祈りの苦闘

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:ピリピ一・二九~三〇、コロサイ一・二八~二、四・一二。

これらの節に加えられる、同じ性質の節が御言葉の中にもっとたくさんありますが、私たちが留意する必要があることを示すにはこれで十分だと思います。私は常々感じるのですが、私たちの霊的拡大の重大な要素の一つは、実際的かつ積極的に他の人々を思いやることです。他人のぶどう園を世話して、自分自身のぶどう園を無視し、使徒が言うところの「おせっかい焼き」になって、自分自身以外の他のすべての人の問題にかかりっきりになる、という意味ではありません。他の人々のために正当で適切な有益な思いやりを持つ、という意味です。私たちが読んだ聖書の箇所が私たちに示しているのは、教会の御旨に関する神の偉大な啓示は、凄まじい恐るべき戦いなしには実現されないということです。

主導権を握る重要性

ですからここで使徒は述べています、「あなたたちのために、そしてラオデキヤの人々のために」そして、他の多くの人々のために、「私は何と大きな戦いを戦ったことでしょう」。「私の中に力強く働く、彼の働きにしたがって苦闘しつつ」。「エパフラス(中略)キリスト・イエスの僕は(中略)常に祈りの中であなたたちのために苦闘しています」。これは御自身の民に対する神の願いに関するこの問題を心に留めて、それに関する凄まじい霊的戦いに巻き込まれることです。今に私たちはおそらく、この戦いに――それを直接求めなくても――遭うことになるでしょう。しかし、往々にして主導権を握る者たちが優位に立つ、と言えます。敵が霊的攻撃の問題で主導権を握る時、私たちはたいてい不利になる、ということにあなたは気づいていないでしょうか?敵の側から攻撃が来る時、私たちは自分の殻に閉じこもって、自問し始めてしまいます。敵の攻撃の圧迫、激しさ、形体によって、自分たちがほとんど麻痺してしまっていることに、私たちは時として気づきます。それは私たちに影響を及ぼし、私たちを圧倒して追い出さんばかりになります。これは敵が主導権を握っているからです。敵は戦争の戦略を十分に知っており、主導権を握る者が大いに有利になることを知っているのです。

さて、私たちはもちろん常にこれに遭遇するでしょうし、敵は常にこれを行うでしょう。しかし、その反対はどうでしょう?パウロは霊・思い・体に対する敵の猛攻撃に大いに遭いました。それはあらゆる道筋に沿って、考えうるあらゆる経路・手段で臨みました。彼は彼の務めと生活における、霊的・世俗的戦いの性質について、多くのことを私たちに告げています。しかし、パウロは決して状況を放置しませんでした。彼はまた主導権を握ったことを完全に明らかにしています。先ほど読んだこれらの御言葉は、この問題における主の民の主導権と関係しています。敵が聖徒たちに関する神のこの御旨――すなわち、聖徒たちが全き理解力に達し、キリストを知る完全な知識を持つこと――を挫折させるために、力と悪巧みの限りを尽くすとき、敵がそれを挫折させるためにあらゆる手段を尽くすとき、他方の側が主導権を握らなければなりません。神の子らを攻撃するこの攻撃に対して、霊的な方法で、私たちはこの問題の中に実際に身を投じなければなりません。それは、神の目的が挫折させられないためです。

「私は何と大きな戦いを戦ったことでしょう」と使徒は述べています。「苦闘しつつ」。彼がこの言葉をそのコリント人への手紙の中でオリンピックの試合に関してどのように使っているかはご存じでしょう。「また、賞を求めて苦闘しても、規定通りに苦闘しなければ、冠を受けることはできません」(二テモテ二・五)。彼は、競技場またはまっすぐのびた走路にいるこの人がこの戦いに身を投じて、賞のために苦闘しているのを見ています。これは同じ言葉です。そしてここでの意味は、敵を支配するために、神のみこころのために苦闘することです。それは神の民が神の奥義であるキリストを知り、理解力をもって豊かな全き確信などに至ることができるためです。強調点は明らかであり、私の方から多くの言葉を付け加える必要はありません。

私は心底こう感じています。すなわち、主の願い――それは主の民が個人的豊かさを超えた豊かさに達することです――というこの問題に関して、私たちはもう一つの面も配慮しなければならないのです。この別の面が導入されない限り、この目的は達成されません。これが意味するのは、御霊の力づけとエネルギーによって、苦闘するために、この問題で苦闘するために、実際に身を投じる人々がいなければならないということです。

旧約聖書の絵図

これについて考えていた時、とても有名なエリシャとシュネムの女とその息子の物語を思い出しました。これはまさにこの問題を提示しているように思われます。エリシャは、ご存じの通り、主が復活させられた後、主がヨルダン川と十字架を通って天に移された後に、地上に残るよう定められていたものを予型的に示しています。地上における証しの継続がそれにかかっている重大な問題は、彼の主人の霊の二倍の分が彼と共になければならないということでした。彼の要求はこれでした。彼はこのことで試されました。彼はこれに関して試験され、これを待望しました。しかし、よしと認められて、エリシャは彼のかしらの霊の二倍の分を受けました。預言者たちの子らはエリヤのことをいつもこう言っていました――「主は今日、あなたの主人をあなたの頭上から取り去られることを知っていますか?」(二列二)。エリヤは彼のかしらでした。今や、このかしらは天に迎え入れられて、御霊の二倍の分がエリシャの上に臨みました。彼は御霊の力の中でこの地上にいて、命の証しを維持し、遂行します。それはすべての行動、すべての関係において、エリシャが死の状態を対処するためです。彼は御霊が復活の御霊として彼と共におられることを証明するよう召されています。それは、死の多くの形体と遭遇することによってです。

そうした多くの事例の中にシュネムの女の息子の事例があります。それをまとめて取り扱うなら、それは助けになる点や要素に満ちていると思います。今は一点だけ考えることにします。この箇所では、例えば、恵みの中で主が彼女を訪問して、彼女にその子を与えられました。というのは、自分の人生にそのようなことは決してありえないと彼女が諦めていたことは、大いに明らかだと思うからです。彼女が預言者に向かって「私を欺かないで下さい」と言ったことは覚えておられるでしょう。そしてその後、その子が死んだ時、「私はわが主に子を求めたでしょうか?」と彼女は言いました。まるでこう言わんばかりです、「私はそれを諦めていましたし、心の中に押し殺していました。もはやそれについて考えるつもりはありませんでした。あなたがそれをなさったのです」。それはありえないことでしたが、このありえないことがなされました。彼女がもはや敢えて考えようとしなかったこと、希望しなかったことが、神の恵みによって現実になりました。それは神が恵みの中でなさったことであり、こうしてその子が存在するようになりました。

さて、その子が死にます。神の道は奇妙で不可解です、まったく御自身からであるもの、私たちの力や私たちの期待以上のものを与え、次に、御自身で大いに事をなしておいて、それがたんなる災難のように見えるもの、すなわち死の下に陥るのを許すとは。神の道は奇妙です!主は奇妙なこと、私たちの理解力にとって奇妙なことを行われます。主は私たちを超えています。

その少年が死んだ時、そこには十字架と油塗りの道にない人、すなわちゲハジがいました。彼はエリヤやエリシャと共にヨルダン川を渡りませんでした。死に勝利する油塗りの力の中でヨルダン川を渡って戻って来る経験をしていませんでした。二倍の分の油塗りの下のありませんでした。たんなる口先だけの者で、油塗られた者ではありませんでした。彼はとても悲しい最後、とても悲劇的な最後を迎えました。シリヤ人ナアマンのらい病が彼に取りついたのです。これは、このように、十字架に付けられずに神聖な事柄を取り上げる人々、十字架に付けられていない人々、油塗られていない人々に起きます。ゲハジはこの死の部屋に行き、この少年のために何かをしようとしましたが、何も起きず、何の効果もなかったことを認めつつ去らねばなりませんでした。エリシャがやって来ました。彼が踏んだ手順は覚えておられるでしょう。彼は中に入って行き、その少年の上に身を伸ばし、手と手、足と足、唇と唇、目と目を合わせました。彼は、言わば、この状況の中に入り込んだのです。彼はその中に入り、自分自身をそれと一体化し、自分自身をその一部としました。しかし、彼は復活の力の益に浴していました。その状態にある時、そうしても安全です。彼は油塗りの下にありました。そして、復活の立場に基づいて油塗りの下にある人だったので、彼はこの状況と接触して、自分自身を損なわずに、むしろこの状況を取り除けたのです。それはまるで、彼が文字通りその子を死から引き上げたかのようでした。

エパフラスに関する「エパフラスはイエス・キリストの僕であり、あなたたちのために祈りの中で苦闘しています」というこの言葉ほど、この類の事柄を十分に描写している言葉は新約聖書中にありません。それはこのようです。私はあなたにたんなる聖書の学びを与えているのではありません。要点は、私たちがそれに取り組まない限り、何かが起きるとは私は信じない、ということです。私たちがこの状況に散り組むのを神は待っておられる、と私は信じています。実際にそれに取り組む人々がいなければなりません。

主の御旨に関する祈りの要素

主の民の間の現状を見て下さい。神にはある御旨がありますが、私たちはそれを当然視しているのではないでしょうか?始終用心して、それを観察し、観客として、それを値踏みして見定めつつ、何かが起きるのを待っているのではないでしょうか?何も起きていません。これしか私たちには見えません!一つの民が実際にこれに取り組まない限り、何かが起きるとは私は信じません。その民は、よく聞いて下さい、復活の立場の上に立つ人々、油塗りを持っていて、次にこれに取り組んで死の膠着状態を打ち破り、束縛の縄を断ち切る人々です。これこそ真の働きです。この問題に関して苦闘しなければなりません。それは偶然起きることではありませんし、たまたま生じることでもありません。パウロが述べているこの言葉はみな、また、御言葉のこの箇所に記されていることはみな、「ある事柄が神のみこころであることが事実なら、他に何も考えなくても実現することが保証されている」とするなら、まったくの無意味です。パウロよ、あなたは何について苦闘しているのでしょう?あなたのこの苦悩、苦しみ、苦闘はまったく必要ありません!主がそれを意図されたのであり、それは神のみこころです。ただ信じて静かにしていれば、それは実現します。主がそれを為して下さいます!ですから、これはみな不必要であり、それゆえ無意味です。そうではないでしょうか?これには何の意味もなく、何の価値もないのではないでしょうか?私の言わんとしていることはお分かりでしょう。

コロサイとラオデキヤの人々、また、彼の顔を直接見たことのない他の多くの人々、これらすべての諸教会が、愛の中で共に結び合わされ、理解力による全き確信のあらゆる豊富に至って、神の奥義を知ることができるようになること、キリストにあって完成されたすべての人を捧げること――これはすべてこの人の戦いに、そして、エパフラスらの戦いにかかっていました。これをどれくらい私たちは行っているでしょう?互いの霊的生活、他の人々の霊的生活を批判するのはとても容易です。度量の小ささ、成長の乏しさ、停滞や制限に注意するのはとても容易です。たんなる傍観者でいるのはとても容易です。確かに、私たちは心の中で悩み、困惑しています。ある程度、私たちは何かをして下さるよう絶えず主に求めていますし、全く離れているわけでもありませんが、自分たちはパウロと同じ立場にあると確信しているでしょうか?「あなたたちのために私は何と大きな苦闘をしていることでしょう」。私はこれにどう取り組めばいいのでしょう、この状況、この必要にどう応じればいいのでしょう!――神の御旨にまったく反して起きたこの事柄、神が生み出された命の継続・発展・発達を妨げてきたこの事柄、まぎれもなく主から出ているものの、閉じ込められて、何物かの下に落ち込み、損傷・欠乏・停止・停滞しているこの事柄をどうすればいいのでしょう。

もちろん、これには神の主権があります。人々を発達させるために敵の上に働いている神の主権があります。最初に述べたように、私たち自身の拡大は私たちの使命と密接な関係にあります。あるいは、別の言い方をすると、霊的責任を負わない限り、私たちは霊的に大して前進しないでしょう。人々を気遣うこと、私たち自身の霊的成長を気遣うことが、私たちの成長にとって不可欠です。人々が霊的なつてでどれほど多く情報を蓄積しても、始終自分自身に引きこもっているなら、彼らが成長するとは私は信じません。責任を負うことが拡大のために大いに重要です。そして、ここに最大限責任を負った人がいます。しかし、彼はこのピリピ人たちに向かって、「あなたたちはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜っています」と述べています。そして、これらの苦しみは往々にして、聖徒たちのための魂の苦しみというこの道によりました。「私は(中略)キリストの苦しみの欠けているところを補っています(中略)それは彼のからだである教会のためです」(コロ一・二四)。キリストの苦しみ。彼と共に苦しむことをあなたは賜っています。キリストの苦しみは彼のからだである教会のためです――私はその残りを補っています。

私たちがもう少し攻撃的なたちだったなら、私たちに対する敵の攻撃の多くはその刃の鋭さを失っていたかもしれません。私たちがその鋭さを感じるのは、私たちがそれを待っているからだと思います。果敢に外に向かう時、それによって実際に救われると思います。主の権益を思う積極的かつ果敢な精神は、私たち自身の霊的生活、安全、成長にとって価値があります。大きな価値があります。なぜなら、まぎれもなく、積極的状態は防御だからです。霊に燃えることは大きな防御です。

私はこれ以上多くのことを述べたくありません。今晩、主はこれを強調することを欲しておられる、と私は感じました。ある程度、あなたは心配しており、私も心配しています。私たちはある必要を、ある大きな必要を認識しています。そしてこの必要に関して、おそらく、私たちは「これはなぜでしょう、あれはなぜでしょう」と怪訝に思うようになりました。次に私たちはそれを試し、解釈し、説明し始めます。そして私たちは様々な解釈をするのですが、往々にして、再び自分自身や自分たち自身に引きこもる羽目になります。

主の民は、その歴史全体にわたって、恐ろしい戦い、大きな抵抗なしに、自分たちに対する主の御旨に達したことは決してないということに、まずは向き合おうではありませんか。これは常にそうでした。極めて積極的な方法でこの問題を取り上げる器を主が得られた時だけ、彼らは切り抜けました。良き地に到達したときのイスラエルがそうでした。ヨシュアとカレブはこの問題を取り上げて、そのために戦い抜き、彼らによって同時代の人々は中に入りました。ダニエルは、人々が捕囚の中にあった時、この問題を取り上げて、そのために天上で戦い抜きました。レムナントの帰還は、疑いなく、ダニエルのおかげです。そしてここにパウロがいて、より高度な霊的水準でこの同じ問題の中にあります。サタンは教会が完全に神の目的に到達することに抵抗します。とりわけ、ここでパウロがこれを取り上げて、そのために戦い抜きます。これは常にそうでしたし、これからもずっとそうでしょう。どの町でもパウロはこれに直面して、そのために戦い抜かなければなりませんでした。彼は強力な油塗りの下、復活の立場の上にあります。しかしピリピと牢獄と鞭打ちを見て下さい。コリントを見て下さい。主はコリントに関してパウロに「恐れてはなりません。私にはこの町に多くの民がいます」(使徒一八・一〇)と言う深刻な必要性が確かにありました。彼がその町で直面していた問題のために、主は何度も何度も彼の傍にやって来て、御自身の僕を強めることが大いに必要でした。エペソで彼が直面した問題を見て下さい。死を覚悟して、生きる望みを失うほどでした。どの町でも戦いの真っただ中にありましたが、戦い抜きました。主はこのような種類の道具を必要としておられます。

再び言います、停滞や制限に対する様々な二次的言い訳があるかもしれませんが、ここに大きな問題があります。敵は私たちが切り抜けるのを邪魔しようとしており、主の民が自分たちに対する主の御思いを知って、自分たちの拡大に通じるものとの接触に導かれるのを邪魔しようとしている、という問題です。これはみな、敵の強力な軍事行動です。縛り、無に帰し、無力化し、妨害し、覆いや雲や煙などのあらゆるものをかぶせようとしています。これはみな、聖徒たちに関する敵の決意――聖徒たちがキリストにあって完成されてはならないという決意――の一環です。

これに対抗して、適切かつ十分な立場に主の中で共に立ち、主の御名の中でこの問題を取り上げ、そのために戦い抜く人々が必要です。「私は何と大きな苦闘をしていることでしょう」と私たちの群れにも言えなければなりません。

主は私たちにそのための恵みを与え、実際に私たちの中に働いて下さいます。そして、私たちは状況が変わるのを目にするでしょう。私たちは生きるか死ぬかの問題の中にあることを疑う人は誰もいないでしょうし、異議を唱える人も誰もいないでしょう。私たちは生きて勝利の生活を送るか、さもなければ、死んで消えて行くかです。おそらく主にとって、この問題はこの道にある私たち次第です。主がエパフラスの群れに加えて下さいますように!

「証し人と証し」誌、一九四三年十一~十二月号、二一・六巻 初出