第五章 精神もしくは心構え

T. オースチン-スパークス

「なぜなら、私たちは肉の中で歩いてはいても、肉にしたがって戦っているのではないからです(私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前に力があって、要塞をも破壊し)神の知識に逆らい立っている想像や、あらゆる高ぶりを打ち倒し、あらゆる思いをとりこにして、キリストに対して従順にならせます。」(二コリント一〇・三~五)

この節の後半を取り上げます。「想像を打ち倒し(欄外は『理屈』という別訳を与えています)……あらゆる思いをとりこにして、キリストに対して従順にならせます」。私たちは今、この大きな霊の戦いに関して、精神の問題を一緒に見ることにします。誤った精神は勝利を危うくする脅威ですが、正しい精神には途方もない益があります。私は再び、一連の章を通して引用してきた本を用いることにします。この本では「精神」という言葉は明示的に使われていませんが、私が述べようとしていることの本質は確かにそこに見いだされます。

高等指令官に関する誤った考え

私たちが最初に考えた主題――最高司令官という主題――に戻って、直ちにこう述べることにしましょう。戦場にいる通称教会と呼ばれている全軍勢の最高司令官である主イエスに関して、誤った考えを抱くおそれがある、と。彼に関する誤った考えとは、彼はすべてをささげる対象ではなく、すべてをそこから得る対象である、というものです。自分たちは本部から何を得られるのか、自分たちにとってどんな益があるのか、自分たちに引き寄せる観点で常に考えてしまう大きな危険性があります。事実上――私たちはこれを決して認めないでしょうが――自分たち自身、自分たちの権益を、実際のところ、最高司令官の権益の代わりにしてしまうのです。なぜなら、結局はそうなるからです。

まさにこの点に関して、「一般的」キリスト教は大きな害を及ぼしてきました。キリスト教は誤った基礎の上に据えられてきました。あるいはもしかすると、少しばかり寛大になろうとして、不適切な基礎の上に据えられてきました。宣べ伝えはほとんど、私たちは何を得るのか、という観点からしかなされていません。私たちは永遠の命、平安、喜び、満足を得ます――これらすべてに加えて天も得ます!しかし強調点の大部分は、私たちは主イエス、私たちの最高司令官から何を得るのか、ということです。これは全く悪くはないにしても、もし原則となるなら、少なくとも不適切な精神と言えます。クリスチャン生活全体を誤解しています。少ししたらこの点に戻ることにします。正しい精神――よく聞いてください、この偉大な目的を果たし、この重大な目標に寄与することになる唯一の精神――は「主からすべてを得よ」ではなく「すべてを主にささげよ」という原則によって支配されている精神なのです。

これが神の支配的原則であり、この与える原則は成就する道です。主イエスの場合、これは使徒パウロの古典的な一節によって大いに明らかにされています。私たちはこう告げられています、「ご自身を空しくし(中略)死に至るまで、実に十字架の死に至るまで従順になられました。それゆえに神もまた彼を高く上げ、そして、あらゆる名にまさる名を彼に与えられました」(ピリ二・七~九)。この成就、彼が自発的に放棄された豊かさの回復が彼に臨んだのは、空しくなり、与え、注ぎ出す道によりました。なぜならこれこそ、繰り返しますが、神の原則だからです。そして、この偉大な戦いに従事している人はみな、この精神を持たなければなりません。自分たちに何が与えられるのかという観点で考えてばかりいる限り、私たちは打ちのめされ、窮し、阻まれ、敗北するでしょう。これについて思い違いをしないようにしましょう。これはそうなります。自己中心の生活は常に不満足な生活です。獲得する生活は制限された生活です。

しかし与える生活は豊かな見返りの生活です――すべて戻って来ます。「与えなさい、そうすれば与えられます。量りをよくし、押し込み、ゆすり入れ、あふれるばかりに与えられます」(ルカ六・三八)。これは主イエスの御言葉です。永遠の所有を得たいでしょうか?受ける方法は――しかしこの動機からこれを行わないでください――与えることです。これが原則です。主イエスに関して「彼はいつも与えてばかりいます」「私たちはますます彼から受けなければなりません」「彼は私たちの益のためにおられるのです」と感じる、この種の精神の間違いがわかります!これがどれほど間違っているのか、どれほど不健全で危険なのかがわかります。なぜなら、彼がこのように与えてくださっておられず、状況が少し困難になりかけていることに私たちが気づくやいなや、私たちはこの問題にすっかり興味を失い、無力な戦士、頼りない兵士、無能な奉仕者になってしまうからです。これは最高司令官に関する誤った考えのせいです。彼が彼処におられるのは誉れ、栄光、富、主権と力、そしてすべてを受け取るためです。彼はひたすら与え続け、永遠に与え続けてくださいますが、他方、彼に対する私たちの関係は、自分たちはどれだけ得るのか、ではなく、彼は私たちからどれだけ得られるのか、という基礎に基づかなければなりません。

クリスチャン生活に関する誤った考え

第二に、クリスチャン生活に関する誤った考えの危険があります。クリスチャン生活はたんに救いと祝福を受ける問題であるという考えが広まっています。救いと祝福と、救いに伴うあらゆるものを受ける問題だというのです。多くの人にとって、これがクリスチャン生活の総計です。このように多くのキリスト教説教者たちや指導者たちは述べており、このような精神が奨励されています。しかし神の御言葉が完全に明らかにしているように、クリスチャン生活はそれを遥かに超えるものです。これに関する私たちの精神もしくは「意識」は、この宇宙の究極的な基本的勢力に関する大きな戦いに関係しており、その一部である、というものでなければなりません。

なぜなら、これが核心だからです。ずっと、ずっと昔、途方もないことが動き始めました。そしてそれ以降、幾世紀もの間、神の偉大な御旨は攻撃と議論の的になってきました。幾世代もの間、神の民、神の人々は、宇宙におけるあの一つの大きな戦いに身を投じてきました。これは依然として続いています――まだ終わっていません。クリスチャン生活の真の性質は次のようなものです。あなたも私も、私たちが主イエス・キリストと関係するようになるやいなや、この中に召され、これに巻き込まれるのです。戦いの中にあるこの宇宙の究極的な基本的勢力と私が称しているものの中に、私たちは巻き込まれます。神の王国と天の王国の全軍勢が一方にあり、他方には、サタンのこの巨大で凶暴な王国があります。

これがクリスチャン生活です!これに関していかなる幻想も抱いてはなりません!主イエスはこれに関して幻想を抱くことを誰にも許されませんでした。「誰でも自分自身の十字架を負って、私についてこない者は、私の弟子になることはできません」(ルカ一四・二七)。「誰でも自分の命を救う者はそれを失い、誰でも私のために自分の命を失う者は、それを救います」(ルカ九・二四)。この御言葉は率直、正直、公平、誠実であることがわかります。この中に私たちはいるのです!この中にあることは大きな特権、大きな栄誉ですが、それはこのようなものです。これについて思い違いをしないようにしましょう。これに関して思い違いをしているせいで、多くの人々は落胆しています。彼らは時々不思議に思って言います、「私はこんな取り引きはしませんでした。これは私が期待していたものではありませんし、このために私はクリスチャンになったのでもありません。人々は私に言いました、私の生涯は喜びと幸いと平安に満ちたものになると。すべては麗しく素晴らしいものになると。そして、私は素晴らしい時を過ごすことになると――しかしいま私は何の中に陥ったのでしょう?」。まあ、そこには喜びがあり、平安があります。そこにはそれがすべてあることを神に感謝します。しかし私たちは次の事実を理解してそれに適応しなければなりません。すなわち、私たちは戦い、激しい容赦ない戦いの中にあるのです。そして、今生においてこの戦いから解放されることはないのです。

教会に関する誤った考え

第三に、軍隊自体――それは教会です、教会は軍隊です――に関する誤った考えがありえます。これに関して誤った考えを持つおそれがあります。持つおそれがある誤った考えとは――私はこれを強調して述べたいと思います――この軍隊、この教会がすべての目標・目的である、というものです。さて、私たちは教会の偉大さに関して多くのことを述べており、そうすることによって決して誇張しているわけではありません。私たちはそれについて、「神の傑作」等々のような最高の表現で語ります。私たちは神の御言葉に促されて、それを偉大な素晴らしいもの、壮大ですらあるものと考えます。確かに、教会は神が永遠の過去から御心に抱いてこられたとても素晴らしい御旨です。教会は神の御旨の中でとても大きな地位を占めています。それは最終的に栄光の教会として主イエスにささげられます。それに関してこれまで述べてきた要点、述べえた要点をすべて列挙することはしません。

しかし、述べうることを述べ尽くしたとして、私たちは依然としてこう言わなければなりません。教会は唯一の目標、唯一の目的ではなく、教会は究極的なものではない!と。教会は、結局のところ、手段以上のものではありません。それは器に他ならず、媒体に他なりません。教会以上のものがあります――教会が存在するのは他の何かのためにすぎません。おそらく、その偉大さは事実上、それが仕える目的の「超越的偉大さ」に由来します。ですから、教会を目的、「すべて」としないようにしましょう。私たちが生きる唯一完全な究極的目的は教会である、と思わないようにしましょう。私たちは覚えておかなければなりません。軍隊はそれ自身のために存在するのではありませんし、軍事作戦や戦場に出て行くのもそれ自身のためではなく、自国の権益と主権のためです。それと同じように教会が存在して戦いに従事しているのはただ御座の栄光のためであり、御座に着いておられる御方の栄光のためであり、王国の栄光のためなのです。これこそ教会の存在目的です。

もしここで誤った考えを抱くなら、その考えによって弱点が生じることがわかるでしょう。もし教会をイエス・キリストの地位に置くなら、聖霊との間に問題が生じることがわかるでしょう。これは決して教会を退けることでも、軽く扱うことでもありません。そうではなく、教会はキリストのために存在しているのです。教会に関する私たちの観念、それに関する私たちの関係はみな、確かにすべてそれと関係していますし、すべてはキリストのためであるという事実によって支配されなければなりません――それはキリストのためです。なぜ教会なのでしょう、教会とそれに関連する生活について述べられていることはみななぜでしょう?それはキリストのためです!それらはそれ自身が目的ではなくキリストの満足のためである、と私たちは見なさなければなりません。この問題に関して明確な考えを持ち、彼をその正当な地位に置かなければなりません。

務めに関する誤った考え

次に、この軍隊の中で機能を果たす問題、あるいは霊的言葉で述べると、務め、機能に移ることにします。ここでもまた誤った、不完全な、間違った見解や考えを抱くおそれがあります。もしかすると、この問題に関して私たちには少し調整が必要かもしれません。務めの真の意味・意義は何でしょう?務めはたんに知識や情報を与える問題でしょうか?務めの中で、また務めによって、もちろん、これが大いになされます。しかし、これがその目的でしょうか――ただ教えるだけでしょうか?いいえ、この務めの機能は知識や情報の分与を超えたものです。私たちは戦場にある軍隊であり、戦時に必要なのは講義ではありません――私たちの実際の必要に対する備えです。必要を意識して備えられた務めに参加するとき、私たちは真に価値あるものを得る途上にあります。しかし、集会に出席してメッセージを聞き、さらに多くの知識や情報を得るだけのために参加するとき、私たちは決してそれによってこの戦いのために資格付けられることはないでしょう。

要点を理解されたでしょうか?これがこの戦いの背景です。時々、最高司令官は様々な場所を訪問し、参謀を共に集め、状況を総括します。彼は部下全員を集めて、彼らに話します。しかし、その場は戦いの場です。平時ではなく戦時です。支配的状況は戦いの状況です。その光景と環境は実際の戦いのそれです。なぜ彼は人々を周囲に集めるのでしょう?軍隊生活の理論に関する講義を彼らにするためでしょうか?とんでもありません!彼が人々を招集するのは、直近の現状に対処する方法に関する助けと指示を与えるためです。彼らと対峙しているもの、まさに今ここで彼らが直面しているものを対処する方法に関して指揮するためです。

そして、これが私たちの集会、私たちの務めすべての性質でなければなりません。私たちは常に臨戦態勢にある人々でなければなりません。緊急事態、脅威、危険、危機に立ち向かわなければなりません。私たちがこのような精神を持つとき、真にそのように戦うとき、非常に執拗で狡猾な敵に立ち向かうとき、実際に激しい戦いの中にあるとき――私たちの集会はずっと偉大な目的の役に立つようになり、私たちの務めは遥かに大きな価値を持つようになるでしょう。私がこれを力説・強調するのを我慢してください。私たちの集会は、いかなる代価を払っても、たんなる理論の授業であることから解放されなければなりません。このような道ではいつか飽和点に達して、それ以上何も得られなくなるおそれがあります。しかし、もし私たちがまさにこの戦いの中にあって、真に本気なら、もし状況に立ち向かっていて助けを欲しているなら、私たちは助けが得られる所に行くでしょう。私たちは自分たちの集会に出席するとき、「私にはそれが必要です、それなしではやっていけません、私の状況がそれを要求しています」というこの立場に立たなければなりません。しかし要求が何もなければ、供給はなんと無意味でしょう!私たちの精神をこれに慣らす必要があります。私たちの集会と務めは、差し迫った実際の必要のための備えでなければなりません。

そしてもし私たちが真に本気なら、主は私たちが必要を抱えるよう確実に取り計らわれるでしょう!状況を大いに実際的なものに、大いに現実的なものにされるでしょう。私たちのクリスチャン生活が常に新たな必要に直面するようにされるでしょう。答えのない状況に自分が直面していることに気づいても、心配しないでください、悪い状況になったと思わないでください!主がそうなさっているのは、あなたを進ませ続けさせるためです。私たちが前進するのはただこの道によってのみであり、増大する必要という基礎に基づきます。それがなくなるやいなや、私たちは止まってしまいます。欠乏感――切迫した欠乏感――より先に進むことはありません。主は私たちの大部分をそこに――大いに現実的・実際的な道の中に、さらなる必要と常に増し加わる必要の中に――保たれるのではないでしょうか?神はほむべきかな!彼がそうされるのはただ、その必要が満たされるためです。しかし状況が当たり前の問題、習慣の問題、「まあ、集会に行くことにします。集会がある夜ですから」という問題になる時、私たちはすべての供給をたやすく死んだものにしてしまいます。どうか主が毎回私たちを、あたかも軍服を着ているかのように――つまり臨戦態勢を整えてあたかも軍事会議にあるかのように――団結させてくださいますように。

務めには必ず、与えるにしても受けるにしても、実際的な背景が必要です。私たちの間で奉仕している者たちを、たんに理論や資料しか与えないことから、神が救ってくださいますように!主は奉仕しているすべての者たちをとても実際的な背景という基礎の上に保ってくださいます。それは供給されるものが生活上の経験や実際から生み出されたものとなるためです。務めは、問題を調べ上げてそれをメッセージとしてまとめて小売りするものであってはなりません。決してだめです!それは生活から生み出された最新のものでなければなりません。そして両方の側に――奉仕する人々にも受ける人々にも――能動的実行が必要です。それは実際的問題でなければなりません。それに関して行動しなければなりません。全員が大いに真剣に尋ね求めなければなりませんし、決死の状況から生じた真剣さがなければなりません。そのような状況なので、もし私たちに主からのこの知識がなければ、もし主からの命がなければ、私たちは戦いに負けて、敵が勝つことになります。これが私たちの最高司令官によるこれらの軍事作戦、これらの「大会」、これらの集会――それに私たちは時々集います――の性質です。それらはまさに私たちが私たちの仕事――私たちの仕事は戦いです――のために装備されるためです。このようなすべての集会における私たちの目的は、いま従事している私たちの一生の仕事のために装備されることでなければなりません。

他人に関する誤った考え

最後に、この軍隊の中の他の人々――教会の中の他の人々――に関する誤った考えに移ることにします。私たちは互いに関して多くの誤った考えを抱いています。その中の幾つかは述べる価値があまりありません。ご存じのように、えり好みすること、他の男性や女性を見てあまり役に立たない者と見限って、「さて、この人は、ご存じのように、何かの役に立ちますし、何らかの意義があります。この人は基準に達しています。しかし、このもう一人の人は――だめです」と言うことはとても容易です。よく注意してください!これは危険です。私たちのえり好み、人々に関する私たちの判断によって、活動全体が妨げられるおそれがあります。結局のところ、私たち自身はどうなのでしょう?もし主が私たちに適切な度量、身の丈、資質を格別に要求しておられたなら、実際に要求しておられたなら、あなたはどこにいたでしょう、私はどこにいたでしょう?はどこにいたでしょう?あなたはどこにいたでしょう?自分がどこにいたであろうかはわかっています。私はこの戦いもしくは務めの中にいなかったでしょう!が必要をすべて供給して私をその中に保ってくださらなければなりませんと、私はだいぶ前に主と話をつけました。しかし、主は他の人々についてもそうしなければなりませんし、主にはそうできることがわかります。私たちはこの問題に関してとても注意深くなければなりません。

私たちは次のことにもとても注意深くなければなりません。つまり、しばしばそうしがちですが、私たちは他の人々のことを、私たちを凌ごうとしている競争相手、対抗相手と見なしてはならないのです。私たちは私たち自身の地位、私たち自身の権利や権限に「過敏」であってはなりません。他の誰かが私たちの前に置かれても、あるいは私たちの場所に置かれて、好意を受けたりしているように思われても、あまり過敏になったり激したりしてはなりません。クリスチャンたちの間でそのような姿勢を取ろうと思うのは恐ろしいことですが、いとも容易に起きてしまいます。自分たちを不利な立場にするかのように思われることがされたからといって個人的に立腹するなら、私たちはこの戦いからたちまち締め出されるおそれがあります――この戦いから締め出されてしまうのです!このような状況のとき、それが正しいと判断しても間違っていると判断しても、私たちの姿勢は次のようなものでなければなりません、「主よ、私はあなたのものです。私はあなたの部下です。私がこの状況にあるのはあなたのためです。人々は好きなことをすることができます――私を追い出し、他の人々を私の上に置くことができます。彼らは好きなことをすることができます。これはあなたと私の間のことであり、主よ、あなたと彼らの間のことです」。他の人々のせいで怒り、傷つき、悲しむことをあなたが自分に許すなら、それを根拠として敵がやって来て、あなたは犠牲者になります――あなたは折り畳み式ベッドに載せられて直ちに搬送されてしまいます!もしそのように倒れるなら、あなたは戦いの役に立たなくなります。注意してください!他の人々と関係するような時、自分たちの姿勢、自分たちの考えに注意しようではありませんか。

これをもっと詳しく述べることもできますが、ここまでにします。ただ次のことを思い出してほしいと思います。私たちの敵のお気に入りの戦略は、私たちの間に割り込んで、私たちを互いに見つめ合わせ、互いに見誤らさせ、互いに誤解させ、互いに不審に思わせることです。そのような軍隊――皆が疑念や疑惑や傷心感を抱きつつ互いに見つめ合っている軍隊――が何の役に立つでしょう!なんという精神状態でしょう!御言葉は「想像を打ち倒し」と述べています――もし事実をすべて知ってさえいれば、その大部分は想像であって、現実ではないことがわかったでしょう。結局のところ、そういうことを意味するものでも、示唆するものでもまったくないことがわかったでしょう。それは私たちの想像だったのです――それが私たちの上に臨んで、私たちがそれについて想像を巡らした結果だったのです。そして私たちは締め出されてしまいます!何と賢い敵の策略!それへの対抗手段は御言葉の中に見つかります、「私たちの戦い(中略)想像を打ち倒し(中略)あらゆる思いをとりこにして(中略)キリストに従わせます」。今そうしてください!あなたを傷つけ、おそらく他の誰かを傷つけてきたこれらの思いを捕らえてください。それらを捕らえてください。それらによってあなたは戦いの役に立たなくなってしまいます。それらがこの問題全体に影響を及ぼします。この軍隊の他の人々に触れます。思い出す気になれば、この背後には多くの御言葉があります。それらの思いを捕らえ、とりこにしてキリストに従わせてください。自分が正しいことを確信してください。また、たとえ自分が正しくても、赦すように、寛大であるように、決してそれを個人的な問題にしないように心がけてください。

自分たち自身に関する誤った考え

何と私たちは自分たち自身について誤った考えを抱きやすいのでしょう!パウロは言いました、「私はあなたたちの間のすべての人に言います。思うべき限度を越えて思い上がってはいけません」(ローマ一二・三a)。あなたは自分自身のことをどう思うべきでしょうか?私は自分自身のことをどう思うべきでしょうか?「思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。むしろ」とパウロは続けます。「神が各自に分け与えられた信仰の度量したがって、慎み深く思いなさい」(三b節)。つまり、パウロの別の言葉を文脈から抜き出して挙げると、「キリストの賜物の度量にしたがって」(エペ四・七)です。私たちの自己評価は、私たちが持っているキリストの度量に反比例します。私たちはキリストをどれだけ受けたでしょう?もし私たちがキリストを非常に豊かに持っているなら、もし他の誰よりもキリストを多く持っているなら、私たちはまったく思い上がらないでしょう。キリストをさらに多く持てば持つほど、私たちはますます謙遜になり、ますます自分について話すことを欲しなくなり、ますます人目につかなくなり、ますます脚光を浴びることを欲しなくなります。

「すべての人(中略)思い上がってはいけません」。このような誤った考えによって軍隊はどれほど損害を受けることでしょう!人々がこのように振る舞ったら何が起きるか考えてみてください――思うべき限度を越えて思い上がり、言わば「自分の重荷を投げ捨て」たらどうなるでしょう。いいえ、それはだめです。そんなことをすれば敵の術中にはまるだけです。私たち各自が受けたキリストの度量にしたがって「慎み深く思う」なら私たちは安全です。この大きな戦いでは、私たちがいかなる種類の考えを持っているかが大いに重要です。「キリスト・イエスの中にあったこの思いを、あなたたちの内側でも思いとしなさい……」。前の章で勧めましたが、軍隊は複数の部署に依存していること、個人の弱さによって全体が損失を被るおそれがあることを、各自は互いに理解しなければなりません。このようにその作用は両面的です。私たちは自分個人の重要性を過大評価するするおそれや、他に関する自分の意義を過小評価するおそれがあります。思うべきように自分について思うことは、この両面の過ちに陥らないことを意味します。それは私たちに関係があるだけでなく、互いに関連しあっていて、たんなる個人的な――独立した――ものではないことを、私たちは理解するようになります。