第四章 諜報、単一性の中の多様性と、多様性の中の単一性

T. オースチン-スパークス

「それは、私たちがサタンにつけ込まれないためです。なぜなら、私たちは彼の策略を知らないわけではないからです。」(二コリント二・十一)

A.諜報(Intelligence)

私たちの霊的戦いにおいて考慮すべき次の重要な要素は、諜報の問題です。上記の聖書の御言葉を引用したのは、とっかかりとしてではなく、その文脈を遥かに超えたものへの鍵としてです。まるでこの御言葉をその文脈から切り離しているように思われるかもしれませんが、決してそうではありません。再び例の本から引用することにします。この本からすでに多くの抜粋を引用してきましたが、これは先の戦争中、東南アジアで実施された軍事作戦の偉大な記録です。「敗北」という見出しの下で――この主題に、この長い報告の半分が割かれていますが、これは悲しい悲劇的な部分です――次のような言葉が述べられています、「われわれの諜報はひどくまずかった。われわれは盲目のボクサーのようだった。見えない敵を叩こうとしていたのである。また、当たるまでどこから飛んで来るのかわからないパンチをよけようとしていたのである。われわれの諜報組織全体があまりにも非効率的だったことが、おそらく、われわれの最大かつ唯一の障害だった」。

この言葉はすべて重要であることがわかります。なぜなら、これが最も重要になるのは霊の領域においてだからです。著者は続けます。
「最初に正すべきは諜報組織だった。情報をある程度信頼できるようにならないかぎり、敵を首尾よくつかまえる望みは持ちえなかった。われわれは系統的に収集された機密情報の欠如を一度も補わなかったのだが、戦争が始まった時、われわれにはその機密情報が必要だったのである。」

さて、この僅かな抜粋は、私たちの戦いにとっても、きわめて啓発的であり、教訓的であり、重要です。霊的戦いのための霊的諜報、これは領域の大半を網羅します。ここでとても力強く指摘されているように、これは軍事作戦全体の基礎です。霊的諜報に欠けるなら、勝利のための決定的条件の一つに欠けることになります。これは地的領域ではよく知られている定説です。すでに繰り返し述べてきたように、もしこれが天然の領域で証明されてきたように真実だとするなら、霊の領域ではなおさらです――霊の戦いにおけるこの諜報の問題になんと多くのことがかかっていることでしょう!

霊的諜報は敵の盲目にする働きへの反撃である

そこで、天然的戦いから霊的戦いに移ることにします。この霊的戦いをあなたも私も戦っています(戦わなければなりません)。

第一に、次のことに注意しましょう。私たちをサタンから解放するための神の御計画はすべて、霊的諜報つまり霊的照明に基づいており、それによって有効になります。使徒パウロの回心に際して、主は彼の生涯の働き、彼の任務を示して言われました、「わたしはあなたを遣わします。それは彼らの目を開いて、彼らをサタンの力から神に立ち返らせるためです」(使徒二六・十七~十八)。ここでは明らかに、次のことが前提になっています。すなわち、生来、人はみなサタンの力の中にあることです。また、彼らがそこにいるのは盲目のためであることが暗示されています。彼らは束縛されており、サタンの捕虜であり、サタンが彼らを支配していますが、その本質、その原動力、その力は、霊的盲目です。ですから、その解決法は、彼らを捕えている者に対する客観的・外面的働きかけという手段にはよりませんし、「サタン」と称されている想像上の霊的勢力を打ち破ろうとすることにもよりません。霊的に盲目な目が開かれて見えるようになる、内なる働きによります。ですから、私は繰り返し言います。人を敵から解放する計画はすべて、霊的照明に基づいており、それによって有効になります――すなわち、霊的諜報によるのです。

(a)敵は自分自身と人の状態を隠す

自分の力と人類に対する自分の支配を維持する敵の究極的戦略は、彼らを無知の状態に保つこの路線によります。敵が最も成功を収めている策略の一つは自分自身を隠すことです――彼自身と彼の働きについて人を無知な状態に保つことです――そしてまた人自身の状態を人から隠すことです。人は、もちろん、自分が盲目であるとは信じようとしません。自分が盲目であることを人に信じさせるのは、とても難しいことです。人は知性、良識、学識、啓蒙的であると思われる多くのものを持っているのではないでしょうか?自分が盲目であることを人に信じさせるのはきわめて難しいです。これはサタンが驚くほど大成功を収めている動かぬ確かな証拠です。彼は人自身の真の状態を人から隠しており、自分自身の盲目さに対して人を盲目にしています。

(b)敵は知識を遮る

敵の重要な戦略のもう一つは、あらゆる知識を遮ることです。この本には偵察と、偵察の妨害について多くのことが述べられています。敵がどのように優位に立って、最初の軍事作戦で凄まじい勝利を得たのかについて多くのことが述べられています。それは主として、敵軍の偵察部隊を完全に活動不能にすることによりました。著者は偵察不足や偵察の失敗について、そしてその代償について、絶えず不平を鳴らして抗議しています。この遮断の問題では、相手側に機密情報をもたらす工作員や手段をことごとく断ち切るこの問題では、敵が疑いなく優位に立っていました。

敵に関する私たちの知識、敵と敵の方法に関する私たちの情報について、あまり多く述べようとは思いません。それよりもっと益のあること、もっと積極的なものに取り組みたいと思います。しかし、諜報を遮り、遮断し、不可能にし、軍隊を無知な状態に保とうとする敵の思惑は、重要な要素であり、先に進むとき私たちはこれを強調しなければなりません。

使徒パウロは、すでに述べたように、偉大な兵士、偉大な戦士であり、この問題を大いに意識していました。彼自身常にこの問題に立ち向かいました。照らし、啓示、知性(intelligence)、霊的理解力の問題についてパウロが記していることをすべて集めるなら、有益な学びになるでしょう。たとえば、六回以上、別の場所、別の文脈で、パウロが「私はあなたたちに無知であってほしくありません……」(ロマ一・十三、十一・二五、一コリ十・一、十二・一、二コリ一・八、一テサ四・十三)という句を使っていることは印象的です。この六箇所の文脈を見ると、それぞれ重大な意義があることがわかります。「兄弟たち、私はあなたたちに無知であってほしくありません……」と彼が述べた後、決定的に重要な何かが続くのです。

霊的知性は、ですから、人を盲目にして煙に巻くサタンの働きから人を解放することと第一に関係しています。

知性(Intelligence)による嗣業の獲得

第二に、神の民の嗣業を確保する全き基礎は霊的知性です。これは救われる以上のことです。救いは霊的照らし、内なる目の開眼と共に始まります。しかしその後、救いをその究極的目的であるキリストの豊満へと推し進めることは、霊的知性、照明、理解力、知識の線によります。これらの単語が別のことを意味するのか、それとも同じことの別の言い方なのかは問題ではありません。結果は同じです。

たとえば、ヨシュア記は嗣業についての書であることを私たちは知っています。民は中に入って行って所有、占領、開拓、継承することになっていました。しかし、イスラエルが四十年前にその地の境界に来た時、まさに最初に取った行動は何だったでしょう?諜報部隊(Intelligence)を設けることでした。その地を探るためにスパイが送り出されました。ヨシュアは諜報員、彼の諜報部隊を派遣しました。諜報活動がここではとても重要でした。ヨシュアとカレブはまさに諜報活動の原則を体現していると言えるでしょう。やがて民が入って行って所有する結果になる報告をもたらしたのは彼らでした。しかしここで興味深い、印象的な、意義深い点に注意してください。民は彼らを石打ちにしようと思ったのです!(民十四・十)。敵はその地にいただけでなく――民自身の心の中に入り込んでいたこと、そこに足場を得ていたことがわかります。これは原則的にも歴史的にもなんと真実でしょう!神のいずれかの民が何らかの新しい光を得始めると、主の道具として、彼らはサタンの憎悪の的になるのです。サタンはその道具を石打ちにするよう軍勢を唆します。彼は霊的照らしの道具を憎みます。

第二章で指摘しましたが、エペソ人への手紙はすべて一つながりです。つまり、漸進的に進んで行きますが、それにもかかわらず一つのことと関係しています――教会が嗣業にあずかることと関係しています。その実現のために途方もない戦いがなされています。「主権者たち、権力者たち、天上にいる悪霊どもの軍勢」がそれに反対して配備されている、とそれは述べています。しかし、この戦いを引き起こすもの、それを活性化するもの、私たちをして悪の勢力に立ち向かわせるものは何でしょう?パウロは祈っています、「あなたたちの心の目が照らされて、あなたたちが知りますように……あなたたちが知りますように……あなたたちが知りますように……」。これがこの戦いの理由です。それは「神の民が知りますように」というこの点を絶えず巡っています。自分は真にこれを把握しているのか――十分にこれを自覚しているのか――私たちは自問した方がいいでしょう。

結論
(1)漸進的知性が勝利に不可欠である

では、結論はどうなるでしょう?第一に、知性、霊的知識、理解力が、この霊の戦いで勝利するためのとても大きな要素です。これを心に留めましょう。遅かれ早かれ、私たちはこれに気づいてこれを証明することになります。「早い」か「遅い」かは私たちがこの事実を真に把握するかどうかにかかっています。霊的理解力がなければ完全な勝利にはあずかれません。行き当たりばったりで、たまたまそこに着くことはありません。そこに漂着することはありません。気づいたらそこにいた、ということはありません。道中ずっと私たちは、自分たちの手に負えない、主からの霊的理解力と知識――それがなければ切り抜けられません――が必要な状況に出くわすでしょう。前進する一歩ごとに、さらなる霊的知識、さらなる霊的理解力が必要です。それがなければ、私たちはいつまでもお手上げのままでしょう。

これは経験上真実ではないでしょうか?私たちは袋小路に入ってしまい、主のもとに行かざるをえません。そして、主が光を与えてくださるまで、私たちはその袋小路の中に閉じ込められます。一たび光が閃くなら、一たび理解するなら、一たび「今、私はこの意義を理解しました!」と言えるようになるなら――悪魔の支配は砕かれ、私たちは解放されます。私たちは状況の背景を理解しなければなりませんし、出来事をたんに額面どおりに受け取るのではなくその意義を素早く察知しなければなりません。こう問わなければなりません、「そうですね、これは全く自然に見えます。これは人の失敗や環境等によって、ごく自然にすっかり説明がつくように思われます。しかし、この背後には何かがあるのかもしれません」と。もっと警戒しなければなりません。そうしていれば、もしかしたら、私たちは戦いで打ち負かされていなかったかもしれませんし、私たちの助けを必要としていた人々から不幸にもその助けが奪い去られることもなかったかもしれません。サタンは自分の陰謀を奥深くに秘めて、巧みに覆っているのではないでしょうか?彼は「まあ、見てご覧なさい。それはかくかくしかじかだったのです」と論じます。ああ、ちがいます、それはそういうことではなかったのです!――たとえそうだったとしても、それは私たちにこのような影響を及ぼすべきものではなかったのです。

霊的知性は、ですから、霊的戦いにおける、そして霊的成長と発達における、一つの途方もない要素です。「それは私たちが知るためです……それは私たちが知るためです……」――ここで大きな戦いがなされているのです!

(2)知性は行動に導かなければならない

私たちの結論の二番目の点は、私たちの知性、私たちの知識の後に、行動が続かなければならないということです。たんなる理論的知識ではなく、実践的知識でなければなりません。私たちは聖書の中に霊の戦いの理論をすべて持っているのではないでしょうか?創世記から黙示録までにその計画の全貌があります!しかし、私たちはそれを適用しているでしょうか?それを適用しているでしょうか、それともそれはたんなる理論でしょうか?その後に行動が続いているでしょうか?それとも、私たちが持っている理論は、いざという時、全く何の役にも立たないのでしょうか?助けにならないのでしょうか?私たちは自分の知識を適用・実践しなければなりません。知識は行動に導かなければなりません。

(3)敵が引き起こす無気力さに対して目を覚ましている必要性

第三に、敵が特別に関心を寄せているのは、神の民の霊的知識が増し加わらないようにし続けることです。この言葉は領域の大半を網羅します。主がご自身の子供たちに何らかの特別な霊的知識を分け与えようとされる時、大抵、彼らの上に奇妙な無気力さが臨みます。この種の無気力さは時として邪悪なことがあります。それはたんなる疲れや疲労以上のものです。見たところ何の理由もないのに、それは突然私たちの上に臨むように思われます。神の子供たちが、この無気力感に屈服して、そのような時に家にとどまっていたために、必要不可欠なものを奪われてしまうのを、私はこれまでの長い経験でよく見てきました。

私たちは家にとどまりたがる傾向を天秤にかけて、判定しなければなりません。家で静かに一人でいることが主からである時もあるかもしれません。しかし、敵に完敗を喫して何かを奪われていないかどうか、注意しようではありませんか。ああ、神の民はなんと無警戒なことか!それによってなんという損失を被っていることか!確かに、悪魔は無気力さを生じさせたり、何らかの困難、何らかの障害、何らかの環境を生じさせたりします。それは阻止するためです――何かの折りにあなたがそこに確実にいないようにするためです。そうなるとトマスのように、主が来られる時にあなたはそこにいないことになります。これは挽回するのが容易ではない損失であること、後日何らかの敗北を現実に喫しかねないことがわかるでしょう。来るべき状況に必要なものが、主によって備えられてそこにあったのかもしれません。起きていることの意味に注意せず、環境や出来事を額面どおりに受け入れたせいで、あなたは何らかの霊的益を失ったのです。これはなんと重要でしょう!「知識から知識へと至る」よう、どれほど目を覚ましていなければならないことでしょう!パウロが述べているとおりです、「祈りと嘆願のかぎりを尽くして祈り(中略)そのために目を覚ましていなさい……」(エペ六・十八)。

(4)光で照らす務めに対する敵の反対

最後に、神の民を霊的に強める務めに対する反対は、サタンのきわめて明確な働きの一つです。この言葉の背後には多くの歴史があります。主を知るいっそう豊かな知識と、彼の教会に関する彼の御旨についての理解とを与える務め――私の念頭にあるのは個人的な務めだけではありません――や他の何らかの手段が起こされるとき、その務めだけでなく、その務めの手段、その務めの媒体や器、その務めの場所までもが、すべてサタンの断固たる反対の的になるのです――それはそれを滅ぼし、打ち倒し、崩壊させ、麻痺させるためです。何らかの方法で――どうにかして――務めのその手段を滅ぼすためです。これに対して私たちがよく気をつけていられれば!

B.単一性の中の多様性と多様性の中の単一性

効果的に効率よく戦う軍隊は、なんと多くの多様な機能から成っていることでしょう!活動と手段の両方に関して、それに付随するものや補うものがほとんど無限にあります。軍隊の中には、多数の明確な「予備軍」や支援軍があります。よくご存じの主な部門のいくつかを考えてみてください。補給のための軍事戦務部には、電気や機械に関する技術者たちがいて、設置・修理・建設をすべて行います。兵站部は、調査・地図作製・経路指定等、とても様々なことを行います。給与部はとても重要であり、人々が自分の分け前や権利を受け取るよう配慮します(そうすることはきわめて重要です。この領域で不満が生じると、組織全体がひっくり返りかねません!)。諜報部については、今しがた述べました。医務部は健康、治療、介護、その他の多くの任務といった問題全般を取り扱います。ここには多くの、多くの機能があります。さらに、これらの主要な部門の中にも外にも、ほとんど無数の細目があります。それらの細目は別の人々に委ねられており、そのすべてが必要不可欠です。

ここにこの本からの本当に素晴らしいささやかな段落があります。そこでは素晴らしいことが述べられていますが、陸軍大将が述べている点がさらに素晴らしいです。なぜなら、この最高責任者は大きな責任と重い地位と名声にもかかわらず、ごく細かな点をも見落とさなかったことを、これは示しているからです。自分の責任を自覚し、自分の振る舞いや態度が及ぼす効果や影響を自覚している、戦線のすぐ近くにいる人について、彼は述べています。彼は続けます。「しかし、路上で働いている人は中々気づかないだろう。遥か後方では、事務官が軍需品集積場の在庫を確認しており、電話交換手はこつこつと電話を繋ぎ、清掃人は単調な仕事を果たし、補給係将校は整然と靴紐を支給しているのである。これらの人々や他の多くの人々にとって、自分もまた重要であることを理解するのは、さらに難しいだろう。あなたは軍隊の五十万人の中の一人かもしれないが、あなたの単調な任務は計画全体の一部であることを理解しなければならない。そして、それとあなたの上に何がかかっているのかを理解し、それを行うことに誇りと満足を覚えなければならない」。

私が言わんとしていることはおわかりでしょう。単一性の中の多様性――多様性の中の単一性です。多くの御言葉が心に思い浮かびます。「賜物は多様ですが、同じ御霊です(中略)唯一の同じ御霊がこれらすべてのことを行われます」(一コリ十二・四、十一)。単一性の中の多様性と多様性の中の単一性というこの問題について、パウロは多くのことを述べています。主は教会の中にそれが見いだされるようにされます。

聖霊:十分な、必要不可欠の、主権を有する御方

さて、まず第一に、次のことを理解するよう努めましょう。聖霊はこの一大軍事作戦に必要なものをすべて理解しておられます。つまり、彼は必要な領域をすべて網羅しておられるのです。彼ご自身がすべての班、すべての部門、すべての職務のための供給、原動力、能力です。彼はすべてを理解しておられ、必要なものを何一つ見落とされません。彼はすべてを網羅されます。これを別の言い方で述べると、聖霊の中にこの軍事作戦全体――そのすべての部門や詳細――のために必要なすべての才能、能力、賜物があります。彼が教会に与えられているのは、そうした一切のものになるためです。

しかし、次の段階は以下のことを理解することです。すなわち、聖霊が各自に個人的に与えられているのは、各々をこの一大軍事作戦で機能させるためなのです。この戦いの役に立っていない者、この戦いに必須の存在ではない者、実際に有効ではない者、何らかの形で貢献していない者が、キリストの中に一人もいてはなりません。もしそのような「機能していない肢体」が存在するなら、何かが間違っています。なぜなら、御霊の現われが私たちに与えられているのは「益となるため」である、と御言葉は述べているからです(一コリ十二・七)。「各自に与えられているのは全体の益となるためです」とコニーベアの訳ではなっています。つまり、私たちを包括的な益と利得の一部とするためです。もし私たちがこの戦いに必要不可欠な存在でないなら、聖霊が何らかの形で私たちによって妨害され、阻止され、邪魔され、妨げられていることを意味します。聖霊に対する私たちの関係の中に何か問題があるのです。

第三に、聖霊は御旨のままに賜物を賜ります。つまり、彼が主権者なのです。自分がこの軍隊の中で何をするのか、どんな地位を持つのか、どんな働きをするのかを決めるのは、あなたでも私でもありません。それは聖霊の権限です。私たちがすでに引用した節の結論でパウロが述べている言葉を思い出しさえすればいいでしょう(一コリ十二・十一)。それは御旨のままに分配される聖霊の賜物に関する言葉です。あなたも私も、ですから、自分の生得権として、「聖霊は私たちを何らかの方法で資格付けて、この偉大な軍隊で機能を果たす者にしてくださらなければなりません」と要求するべきです――これは「補給係将校が規則的に分配する靴紐」のような者であれ、あるいは、遥かに重要と思われる者であれ、そうなのです。とはいえ、戦闘中の兵士に靴紐がなければ、それは確かに深刻な問題です!

私が言わんとしているのは、もちろん、これらはすべて必要であり全体にとって不可欠である、ということです。自分の仕事はあまりにも小さな仕事である――重要ではない、と言ってはなりません。それは重要なのです。確かに、一本の「靴紐」に至るまで全体にとって重要なのです。あなたや私がしている仕事や、与えられた仕事の性質によって、その重要性が決まるわけではありません。その重要性は全体に対する関係によって決まります。重要なのは個人の重要性の問題でもありません――あなたではありません。私たちが帯びうる重要性は、全体に対する私たちの関係に由来します。ですから、私たちはこの問題に関して調整が必要です。

私は堅く信じています。聖霊は何らかの方法で、この戦いの中できわめて決定的な機能を果たすよう、各肢体、各人を資格付けてくださるでしょう。なぜなら、この「多様性の中の単一性」においては、すべてが大いに関係しあっており、すべての肢体が重要だからです。

使命感と奉仕の精神の動力

使命感や責任感の有益さについて、一言述べて終わることにします。自分がその中にあるものの偉大さを、私たちが自覚してさえいれば!聖霊を受けた者として、重要人物、価値ある人物でなければならない、という新鮮な感覚を持ってさえいれば。なぜなら、私たちが聖霊を受けたのは――価値ある者とされるためだからです。自分はどうなのかが重要です。自分がどうなのかは自分にとっては重要ではありませんが、体制全体にとっては重要です。これに関するしかるべき感覚を持ってさえいれば、私たちはなんと救われることでしょう!もし私たちの姿勢が「自分は重要ではありません、役に立ちません」というものなら、間もなくどのような結果になるでしょう?惨めな人生です!

最近、私は自己憐憫に関する記事を読みました。その記事では、ある女性が精神科医の助けを求めた顛末について述べられていました。「私は神経衰弱に罹っています」と彼女は言いました。精神科医は多大な労を惜しまずに彼女の来歴を分析し、慰めとなる助言の言葉を与えてくれるだろうと、彼女は明らかに期待していました。しかし彼は言いました、「親愛なる御婦人、家にお帰りなさい。あなたの玄関の鍵を回して、鉄道を渡った先にあるあの貧民街に向かいなさい。そして、助けを必要としている人を見つけて、仕事に取り掛かりなさい。そうすれば、あなたは決して神経衰弱にならないでしょう!」。

この言葉には多くの神聖な良識がこめられています。私たちは与えることによって拡大されます。与えることによって私たちは何も失いません。私たちが増し加わるのは与える道、外に向かう道によります。そうです、「主の働きに常にあふれていなさい」。常に外と調和しなさい。奉仕の精神に促されて、どこにいても役に立つ者、助けになる者となるよう努めなさい。聖書を腕に抱えて、集会に行って語る用意をするだけでなく、実際的方法のかぎりを尽くして主の子供たちに対して霊的・物質的助けとなりなさい。これこそ、私たちを惨めな存在から救うだけでなく、私たちを広げてくれる道です。

これはとても実際的ですが、大いに真実です。御霊が私たちに与えられているのは「益となるため」です!聖霊は生来の私たちがなりえないような価値ある者に私たちをならせることができます。もし自分自身の状態のまま、自分自身の天然の手腕、賜物、能力のまま――あるいはそれらに欠けたまま――放置されていたら、私たちの多くは今頃どこにいたでしょう?私たちは全く何の役にも立っていなかったでしょう。なぜなら、私たちには何もないからです。しかし御霊は見事に私たちの欠け目を補ってくださいます。私たちの欠点を実際に益にしてくださいます。御霊の助けにより、私たちはみなこの戦いの役に立つ者になれます。そうならなければなりませんし、そうでなければなりません。