第一章 キリストの意義

T. オースチン-スパークス

一.聖書における彼の偉大さ

彼は
(a)万物の意義です。
(b)万物の相続者です。
(c)万物の目的・本質です。
(d)万物の最終的な試金石です。

二.彼の地位――御父の愛による
無限の神の愛がその動機であり力である

これは
(a)全聖書中に
(b)神のすべての働きに対する愛とは正反対のものによって
(c)御子が誉れを受けなければならないという御父の要求によって
啓示されています。

三.キリストの偉大さは霊的・道徳的なものである

(a)天はそれを知っています。
(b)人はそれを感じています。
(c)地獄は堕落させようとする試みによってそれを証明します。

それは
(a)彼が神を満足させたこと
(b)彼の贖いの御業
(c)御霊の働き
から明らかです。

「これらのことをイエスは語られると、目を天に向けて言われた、『父よ……』」(ヨハ十七・一)

「それは彼らがみな一つとなるためです。それは父であるあなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中にいるように、彼らもまたわたしたちの中にいるためです。」(ヨハ十七・二一)

「わたしは彼らの中におり、あなたはわたしの中におられます。それは彼らが完成されて一つとなるためです。」(ヨハ十七・二三)

序論

人に関する神の御思いと、神に対する人の関係について、これまで多くの啓示が与えられてきましたが、キリストとの合一はそのすべての啓示の核心であり中心です。キリストとの合一は大きな車輪の中心に似ています。その車輪には多くのスポーク――選び、創造、贖い、救い、聖化、栄化――があります。そして次に、一連の補助スポーク――悔い改め、信仰、義認、回心、再生等々――があります。これらはその車輪のスポークですが、それらはみなキリストを中心とし、キリストから発して、縁すなわち神に到達します。それらにより、私たちはキリストにあって神と結び合わされます。

これらの真価を十分に理解するには、キリストの意義について熟考すること、あるいは啓示してもらうことが必要です。神の御子が人の子となられたことにより、神が人になられたことにより、なんと途方もないことが起きたのかを見る必要があります。それは、私たちの存在が、神格や神性の中にではなく、受肉した神の御子の中に取り込まれる問題です。

さて、キリスト教伝道の最初の宣教者たちはキリストを宣べ伝えました。彼らが第一に宣べ伝えたのは、救いや聖化や赦しや裁きや天についてではありませんでした。これは、彼らはこれらのことを宣べ伝えなかったということではありません。彼らは宣べ伝えました。しかし、それらが第一ではありませんでした。彼らはキリストを宣べ伝えました。そして、これらのことはみな、キリスト、すべてを含みすべてに優るキリストの宣べ伝えの中に含まれていました。結局のところ、救い、聖化、赦し、義認といったこれらのものは副次的なものであり、後で登場します。キリストがそれらすべてに先立ったのであり、キリストがそれらすべての後に続かれるでしょう。それらはキリストの内側にありますが、キリストはそれらすべてを圧倒的に凌駕しておられます。

キリストの意義

次に、キリストの意義について考えることにします。キリストという称号を強調していることを理解してください。まさにこの称号は、ある使命の意義を伝えます。それは彼の本質的神格の称号ではありません。この言葉が意味する油塗りは、ある使命のためです。「神はナザレのイエスに油を塗られました」(使十・三八)。これをこれからの話の支配的原則とすることにしましょう。さもないと、いともたやすく、様々なことで眉をひそめ、誤った教理ではないかと勘ぐることになりかねません。キリストとの合一について考えるにあたって、私たちは彼の神性と人の子としての彼のキリストたる身分との間に非常に明確な一線を保つことにします。これを述べたので、いま少しのあいだ彼の偉大さについて考えることにしましょう。

一.聖書における彼の偉大さ

聖書における彼の偉大さは、幾つかの関係の中に見られます。

(a)神との関係において

第一に、彼の偉大さは神との関係の中に見られます。馴染み深い幾つかの節――しかし、これらの節は常に新たな霊感を伴うものであり心を奮起させます――を引用しさえすればわかります。

「見えない神のかたちである御方」(コロ一・十五)。
「彼の栄光の輝きであり、彼の本質のかたちそのものです」(ヘブ一・三)。私たちの理解力や悟性の及ぶところでは到底ありませんし、確かに説明できません。世が存在する前に神の栄光を共有しておられたのです。私たちはそれについて読み始めました。「父よ(中略)あなたの子の栄光を現わしてください」。その後すこし先のところに「あなたご自身の栄光をもって、世が存在する前にわたしがあなたと共に持っていた栄光をもって、わたしの栄光を現わしてください」(ヨハ十七・五)とあります。彼はこのような状態を去って、人の姿を取り、十字架の道を行かれましたが、この出来事の途方もなさを多少は感得しないかぎり、決してキリストとの合一の意義を理解・評価できるようにはなりません。宇宙の歴史全体の中で最も驚くべき出来事が、先ほど聖書から引用した御言葉の組み合わせの中に見いだされます。そして次に、神の栄光の輝きであり、彼の本質のかたちそのもの、「見えない神のかたち」だったこの人、世が存在する前に神の栄光を共有していたこの人は、唾を吐きかけられ、嘲られ、やじられ、あの恐ろしいすべての罪に遭遇しなければなりませんでした。素晴らしいことに私たちは彼との合一の中に召されていますが、それは彼の友人になるためでも、何らかの神の働きの同労者・パートナーになるためでも、彼とのある種の形式的関係――いわゆる組合――を持つためでもありません。後で見るように、彼と徹底的に一つとなるためです。「私たちは彼の体の肢体、彼の肉の肉、彼の骨の骨です」(エペ五・三〇、欽定訳)。「主に結合されて(中略)一つ霊です」(一コリ六・十七)。これを可能にするために何かが起きました。そしてここに、神のへりくだった無限の愛の物語とその素晴らしさがすべて込められています。さて、聖書は第一に、神との関係における彼の栄光、彼の偉大さを示します。それを辿るために多くの時間を費やすこともできますが、次に進むことにします。

(b)創造された万物との関係において

次に、彼の偉大さは聖書中、創造された万物との関係の中に見られます。

(1)万物の意義

キリストは万物の意義です。

「万物は彼を通して造られました。」(ヨハ一・三)
「世は彼を通して造られました。」(ヨハ一・十)
「ひとりの主イエス・キリストがおられるだけです。この方を通して万物は存在しています。」(一コリ八・六)
「彼の中で万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も、主権も、支配も、権威も、創造されました。万物は彼を通して創造され、彼へと至ります。」(コロ一・十六)
「御子について彼は言われます(中略)『主よ、最初にあなたは地の基を据えられました。諸々の天はあなたの御手の業です』。」(ヘブ一・八、十)
「万物がその方のために存在し、万物がその方を通して存在する方に、それはふさわしいことでした……」(ヘブ二・十)

万物の意義、すなわち、万物は「なぜ」存在するのか、その問いへの答えです。それは一体何を意味するのでしょう?地上を旅し、海に潜り、星座へと飛翔し、創造された宇宙を理解し、天界の知的存在についてすべて理解したうえで、「これは一体何を意味するのだろう」という問いを発したとしましょう。その答えは、神の御子であり人の子である方の栄光を表現する完成された宇宙にあります。こうして、それらがみな何を意味するのか、あなたはわかるようになります。これは想像の飛躍ではありません。これは容易に試して、確かであることを証明できます。私たちが能力と一定量のデータを持っていて、神聖な光がその上に注がれており、それをいま実体化できると仮定しましょう。被造物の内的意義を知っていたなら、神聖な意義、永遠の霊的意義はみな、キリストの中に見いだされることがわかっていたでしょう。これは、もちろん、無限に素晴らしい宇宙ですが、この宇宙全体は、聖書によると、最終的に彼で満たされ、彼を現わすことになります。そして、贖われて完成されたこの宇宙が、そのためにそれが生み出された目的に達する時、それは神の御子を表す一つの強力で包括的な、しかしながら依然として無限の表現になります。これがその意義です。彼はいま起きているあらゆる出来事に対する鍵です。

ああ、いま起きている出来事の意義を見て理解する目を私たちが持っていれば!キリストがその解き明かしであり、万物の意義です。

(2)万物の相続者

キリストは万物の相続者です。「神は、昔は様々な部分に分けて、様々な方法で、預言者たちによって父祖たちに語られましたが、これらの日々の終わりには、御子の中で私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定められました」(ヘブ一・一、二)。神はいつ御子を万物の相続者と定められたのか?という疑問が直ちに湧きます。先の節がすべて正しければ、キリストが万物の相続者に定められたのは、彼が万物を造られる前のことです。万物が彼を通して彼のために造られた以上、御父が彼を万物の相続者とされた時点があったにちがいありません。そして彼の相続権というまさにこの問題を巡って歴史は展開します。ですから第一に、嗣業を成すものとしてのこの宇宙、という素晴らしい構想がありました。一つの構想としてのこの宇宙について私が何かを述べようと無理に努める必要はないでしょう。次に、創造後にこの構想を実行するために、この構想が計画されます。しかしたちまちすぐに、この嗣業は抵抗にあって傷ついたかのように思われます。しかし、直ちにその贖いが啓示されます。贖われ、再構成され、完成され、所有されます。これがその嗣業の歴史です。この歴史はなんと多くのものを含んでいることでしょう。一、二分前に述べましたが、いま起きていることを私たちがすべて理解していたなら、それはキリストを中心としており、キリストを巡って荒れ狂っていることがわかったでしょう。なぜでしょう?彼は万物の相続者だからです。そして、彼の嗣業を巡るこの論争が、いま起きているあらゆる出来事の理由だからです。ああ、なんと多くの御言葉をこの中に込められることか。地を滅ぼす者たちは何をしているのでしょう?まあ――もちろん盲目的に――しかし彼らの邪悪な感化と煽動を通して、彼らは神の御子の嗣業を破壊しようとしているのです。霊的な男性や女性はこの事実の最高の証拠であるため、通常以上の力が自分たちを滅ぼすために自分たちの上に集中していることを知っています。なぜなら、彼らは主に贖われたものであり、再構成・完成されつつあり、最後に彼の合法的嗣業として栄光の内に彼にささげられることになるからです。これが真実であることを私たちは知っています。それが神の御子の嗣業であることを私たちは知っています。これによって私たちは、悪の力の破壊的意図というこの長い、長い物語の中に巻き込まれているのです。

(3)万物の目的・本質

さらに、キリストは万物の目的・本質です。これは二つの短い引用だけで十分だと思います。

「彼はあらかじめ知っていた者たちを、御子のかたちに同形化しようとあらかじめ定められました」(ロマ八・二九)。万物の目的・本質が「御子のかたち」というこの言葉によって表されています。エペソ四・十からのもう一つの節はこれを裏付けていると思います。彼が高く昇られた目的は「彼が万物を満たすため」でした。これらの二つの相補的な御言葉は、万物のこの目的・本質と呼応しています。背後にあるその目的は何でしょう?神が意図された万物の本質は何でしょう?そうです、御子のかたちにほかなりません。もちろん、これはキリストに似た者となることに関する新約聖書のあの包括的教え全体を含んでいます。キリストに似た者となること、あるいはしばしばキリストの似姿とも言われますが、これは新約聖書のかなりの部分を網羅するすべてを支配する目的です。これが万物の存在目的であり、万物の存在の本質です。すなわち、彼で満たされて彼のかたちに同形化されることです。彼で満たされないかぎり、あなたは決して彼のかたちに同形化されません。なんと多くの新約の教えをその中に込められることでしょう。それは至る所にあります。

(4)万物の最終的な試金石

最後に、キリストは万物の最終的な試金石です。使徒十七・三一にはこうあります、「彼はご自分が定めた人によって、義の中でこの世を裁く日を定められたのであり、彼を死者の中から復活させることによって、すべての人に確証を与えられました」。逐語訳は「一人の人によって」ではなく、「ご自分が定めた一人の人にあって」です。この「定めた」という言葉は、「基準線とした」を意味します。神は御子を万物の基準線とされました。すべてはこの人の基準線内に達しなければならず、彼にしたがって裁かれなければなりません。要点がおわかりでしょう。キリストは基準です。キリストは標準です。キリストは神が定められたこの世のあの大審判の尺度であり、万物の最終的な試金石です。

これは、この世の裁きはそれがキリストにどれだけ達しているのかに応じてなされることを意味します。キリストの光の中に立っているかどうかについて、キリストに対する姿勢・関係について、裁かれるのです。神の裁きは他のどんな根拠にもよりません。これが裁きのためのとても単純な公式です。もし神が私たちを一人一人相手にして、遺伝・出生・生い立ち・人生の運不運によって私たちが得た多くのものに基づいて私たちを裁かなければならなかったとしたらどうでしょう。人にたとえて述べると、彼は手一杯になっていたでしょう。そして、裁くにはあまりにも多くの義の標準が必要になっていたでしょう。あまりにも包括的すぎて、ほとんど考えることができなかったでしょう。私たちに対する神の裁きは、私たちの罪の数――それが多くても少なくても――や、私たちの気質や、私たちが血筋によって受け継いだ何ものにもよりません。彼の唯一の単純な解決策は、御子に対するあなたの姿勢はどのようなものか?ということです。御子に対するあなたの関係はどうでしょう?あなたはこのキリストの基準線の中にどのように立っているのでしょう?一人の人としてではなく、一つの本質としての彼、彼ご自身の意義との関係はどうでしょう?御子に関するあなたの姿勢、関係、度量はどうでしょう?これに裁きはすべて基づくでしょう。

また注目してください、これは大いに義なる裁きです。御言葉は「彼は義の中でこの世を裁かれる」と述べています。神に感謝すべきことに、これは、大多数の人が一生不平を鳴らす問題、遺伝や世襲や初期のしつけ等々といったこの問題を考慮してのことです。私の親愛なる友よ、これを励みとしてください。そのような事に基づいて神は決して裁かれません。そんなことは不義なことだったでしょう。彼は私たち全員を、御子との私たちの関係というこの一つの問題に導かれます。彼に対するあなたの立場はどうでしょう?あなたは彼をどう取り扱ってきたでしょう?あなたは彼をどうしているでしょう?あなたはますます彼のかたちに同形化されつつあるでしょうか?これが裁きの基礎であり、唯一の基礎です。キリストが基準であり、万物の最終的な試金石です。

旧約聖書の中のキリスト

では、聖書の中に見られる彼の偉大さについてのこの黙想に再び戻ることにしましょう。聖書を全体的に捉えると、旧約聖書は待望と期待で貫かれていることがわかります。その初っ端からある御方が必要になります。ある御方が予表され、告げられ、諸国民の間に現わされます。なぜなら、このある御方は神が諸国民の間に植えられたイスラエルにおいて現わされるからです。

少しのあいだ、これについて見ることにしましょう。ある御方が必要になります。必要になるのは、全被造物を捕われの下に、聖書が言うところの虚しさの中に陥らせた、ある悲惨な失敗のためです。失敗により全被造物が駄目になりました。この失敗のゆえにある御方が必要です。それを直すためにだれかが必要です。直感的にある御方が必要であることがわかります。遅かれ早かれだれかが来なければならないことを、人は直感的に感じます。

この待望とこの要求は、遥か遠くの文明の中にも辿れます。だれかを待ち望むこの待望、人生と世界の謎に答えるためにだれかが到来するにちがいないというこの期待の証拠は、普遍的に見いだされます。これはすべて一つの謎、問題、パズルです。人は常に当惑しており、すべては一つの大きな矛盾です。この問題を解き明かそうとしてとことん深く探った人々の多くは、虚しさと恐ろしい絶望の中に追い込まれました。それでも、人はこの問題を解かずにはいられません。聖書はまさにこれで満ちています。

しかし、絶えざる暗示によって、だれかが必要とされています。まるでこう思われます。すなわち、状況がある地点に達して、今や「何かが起きようとしている」という暗示が強まるのですが、その後それは後退してしまうのです。そして、しばらくするとそれは潮流のように再び到来するのですが、またもや後退してしまうのです。歴史におけるこれらの継続的潮流は、「何かが起きようとしている」「だれかが来ようとしている」ということを常に暗示します。そしてとうとう、彼がまさに受肉して、待望の精神が一つの核、一つのレムナントの中で成熟する日に至ります。彼らは待ち望み、待望します。「イスラエルの望み」(使二八・二〇)。この望みはイスラエルの望みであるだけでなく、全被造物の望みでもありました。被造物は望みの中で服従させられた、とパウロは私たちに告げます(ロマ八・二〇)。諸世紀を通してこれが脈打っています。ある御方がどの方面にも必要です。そして、この必要が聖書の中に啓示されています。

ある御方が暗示されています。旧約聖書は個人的な型や象徴によってある御方を暗示しており、その暗示で満ちています。予型論、象徴論、旧約聖書の絵図的側面は、おそらくこれまで少し行き過ぎていましたし、時として誇張や言いすぎのせいで信用を失ってきましたが、数々の事柄のまさに前面に、全く強調するまでもなく、それ自身とは別のものについて告げる一つの体系全体が確かに横たわっています。それが意味し、予型し、象徴しているところのものを、それは要求します。なぜなら、人は象徴、型、絵図、暗示に基づいて永遠に生きることはできないからです。だれかがこのすべてに答えなければなりません!

ですから、ある御方について告げられます。旧約聖書全体の中に、預言の御霊によるある御方の宣言が含まれています。アダムが堕落して罪の悲劇が起きるやいなや、これをすべて正す女の裔が告示されます。彼はまたアブラハムの箇所でも宣言されます――「あなたの裔によって地のすべての諸国民は祝福される」(創二二・十八)。ヤコブの箇所でも宣言されます。年老いて死に瀕しているヤコブは、その息子たちを祝福してユダの番になったとき、次のような麗しい古典的言葉を宣言しました――「王の杖はユダを離れず、支配者の杖は彼の足の間から離れることはない。ついにはシロが来て、諸々の民は彼に従う」(創四九・十)。平和をもたらす者はユダの中から出ると予期されています。その名が平和すなわちシロである御方は、ユダ出身ではなかったでしょうか?この間ずっと彼が宣言されました。モーセの箇所では――「エホバあなたの神は、あなたたちの中から、あなたたちの兄弟たちの中から、私のような一人の預言者をあなたたちのために起こされる」(申十八・十五)。私たちの訳では、「私のような」という言葉を使っていて残念です。この訳はモーセが実際に述べたことの反対です。「エホバあなたたちの神は、あなたたちの中から、一人の預言者をあなたたちのために起こされる」。この預言者は「私のような」者ではなく、「神が私を起こされたように」起こされた者です。これについて考えてもらってかまいません。どのように彼はモーセを起こされたのでしょう?しかし、この預言者の到来についてのこの預言がここにあります。次にあなたは申命記十八章と三四章全体を読みたくなるでしょう。この両方の章ではモーセよりも偉大な方に言及されていることがわかります。今は先に進めません。すべての預言書がキリストについて預言しており、それらはみな彼を宣言していました。

おそらく述べるのがきわめて難しい面、きわめて難しい点――しかし、それがここに示されていると私は信じています――で締めくくることにします。このある御方は諸国民のただ中に個人的に現わされました。すなわち、イスラエルの中にです。多くの神の顕現、イスラエルにおける人の姿での神の現われを、あなたは思い出すでしょう。御使いと呼ばれている者と主ご自身とを区別するのが不可能な事例が少なからずあることを、あなたは思い出すでしょう。それらは置換可能な用語であり、同義語です。この同じ人について、最初に「御使い」という言葉、次に「主」という言葉が使われています。この御使いはヤコブとの格闘に応じたように思われますが、ヤコブは最終的に、「私は顔と顔を合わせて神を見たのに、私の命は保たれている」(創三二・三〇)と叫びました。この主の御使いはアブラハムに現われて、アブラハムは彼を主と告白しました。主はイスラエルに言われました、「見よ、わたしはひとりの御使いをあなたの前に遣わして、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導く。彼の前に慎み、彼の声に耳を傾けよ。彼を怒らせてはならない。なぜなら、彼はあなたたちの違反を赦さないからである。なぜなら、わたしの名が彼の中にあるからである」(出エ二三・二〇、二一)。これは誰でしょう?パウロは打たれた岩について、その岩はキリストだったと述べました(一コリ十・四)。しかし、あなたは次のことを覚えているでしょうか?これがこの出来事全体の要点です。すなわち、主がモーセに岩を打つよう命じられた時、主は「わたしはあの岩の上であなたの前に立つ」と仰せられたのです。岩だったのは主だった、とパウロは述べています。ご自身の民の命を救うために打たれたのは主でした。主を二度打つことはできません。一度打たれれば、神はほむべきかな、それで十分です。次に、その岩は彼らの後についてきた、と述べられています(一コリ十・四)。その意味は、その岩の水、その岩の効能、その打たれた岩の効力が、道すがら彼らと共に同行したことだと思います。「そしてその岩はキリストでした」。それは主でした。「わたしはあの岩の上であなたの前に立つ」。このようにこういった他の多くの事例を集めることができます。これらの事例では、主の御使いと称されている者は主ご自身であると言わざるをえません。そして、この数々の文脈を見るとき、神の御子を見ないわけにはいきません。もし証明が必要なら、旧約聖書の最後の書に行ってください。そこでは、契約の使者について言及されています。「あなたたちが求めている主は、突然、彼の宮に来られる」(マラ三・一)。「使者」と訳されている言葉は、他の箇所で「御使い」と訳されているのと同じ言葉です。この契約の御使い・使者は誰でしょう?「あなたたちが求めている主は、突然、彼の宮に来られる(中略)しかし、彼の来られる日に誰が耐えられよう?」。それは神の御子以外の何者でもありません。しかし、彼はイスラエルにおいて現わされました。何度も何度も個人的に臨在されました。まだ受肉しておられませんでしたが、それにもかかわらず顕現されたのです。

さて、ここに聖書があります。今、これが旧約聖書であることがわかります。すでに述べたように、それは期待と待望で貫かれています。何者かが最終的かつ決定的に到来して、このすべてに答えなければなりません。

他方、ご存じのように、これはみなキリストと関係しており、キリストにあって成就されたという証しで新約聖書はいっぱいです。聖書は、一言で言うと、「彼、キリストが、すべてとならなければならない」と述べているのです。彼の偉大さの一端を垣間見ることは、少なくともキリストとの合一の素晴らしさを垣間見る結果になります。ああ、これは何と偉大なことか!きっと、最初に述べたことの正しさを今や納得されたことでしょう。それはすべての希望です。すべては彼を中心としており、彼から発して、神に創造された宇宙の果てへと至ります。キリストとの合一こそが、人に関する、そして神との人の関係に関する、神の御旨の啓示全体の核心なのです。