第六章 三つの主要な要素

T. オースチン-スパークス

神に愛されている人よ、私は信じていますが、私たちが共に集まるこの数日間における神の御心は、私たちが力の回復の問題に携わることです。これが、この時に関して彼がその中に私自身の心を導いておられる道であると思われます。

力の回復。もちろん、これが直ちに意味するのは力の喪失です。主の民の間でかなり力が失われてきたこと、そして、力の回復が大いに必要であることを信じるように説得するのは、あまり困難ではないと思います。ですから、これを当然のことと見なして、これはそうであることを前提として進むことにします。もしこれが主の導きなら、これが確かに示唆しているのは、主は霊の力に関してご自身の民の中に一つの必要を見ておられるということです。

三つの主要な要素

ローマ人への手紙の馴染み深い幾つかの章に再び戻っていただきたいと思います。七、八、六章です。なぜなら、これらの章には、霊の力に関する三つの主要な点が示されているからです。七章の最後の区分は私たちに第一の点を与えます。これから他の点がすべて生じます。二四節――「ああ、私は何と惨めな人でしょう!誰が私をこの死の体から解放してくれるのでしょう?私たちの主であるイエス・キリストを通して神に感謝します」。「私たちの主であるイエス・キリストを通して神に感謝します」。この最後の句では、キリストが焦点として示されています。この御方によって、この御方を通して、この章のすべての内容から救い出されます。ローマ人への手紙の七章は、ご存じのように、とても陰鬱な章です。失敗、弱さ、失望、心痛、問題、矛盾でいっぱいの章です。確かにこの章は霊の力を啓示していません――到底そうではありません。それではどうやって私たちはそのような麻痺、陰鬱さ、敗北、失敗、挫折、矛盾の状態から救い出されるのでしょう?その答えは最後に与えられています――「私たちの主であるイエス・キリストを通して」。あなたに是非見ていただきたいのは、彼がその焦点として示されていることです。もしこういう言い方をしてもよければ、彼が一つの焦点としても示されていることです。七章が説明している弱さの理由は、焦点がずっと「私」であることです。これが問題です。目的が「私」なのです。この章が何と人称代名詞の「私」でいっぱいなのか、また、「私」として示されている者の前には常に何があるのかはご存じでしょう。この焦点が主イエスに場所を譲らないかぎり、解放はありません。主イエスではなく「私」が目的である間は、何の力もなくただ弱さだけです。さて、これがとても単純な言葉であることは承知していますが、それでもこの事実に、そしてこの真理に、信者を敗北と失敗と霊的弱さから解放する方法のすべてがかかっています。

自己で占有されることによる麻痺状態

自意識はすべて弱さです。今、他のすべてを忘れたとしても、「自意識はすべて弱さである」と書き留めてください。自己分析、自己凝視、自己検査、いかなる自己執着も、自意識です。そして、いかなる形や種類の自意識もすべて弱さです。弱さです。この点に関して、またこの文脈において、真理の主観的な面はとても危ういものです。

真理の主観的な面という言葉で私が何を言わんとしているのか、あなたはご存じです。私たちはキリストの御業が自分の内で有効化されることについて多く話します。十字架による主イエスの御業の本質、内側に適用される十字架、死・葬り・復活におけるキリストとの一体化の本質、そしてそれに続く一切のことについて、私たちは多く話します。さて、それはみな真実であり、みな必要であり、みな不可欠であり、一片たりとも犠牲にされたり、見逃されたり、見失われたりしてはなりません。それと同時に、まさにこれに関して信者は自分の命の最大の危機に瀕することになります。最大の祝福には常に大きな危険がつきものです。とても大きな価値があるものにあなたが触れている時、大きな危険を遠くに探す必要はありません。あなたが霊的に高くなればなるほど、別の観点から見ると、あなたの地位はますます危険なものになります。そしてまさにこの真理の主観的な面の問題で、私たちはこの危険に遭遇します。それが私たちに襲いかかるとき、それは私たちの内に働いて、きわめて恐ろしい束縛、敗北をもたらし、すべてを奪ってしまいます。この言葉で私が何を言わんとしているのか、私は説明を試みたいと思います。愛する人よ、もしこの言葉を理解できれば、聖霊がそれをあなたの心に感得させられる時、それが解放の言葉であることがわかるでしょう。真理が主観的に適用される時、往々にして私たちは、真理を或る御方ではなく別の何かであるかのように、それを自分自身と、そして自分自身をそれと関連付けてしまいます。例えば、私たちは人の三部分性について大いに考述してきました。霊・魂・体について、特に魂と霊、霊と魂について、大いに述べてきました。そして、それについて大いに熟考してきました。主の子らの多くはこれを知的に理解したせいで、混乱の中に陥りました。彼らは自分がどこにいるのかわからずにいます。常に自分自身を恐れています。彼らは、これは「魂的」ではなかろうかと、口を開くのを恐れます。「魂的」ではなかろうかと、何をするのも恐れます――魂か霊かを見定めるために常に内側を見つめています――自分自身を見極めようとしています。

彼らはいつも自分の霊について、「自分の霊の感覚に従う」という言い方をしますが、それは死と弱さを招きます。それは往々にして活動を停止させる、というのは全く真実です。真の行動を停止させるのです。ですからすでに述べたように、多くの時、祈りが出てきません。霊の中で祈らないようなことがあってはならない、と人々は祈るのを恐れるからです。多くの人は霊的生活の活動面の多くに参加するのを恐れます。霊の中にいないようなことがあってはならないし、霊の外に出るようなことがあってもならないからです。何が起きたかおわかりでしょうか?彼らの霊が支配権を得たのです。彼らは自分たちの霊を常に自分の前にぶら下げて、それに関する問いを発します。それを分析して、それを知り、理解しようとします。それは内なるエゴです。それは「私」です。霊的な「私」が常に視野にあるのかもしれません。そして、それは支配的強迫観念であり、弱体化・隷属化するものかもしれません。それは主観性であり、通常内省的で、何をするのも怖くなる自意識を生じさせます。自意識はすべて、霊的なものであろうとなかろうと、弱さです。さて愛する人よ、私たちは自分の霊的自己から、自分の霊的自己に占有されることから、解放されなければなりません。生じるこれらすべての矛盾――しかもこの領域には多くの矛盾があります――から解放される方法は何でしょう?時々、「自分の霊の感覚に従うこと」について話してばかりいる人々がきわめて酷いことをします――神の御言葉に全く矛盾すること――神の御言葉に違反することをします。それは往々にして、彼らが「自分の霊の感覚に従」ったからなのです。きつい言い方を許してください。

(天然のもの(ギリシャ語 Soulical または Psychical)と霊のものとの違いを知ることはとても重要です。しかし、私たちの霊は統治体ではありませんし、実際のところ知識の座でもありません。それは、内側の聖霊の手段・道具にすぎません。私たちの霊は天然の影響によって左右されるおそれがあり、方位磁針のようにズレを生じるおそれがあります。これは新しくされた霊でさえ無謬ではないことを示しています。無謬性が私たちの一部となることを主は決して許されません。徹底的依存と信仰の生活が、正しく導かれる唯一の道です。)

霊の力の回復の方法を私たちは知らなければなりません。私はますます次のことを感じるようになりつつあります。すなわち、大量の霊的知識、霊的教え、霊的指導は、決して力の秘訣ではないのです。それは力ではありません。霊の事柄のこの領域では、教え、指導、教理、光自体は全く力の秘訣ではありません。大量の光、大量の教えや指示を持っている人々のとても多くが、時として違反者の頭になったり、死を招いたり、凶器となったりする、というこの恐ろしい矛盾を見いだします。彼らは妨げであり、弱さを招きます。ひょっとすると大量の光、知識、真理を持っているかもしれませんが、無傷の敵が依然として支配しています。私が言わんとしていることをあなたはご存じです。私たちの真理知識を敵はずっと笑っているかもしれません。そして、たとえ私たちが聖書のすべての教理をとてもよく教わっていたとしても、敵は至る所で滅茶苦茶なことをしているかもしれません。(私は知的知識と霊的知識とを区別しています。後者については次のメッセージで扱います。)

力は敵の攻撃に応じるものです。私たちは力の秘訣を知ることを望んでいます。往々にして、素晴らしい教えをふんだんに持っているにもかかわらず、私たちには力がない、というのはそのとおりではないでしょうか?敵の活動を終わらせて神の御業をもたらすのに十分な力がないのです。なぜでしょう?おそらく私たちが霊的エゴ、霊的「私」に占有されているからです。それが常に焦点なのかもしれません。自分の霊的自己の中に包み込まれています。解放の道そして力の道は、主イエスを焦点として持つことです。しかし、主観的な焦点として持つことです。彼処ではなく此処でです。私ではなく彼ご自身です。あなたではなく彼です。主観的な焦点です。それは「主を知ること」であり、自分自身を知ることではありません。内的に主を得て主を知ることです。自分の霊を知って自分の霊に占有されることではなく、主です。内側で自分自身から離れて、主に付かなければなりません。あなたはこれを感じられないかもしれません。その結果を私は知っています――それは劇的に思われますが、とても現実的です――それには最大の価値があります。もちろん、この問題や困惑に遭った人々だけが、それを完全に理解できます。しかし、私が述べていることをあなたが経験的に感じられるかどうかは別として、私たちが終始専念すべき対象は内なる主イエス・キリストであることを、私はあなたに理解していただきたいのです。そうでなければ、あなたが持っているのは霊解された心理学にすぎません――霊、人の天然的霊を新たな形で発達させたにすぎません。そして、彼を霊の領域の中に持ち込もうとしているにすぎません。再生されていない天然の人も私たちと同じように霊を持っています。人はみな霊、魂、体です。あなたは天然的な霊の特徴をすべて発達させて、自分の霊的知性の支配的原理とならせるおそれがあります。その結果、自分自身の霊を自分自身で占有された霊の領域に移して、自分の霊の声を聞いているにすぎなくなります。そして、誤った導きを得る深刻な危険に陥ります。

人の霊は霊の世界全体と結ばれています。天然的な霊は堕落した霊の世界と結ばれており、もしあなたが自分自身の霊を発達させることに集中しようとするなら、あなたは自分の霊を偽りの光、偽りの導きにさらすことになります。そして、あなたが自分の霊を格段に発達させて、それを魂的な影響に対して過度に敏感にならせる時、死が依然として残っているかもしれません。しかし、死が依然として残っており、依然として束縛があり、依然として真の霊性ではなく弱さがあります。何が起きたのでしょう?あなたはただ自分自身――あなたの存在の一部であるあなたの霊――を発達させてしまったのです。そして、それをあなたの生活原理としてしまったのです。私たちの霊は聖霊によって内的に新しくされなければならない一方で、私たちの霊は私たちの生活原理になってはならないのです。

「私」ではなくキリスト

私たちの生活原理は主イエスでなければなりません。彼が私たちの専念すべき対象でなければなりません。神秘的なことを述べ尽くしたので、あなたたちの多くに向かって言わせてください。主がその民の中で、またその間で、霊の力の回復に取り組まれるとき、彼は新たな方法で彼らを主イエスに連れ戻さなければならないのです。彼は彼らをたんなる事物、たんなる教理、霊的生活に関するたんなる事物から連れ戻さなければなりません。主イエスへと連れ戻さなければなりません。主イエスがすべてとなられる地点、彼がとなられる地点、彼が主人となられる地点、まつりごとが彼の肩の上にある地点、彼がまさに私たちの命となられる地点に私たちが達しないかぎり、霊の力を回復する道はありません。これがそうなるとき、私たちは今日、主の動きを見分けられるようになるのではないでしょうか?今は弱さの時代であり、弱さゆえに霊の力の問題に関して失望が広がっている時代であり、霊の力に関して教会が残念な見本になっている時です。次のような特徴がそこになければなりません。すなわち、状況に満足できなくなった彼の民の心の中で、彼が御子を卓越させられつつある、という特徴です。教え、運動、交わり、すべてが失望の印を帯びています。主はそうしたものにご自身の子たちの生活を支配させたりはされません――私たちの心がその上に定まっているものの上に、また私たちの力の対象の上に、災難がふりかかるのを彼は許されます。こうしたものが挫折して私たちを失望させるのを、彼は許されます。他の人々が私たちを落胆させるのを許されます。そして、私たちの目を開いて、いかにすべてが期待外れであるのかを見させられます。ついには、真に満足できるもの、真に神にしたがっているものが何かあるのだろうか、と私たちは疑問に思うようになります。真に標準を満たすものが何かあるのだろうかと疑問に思うようになります。愛する人よ、主は今日そのような形で大いに働いておられます。状況、人々、交わり、キリスト教的運動、諸教会に対する失望――至るところ弱さだらけです。霊的弱さの時代です。

このような時を主はどう対処されるのでしょう?ご自身の御子である主イエスを卓越・傑出させて、を焦点とすることによってです。最初はそうでしたし、主の民の間に力があった時代は常にそうでした。力の秘訣は、主がその民の生活の中で最高のすべてを支配する焦点であることでした。主に関する事柄ではなく、主ご自身です。契約の箱は主の表現を表していました。そしてそれが中心にあって、主の民の敬慕の地位を占めていた時、彼らは力強く前進しました。そのため、契約の箱が最初に進んだ時、水は神の強力な力によって裂けました。その契約の箱の上に、すべての目が注がれました。キリスト教時代の開始時、視野にあったのは主イエスでした。主イエスが人々の心を奪って、夢中にさせていました。交わりや運動ではなく、主ご自身でした。それは力の時代であり、私たちはそこに戻らなければなりません。個人生活においても団体生活においてもそうしなければなりません。主が生活の中心となって統治しなければなりません。個人的にも団体的にも主がその民の中心でなければなりません。場所、教え、教師、交わりではなく、主です。その時、あなたは力を回復します。この単純な言葉は遠くまで及びます――そして「ああ、私は何と惨めな人でしょう!誰が私を解放してくれるのでしょう……」と絶望して叫んだ人の叫びは希望と保証を与える答えを得ます――その答えとは「私たちの主であるイエス・キリストを通して神に感謝します」です。

あまりにも内省的なせいで喪服に縛り付けられている人々に対応するのは、よくあることです。もしここにいるだれかが自分自身の霊的地位で頭がいっぱいなら、自分の目を内側に向けて、あまりにも酷すぎると感じているなら――愛する人よ、解放の道は質問に答えてもらったり、問題はないこと、そして悩む必要はないことをだれかに納得させてもらうことにはよりません。また、それはさらなる光や教えを受ける問題でもありません。「私」をキリストに、あるいはキリストを「私」に変えて、「私」の代わりに主イエスをあなたの生活の主観的焦点とする問題です。あなたの内におられるキリストだけが栄光の望みであり、脱出する道です。今日、次のような主の子らにたくさん出会います。彼らはすぐに自分自身に関する悲惨な話や、霊的な困難・問題の話を吐露し始めるので、彼らと話す時間が少しもないほどです。そして、彼らを助けるために自分にできることをしてあげると、彼らは「助かりました」と言うのですが、次に会うとまた同じ問題を抱えているのです。数か月後、数年後に会っても、結局のところ、昔と同じ話を聞かされます。彼らが解放される唯一の道は、私たちの主であるイエス・キリストが彼らの望みとして彼らの心の焦点となることです。彼らは彼に付いて自分自身から離れなければなりません。霊的にもそうしなければなりません。主イエスを新たに理解すること――これが解放の道です。自己に対する主の民の拘泥を断ち切らないかぎり、彼らを助けられない状況にあなたは立ち向かうことになるでしょう。主イエスが内的にあなたの信仰の対象とならなければなりません。彼は解放してくださいます。あなたはあの死体と共に長らく競技場を巡ってきましたが、彼はその競技場の出口です。

命の御霊の法則

二番目の点について、短い言葉をあえて述べることにします。八章二節「キリスト・イエスにある命の御霊の法則が罪と死の法則から私を自由にしました」。一点目が焦点としてのキリストだとすると、二点目は力としての御霊です。「私を自由にしました」。聖霊は常にこの焦点に関して働いておられることがわかります。彼はこの焦点を持たなければなりません。この焦点は主イエスです。ですからキリストは道です。聖霊はその道を取って、その道を進み通すためのエネルギーです。力は自由から来ます。「私を自由にしました」。命の御霊です。

御霊の命の法則あるいは命の御霊の法則です。「命の御霊が私を自由にしました」。もちろん、八章十一節に進みたくなるでしょう。「死者の中からイエスをよみがえらせた方の御霊があなたたちの中に住んでいるなら、死者の中からキリストをよみがえらせた方は、あなたたちの中に住んでいる彼の霊によって、あなたたちの死すべき体をも生かしてくださいます」。これは命の御霊であることがわかります。あなたの中に、あなたの中におられるのです。それは焦点である生けるキリストと関係しています。キリストは今、墓、死、罪、罪に対する束縛の反対側に生きておられます。彼処で復活の立場の上におられます。生けるキリストがあなたの中に住んでおられます。そして、御霊は彼に関して働いて、キリストがおられる所にあなたをもたらし、彼がキリストを自由にされたのと全く同じようにあなたをも自由にしてくださいます。主イエスは死の中に下って行き、それに自分を明け渡し、そしてその法則を打ち破られました。そして、聖霊は彼処にある解放と勝利の立場の上に主イエスを置かれました。あなたは、復活の立場の上におられる主イエスを、あなたの信仰の対象、あなたが専念する対象として持ちます。すると次に、イエスをよみがえらせて彼処に置かれた御霊は、あなたの中で、この焦点に向かって働き、あなたをキリストがおられる所に置いてくださいます。私たちは聖霊をあがめて、彼に彼の地位を与えなければなりません。聖霊が持つことを要求しておられる地位は、主イエスをあがめる地位であって、自分自身をあがめることではありません。私たちの中におられる聖霊は、主イエスをあがめる彼の働きのゆえにあがめられてしかるべきことを、私たちは理解しなければなりません。多くの人々は聖霊を独自の地位に置いており、それによって御霊を侮辱しています。それは全く間違っています。彼の焦点は主イエスであり、彼の活動はすべて主イエスと関係していることを、私たちは理解しなければなりません。聖霊をすべてとする結末にしかならない結果は、聖霊の現在の働きについて誤った印象を与えます。聖霊のすべての働きの結果は、主イエスに栄光を帰すことなのです。

霊性は私たちの霊を涵養することではなく、聖霊が私たちの中で私たちに対して優位に立たれることです。霊性は私たちの霊を涵養することではありません。それがどれくらい成長しているのか見張ることではありませんし、それがどれくらい成長しているのかを見るために、言わば、それを引き抜いたりまた元に戻したりすることでもありません。霊性の高嶺は常に自分自身の霊に注意を払うことであると考えている人もいます。主は私たちを解放してくださいます。霊性の真の印は、私たちがますます主イエスを享受するようになることです。そのとき、彼はさらに大きな地位を獲得されます。これが聖霊の働きです。聖霊は力です。聖霊は力ですが、その力は主イエスを生ける現実とすることに常に向けられています。また、自分自身をますます霊的に目指す偽りの霊性とは違って、私たちの中で彼がますます十分な地位を得るようにすることに常に向けられています。これについてはもっとたくさん言うべきことがありますが――第三の点、六章五~六節に向かうことにします。

手段としての十字架

十字架。この箇所が示しているのは、霊の力に関する三番目の主要な点――十字架――です。すなわち、主イエスは死なれたこと、彼は十字架につけられて葬られた、という意味における十字架です。彼は一度かぎり永遠に罪に対して死なれました。私たちは彼にあって死にました。しかし、主イエスは死んで、死者になりましたが、状況を次のように変えました。すなわち、ご自身が受け入れた弱さを通して少しのあいだご自身を死に明け渡して、死が一時のあいだ彼を支配した一方で―― 一時のあいだ死がご自身を支配するのを許された一方で、しかし彼は永遠の御霊によって死の支配の力を打ち破り、死者の中からよみがえって、死を虜にされたのです。死が支配権を握る代わりに、キリストが死を支配されました。最後の啓示は――何と素晴らしいことでしょう――「そして死とハデスの鍵を持っている」です――死とハデスの権威を持っておられるのです。「わたしは生きている者です。わたしは死にましたが、見よ、永遠に生きます」。「わたしは代々にわたって生きます。そして、死とハデスの鍵を持っています」。何が示されているのでしょう?死はキリストの御手の中にあります!死はキリストと永遠の御霊の御手の中にあります。御霊を通して、キリストは死者の中からよみがえらされ、死者の間から連れ戻され、死に対する力と権威を与えられました。死はキリストの御手の中に、聖霊の御手の中にあります。さて、これの素晴らしい点、麗しい点、見事な点は、もともと死は彼に対して用いられたものだったのに、聖霊は主権をもって死を肉に対して用いられたことです。

これを明らかにすることにします。天然の人における死の根拠は何でしょう?肉です。肉のゆえに死は権威、力、支配力を持っています。死には肉が必要です。主イエスは肉体を取られました。そして、死は彼によって滅ぼされ、征服されました。そして、彼は死の力を受け取られました。今や主権をもって信者の中で主イエスは死を肉に対して用いておられます。これがローマ六章です。死を聖霊は肉に対して用いておられます。あなたはそれをご存じです。信者が肉に触れる時、何が起きるでしょう?直ちに、死の感覚が生じます。その結果:――ああ、それから逃れることになります――それから転じることになります!「肉」に触れた時、嫌悪感が湧きます。あなたが最初に思うのは、これから逃れることです。あなたは主のもとに駆け込んで――「私は肉の中で活動してきました」と言います。聖霊は死を肉に対して用いて、あなたを解放されたのです。

パウロは彼の肉体の弱さについて述べています――「死は私たちの内に働きます」。しかし、それは死に属する権威ではありません。死は別の権威の手の中にあり、その権威が死を用いて命を生じさせます。これは何でしょう?彼自身におけるキリストの死の働きです。主イエスの命がこの体に現わされるのは、主イエスの死がそこに働いているからです。矛盾ですが素晴らしい真実です。征服者がたやすく一掃します――圧倒的な征服者が自分の敵を用いて敵を終わらせます!彼は死を受け取られました。そして、聖霊は死を用いて肉に触れないよう私たちを教えておられます。命の御霊の法則は罪と死の法則から私を自由にしました。肉に触れる瞬間、私たちは気まずくなってそれから転じます。もし主が死を用いて私たちを教えておられなければ、私たちは決して学べなかったにちがいありません。主は主権をもって今や御手の中で死を用いておられます。死を用いて命をますます現わしておられます。この時代、主は見事に敵を用いておられます。これを自分の心に受け入れられさえすれば。私たちは至る所で死に遭遇します。主イエスが死者の中からよみがえられて以来、すべての権威は彼の御手の中にあります。そして彼の御旨は、まさに死の衝撃力を命の現われの機会とすることです。彼の御旨は私たちが死に飲み込まれることではなく、死が命に飲み込まれて主イエスの御業を示すことです。ご存じのように私たちが死を遠ざけることを学ぶのは、もし聖霊が死を用いて私たちを教えておられなければ、私たちは決して肉を遠ざけなかっただろうことを経験から知っているからです。圧倒的な勝利者です。敵が残されているのは、主が今それを用いて、勝利の生活を送る方法を聖徒たちに教えるためです。彼の十字架において、また彼の十字架によって、私たちはそれを学ばなければなりません。主イエスは死を征服して、死を虜にされました。彼は肉を征服し、古い人を取り去って、まさに死の力を用いておられます。悪い交際は良い慣わしを腐敗させます。私たちは古い人に触れてはなりません。命の御霊にしたがって歩まなければなりません。

十字架は私たちを消滅させるためであり、私たちを一掃するためである、と私たちはしばしば考えます。実は、その強調点は命にあるのです。十字架のメッセージは命を生じさせなければなりません。それはとても多くの人々の中に死を生じさせます。それはあなたを窒息させ、あなたを打ちのめします。それで、あなたは動くのを恐れるようになります。十字架によって命が生じなければなりません。なぜなら、私たちは死んで、自分は死んだと勘定するがゆえに、私たちは生きるからです。「私は十字架につけられました――それゆえ私は生きます。しかし、私ではなくキリストが私の中に生きておられます。私がいま生きているのは……」。「いま生きている!」。十字架は力の道です。主イエスの死の働きの目的は、肉は麻痺、弱さ、無能であることを私たちに示すためです。しかし、十字架は私たちをそれから、肉の中にあるあらゆる弱さと敗北から断ち切りました。聖霊は今や十字架を用いて、肉の中に生きてはならないことを私たちに知らせておられます。

これらの事柄を理解するのはとても困難ですが、どうか主がそれらの意味を私たちに示し、それらを私たちに痛感させて、諸事の命の面――諸事の力の面――を私たちが見るのを助けてくださいますように。復活した主イエスが聖霊によって私たちの中に働いておられます。それは、私たちが次の事実を信仰によって受け入れて会得したからです。すなわち、私たちは死んで今やキリストのために、キリストにあって生きており、そして、キリストは勝利のうちに私たちの中に生きておられる、という事実です。