第六章 訓練、備え、柔軟性

T. オースチン-スパークス

「キリスト・イエスの良い兵士として、私と苦難を共にしてください。兵役についている兵士はだれも、日常生活の事にかかわってはいません。それは徴兵した者を喜ばせるためです。」(二テモテ二・三、四)

(A)訓練

パウロの有名なこの言葉により、訓練という最も重要な問題に導かれます。訓練とは何でしょう?その恒常的効果を、目的意識をもって気を引き締めてかかる力、と表現できるでしょう。それはだらしなさ、不注意さ、不活発さと対照的です。これは使徒ペテロが「あなたたちの思いの腰に帯を締め」(一ペテロ一・十三)と述べているものです。さて、これまで述べてきた東南アジア一大軍事作戦では、もちろん、訓練がとても大きな地位を占めていました。それについて考えることにしますが、それは五つの異なる、しかし関連しあっている点と関係があります。

(1)振る舞いに関して

第一に、訓練は振る舞いと関係しています。これはこの本からの引用ではありません。しかし、振る舞いというこの問題に関して多くのことがそこに述べられています。次のような微妙な考えを受け入れるのはとても容易です。すなわち、戦時体制にある時(特にこの軍事作戦で優勢だった状況下では)訓練はあまり重要ではない、練兵場での制限を投げ捨てても構わないし、訓練での厳密な規則や法規を気にする必要はない、自分たちはそうした一切のものから解放されており、まっすぐ戦いの中に飛び込んでもかまわない、という考えです。しかしこの本の著者は、練習、訓練、振る舞いに関するこれらすべての規則を戦闘で守ることを大いに重視しています。主の民である私たちの振る舞いがこの軍事作戦における最も重要な要素であることがすぐにわかります。ご存じのように、新約聖書はクリスチャンの振る舞いに関して多くのことを述べています。霊感された書の中で主がそれについて多く述べておられることには、大いに実際的な目的があります。私たちの行動、私たちの態度――私たちの振る舞い方――の重要性を彼はご存じです。彼にとってそれはこの戦いに欠かせない要素です。それは重要です。それは大きな差を生じさせます。私たちの生き方や生活作法は、たるんでいたり、だらしなかったり、不注意であってはなりません。そうした類のことによって敵は大きな益を得ます。それによって、主の権益に逆らう、私たちが召されている目的全体に逆らう、最も効果的な武器が敵の手に渡ってしまいます。

あなたも私も、クリスチャンとして、自分の振る舞いに注意しなければなりません。世人の前だけでなく――これから再び強調することにしますが――隠れた点についても注意しなければなりません。私たちが振る舞いの問題で訓練されているかどうかが重要です。振る舞いに関するこの本の重点は、訓練が第二の天性となっていなければならない、ということです。それが求められている時、人々の目が自分を見ている時、将校たちの前で行進している時に、その場しのぎで行うものであってはなりません。命令や叱責を必要とするようであってはなりません。訓練された振る舞いが第二の天性とならなければなりません。それがまさに私たちであるべきです――私たちはそうあるべきです。私たちの振る舞いは私たちの在り方を示すものでなければなりません。

これに関して最高司令官は単純な指摘をしています。行進している時、あるいは訓練中の時、もちろん、兵士たちは将校たちへの敬礼に関してとても注意深くなければなりません。それは彼らの訓練の一部です。しかし、彼らが戦争状態の中でごちゃ混ぜになっている時、将校たちと部下たちが実際の戦争状態の下で一緒になっている時、小さなことに思われるこの問題に関して、彼らはとてもたるんでしまうこと、とても不注意でだらしなくなってしまうことがわかりました。そこで最高司令官は言いました、「これによって真に訓練された人かどうかがわかるのである。これによって人々は暴露されるのである。真に訓練された人々なら、状況によって何の影響も受けないだろう。どんな状況下でも訓練の時の規則や法規を守るだろう。なぜなら、それが第二の天性となっているはずだからである。従軍中、たとえ密林で戦っているときでも、行進や訓練の時と同じように、将校に敬礼するだろう」。

この例から、次のことを理解する重要性に印象づけられるはずです。すなわち、訓練はたんなる見せかけや、かりそめのものであってはならないのです。見られている時や、求められている時に装うたんなる振る舞いであってはならないのです。不意を突かれた時の振る舞い方によって私たちは暴露されます。これはとても単純で初歩的に聞こえるかもしれませんが、クリスチャン生活でとても重要なことです。私たちの生活における聖霊の訓練は、あらゆる状況下で明らかになります。私たちがそのように行動するのは、私たちがそのような者だからです。人前にある時、人々にどう思われるのかが重要だとわかっている時、私たちは一定の型にしたがって振る舞い、見せかけの声や姿勢や調子を装うことができます。しかし、あまり尊敬していない二、三の人と一緒にいる時、私たちは偽りの見せかけを脱ぎ捨てて、自分の真の姿を実際にさらけ出すおそれがあるのです。

(2)健康への配慮に関して

次に、健康に関する訓練の問題がありました。健康に関するあらゆる配慮と用心を、きわめて注意深く、きわめて慎重にすることが極度に重要でした。しかし、病によってその軍事作戦は恐ろしい被害を被りました。健康の問題に不注意だったせいで、その軍隊は多数の人を失いました。

ましてや、霊の領域における健康への配慮はどれほど急を要することでしょう!霊の健康の問題に関して、あなたも私も訓練されなければなりません。これはとても重要です。「健康」という言葉のラテン語は「救い」という私たちの言葉と語源が同じであり、救いは「保護」「解放」を暗示します。霊的健康のための訓練は、霊の命の危機、霊の状態への威嚇的侵入に対する警戒を意味します。霊的疾病、霊的病、霊的弱さの問題に関して、とても多くのことを述べることができます。それらの多くが私たちを打ち負かすのは、私たちが訓練されていないからであり、注意深くないからであり、警戒していないからです。霊的健康を脅かしかねないものに対して警戒していないからです。霊的に健康であること、強健であることが、この戦いでは大いに重要です。これに本当に注意しなければなりません。どの問題についても発すべき問いは、「これは正しいでしょうか、それとも間違っているでしょうか?(許可を求める意味)」ではなく、「これは私を戦いに不適格にするものでしょうか?私が従軍しているこの一大軍事作戦で多少なりとも私を弱めるものでしょうか?」です。

大事なのは戦いに適応することであることがわかります。しかし、それに対して不注意であるおそれが常にあります。ですから、使徒は、「イエス・キリストの良い兵士として苦難を忍んでください」と述べた相手に向かって、「永遠の命を握りなさい」(一テモ六・十二、欽定訳)とも述べています。時として、私たちはこの問題に関してたるんでいます。私たちは命を必要としており、命を得ることができるのですが、しかるべくそれを握りません――手放してしまいます。訓練されたクリスチャンとは、脅かされているときや、実際に弱さの中にあるときに、こう言う人です、「今こそ命を握る時です、譲歩したり、手放す時ではありません。もし手放すなら、私は戦いから追い出されてしまいます。私を弱めるこれらのものに対して、私は守りを固めなければなりません。この状況に対処しなければなりません。抵抗しなければなりません。命を握らなければなりません」。

私は述べたいことを示唆することしかできません。しかし、この軍事作戦で、病により、健康に関して不注意だったせいで、軍隊の多くの人が死んだという、この恐ろしい記事を読めば、これは要点を突いていることがわかるでしょう。私たちには敵がいます。この敵は、霊的な意味で、絶えず私たちに病原菌を送っています。その目的は私たちを追い出すことです。しかし、実際に命を握ること、強くなって抵抗すること、神の恵みによって自分の霊の力を維持することができるのです。

(3)無私であることに関して

訓練のさらなる面は、私たちが行うことや行いそびれることは他の人々に影響を及ぼす事実を常に自覚する必要性と関係しています。その実例がこの本の中に示されています。それは一人の特定の人(そして、おそらくその人の例があてはまる他の人々)に関するもので、その人は戦時下に番兵の務めについていました。彼は極度に、ひどく疲れており、消耗しかけていました。しかし、彼には守るべきとても重要な拠点がありました。彼の警戒に多くの命がかかっていました。そこで、静かに一人で、夜に長時間、一か所に立って警護しなければならなかったので、彼はどうしたでしょう?彼は自分のライフル銃を自分の前に置いて、その銃剣を固定し、銃剣の切っ先に自分の顎を乗せたのです。眠くてこっくりしようものなら――何が起きるか彼にはわかっていました。他の人々のためにそうしたのです!人は義務感のゆえにそうするべきである、とこの最高司令官は銘記しました。こっくりしていたなら、そのとき眠りに落ちていたなら、おそらく敵につけ込まれていたでしょう。サタンにつけ込まれることについて新約聖書が何と述べているのか、私たちは知っています(二コリ二・十一)。

しかし、ここでもまた、訓練の要点は次のことを認識することです。すなわち、私たちは自分に生きるのでも、自分に死ぬのでもないのです(ローマ十四・七)。私たちの行いは他の人々にも関係するのです。これはすでに前の章で述べました。しかし、この文脈で再び現れるので、それが重ねて強調していることを聞きましょう。「さてそれでは、私はなすべきか――なさざるべきか――それは自分のためだけではない。もし自分だけのことなら、まあ、どうでもいい」。自分自身に始まり自分自身に終わるだけなら、私たちは時として自分の命や証しを手放すことになるでしょう。しかし、それはもっと多くのことと関わっているのです。「私はあえてそうしません。そうするべきではありません――あるいはそうするべきです――それは……」――それは他の人々のためであり、この戦いのためです。訓練は無私であることを要求します。

(4)落胆することに関して

軍事作戦の長引く損耗下では、なんと大きな誘惑に絶えずさらされることでしょう。それは私たちを弱め、落胆させ、脱落させ、積極的因子ではなくさせようとします。思わしくない状況下で、私たちはいくたび気を引き締めなければならないことでしょう。そのような時、「これには価値がない」と私たちは思いがちです。無気力さに覆われて、失望と意気消沈の状態に陥ってしまいます。その時こそ、訓練が試される時です。訓練されていない人はすっかり退いてしまいますが、訓練されている人はそうしません。諦めるよういざなう誘惑に対する私たちの反応は、私たちが徹底的に訓練されているかどうか次第です。その時、私たちは試され、暴露されます。

(5)奉仕に関して

最後に、訓練は奉仕と関係しています。これは先ほどの話にも関係していますが、特に奉仕の精神に関してはそうです。これまで考察してきたこの本では、奉仕の精神の必要性をとても重視しています。この精神は世から消えつつあり、今日この世から失われかけつつあるように思います。奉仕の精神――しもべ精神とでも言いましょうか――を持つ人はほとんど残っていません。しかし主イエスは言われました、「わたしはあなたたちの中で仕える者のようにしています」(ルカ二二・二七)。「人の子が来たのは仕えられるためではなく、仕えるためです」(マルコ十・四五)。奉仕と訓練の関係を理解するのは難しくありません。その証拠は、今日の世界のこれらとは反対の状態によって与えられます。反対のことが一緒に起きています。つまり、奉仕の精神の喪失が訓練の欠如と手を取り合って進んでいるのです。

訓練に対する主の関心

今、私たちは主の民として、この問題を自分自身の生活に当てはめることにしましょう。主ご自身、訓練のこの問題に何よりもこだわっておられます。これを理解することがとても重要です。おそらく、私たちはある程度それを知っているかもしれません。おそらく、私たちはそれに直面したことがあるかもしれません。しかし多分、私たちはそれについてあまり考えてきませんでした――それを直視して理解してきませんでした。主ご自身、訓練に関して大いにこだわっておられます。私たちがそうしてもしなくても、主は戦争の観点からすべてを見ておられます。彼は戦争というこの問題で聖書を満たされました。彼ご自身、「いくさびと」(出十五・三)であると宣言されています。主は、戦争中であることをご存じであり、それについてすべてご存じです。自分たちはそれについて少しは知っている、と私たちは思うかもしれません。しかし、進行中のこの霊の戦争の完全な規模と範囲に関する全き認識を彼は持っておられます。なぜなら、それは恐ろしい戦いであり、この二つの大きな王国・勢力・体系の間で荒れ狂っているからです。それで彼はすべてを戦争の観点からご覧になります。また、戦争状態という基礎の上で私たちを取り扱われます。ですから、この訓練の問題に関して彼は何よりもこだわっておられます。

さて、このような観点について想像力を巡らせてみましょう。そうするなら、なぜ主は私たちに対してとても厳格なのかがすぐにわかります。彼は私たちに事実上こう仰せられるでしょう、「あなたは理解していないのですか、自分が大きな戦いの中にあることを?あなたは理解していないのですか、自分は戦時下の従軍中の兵士であり、そのような状況によるあらゆる困苦にさらされている――いずれにせよ、本来そうでなければなりません――ことを?これに照らして見るとき、あなたはどのようなクリスチャンでしょう?」。主は私たちを去らせません。私たちを叱り、実際に私たちを訓練の基礎の上に保たれます。なぜなら、私たちが有用であってもなくても、彼は戦争とその結果の観点からすべてをご覧になるからです。おそらくこういう理由で、一見、主はれだまの木の下のエリヤに対してやや不親切だったのでしょう。「あなたはここで何をしているのですか?あなたは戦いの中にいるべきなのに!あなたはここで何をしているのですか?戦争は続いています!山上で途方もない戦いが一度あっただけで、私たちはまだこの戦争をくぐり抜けていません。あなたはここで何をしているのですか?」。これがこの物語の正しい解釈かどうかは別として、主は私に対してこう要求されることがよくあります、「あなたはここで何をしているのですか、これはどういうことですか?何のためにそこに座り込んでいるのですか?彼処では戦争中であること、自分はその中にあることを、あなたは忘れているのですか?」。それで主は注意深いのであり、こだわっておられるのです。彼は私たちをこの観点から、そしてこの基礎の上で取り扱われます。

そして、前に述べたように、主は私たちの隠れた姿を考慮されることを忘れないでください。練兵場では、すべての人が私たちを見ています。そして、衆人環視の前で自分に何が期待されているのかを、私たちはわきまえています。しかし、主は私たちの隠れた姿を考慮されます。主はダビデにそうされました。ダビデは神が選んだ人でした。なぜなら、主は彼の隠れた姿――彼の隠れた責任――を見ておられたからです。あなたも私も覚えておかなければなりません。神が選んで用い、推進・昇進させる人は、人が見ていなくても真実であり続ける人々です。あなたはこれを理解しているでしょうか?主が自分を選び、用い、推奨し、さらに多くの責任を与え、昇進させてくださるよう、あなたは望んでいるでしょうか?主がそうされるのは、人々が見ている時のあなたの在り方によってではなく、密かなあなたの在り方によってです。なぜなら、訓練が最大の真価を発揮するのは――「彼処では戦闘が続いています。私たちは戦いに貢献しなければなりません!」という以外に、動機となるものが何もない時だからです。

これは、もちろん、多くの領域を網羅します。これは私たちに対する主の取り扱いの多くを解き明かしてくれるのではないでしょうか?こういうわけで、私たちはこのような訓練を受けているのであり、様々な立場――とても困難な立場、鼓舞してくれるものや励ましや刺激が全く無いように思われる立場――に置かれています。私たちは立つか倒れるかの状況の中に置かれます。時としてその試練は、自分が立つか倒れるかはどうでもいい問題のように思われるせいで、その厳しさを増します。

(B)備え

今、一つの要素に取り組むことにします。それは遅かれ早かれ、軍隊と軍隊のすべての部隊に決定的影響を及ぼします――つまり備えの問題です。取り掛かる時は、とても熱心で、捧げきっているかもしれません。最初は良い心がけや良い意思がかなりあるかもしれません。しかし長期的に重要なのは体格、持久力、耐久力です。これらは食料の備え、供給にかかっています。進軍の基礎に関するナポレオンの言葉をご存じではないでしょうか?それは大いに真実です!天然の事柄に関してそれが真実であるのと同じように――少なくとも――霊の事柄でもそうです。資源の適切な支援なく、一時しのぎの供給原理に基づいて軍隊を戦場に送ることは、とても大きな誤りであり、軍隊を確実に危険にさらします。そして私たちが考察しているこの物語では、兵卒たちは痩せ、不平を鳴らし、散り散りになり、多くの他の問題が生じました。人々が適切に養われなかったからです。適切な備えが十分ではなかったからです。

持久力に不可欠な備え

食料は、ですから、戦争の戦略全般にわたって不可欠な要素です。備えは、確かに、贅沢とは違います――絶対に必要です。そして、これは霊的にも真実です。あなたも私も、霊の食物を得るかどうかは各自の選択の問題であり、そうしたいかどうかによって決まる、という考えを心の中から取り除かなければなりません。十分な資源を利用可能にすること、それらを活用することが、軍事作戦全般にわたって不可欠です。ですから、この問題に対して私たちは大いに真剣な態度を取らなければなりません。戦いは私たちの霊的体格、持久力、耐久力にかかっています。そして、これらのものは同様に私たちの食事にかかっており、その備えをすることにかかっています。軍隊は刺激剤に頼って無限に戦い続けることはできませんし、もちろん「興奮剤」に頼ることもできません。食事が必要なのです。

しかし、クリスチャンの世界では、食事ではない「刺激剤」や「興奮剤」が大いに投与されています。それは何かを完成させるための企てであり、人々をしばらくのあいだ進ませるための企てです。しかし、真の忍耐が要求される状況になると、効果がありません。ですから最高司令官はこれに注意を払います――長期戦のために備えます。私たちがこれに順応するのが早ければ早いほど良いのです。戦いはすぐに終わると思っている間はかなりよく戦える人々もいます。しかし、最も長く持ちこたえられる人々が勝つことを、私たちは歴史から知っているのではないでしょうか?霊的持久力、耐久力、堅固さというこの問題全般に関して、新約聖書の中にどれほど述べられていることでしょう!「最後まで忍耐する者は救われます」(マタ十・二二、二四・十三)。(ヘブ三・六、十四、六・十一、黙二・二六と比較せよ)。

さて、主は私たちのために霊の食物を備えてくださるというこの問題には、おそらく私たちが理解しているよりも遥かに多くの内容があります。これについて誤解しないようにしましょう。遅かれ早かれ、これに関して私たちは暴露されることになります。霊の事柄の中で養われ、霊の事柄の中で建て上げられてきた人々、利用可能な霊の食物をすべて活用してきた人々こそ、真の試練がやって来る時に持ちこたえる人々です。次のことは、ごく単純な形ですが、私たちの経験と一致するのではないでしょうか?すなわち、私たちが状況に立ち向かう時、非常に多くの場合、私たちは主が過去に教えてくださったことを活用できるのです。その備えがなければ、私たちは困っていたでしょう――切り抜けられなかったでしょう。しかし今、私たちは主が与えてくださったものをいつでも利用できます。これが繰り返し起きるのは、なんと素晴らしいことでしょう!まさに、危機的な時や状況の際に私たちを救う、と彼が私たちに約束してくださったとおりです(ヨハネ十四・二六)!私たちは過去の彼の御言葉と彼の道を思い出します。これは有益であり、うまくいきます。しかし他方、圧迫に屈する人がなんと多いことでしょう。それは彼らには何の背景もないからです――その状況に必要な主からの知識を彼らは持っていないのです。

神の備えに関心を持つ必要性

しかし、私たちは覚えておく必要があります。主には備えをする気も用意も大いにあるのですが、他方、主はその備えの対象者の側に、それに関心を持つよう要求されます。これはかなり核心を突いていると思います。ご存じのように、この霊の食物の問題に関して不満が広がっています。入手可能なものがほんの少ししかない、真の教えがほんの少ししかない、堅い食物がほんの少ししかない、という不満です。これがどう述べられているにせよ、この食糧不足に関する不満がかなりあります。しかし、このような不満状態が存在するのは、大部分、士官か人々かいずれかの側が霊の食物に十分関心を持っていなかったからではないでしょうか?彼らはこの問題に注意せず、実際のところそれに関心を持っていなかったのです。キリスト教的事柄に関する軽食を食べて生きることで満足してきたのです。真に真剣な人々のために、主は資源を利用できるようにされます。真に戦いのさなかにある人々、主の栄誉と勝利に真に関心を寄せている人々のために、主は適切な供給が与えられるよう配慮されます。あなたや私にそのような気持ちやつもりがないなら、主は「自分の真珠を豚の前に投げ」ないでしょう――あまり関心のない人々にご自身の霊的富をお与えにならないでしょう。しかし、もし私たちが関心を持っているなら、主は備えてくださるでしょう。

主は常に、ご自身の備えを有益なものにしようとされます。それは実際的背景に対して備えを与えることによってです。実際的背景があって初めて、私たちは主の備えによって益を受けられます。こういうわけで、彼は常に私たちを、主をいっそう深く知ることが必要な状況の中に放り込まれるのです。新約聖書に記されていることはみな、大いに実際的な背景に対して私たちに与えられている、というのは周知の事実ではないでしょうか?人々は座って随筆、論文、その類のものを書いたのではありません。きわめて危機的な状況に直面し、そうした状況を対処するために書いたのです。生きるか死ぬかの諸問題によって、これらの書き物がすべて生み出されたのです。それが背景でした。当時言えたことは、依然として私たちの生活にも言えます。すなわち、実際的背景がなければ、私たちは主の備えから決して益を受けられないのです。

神の備え――「命のパン」

私たちが把握する必要があるのは、食物の原則はであるということです。これは私たちの好き嫌い、気に入るか気に入らないか――「好みがうるさい」かどうか――の問題ではありません。全くそうではありません。これはただひたすら命――!――の問題です。こういうわけで主イエスは「わたしは命のパンです」(ヨハネ六・三五)と仰せられました。このパンによって益を受けるには、このパンの中にあるのと同じ命が私たちの中になければなりません。相応の命――命を握る命、命を供給する命――がなければなりません。これはたんなる興味の問題ではなく、不可欠な問題でなくてはなりません。

本としての聖書に精通し、開講中のすべての聖書講義に出席できたとしても、依然として霊的に成長しないおそれがあります。これは厳粛な事実です。これが真実であることを私は知っています。数年間、私はキャンベル・モルガン博士と、彼の聖書教師協会の会員の一人として、親しく交際しました。その協会の方法は完全に、聖書を分析して教えるというものでした。しかし、その方法を数年間ためしてみても、その聖書講義に出席した人々の多くは、霊的成長を少ししかあるいは全く示しませんでした。霊的成熟らしきものに少しでも到達した人は、彼らの中にほとんどいませんでした。その聖書講義をすべて聞いた後も、彼らは依然として赤子でした。彼らは講義をすべて自分のノートに書き留めました――そのような方法で彼らは講義を学びました。しかし、この一大軍事作戦に不可欠な要素になることに関して、彼らは少ししか役に立たないか、全く役に立ちませんでした。

いいえ、これはたんに聖書をそのように知る問題ではありません。とはいえ、それは基礎として有用かもしれません。本質的問題は、それは命の問題でなければならないということです――確かに命か死かの問題でなければなりません。命か死かの二者択一です。私たちが生き残るかどうかはこの食物の問題にかかっています。

そして、この食物はキリストです。主イエスは「わたしはあなたたちに食べるための大量の教えを与えます」とは言われませんでした。彼は「わたしは命のパンです」と言われました――「わたし、自らが、命のパンです」と言われました。ですから、このパンの益を受けるには、まず彼との生き生きとした実際的な関係を持たなければなりません。食す人と食物との間にの関係がなければなりません。

これは確かに食物の種類の問題です。異なる種には異なる種類の食物が必要です。被造物の一つの種の食物は他の種と異なります。あなたも私も動物の特定の種の食物で生きることはできません。彼らもおそらく私たちが食す類の食物で生きることはできないでしょう。霊の人(すなわち正常なクリスチャン)は、霊の食事によってのみその必要が満たされる種に属しています。それは主を知る実際的な生ける知識であり、そして、ただそれによってのみ戦争に勝利できます。聖書知識を「天然的」知的に得ることは霊の食物の代わりにはなりません。

ですから、これらすべてのことから重要な教訓を引き出そうではありませんか。霊的備えを、してもしなくてもよいもの、と思わないようにしようではありませんか。そのような態度は、遅かれ早かれ、戦いで明らかになるでしょう。私は信じていますが、過去に主から教わったことにはすべて途方もない価値があったことに今気づきつつある人々が、この世界に大勢います。他方、他の人々は、自分たちには切り抜ける能力がないことに気づきつつあります。

(C)柔軟性

この本から再び引用することにします。「将軍職に対する最も困難な試金石は、意志の強さと柔軟性の間のバランスを取ることである。これに敵は失敗した。敵は意志の強さによって大成功を収めたが、柔軟性の欠如のせいで大損害を被ったのである」。

この「柔軟性」という言葉は問題を起こしかねないので、それに代わる言葉を提案することにしましょう。例えば、適応性、順応性、教えやすさ又は「素直さ」、才能の豊かさ、独創性です。これらの言葉はみな「柔軟性」という言葉を横から照らす光です。東南アジア軍事作戦の場合、私が紹介した引用はまさに次のことを意味しました。すなわち、敵は一定の型にはまりきっていたのです。特定の道を行くことに固執して、それによってがんじがらめにされていたので、何らかの原因でそれが覆されると、全く意気消沈してしまったのです。敵には代替案がありませんでした。不意の出来事に対応する能力、計画外のことに対応する能力がありませんでした。自分の決めた道から状況が外れると、全く混乱の中に陥りました。「柔軟性の欠如のせいで大損害を被ったのである」というこの引用のとおりです。ここには学ぶべき教訓が確かにあります。

おそらく、意志の強さという資質はどんなに重視してもしきれないでしょう。新約聖書は、堅く耐え忍ぶこと、前進する決意、退かないこと、といった事柄で満ちています。私たちはそのような人々でなければなりません――これはそのとおりです。しかし、ここで述べられていることがわかります、「将軍職に対する最も困難な試金石は、意志の強さと柔軟性の間のバランスを取ることである」。これに取り組むとき、それは真に困難な学課であることがわかります。新たな状況に順応しつつ、それでも堅固であり続けるすべを学ぶのは難しいことです。幸いなことに、新約聖書の中にこれに関する実例がいくつかあります。教会史にはあまり立ち入らずに、まずそれらの実例を見ることにします。

(1)ペテロとコルネリオ

さてペテロは、旧約聖書とそれに関する自分の解釈にしたがって、自分の定まった道、定まった立場を取っていました。彼の定まった立場、彼の堅い固定した立場の観点から、彼は「それはだめです、主よ!」と主と議論しようとしました。彼が「その幻について考えて」(使徒十・十九)主と共にこの問題に決着をつけるまで、彼には柔軟性も順応性もありませんでしたし、素直でもありませんでした。しかし、堅固さや不屈さを手放すことなく、主が与えられた新しい光、主を知る新たな知識、主の新たな道に彼が順応した時、それはペテロだけでなく教会全体にとって、なんと途方もない一歩だったことでしょう。しかし、それでも多くの人々にはそれができません。どうしてもできません。

(2)ピリポとエチオピヤの宦官

ピリポと宦官の事例を挙げましょう。原則は全く同じです。ピリポはサマリヤに下っていました。そして、主の祝福の下で素晴らしいことが起きていました。ピリポは容易にこう言えたでしょう、「主は私を祝福しておられます。主は偉大なことをしておられます。ですから、私はここを離れるべきではありません――ここで主は働いておられ、このことを主はしておられます」云々。まあ、もちろん、これは主があなたに語られるかどうかにかかっています。しかし、これはあなたが主に開くかどうかにもかかっています。自分の立場に固執したり固持したりせず、主によって行動しようとする心構えにかかっています――たとえ、大勢の人が主のもとにやって来るリバイバルの中心地からほとんど何もない砂漠に移されるというような、奇妙な動きに思われたとしてもです。

それにもかかわらず、ピリポが柔軟だったおかげで、教会は少なからず前進しました。この件は砂漠で終わらなかったからです。その地点からピリポの長い務めの物語が始まりました。いま扱っているのは新約聖書の展開や歴史ではありませんが、この件について調べると、エチオピヤ人とのこの接触の後、ピリポの務めによってとても重要なものが生じたことがわかります。そしてこれはすべて柔軟性、適応性というこの問題にかかっていました。その人生の中で主がご自身の道を自由に進めるかどうかに、つまり、ピリポが「だめです、ここに私はいますし、状況はこのとおりです。これは主が行っておられることであり、ここで主はそれを行っておられます。ここに私はとどまります!」と言うかどうかにかかっていました。もしかすると、今日、多くの主の僕の人生では、これと同様の問題が未決着のままなのかもしれません。

(3)パウロとマケドニア人

もう一つ例を挙げましょう――これはとても偉大な例ではないでしょうか?――パウロとマケドニア人の例です。パウロはアジアとビテニヤに行くつもりでした。しかし、彼がある地点に来た時、急に――「聖霊によって禁じられ」ました。「イエスの霊が許しませんでした」(使徒十六・六~七)。しかしパウロは順応しました。これが要点です。彼は柔軟だったのです。それで――マケドニアとヨーロッパに福音が伝わったのです!そしてもっと多くの地にも!

この三つの事例は、主に対して開いていなければならない、という原則を示しています。主の御手の中にとどまって自分自身の手の中にとどまってはならない、という原則を示しています。主の御業の内容、場所、方法に関して何の固定観念も持ってはならない――これは主次第です――という原則を示しています。これは主が私たちに教えなければならない最も重要な原則の一つです。

神の真理は不変だが方法は可変である

二組の事柄があることを理解しなければなりません。一方において根本的真理があります。これに関しては決して柔軟であってはなりませんし、それから決して離れてはなりません。根本的真理を放棄することや、自分たちの基礎を変えることはできません。これらはそのままでなければなりません。これに関して私たちは柔軟ではありません――柔軟であってはなりません。神のあらゆる支配的御旨の問題に関しても、私たちは不動でなければなりません。これに関して、私たちは堅固であり、何ものも私たちを動かせません。また、不動の霊という基礎も必要です。

しかし、他方において、神はご自身の方法を変える場合があることを私たちは認識しなければなりません。神はご自身の真理、基礎、目的を変えたりはされませんが、方法は変えることがあります。神ご自身の主権的権利の中には、望むままにことを行う権利、それまで聞いたことのない新しいことを行う権利が含まれます。しかし、今日のキリスト教の大半はこれを許そうとしません!過去になされたことのないことを全能の神が行うことすら許しません!境界線が決まっていて、真理の範囲が完全に制限されています。方法は何々、公認の方法・手段はこれこれ、と決まっています。それらから離れるのは――安全ではなく、危険です。新しいことを行う余地は聖霊に許されていません。しかし、ここでバランスが必要です。一方において、真理の基礎は不変であり、神の御旨は不変であり、不動の霊は不変ですが、他方において、それでも、これら一切にもかかわらず、バランスを取らなければなりません。他方において、神の可変的方法、「路線から外れる」神の主権的権利に関して、バランスを取らなければなりません。というのはこれらの境界線は全く神の境界線ではないかもしれないからです――人の境界線かもしれないからです。神は「わたしは新しいことを行う」と仰せられます。新しいことを行う彼の絶対的権利を認めなければなりません。

ですから、柔軟性が大いに必要です。これはとても重要なことです。伝統への固執、特定の教理的立場への執着は、大きな誤解と混乱、停滞と崩壊という結果を招いています。聖霊をこのように制限することによって、多くのものが失われています。

さて、たとえこの詳細の多くを把握・理解していなかったとしても、これまで考えてきたこの三つの事柄の表層には単純な教訓があることがわかります。

(a)訓練。主は訓練された民を必要としておられます。あらゆる方面――振る舞い、霊的健康等々――で私たちが訓練されるよう、主は細心の注意を払われます。

(b)備え。主はよく養われている民を持つことを願っておられ、私たちが自分の霊の食物に注意して、それを守るよう願っておられます。ギデオンが私たちに告げているように(士師記六・三~四、十一)、敵は神の民の食料問題を実際に狙っています。

(c)柔軟性。主が願っておられるのは、信仰に必須な事柄、霊の事柄、究極的御旨に関する事柄について、私たちが大いに堅固で不動である一方で、それでもご自身に対して開いていること、素直であること、適切に柔軟であることです。適切に、そうです、融通がきくことです。これらすべてにはかなり矛盾する点もあります。そうではないでしょうか?融通がきくことは、場合によっては悪いこともあります。しかし、主ご自身と主がなそうとしておられることに順応するよう主が要求される場合、これは確かに正しいことであり、私たちの反応が、確実に、戦いの結果全体に影響を及ぼします。

御言葉の中で絵図や出来事によって私たちに示されているこれらの点は、とても重要な諸々の原則を表しています。しかし、結局は次の点に帰着します――すべてはこの問題を強めます。すなわち、私たちは戦いの中にある、ということです――この戦いはたんなる曖昧で、抽象的な、「空想上の」類のものではなく、大いに現実的なものであり、多くの実際問題がこの問題と関係しています。振る舞い、備え、適応性というこれらの実際問題は、すべてこの戦争の問題と関係しています。

ですから、主よ、

私たちの戦い!

の法則を私たちに教えてください。