第三章 士気

T. オースチン-スパークス

エルバアル、すなわちギデオンは、彼と共にいるすべての民と、早く起きてハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデアンの陣営は彼らの北側、モレの丘のそばの谷にあった。主はギデオンに言われた、「わたしがミデアン人を彼らの手に渡すには、あなたと共にいる民は多すぎる。イスラエルはわたしに逆らって自慢し、『私の手が私を救ったのだ』と言うかもしれない。それゆえ、今、民に聞こえるように宣告し、『だれでも恐れおののく者は帰り、ギレアデ山から離れよ』と言いなさい」。すると民の二万二千人が帰り、一万人が残った。主はギデオンに言われた、「民はまだ多すぎる。彼らを水の所に連れ下りなさい。わたしはそこであなたのために彼らを試す。わたしがあなたに、『この者はあなたと共に行かなかればならない』と言う者は、あなたと共に行かなければならない。わたしがあなたに、『この者はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、すべて行ってはならない」。そこで、彼は民を水の所に連れ下った。主はギデオンに言われた、「犬がなめるように、舌で水をなめる者はみな、別にしておきなさい。同じように、ひざをついて飲む者もみなそうしなさい」。すると、手を口に当てて水をなめた者の数は三百人であった。しかし、残りの民はひざをついて水を飲んだ。エホバはギデオンに言われた、「水をなめたこの三百人で、わたしはあなたたちを救い、ミデアン人をあなたの手に渡す。しかし残りの民はおのおの自分の場所に帰らせなさい。」(士七・一~七、改訂標準訳)

「敗北から勝利へ」という例の本で取り扱われている主題全体の中で最も重要な面の一つは、「士気」の問題です。この記録ではこの士気の問題にとても多くのページが費やされています。なぜなら、士気の欠如のせいで、また士気が崩れて他の人々に影響が及んだせいで、完全な大敗北寸前になることが時としてあったからです。逆に、士気の回復が輝かしい結末に至るうえでとても大きな役割を果たしたのです。

ギデオン軍の削減

この「士気」という言葉は、もちろん、ギデオンの物語の核心です。この言葉はこの問題全体の要約ではないでしょうか?まず第一に、恐れおののいている者はみな除かれました。第二段階では、士気を挫きかねない個人的用件のある者は、すべて家に帰るよう命じられます。この大削減行動を、主は質を確保するために命じられました。もちろん、数に関して言うと、これはあれかこれかの問題ではありません。数が多いか少ないかの問題ではありません。また、これは救いとは全く関係ないことをはっきりさせましょう。贖われた者は「だれも数えることのできない大群衆」(黙七・九)になります。「主は(中略)だれも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望んで(中略)辛抱強くあられるのです」(二ペテ三・九)。この領域では主は何も制限しておられません。「この数は多すぎる」とは主は決して仰せになりません。しかし、これは奉仕の問題です――ご自身の民の間における主の権益のための特別な奉仕と責任の問題です。それは主の誉れの問題です。

この物語の真意を把握するには、神の民の間にはびこっていた当時の状況を思い出す必要があります。なぜなら、この問題はまさに、ご自身の民に託された主の御名の誉れの問題だったからです。ご自身の民の間で御名を恥辱と不名誉から解放するには、戦闘部隊にある資質が必要です。これがこの物語の核心であり、これが今回私たちが考えようとしていることです。

従軍の問題

さて、士気の問題に関して先に進む前に、私たちの戦いの一般的問題に戻ってもいいでしょうか。私たちは教会、キリストのからだ、他の事柄のような、神聖な真理や啓示の様々な面についての教えをたくさん持っているかもしれません。その教えに価値がないわけではないかもしれません――大いに有益でさえあるかもしれません。しかし、私たちは、主の民として、実際に戦時下にあることを、よくわかっているでしょうか。私たち神の民は戦争状態の戦場にあることを真に自覚しているでしょうか?自分は一大軍事作戦に参加している、このことでは決して手を抜かずに最後まで戦い抜くぞ、という自覚や意識を、すべての部署や個人が持っているでしょうか?キリスト者の戦いという主題についての教え・指導・情報と、実戦で戦っている自覚とが乖離しているかもしれませんし、確かに乖離していることがよくあります。主の民の多くがこの教えに耳を傾け、それに興味を持ちますが、実際には戦いに参加しておらず、戦いの役に立ってもいません。「進め、キリスト者の兵士らよ!」と歌いながら全然戦わないのは愚かなことです。

きっと、今のような時、主は私たち全員に、若者にも老人にも同じように、こう仰せられるでしょう、「あなたは、自分が軍務に、一大軍事作戦に参加している事実を、真に自覚しているでしょうか?あなたは、この宇宙で起きている途方もない何かの一部であり、その中で大いに決定的な個人的地位についていることを、真に自覚しているでしょうか?」。私たちがこれを決定的かつ明確に自覚するようになることが緊急の課題です。もしかすると、私たちの敗北の多く、私たちの間の惨事の多くは、大部分次の事実によるのかもしれません。すなわち、私たちは敵との戦いに向かっておらず、あまりにも敵をのさばらせているのです。敵に地歩を与えて、敵が私たちを弄んで好き勝手するのを許しているのです。この問題に関して私たちが自分の足で立ってさえいれば、おそらく、避けられた災難もあったでしょう。私たちは諸々の環境――肉体的弱さ等――を別個のものと思ってきました。それに立ち向かって、「この裏には敵からのものがどれくらいあるのだろう?」とせめて問うことすらしなかったのです。もちろん、肉体等の制限に関するすべての事例で敵が優位に立っているわけではないかもしれませんが、とても多くの場合、敵が優位に立っています。解放の道は、「永遠の命を握」って「信仰の良い戦いを戦」(一テモ六・十二、欽定訳)わなければならないことを認識することです。「永遠の握りなさい」!

士気の基礎

さて、この士気の問題について、これまで述べてきた本から素晴らしい節を引用したいと思います。この報告を作成した偉大な陸軍大将である著者はこう述べています、「士気は心の状態である。それは人の群れ全体を動かす無形の力であり、これにより彼らは何かを達成するために代価を顧みず自分を捧げ尽くす。これにより、自分は自分よりも偉大な何かの一部であると彼らは感じるようになる。そのような感覚を彼らに持たせて、士気を持続させるには(士気の本質はその持続性にある)、一定の基礎を据えなければならない。これらの基礎とは霊的、知的、物質的基礎であり、重要性はこの順番のとおりである。霊的基礎が第一である、なぜなら霊的基礎だけが実際の試練に耐えうるからである」。(これは素晴らしくないでしょうか?もちろん、「霊的」という言葉の意味については様々な考えがあるかもしれませんが、これを天的事柄の領域で解釈すると、この原則は実に健全であり、この知恵は実に深遠です。)「知的基礎が次である、なぜなら人は感情だけでなく理性の影響も受けるからである。物質的基礎が最後である――大事だが最後である――なぜなら最も高度な士気は時として、人の物質的状態が最低の時に生じるからである」。(なんと大きな霊的益をこれから引き出せることでしょう!)

彼は続けて言います、「自分の事務室に座ってこれらの基礎を列挙していた時のことを私は思い出す。そのリストは次のようなものであった。」

「1.霊的基礎:
(a)偉大かつ崇高な目的がなければならない。
(b)それを達成することが絶対に必要でなければならない。
(c)それを達成する手段は勇猛果敢なものでなくてはならない。
(d)自分の姿勢や行動がこの目標達成に直接影響を与える、という意識を持たなければならない。」
(これを天的事柄の領域に翻訳すると、なんと重要不可欠な教訓に満ちていることでしょう!)

「2.知的基礎:
(a)目標は達成可能であると心に確信していなければならない。」(これは心を探ります!)
「(b)自分が属している組織、目標を達成しようと努めている組織は、健全かつ効果的であることを、理解しなければならない」。(おそらく、これを次のような意味に解釈できるでしょう。すなわち、私たちは自分の信念を信じて、目的のものを得るための教会の霊的装備の妥当性を認識しなければならない、という意味です。)
「(c)自分の指導者たちに信頼し、どんな危険や困難に遭うよう求められたとしても、自分の命は無駄に費やされることはないと理解しなければならない」。

「3.物質的基礎:
(a)自分の指揮官や軍から十分な支援を受けられる、と感じられなくてはならない」。(私たちの指揮官から十分な支援を受けられることについては何の心配もありません!しかし、おそらく、軍から個人的・総体的に十分な支援を受けられるかどうかは、必ずしも定かではないかもしれません。軍のその他の部分からの支援が確かであることが、士気の重要な要素です。)
「(b)可能なかぎり、任務のために最高の武器と装備が支給されなければならない」。(『神の御旨全体』にしたがって指示を与えてくれる『牧者たちの下に』いる責任を思い出さないでしょうか?)
「(c)作業環境はできるだけ良好でなければならない」。

士気の基礎をこう分析・要約した後、著者は次に古典的文章を付け加えます。それに私は二重線を引きました。これを陸軍大将が述べていることに注意してください。彼は大胆にもこう述べています、「キリスト教宗教は他の何ものにまして永続的勇気の源である。永続的勇気こそ、士気を構成するあらゆる要素の中で最も価値あるものなのである!」。

この本にはこうしたことがたくさん記されています。この士気の問題は最も重要な問題です。このような士気の欠如・衰退に対抗するために、主はギデオンにとても重大な注意を与えて言われました、「水をなめたこの三百人で、わたしはあなたたちを救い、ミデアン人をあなたの手に渡す」(士師七・七)。

士気に対する敵の攻撃

さて、これについて少し考えるなら、私たちの新約聖書は士気についてかなり述べていることに気づきます。なぜなら、結局のところ、「キリスト・イエスにある恵みの中で力づけられなさい」(二テモ二・一)「主の中で、また彼の偉大な力の中で力づけられなさい」(エペ六・十)「男らしく、強くありなさい」(一コリ十六・十三)といった忠告や嘆願、このような勧めはみな、霊的士気というこの戦略的問題と関係しているからです――先に進んで進み続ける霊的持久力と関係しているからです。主がこれに置いておられる重要性を私は強調したいと思います。少しのあいだ、前の章で述べたことに触れさせてください。敵の大きな狙いは冠を、御座を辱めることです。その権利、要求、権益を拒否することです。人々から冠を、彼らの遺産を奪うことです。これに対処し、反撃し、打ち勝つには、私たちが「士気」と称している霊的持久力に関するこの問題が実に重要です。

私たちが引用している著者は、軍事作戦開始時の敵側の状態について、いくつか残念な比較をしています。敵の士気に関して言うと、「長い間、それを打ち破るのはほぼ無理だった」と述べています。そして、彼はその理由を一点に集約しています。彼は言います、「敵は戦う時、まるですべての個人の上に権益全体、問題全体がかかっているかのように戦ったのである。たとえば、五百人がある陣地を守るよう命じられたとしよう。われわれはその陣地を得るために四九五人殺さなければならなかったのであり、残りの五人は自害したのである。一人も降伏しようとしなかったのである」。戦争の問題全体が自分と自分の命にかかっている、という意識を各人が持っていたのです。何のためらいも疑問も持たずに、また他の都合を顧みずに、これに打ち込んでいたのです。これが士気の秘訣です。そしてこれが、一方において、敵の長きにわたる継続的勝利の一大物語の隠れた理由であり、他方において、私たちの敗北の隠れた理由です。

これはこの問題全体に対する鍵ではないでしょうか?「だれでも恐れおののく者は……」。どうして恐れおののかなければならないのでしょう――どうしてでしょう?どうして恐れなければならないのでしょう?この一大事以上に大事なことが何か自分の生活の中にあるからでしょうか――御座と冠、その統治と仲間の同胞たちの天的市民権という遺産以上に大事なものが何かあるからでしょうか?自分にとってもっと重要なものが何かあるからでしょうか?もしあるなら、それが恐れとおののきの原因です。まさに恐れの存在が、何か他の都合の存在を示します。もし御座の権益と誉れが自分の唯一の関心事なら、それは他のものをすべて脇にやること、そして、死ぬまでこの戦いを戦い抜くことを意味します。これが、明らかに、ギデオンのこの物語における士気の力の原因です。この人々には何の代替案も次善策もなかったのです。

著者は述べています、「このような敵に直面している兵士は次のことに注意しなければならない。すなわち、敵が何をしているのか、敵は勇敢か臆病かが、その同志全員に大きな違いを生じさせるのであり、戦い全体の結果に直接的影響を及ぼすのである」。士師記七章はすべて、この個人的面に集約されます。これは改訂標準訳のより現代的な翻訳でははっきりと示されています。「わたしがあなたに、『この者はあなたと共に行かなかればならない』と言う者は、あなたと共に行かなければならない。わたしがあなたに、『この者はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、すべて行ってはならない」(四節)。神は数千人を取り扱っておられましたが、彼らを言わば「まとめて」取り扱おうとはされませんでした。神は彼らを一人一人取り扱われました。神はこれを各人個々の個人的問題にされました。ですから――「この者はあなたと共に行かなければならない……」「この者はあなたと共に行ってはならない……」と神は言われたのです。すべてが個人的問題にされたのです。

士気の集団的影響

しかし――「私たちのうちだれも、自分自身に生きる者はなく、自分自身に死ぬ者はいません」(ローマ十四・七)。つまり、あなたや私が個人的にこの戦いの中にどう立つのかが、この問題全体に影響を及ぼすのです。これを信じさえするなら、なんと素晴らしい助けと力の源になることでしょう!しかし、私たちがそれを信じようと信じまいと、これは事実なのです。これは自然界でも認識されており、霊の領域でもそれ以上ではないにせよ同様に真実です。「あなたたちが主の中で堅く立ってくれるなら、いま私たちは生きるからです」!(一テサ三・八)。この戦いにおけるあなたの振る舞いと私の振る舞い――私たちが立ち上がるか諦めるか――が他の人々に深刻な影響を与えます。確かに与えます!私たちはこれを握って言う必要があります、「この問題は、結局のところ、私だけのものではありません。私の行動、私の霊、私の姿勢が他の人々に影響を及ぼします。もし私が戦いの中で弱くなるなら、もし私が信頼のおけない戦士なら、もし私の様子や状態が日によってまちまちで当てにならないなら、もし私がそんな有様なら、それは状況全体に影響を及ぼします。それはこの団体的からだを、その構成全体を弱めてしまいます」。私たちは身を引き締めて強くならなければなりませんが、それは、私たちがそうなることを私たちの兄弟姉妹たちは必要としているからであり――それがこの戦いでは必要だからです。私たちは決して弱くなって諦めたりしません。なぜなら、この問題では孤立することはできないからです。

主はこの立場に基づいてギデオン軍に働きかけておられました。主は事実上こう言われました、「だれであれ恐れおののいている者が一人でもこの企てに加わるのを許すなら、その人は他の人々全員に影響を及ぼすでしょう。そんなことは許せません。そのような人はみな去らせなさい。だれであれ個人的都合を持っていて、天然的な自尊心や自惚れのせいで自分自身に栄光を帰す人が加わるのを許すなら、それはこの問題全体に禍いを及ぼすでしょう。そのような人はみな家に帰らせなさい。ここにいるのにふさわしい人々、この解放の道具にふさわしい人々は、純然たる内在的価値のある人々に限られます」。確かにこれが私たちに対する主の取り扱いの理由です――主は私たちを減らし、空っぽにし、弱め、挫折させ、散らされます。神は何をしておられるのでしょう?内在的価値のあるものへの道を造っておられるのです。その価値あるものとは、私たちの目的が主である時、ただ主だけである時に見つかるものです。私たちの問題は主――その栄光、その栄誉――でなければなりません。

一言で言うと、これが士気です。もちろん、この決定的問題に関して、もっと多く述べることもできるでしょう。もう一つ短い引用をして終わることにします。著者は述べています、「われわれにはわれわれの敵に対して有利な点が一つあった。それは、われわれの目的が、虚偽ではない真実の霊的価値に基づいていたことである。われわれが戦った理由はただ一つである。すなわち、悪の勢力が」(なんという句でしょう!)「真に霊的に価値あるこれらのものを攻撃していたからなのである」。

彼が「生きるに値する人生」(彼はこの句を後の方で使っています)の価値について述べていたことが、今わかります。これらのものによって、人生は真に生きるに値するものになります。しかし、これを天的事柄の領域に当てはめようではありませんか。この節は繰り返し読む価値があります。彼は続けます、「人は自覚しなければならない、確かに自分には立派な目的があることを、また、もしそれを守らなければ、人生は生きる価値を失うことをである。立派な目的を持つだけでは十分ではない――その目的は勇猛果敢なものでなければならない。たんなる受け身的・受動的なものであってはならないし、『反何々』根性であってはならない。そうではなく、勇猛果敢なものでなければならないのである」。

これらすべてが士気の基礎です。私たちはこれを深く心に留める必要があります。なぜなら、私たちは東南アジア軍事作戦よりも遥かに偉大なものの中にあるからです。遥かに、遥かに偉大な問題がかかっています。遥かに偉大な冠と御座と御名と統治と祖国が関係しています。遥かに大きな敵が戦場にいます。ですからパウロは懇願します、「それゆえ私はあなたたちに懇願します……」。そして、教会の輝かしい究極的完成のための戦いというこの問題全体を次のようにまとめています。「最後に、主の中で、また彼の力強い大能の中で力づけられなさい。神のすべての武具を身に着けなさい。それは、あなたたちが立つことができるためです(中略)。神のすべての武具を取りなさい。それは、あなたたちが邪悪な日にあって抵抗することができるためです」。

「主の中で力づけられなさい」!どうか主が私たちを助けてくださいますように!