしてきたのは、真に上から生まれていない人々を入り込ませることによって、イエス・キリストの主権についての証しを損なうことです。主の民は力を奪われています。これが主イエス・キリストの絶対的卓越性についての証しを滅ぼす敵の方法でした。それは三重の天然的関係であり、これを滅ぼせと主は言われました。

これを言うのは難しいように思われるのですが、たんなる口先だけの者はすべて屠られなければならないという感覚があります。これはもちろん文字どおりの意味ではありません。彼らは十字架に行って屠られ、キリストと共に新しい命の中によみがえらされなければならない、という意味です。あなたは十字架によってとても強く打たれなければなりません。さもないと、証しは損なわれることになります。ローマ人への手紙は救われていない者ではなく信者たちに対して書かれました。ローマ人への手紙の意義はこれに尽きます。もし八章と共に登場する御霊の中にある主権の生活を知ろうとするなら、それを知ることができるのは六章の死の生活を知る時だけです。キリストと共に死ぬこと、これが中に入る道です。

十字架のメッセージは、口先だけの者たちを中身のある者たちから、見せかけを実際からふるい分けるのに必要です。そして、これは今日、多くの人にとってとても厳粛かつ深刻な問題です。肉は十字架につけられることに憤り、死ぬことに憤ります。善良ではあるけれども口先だけのクリスチャンの群衆と共にあなたは長い道のりを行けますが、それはキリストとの一体化が実際的な問題になるまでのことです。その時、戦いが生じます。悪の勢力は全くの不信者たちの中に宿っているのと同じように、口先だけの者たちの中にも宿っています。これは敵の巧妙な活動の一つです。敵は露骨な無信仰によってはそうすることができませんでしたが、「私はあなたたちと同じです」と公言する人々を入り込ませます。しかし、彼らは死んだことが決してなく、キリストと共に十字架につけられることがどういうことか知りませんし、あるいは、自分たちの生活の中で彼の十字架を実際的な形で経験したことがありません。

エホデはこれを対処しなければなりませんでした。彼は太った人であるエグロンを対処しなければなりませんでした。さて、聖書に記されていることにはみな意義があります。エグロンは円もしくは丸いことを意味します。聖書は「さて、エグロンはとても太った人だった」と述べています。とても太った人は、あまり多くのエネルギーを使ったことのない人です(気に障ったらすみません!)。たんなる口先だけの者は、とても自己充足しており、自分のことでいっぱいで真の霊のエネルギーや力に欠ける、という気配を帯びています。それは一種の満ち足りて自己満足・自己充足しているものであり、決してあまり多くのことを行いません。エグロンは彼の夏の部屋で素晴らしい快適な時を過ごしていました。この肉、この満ち足りた、快適で、宗教界の中で自己満足している天然の人が入って来て、神の民を支配します。「円」を意味する彼の名は、口先だけの者は円を描いて進み、決してどこにも辿り着かないことを示唆するように思われます。口先だけの者――これがエグロンです。そしてエホデはこれを、それ自身の立場に基づいて、神の御言葉という両刃の剣を用いて対処しました。そして、口先だけのものと本物とを真っ二つに切り分けるほどに刺し通しました。エホデの名が「告白」を意味するのは興味深いです。彼は口先だけのものに反対しました。この二つの証しの間には大きな違いがあります。その詳細は霊的背景の上にとても多くの光を投じます。

主が私たちに述べようとしておられるのは次のことのように思われます。すなわち、霊の力は主イエスの全き主権の中に立つ問題であり、それをあなたの生活の中で個人的・団体的に知る問題なのです。それに必要不可欠なのは、あなたが主を生き生きとした個人的・実際的方法で知ることであり、あなたの生活がたんなるキリスト教的生活ではなくなることです――あなたがその中にあるのは、その中にいることが良いことだからでも、自分に宗教的傾向があるからそれに興味を持っているからでもなく、その中にいざるをえないからです。あなたはその中に上から生まれたのです。

最も霊的な事柄に関しても、多くの非戦闘員がいるおそれがあります。彼らがその中にいるのは、そこから出るのを恐れているからです。彼らは撤退しようとしません。それは自分に何が起きるのかを恐れているため、あるいはその中に友人がいるため、あるいはそれに個人的関心を持っているため、あるいはそれに全く同意しているためです。主に私たちの心を探ってもらってこう自問しましょう、「なぜ私はこの中にいるのでしょう?私がその中にいるのは、上からその中に入ったからでしょうか?神がご自身に関する強力な経験に基づいて私をその中に置かれたので、それ以外どうしようもないためでしょうか?それは辞めたり、引き下がったり、他の何かに行ったりできるものではなく、私の命なのです」。神がそこに一つの民を獲得される時、彼の主権が宣言される扉が開かれます。とても多くの人々は隅にいて傍観しています。それが正しいのかどうか全く確信がなく、それは完全に安全なのかどうか疑問に思っています。そして、状況を分析しています。これは彼らがその中にいない証拠です。主の主権は、その中におらず、そしてその中に上から入ったことのない人々のせいで、停滞させられるおそれがあります。

私たちは神に属する事柄の中に上から入らなければなりません。協会や運動に加わるようにキリスト教に加わることはできません。そのように神の事柄の中に入ることはできません。「上から入る」という言葉で私が何を言わんとしているのか、あなたは疑問に思っておられるでしょう。私が言わんとしているのは、あなたは死んで葬られ、今や天の側から中に入ったということです。それは開かれた天を通ってであり、あなた自身の心の中にイエス・キリストが啓示されるという方法によってです。これはあなたにとって地的事柄では全くありません。その起源は天にあります。

もう一つの点は、私たちは十字架の道によりクリスチャンの男性や女性を得ることに懸命にならなければならないということです。この肉の働きはすべて、この主権の証しを麻痺させます。なぜなら、それは天的ではないものを生み出すからです。それがこの地上にあります。あなたが得たのは口先だけの言葉でしょうか、それとも中身のある言葉でしょうか?エホデ、デボラ、バラク、ギデオン、エフタと最後のサムソンは、同じことを別の角度から示します。デボラとバラクはハゾルの王であるヤビンに立ち向かいました。ハゾルの王ヤビンとその軍勢の長であるシセラに、デボラとバラクは直面しなければなりませんでした。なぜなら、彼らがイスラエルを支配していたからです。私たちは解放の器たちについて十分に見ることはしませんが、束縛と弱さを招いたものを見ることにします。それで、この箇所はハゾルの王ヤビンを示しています。ヤビンは「理解力」を意味します。霊的束縛の中に陥ることについて考えているのに、これは奇妙な名前です。なぜなら、霊的理解は解放の道だからです。方角に関する聖書の予型では、南は太陽の道であり、北は暗闇の道です。ヤビンは北から来ます。そして、彼の名は「理解力」です。「理解力を暗くされて」いましたが、それでも自分には素晴らしい理解力があると信じていたのです。コリントの問題はこれに尽きました。パウロは言いました、「私はあなたたちに対して霊の人に対するように話すことができず、むしろ赤子に対して話すように話しました。私はあなたたちを乳で養いました」。なぜでしょう?この世の知恵と、天然の人の知恵と理解力のせいです。

私の過去の生活、務めの年月を振り返ると、とても熱心で、とても献身的でしたが、あまりにも力に欠けていました…それは「知的な」務めでした。(どうか誤解しないでください。私は自分の知性について述べているのではなく、務めの大部分は「頭の中の知識」だったということです。)私は哲学や心理学に長けており、これをみな務めの中に持ち込みました。私は詩や文学を大いに引用できましたが、その霊的衝撃力は「あなたは私の言っていることがわかりますか?」というものでした。それは前に述べた霊的知識・霊的知性・啓示や、知恵と啓示の霊とは正反対でした。

さて、ヤビンは北から来て、その名は「理解力」を意味しました。彼はイスラエルを束縛の中に陥らせました。あなたたちが自分の頭脳を霊の事柄の中に投影して、霊の事柄を天然的理解力によって把握しようとするやいなや、あなたたちは敗北し、束縛の中に陥り、弱められ、麻痺します。あなたたちはいつも霊の事柄を知的に把握しようとしています。あなたたちの頭脳をその中に投入しようとしています。しかし、あなたたちに欠けているのは、聖霊が突然あなたの心の中に一条の光を射し込ませてくださり、「それについてはすっかりわかりました」と言えるようになることです。あなたたちは常に自分の頭脳に捕われてきました。あなたたちの天然的な知性を屠りなさい――天然的な知性を十字架につけなさい。「さて天然の人は神の霊の事柄を受け入れません。それらは彼には愚かなものだからです。また、それらを知ることもできません。なぜなら、それらは霊的に理解されるものだからです」。「しかし、霊の人はすべてのことを理解しますが、自分自身はだれからも判断されません」。主イエスが謎だったのと同じように、霊の人も謎です。「この人は学んだことがないのに、どこでこの知識を得たのでしょう?」。ナザレ出身の人である彼は、宮に上って行って、エルサレムの宮で教え始められました。そこには秘密の知識がありました。その知識は奥義であり、決して学校や知的思考では得られません。それは神との交わりという方法で臨みます。そして、御霊によるこの啓示は強力です。最も単純なクリスチャンでもそれを得ることができます。それは年の問題ではありません。とても若くても、とても幸いな方法で主を知ることができるのです。

ある人が救われて、二、三週間後には、救われて四十年の人よりも遥か先に進んでいるのを目にすることもありえます。それは主との、そして神の事柄の現実との、あの生き生きとした交わりによります。あなたの成長を大いに遅らせ続けるものは知的理解です。「この時代の神が知性を盲目にして、光が……」。それは霊的理解力の問題であり、それに対して地獄の全勢力が抵抗している問題です。なぜなら、それは敵の数々の働きを滅ぼす強力な要素だからです。ヤビンを滅ぼさなければなりません。そして、バラクの助けによりデボラがこれを行います。天然的知性はあなたを束縛の中に陥らせて、あなたから霊の力を奪うおそれがあります。天然的知性は十字架に行かなければなりません。そして、私たちは霊の事柄のための霊的能力を得なければなりません。もしあなたがこれを頭で理解しようとするなら、頭が痛くなるでしょう。「これを私の霊の中に示してください」と主に求めるなら、それによってあなたは解放されて、主イエスの主権が見える所に導かれるでしょう。

私はミデアン人を対処しなければなりません。今日、彼らは私たちの大問題の一つです。ギデオンはミデアン人を対処しました。彼らは、多くの言葉でイスラエルを呪いの下に陥らせるために、バラムを雇いました。イスラエルは主の力と栄光の中にありました。旧約聖書に記されている麗しい事柄の一つは、神がバラムに強制的に言わせたことです。彼の口が発したのはとても素晴らしいことでしたが、その実現を彼は望みませんでした。しかし、イスラエルを呪って、それで主の栄光を損なうためにバラムを雇ったのはミデアン人でした。この直接的呪いは失敗しましたが、あなたはこの物語をご存じでしょう。バラムの心は現在の上に定まっており、そこで彼はイスラエルに姦淫を犯すことを教えました。つまり、周囲の諸国民と同盟を結ぶことです。この世との同盟――これが霊的姦淫の意味です。その結果、イスラエルは倒れて彼らの証しを失いました。ミデアンはこの世と世的同盟を表しています。とても奇妙なことに、ミデアンという名は「争い」を意味します。これまで、神の民とこの世との間の同盟が大半の争いの大きなきっかけだったのではないでしょうか?神の民の間にこの世のものを導入するなら、まもなく混乱や争いが生じます。全く主から出ている美点があったとしても、もしだれかが少しでもこの世的なものを導入するなら、まもなくそれはすべてバラバラに引き裂かれてしまいます。今日、この争いはこの一事によります。この世は常に神からのものの中に入り込もうとします。だれかが世的方針、世的方法、世的手段、世的判断を持ち込むと、主のもとに行ってそうした一切のことについて主に信頼する代わりに、それらを受け入れてしまいます。もし世的な方針が導入されるなら、それは引き裂かれて、争いが生じます。これがミデアンです。

あなたはどうするつもりでしょう?主を確かに知っており、私たちよりもずっと長く主と共に歩んできたこれらの親愛なる神の民が、それでも世的な要素を含むものに逸れていくのを見るのは、とても辛いことです。私たちは妥協するのでしょうか?

ペテロはパウロのだいぶ前に救われました。ペテロは主が肉体の中におられた日々、主と共に歩みました。ペテロは十字架につけられ、復活し、天に迎えられたキリストを見ました。ペテロはペンテコステと聖霊降臨の場に居合わせて、聖霊の力の中で宣べ伝えました。彼は大群衆の救いに用いられました。ペテロは教会の柱の一人です。しかしガラテヤ人の手紙を開いて読み始めると、ずっと後に登場したパウロがこう述べています、「ペテロが下って来た時、私は面と向かって彼に抗議しました(中略)なぜなら、ある人々がエルサレムから下って来る前は、彼も中に入って異邦人たちと共に食事をしていたのに、ヤコブと他の数人がやってきたら退いたからです」。妥協です。名声のための妥協、兄弟たちにどう思われるのかを気にするがゆえの妥協です!パウロは「私は面と向かって彼に抗議しました」と述べています。ここに比較的信仰の若い人がいて、妥協せず、使徒たちの長の一人に抗議します。これは年の問題ではありません。原則の問題です。人々がどれだけ長くこの道にあったかではなく、偶像を避ける問題です。彼らは「私たちはあなたよりも主をよく知っています」と言いますが、それが原則の問題なのかどうかを決して気にしません。あなたは人から色々なことを思われる危険を冒さなければなりませんが、自分の立場に立たなければなりません。何があっても、どんな代価を払っても、この世の何ものも中に入れてはなりません。

ハゾルの王であるヤビンを打ちなさい。今日、この働きをするギデオンたちを主は起こさなければなりません。これらのものはみな、霊の事柄の領域の中に入って来て支配する天然の命の何らかの様相や面を表しています。それは霊の力を損ない、彼の民における主イエスの絶対的至高性に対して直接反対します。多くの争点があるかもしれませんが、決定的な一つの問題は「誰が主になるのか?イエス・キリストか、それともこの世の神か?」ということです。興味深いことに、コリント人たちに対してこの両方のことが述べられています。「この世の神が盲目にしました」……「私たちはイエス・キリストを主として宣べ伝えます」。これらがその結果であり、次のような根拠に基づいて決着がつきます。すなわち、肉とこの世という天然的要素、天然的理解力や天然的知性が、どれだけ徹底的に屠られて、私たち自身がどれだけ無に帰すための道具となったのか、という根拠です。どうか私たちがそのような道具となりますように。