第五章 主を私たちの命として知る

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:士師記六・二四、ヘブル十三・二〇~二一、黙示録二・十四、十七、一ヨハネ二・十四~十七、一ヨハネ四・四~六、ヨハネ五・四~五

この特別集会では霊の力の回復の問題に専念してきました。聖書的には、その背景の大半は士師記です。この書を網羅したわけでは決してありませんが、それでもここには霊の力の回復というこの大問題に関する主の民への教えが多くあります。しかし今、主はこの書の一つの箇所に私たちを専念させようとしておられるように感じます。それは六章と七章のギデオンに関する箇所についてです。

この士師記は霊的弱さと失敗の書であることを私たちは見てきました。そこに示されている主の民の失敗と弱さから、弱さの原因は何か、したがって力の秘訣は何かを、私たちは学びます。さて、ギデオンに関してこの問題全体を取り上げるのはほぼ不可能です。私たちはごく少数の点で満足しなければなりません。しかし、それらの点は私たちにとってとても大きな益になると私は信じています。

四章ではギデオンとミデアン人について述べました。そして、ミデアン人の歴史は御民の間で神に属する事柄に干渉するこの世の歴史を示している、と述べました。繰り返させてもらうと、ミデアン人がモアブ人と共にバラムを雇いました。それはイスラエル人を呪い、それによって彼らを束縛・敗北・麻痺・弱さ・恥辱の状態の下に陥らせるためでした。これは直接的方法では成就しませんでしたが、間接的方法で最終的に成功しました。バラムは呪うのではなく祝福するよう強いられましたが、霊的姦淫を犯すようイスラエルをそそのかすことによって同じ成果をあげました。つまり、周りの諸国民と宗教的に同盟を組むようそそのかしたのです。ですから、バラム主義とはこの世が神の事柄と関係を持つのを許すこと、神の民がこの世との交わりや関係の中に入るのを許すことです。これがおそらく何ものにもまして神の民を霊的弱さの中に陥らせたものです。見識のある人ならだれでも、次のことがはっきりとわかります。すなわち、神の民を麻痺させる敵の一大戦略は、これまでずっと、何らかの方法や何らかの形で、彼らとこの世の間にある関係を生じさせることだったのです。彼らがこの世との交わりの中に入る時、彼らの力は損なわれ、自由は奪われます。そして、彼らは自分たちが麻痺的束縛の中にあることに気づきます。

これに関する主ご自身の御心が何か、私たちは読みました。ヨハネはこの御心をとてもはっきりと私たちに示します。この世からのもの、あるいはこの世にあるもの、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢はみな、この世からであり、神に敵対しています。これはミデアン人でありバラム主義です、これこそが、先ほど黙示録から読んだこの教会に対する「あなたのところにはバラムの教えを教える者たちがいる」という重大な非難を招いたものです。もっと簡単に言い換えると、次のようになります。すなわち、そこには世的方法、世的手段・供給源、世的方針を神の事柄の領域の中に、そして神の民の間の中に導入する人々がいたのです。

まさにこの点に関して、私たちはみな、理解している以上に遥かに狡猾な攻撃を受けています。これは醜悪な俗っぽさを導入する問題であるだけではありません。時として、世的な知恵を少しばかり導入する問題でもあります。例えば、決定を下すとき、全く聖霊からのものではないのに、私たちは人の標準的な価値観や判断を用いてしまいます。また、時として私たちは、利益を得るために、抵抗の少ない道を取るよう誘惑されます。圧迫、逆境、試練の日に、あらゆることで主に信頼する高い立場から降りて、その状況に処するために主にすがらないのです。その代わりに、私たちはその状況に処する都合の良い道に向かってしまいます……これはご都合主義であり、切り抜けるために人間的交渉、支援、肉の煽動に少しばかり向かうことです。これはみなこの世の霊であり、時々とても巧妙な方法で働きます。そして、それが道を指図したり、決定を支配する時、妥協の状態が生じます。この状況では、聖霊はなすすべもなく引き下がっていなければならず、私たちがそれに取り組むままにされます。そして、私たちは自分たちが恐ろしい束縛と霊的弱さの中にあることに気づきます。この誘惑によって、今日、主の民の大勢が打ち負かされています。

今日の状況はまさにこのような類のことで穴だらけです――偉大な僕たちが神によって起こされ、用いられます。それらの僕たちは全く神からであり、信仰の人、信仰の僕であって、神の力と神の信仰を証しします。それは神に信頼することによってであり、助けを求めて肉や世に決して頼りません。この人々はまさにこの線に沿って攻撃を受けつつあり、彼らの高い立場から降りつつあります。訴えをし始めて、自分たちの必要をあらゆる方面に知らせ、支援や名声を得ようとし始めつつあります……これをあなたはすっかりご存じでしょう。これは霊の命を麻痺させるものの侵入を表しています。あらゆる領域とあらゆる事柄における神の絶対的主権の証しを損なうために、敵は巧妙に行動しています。それはご自身の道を進む神の主権を損なうためです。

これがミデアン人の正体であり、あなたがこの問題に取り組む時、ミデアン人が顕わになります。ミデアン人に関して何と多く述べられていることでしょう。彼らがその国を制圧していたのです!彼らは砂やイナゴのような大群でした。彼らはすべてを食い尽くしました……まさに神の食物をも食い尽くしました。そしてこの箇所で、ギデオンはミデアン人を恐れるがゆえに、壁の後に少しの穀物を貯えて、それをぶどう絞り場に隠そうとしています。なぜこのような霊的飢饉があるのでしょう?なぜこれほど食糧問題が深刻で、至る所で人々は「私たちは霊の糧を得られません。みな抜け殻で、イナゴが食い尽くしてしまいました」と言っているのでしょう?これはこの世が神の民の間で神の事柄を牛耳っている必然的結果です。

教会はこの世によって捕われ、この世によって穴だらけにされてきました。教会はこの世とその供給源に頼っています。その結果、食物はなくなりました。私たちは、今日の私たちの周囲の状況の性質を理解しなければなりません。人々は霊の糧に飢えています。これを理解することと、その理由を知ることとは別問題です。その理由を知らなければ、それを扱うことはできません。それは主がご自身の民の全き分ではないためです。ですから、主が絶対的にご自身の民の分である地点、主が全き分であって主以外の何も見ない地点に立ち返らなければなりません。そして主がすべてとなってご自身の地位を得られる時、あなたは十分な栄養を受けて養われ、主はご自身の権益を顧みることができるようになります。ミデアン人はすべてを食い尽くします。彼らはあの巧妙な関係を表しています。それは、主ではなくこの世を見ることであり、主の事柄に関して主ではなく他の供給源を当てにすることです。その結果は霊的弱さです。これはあなたをギデオンの件に導きます。

ギデオンの箇所に来ると、主は言わば壁の後にやって来て、木の下に座し、ギデオンがミデアン人から少しの食物を保とうとして隠れて働いているのをご覧になります。その後、彼はギデオンに「勇敢な勇者よ、主はあなたと共におられます」というきわめて驚くべき言葉を語られます!彼は到底勇者などではありませんでした。「私は私の父の家で最も小さな者です……」。彼は試されて、彼の父の偶像、画像、林を破壊するよう命じられた時、それを夜に行いました。それを昼に行うのが怖かったからです。その後、彼は行動する前に神を三回試しました。勇敢な勇者!これから私は大きな慰めを受けます。

今日、主はギデオンのような僕を欲しておられます。というのは、主はありのままのギデオンではなく、これから主が造り変えようとしているギデオンを召されたからです。主はギデオンのことを、彼の中におけるご自身の取り扱いと活動の成果としてご覧になりました。主は彼のことを、将来勇敢な勇者になる者としてご覧になったのであり、当時の彼をご覧になったのではありません。ペテロにも全く同じことが起きました。「あなたはシモンです。あなたはペテロと呼ばれることになります」。「あなたはペテロです。この岩の上に……」――この言葉を語られた後、ペテロは誓いと呪いをもって主を否み、女中に立ち向かうことすらできませんでした!ペトロスすなわち岩なのにです。主がご覧になっていたのはありのままのペテロではなく、彼を取り扱った後の彼の姿だったのです。

主は無であるものをまるで有るかのように召されます。主はこの人の中に聖霊のエネルギーの可能性をご覧になりました。そこで生来の彼の性質にしたがってではなく、ご自身の恵みと力にしたがって彼を召されました。私たち全員に望みがあります。「勇敢な勇者よ、主はあなたと共におられます」――これは生来のあなたや私のことではありません。主が私たちに対してご自身の道を獲得された時のあなたや私のことです。さて、これはいつ起きたのでしょう?「そして主の霊がギデオンの上に臨んだ」――そしてその後これが始まりました。大事なのは私たちがいかなる者かではなく、聖霊がいかなる方かです。聖霊が来臨される時、事が起きます。これが力の秘訣です。力は私たちと共にではなく、主と共にあります。

さて、次の出来事はギデオンが問いを発したことであることに気づきます。それは麗しい問いです。それは議論のように聞こえます。「主が私たちと共におられるなら、どうしてこのようなことが私たちに降りかかったのでしょう?」。ここで言葉が一つ変わっているのがわかるでしょうか?どうしてこのようなことが「私」にではなく「私たち」に降りかかったのでしょう。この意義がわかったでしょうか?ギデオンは自分自身に生きていたのではありませんし、自分自身のために生きていたのでもありませんでした。彼は彼の民と密接に苦難を共にしていたのです。神の民と密接に苦難を共にしないかぎり、神に用いられる僕には決してなれません。ご自身の民から離れて立って彼らを攻撃するような僕を神は用いられません。ダニエルの務めを得たければ、彼の重荷を負わなければなりません。エズラの務めを得たければ、彼が持っていた情熱を持たなければなりません。彼は状況のゆえに心から苦しんで、神の前で顔を伏せました。彼は主の民の霊的状態を案じていたのです。

主が得ようとしておられるのは、離れたところに置いて方々のご自身の民の霊的状態をこきおろすためのものではなく、共に苦しむことによって彼らを助けるものです。この僕は彼らを心に留めます。自惚れに注意しなさい。何らかの経験のゆえに「自分は他の人たちよりもましである」と考えて、彼らがあるべき所にないという理由で他の人々を「攻撃」し始めてはなりません。神の御言葉を最初から最後まで見るなら、この原則が続いていることがわかります。すなわち、ご自身の民の状況を対処するために神が僕を起こされる時は常に、その僕は恐ろしく苦しむのです。エゼキエルは「彼らが座していた所に座し」ました。状況に接してそれに圧倒される人は損害を被ります。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、パウロはみなこの域に達しました。パウロは言いました、「私は私の兄弟たちのためなら、自分自身が呪われることを望みます」。彼らをこきおろすのではなく、彼らの苦しみの中で苦しみます。彼は状況に深く触れます。このような類の僕を主は得なければなりません。すなわち、ありのままの状況に同情しつつ交わりを持つ人です。

これが主に対するギデオンの返答でした。霊の力の回復の問題では、私たちは進みながら断片を拾い集めなければなりません。これがその道です。その後、信仰を構成する神の働きが始まりました。それはギデオンを神の御心どおりの地点に導くためです。神の御心では、彼は勇敢な勇者でした。しかし、彼自身はそうではありませんでした。そこで、彼が神の御思いどおりの者になる過程が始まりました。そして、それは信仰が構成される過程であり、彼の将来の務めの間ずっと彼がその上に立つべき信仰の基礎でした。というのは、霊的にはびこっていた東方の民の手からギデオンがイスラエルを解放したのは、強力な信仰に基づいていたことがわかるからです。

ヘブル十一章「私はさらに何を言いましょうか。ギデオン、バラク等々について述べるには時間が足りません。彼らは信仰を通して……」。それはこのような類の信仰です。そして、構成されなければならなかったのは、神を信じる信仰でした。それは、この事柄、この強大な勢力を力強く投げ倒し、絡みついて麻痺させるこの世とその圧政から主の民を解放するためでした。これが世に打ち勝つ勝利、すなわち私たちの信仰です。そのような信仰を構成するには、深刻な経験の道を通らなければなりません。これらの士師たちはみな、イスラエルを解放できる地点に到達するために、ある経験を通らなければなりませんでした。弱さの時代に、解放の務めや霊の力の秘訣を見いだすには、神があなたを通らせる深刻な経験が必要です。その経験の中で、そしてその経験によって、あなたは神に信頼することを学びます。信仰の何たるかを学びます。私たちの多くにとって、それは長引いているものであり、ギデオンに対する単純な試練によって示されています。これらの試練を見る時、三つの点に気をつけてください。

第一に、彼のいけにえです。彼の祭壇が築かれ、その上に彼のいけにえが置かれました。そして、主の御使いがそれに触れると、それは燃やし尽くされて、火の中で上って行きました。ここでギデオンは自分を主にささげて、主が自分を受け入れてくださったことを自ら目撃します。この贈物は、自分自身を主にささげる贈物・行為を表していました。「ですから、兄弟たちよ、神のあわれみによってあなたたちに懇願します。どうかあなたたちの体を、神に受け入れられる、聖なる、生きたいけにえとしてささげなさい」(ロマ十二・一)。すべてが焼き尽くされて主に届きました。そして、あなたは主のものであり、主に受け入れられたという証しがなされます。ギデオンが彼のいけにえを持ってきた時、彼の試練は、主は受け入れてくださるのか、そして、受け入れたことを主は示してくださるのか、ということでした。これが彼の信仰を構成する第一段階です。この原則は次のように有効です。すなわち、神の力の中であなたが自分の務めに踏み出す前に、主は喜んで自分を受け入れてくださるという保証を、あなたは自分の心の中に得なければならないのです。

主イエスはヨルダン川を通って、ご自身をささげられました。型として、ヨルダン川で御父に全焼の供え物をささげられたのです。死、葬り、復活の中でです。マルコによる福音書は「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と述べています。ルカとマタイは「これはわたしの愛する子」と述べています。この変化は意義深いです。なぜなら、マルコでは重点は主の僕だからです。この僕が力ある神聖な奉仕に踏み出す前に、自分は神に受け入れられているという証しを彼は得なければなりません。そして次に、その奉仕の結果、主は喜んでおられるがゆえに、他の人々の注意をその御方に引きます。これがギデオンに見られます。まず第一に、彼がしたことのゆえに人々は彼を殺そうとしました。彼は自分の供え物を主にささげて、主は喜んでおられるという証しを得ました。そしてその後、彼を殺そうとした人々ですら彼の下に集まりました。まるで主がこの人に注意を引かれたかのようです。神が彼を受け入れられたので、彼らは彼を受け入れなければなりませんでした。

弱さの時代にあって、次のことに決着がついていないなら、私たちは神にとって何の役にも立ちません。すなわち、キリストは復活されたこと、神はキリストのゆえに私たちを受け入れてくださったこと、この愛されている御方にあって私たちは愛されていることです。とても多くの人は依然としてこれを確信していません。主は自分たちを大いに喜んでいて本当に自分たちを愛してくださっているのか、それとも、主は自分たちに敵対しておられるのか、彼らは戸惑っています。そして、主はそもそも自分たちを喜んでおられるのかどうかに関して、彼らは絶え間ない恐るべき内省の中を堂々巡りしています。彼らは束縛の中にあり、他の魂を解放するために手を上げることができません。大事なのは私たちがいかなる者なのかではなく、神の恵みは私たちをいかなる者にできるのかです。神の恵みのゆえに、私たちは愛されている御方にあって受け入れられています。神はキリストのゆえに私たちを受け入れてくださいました。そして私たちの欠け目はみな、キリストのパースンによって埋め合わされています。彼は私たちの十全性となって、是認の明確な証拠をもって神の御前に立つ立場を私たちに与えてくださいました。これはみな恵みによります。私たちがいかなる者なのかにはよりません。もし私たちが自分自身を全く主にささげるなら(あなたはそうしましたか?)、主は御子の完全性をすべてもたらし、それらを私たちの口座に繰り入れて、御子のゆえに私たちは愛されている御方にあって受け入れられていることの保証を私たちに与えてくださいます。これに決着をつけなさい、そうすればさらなる一歩を踏み出すことができます。これに決着をつけないかぎり、あなたは弱さ、束縛、敗北、無力さの中にあります。ですから彼は自分の供え物を、神に受け入れられるかどうかの試金石として、主にささげました。これが彼の訓練の第一段階でした。その時、彼は主を少しばかり信じたのです!

二番目と三番目の試練は羊毛に関してでした。ほとんどの人はこの羊毛の件を誤解しています。あなたは人々が自分たちの羊毛で「主を試そう」と言うのを耳にしてきました。しかし、神はそれよりもずっと適切な根拠を私たちに与えてくださっています。それは主を辱めることですが、この羊毛の件には無限の価値があります。まず第一に彼は言いました、「この羊毛を外に置くことにします。その上にだけ露が下りて、周囲はすべて乾いているようにしてください」。主は彼の吟味を受け入れました。朝、地面は乾いていましたが、羊毛を絞ると桶は露で一杯になりました。次の夜、彼は言いました、「主よ、さらに吟味することをお許しください」。主は再び恵み深くあられました。彼は信仰を構成されつつあったのです。彼はギデオンが求めたことを行われました。翌朝、羊毛は乾いていましたが、周囲の地面はすべて湿っていました。これらの吟味で、ギデオンが祭壇を築いていけにえをささげ、その場所の名を「エホバ・シャローム」すなわちエホバは平和であると呼んだことに注意してください。

ギデオンの状況を説明するためにヘブル十三・二〇~二一を見てください。パウロはギデオンの羊毛について説明しています。彼はそれを主イエスの死、葬り、復活と関連付けて見事に説明します。この羊毛はいけにえの皮です。あの小羊たる方は屠られて剥ぎ取られました。それは祭壇と関係しています。主イエスの死と復活という理由により、パウロの生涯に何かが起きました。それは二つの面で天然に全く反するものであり、神の絶対的至高性を永遠に証しするものです。「それは、それによってイエスが死を征服された命が、私の死すべき体に現わされるためです」――これが一つの面です。もう一つの面は「ですから死は私たちの中に働き、命はあなたたちの中に働きます」です。それによってイエスが死を征服された命は、私の死すべき体に現わされることができます。周りはすべて死ですが、内側は命です。死に勝利しています。乾きと死が外側を支配していても、死のただ中で私たちは命の中にあります。これに基づいてギデオンは出て行きました――すなわち、主イエスの復活がこの僕、道具、器の中で新たな現実となる奇跡です。死が周囲の至る所にありましたが、彼の復活の強力な力が内的・経験的なものになったのです。パウロの生涯を辿って、これがそうかどうか見てください。彼は述べています、「私たちは生きる望みすら失いました(中略)それは私たちが自分自身にではなく、死者をよみがえらせる神に信頼するためでした」(二コリ一・八、九)。この人は、死が至る所にあって、死が襲撃しているときも、復活の命の盈満によって生ける証しとなります。これが霊の力の秘訣です。私たちは状況の一部ではなく、それとは別です。死が私たちの周囲の至る所にありますが、私たちは彼の復活の力によって生きます。この真理は聖書全体を貫いています。それは神が信仰を建て上げる原則です。

信仰によってエノクはいなくなりました、神が彼を取られたのです。この御言葉がどこに出てくるのかご存じでしょうか?「何某は死んでその父祖たちと共に葬られた」という単調な文が続く長い章の中です。先に進んで行くと、「エノクは神と共に歩み、そしていなくなった」(創五・二四)という御言葉に行き着きます。神は復活、昇天の命の証しとして、死の普遍的支配に介入されました。ギデオンは「神は自分の内におられる」という彼の信仰を構成してもらわなければなりませんでした――それは勝利する命の強力な力であり、原則的に彼はそれに基づいて勝利しました。これは主を試すためにあなたの羊毛を置くのとは違います。これは、あなたの周囲のすべてが死である時に、彼の復活の力を証明することです。死の環境の中に飲み込まれ、巻き込まれても、あなたの中で死を征服された生ける主のゆえに、あなたはそれを絞り出すことができます!勝利の命です。「死は私たちの中に働きますが、命はあなたたちの中に働きます」。これは矛盾のように聞こえますが、彼が述べているのはこういうことです。すなわち、私たちは絶えず苦しみ、試練や困難を経過し、死が働いていたとしても、実は私たちの苦難は周囲全体に命を生じさせつつあるのです。内側には乾きがありますが、外側には命があります。時として「自分は乾ききっている」とあなたが感じる時に、他の人々は最大の祝福を受けます。私たちに臨む苦難は、結局のところ、まさにキリストのからだの命となります。それは天然とは逆です。すべてが神からです。

この羊毛は乾いています。つまり、苦難に遭い、死を大いに経験しています。しかし、そういったすべての苦難、死の働きのゆえに、周囲はすべて命です。エホバ・シャローム、「平和の神、すなわち、永遠の契約の血による羊の大牧者である私たちの主イエスを死者の中から引き上げた方が、ご自身の目に喜ばしいことをあなたたちの中で行い、みこころを行うために、あらゆる良いわざをもって、あなたたちを完成してくださいますように」――これが信仰の基礎です。これについて幾らか知るようになる時、あなたは力の内的秘訣を得ます。「自分たちの羊毛を置くことの意味は、鳥たちがある仕方でさえずったら、明日は何か特別なことをしようということである」「状況が特定の方向に進むなら、自分のなすべきことがわかる」と人々は思っているようです。しかし、それは劣ったものに基づいています。すなわち、主イエスの力強い復活が信者の生活の中で現実化されることよりも劣ったものに基づいています。それは神の御子の信仰です。それは強力です。ギデオンはそれを原理上得ました。彼は神の働き――それはどんな場合も天然の逆です――を見ました。死んでいて当然の時に、あなたは生きます!これは天然の命とは別の命です。それはまさに神の命です!これを経験する時、あなたは戦いに出て行けるようになります。問題は決着済みです。

主が得なければならないのは、ご自身の民に関するこの内的なものです。彼らが彼を知るとき、彼はまさに彼らの内側の命となられます。そして苦難によって彼らが死の中に飲み込まれつつあるかのように思われる時、主は依然として生きておられ、それで終わりではないこと、むしろ、主は苦難を通して偉業をなせることを彼らは知ります。時々私たちは「私たちは精力的でなければならない」と考えましたが、私たちが最も衰退している時に神は最も大きなことを行われることを見いだしました。私たちが最も蔑まれていた時、主は最も大きなことを行うことができました。神が天然のものではない命の力の中で働いておられたのです。それは主です。ギデオンの器とともしびが何かわかります――内側の啓示です。すでに見たように、パウロはそれを私たちのために説明しています。主は土の器の中の宝です。「神は私たちの心の中を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光を与えてくださいました」(二コリ四・六)。私たちは、パウロがダマスコ路で見たような、復活したイエス・キリスト、私たちの心を照らす栄光のイエス・キリストのあの啓示を入れる土の器です。その時、ミデアン人に勝ち目はありません。

この砕かれやすい心、砕かれた心という美徳は、ギデオンの場合、とても重要な要素です。パウロは言います、「ですから、私たちはキリスト(あわれみ)を受けて、この務めを得ているのですから、落胆しません(中略)たとえ私たちの外なる人は滅びつつあっても(中略)」。たとえ器が壊れつつあっても、新しい人は日毎に新しくされつつあります。たとえ天然の人は破れ、自分自身がますます減少していっても、私たちが砕かれやすく、そして砕かれる時、主はますます多くのことを行えるようになります。彼はこのような砕かれた人を必要としておられます。砕かれやすい心と砕かれた心は神に機会を与えます。私たち自身が何者なのかではありません。人自身については「勇敢な勇者よ」とは決して言えません。大事なのはその人が主にあって何者なのかであり、その人自身が何者なのかではありません。彼は脆い土の器であり、しかも壊れた器です。力が損なわれるのは、主がすべてとなるためです。これが霊の力の秘訣です。主は私たちを霊的にそこに導いてくださり、御力の何たるかを私たちに知らせてくださいます。それは私たちが弱い時に、これらの外的要素の普遍的な圧政と支配を滅ぼすための道具として構成されるためです。

この世の君が治めているのではなくイエス・キリストが主である、という証しがこの地上になければなりません。主の民のすべての団体は「間隙」です。神の子はみな、「この世の君」の普遍的支配の中の間隙です。あなたはそうでしょうか?この時代の神、この世の君は普遍的に支配しているわけではないことを示して宣言するために、私は立っているでしょうか、あなたは立っているでしょうか?それには代価が必要です。あなたたちはこれを知っています。しかし、あなたたちは互いに傍観しあうおそれがあります。これについて考えて、「自分たちはどん底を通って来た」と言う人もいれば、「神は失敗したのであり、自分たちが主のために求めたものはみな別の道を行ってしまった」と思っている人もいます。信仰がひどく動揺させられる時や、人には耐えられない時でも神には何ができるのかについての証しがひどく動揺させられる時もありました。私たちは並々ならぬ経験を通ります。この世の人の信仰は、あなたや私が通る経験を通りません。

もし人間的理屈の領域に進み入るなら、私たちはもはや神を信じられなくなるでしょう。自然に、もはや神に信頼できなくなるでしょう。しかし、主は信頼できないので手を切るようあなたがひどく試みられた時、神はあなたを切り抜けさせてくださいました。私は厳しすぎるでしょうか?あるいは、彼はあなたの期待を裏切ったでしょうか?今日、あなたは主を知っており、それはこの世の君の普遍的支配の中の巨大な間隙です。勝利する信仰です。私たちの信仰ではない信仰であり、私たちの中におられる聖霊の強力なエネルギーです。私たちはかつてなかったほど主をよりよく知っています。これは間隙であり、悪魔の支配の間隙であり、イエス・キリストは主であるという証しです。

どうか主がこれらの言葉によって私たちを強めてくださり、みこころを行うために、あらゆる良いわざをもって私たちを完成してくださいますように。どうかこの御方に栄光が永遠にありますように。