前の黙想で聖書におけるキリストの偉大さの根拠――キリストは万物の意義であり、万物の目的・性質であり、万物の最終的な試金石です――を網羅したので、今、彼の地位について考えることにします。
二.彼の地位――御父の愛によって 無限の神の愛がその動機であり力である
彼の地位は御父の愛によります。無限の神の愛がその動機であり力です。これが、彼に与えられた地位に彼が定められたことの背後にあります。
これは幾つかの方法で啓示されています。それは全聖書の中に啓示されています。
(a)全聖書の中に
以下の多くの御言葉が直ちに思い浮かびます。ほんの一部だけ示しましょう。
「あなたは世の基を据える前からわたしを愛されました。」(ヨハ十七・二四) 「また御子を通して彼は宇宙を造られました。」(ヘブ一・二) 「主よ、あなたは初めに地の基を据えられました。諸々の天はあなたの御手の業です。」(ヘブ一・十)
しかし、彼がこの世界の基を据えられる前に、この世が存在するようになる前に、彼は御父の愛する者だったと宣言されています。
「父は子を愛して、ご自身が行われるすべてのことを子に示されます。」(ヨハ五・二〇) 「父は子を愛して、万物を子の手の中に与えられました。」(ヨハ三・三五) 「それゆえ父はわたしを愛しておられます。それはわたしが自分の命を放棄するからです。それはわたしがそれを再び得るためです。」(ヨハ十・十七) 「父がわたしを愛しておられるように、わたしもあなたたちを愛しました。」(ヨハ十五・九) 「天からの一つの声が言った、『これはわたしの愛する子である』。」(マタ三・一) 「それは私たちが(中略)愛する者の中で私たちに無代価で与えられた彼の恵みの栄光の賛美となるためです。」(エペ一・六) 「彼は私たちを暗闇の権威から解放して、彼の愛する御子の王国の中に移してくださいました。」(コロ一・十三)
このようにもっと続けることもできます。しかし、次のことを示すのに十分な引用はしました。すなわち、キリストは御父の愛によってご自身の地位を獲得されたことを、聖書は啓示しているのです。
しかし、これは直接的な明示的文章でそう述べられているだけでなく、すべてがこれを指し示しています。旧約聖書におけるキリストの絵図はみな、豊かさと嗣業を見据えつつ、愛の思想を浮き彫りにします。私たちは時として、アダムが堕落する前のたちまち過ぎ去る束の間の輝かしい朝を見落としがちだと思います。しかし、それは神が創造された人に対する神の愛の絵図なのです。愛――そうです。計画する愛、与える愛、同伴する愛、願う愛です。それは愛の絵図であり、すべては豊かさと大いなる嗣業を見据えています。それを理解してさえいれば、あの反逆と不従順は他の何ものにもまして、これほど世を愛された神の心に対する一撃だったことがわかったでしょう。アダムは堕落する前キリストの型だった(ロマ五・十四)、と私たちは告げられています。一つの型にすぎませんが、神と人の間の愛の関係と、全き嗣業を人に得てほしいという願いが、そこに十分に示されています。これらの顕著な個人的絵図、キリストの絵図を少し垣間見ることにします。
イサクについて――イサクを取り巻く愛の要素は見落とせません。彼は父の愛する者であり、特別かつ格別な愛の対象でした。「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれます」(創二一・十二)。嗣業は彼の愛する子の系統に引き継がれます。
ヨセフについて――おそらく、ヨセフほどキリストの偉大な絵図は旧約聖書中にありません。しかし、彼は父親になんと愛されていたことでしょう!どうやって彼は栄光、豊かさに至ったのでしょう?彼の地上の父よりも偉大な御方の妬むほどの愛によってです。なぜなら、彼は来るべき方の絵図だったからです。ヨセフがキリストの予型であることに間違いはありません。銀二十枚で売られ、すべての望みを断たれて視界から消え去り、地下牢の最深部に投げ込まれ、きわめて苦い魂の苦しみを味わい、よみがえって栄光と権力に至り、自分の兄弟たちに命をもたらしました。そうです、ここにキリストの絵図があることは明白です。しかし、その支配的特徴は豊かさに至る愛です。
あるいはイスラエルを見てください。歴史の中にもし神秘が一つあるとするなら、それはイスラエルに対する神の愛の神秘です。すべての光に照らして見ると、そうであることがわかります。神はイスラエルのことを「わたしの子」「わたしの長子」として語られました。「わたしはあなたについて、あなたの若いときの優しさ、花嫁の日々の愛を覚えている」(エレ二・二)。神はここでイスラエルに関する愛人のように語っておられます。驚くべき愛であり、すべては嗣業を目的としています。見本としてこれほど徹底的に神の愛を注がれた国民が、神への愛と神の御子への愛とこれほど真逆のものを示す国民になるとは、不思議ではないでしょうか?豊かさを見据えた愛の観点からキリストの姿を描いたこの物語に、旧約聖書からもっと追加することもできます。
尊さと栄光の観念を伝える、キリストに関する一連の象徴や型が他にもあります。ここで言う尊さとは、神の目から見た尊さのことです。あなたの学びのための題材がそこにあります。栄光は天の基準によるものであり、それはすべて暗黙的に示されたキリストです。これについてはここまでとします。彼はその地位を御父の愛によって保持しておられることが、直接的な記述によって、また多くの絵図・象徴・型によって、聖書の中に啓示されているのではないでしょうか?
(b)神のすべての働きに対する愛とは正反対のものによって
しかし次に、この同じ事実は神のすべての働きに対する、愛とは正反対のものによって啓示されます。反対側から、これを確証するものが常に得られます。まさにこれに関する最も強力な確証は、御父の愛によってキリストが保持しておられるこの職位と地位に対する敵の強烈な敵意から得られます。ああ、歴史を通して、そして今もなお、これは反対の方法で何を引き起こしてきたことでしょう!先ほど述べた数々の絵図に関して見られる妬み、疑い、憎しみ、偏見、高ぶり、殺人はみな、その表れにすぎません。これらのものがみな、彼の愛する御子に対していっそう多く噴出しました。あなたはこれをどう説明するでしょう?私たちは時々歌います、
一体、私の主は何をしたというのでしょう? 何がこの怒りと憤りを引き起こすのでしょう? 主は足なえを走らせ、 盲人に視力をお与えになりました。
この世の低俗な人ですら、「私は彼の中に何の罪も見いださない」(ヨハ十八・三八)、「この罪のない人の血について、私には責任がない」と言いました。この怒りと憤りはなぜでしょう?その答えは、それは下にある地獄から来た、というものです。それは御父の愛と、この愛によって彼が置かれた地位のためです。これをたんなる事実の記述とは思わないでください。これがまさにキリストとの私たちの合一の核心にあります。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたたちを愛しました」。キリストとの合一が何を招くのかがわかります。これを述べるのは、「この人は多くのデータや事項を伝えているにすぎない」と思われないようにするためです。そうです、地獄はこの問題を気にしています。それはとても意義深いです。キリストの権益の前進を目的とするものはみな、それが何だろうと、直ちに邪悪な嫉妬、疑い、憎しみ、偏見、そしてもし可能であれば殺害の対象になります。この反対は、人々に関するかぎり、何の理由もなく生じます。取り調べや調査をするまでもなく生じます。それはたやすく、自動的に生じます。そして、それはきわめて理不尽で非合理的な姿勢で取り囲まれます。そうした姿勢の多くは公正な調査で崩れます。しかし、それは存在します。どうして人々はこの手のものに捕われてしまうのか、という疑問が依然として残ります。しかし、それがどこから来るのか、私たちはよく知っています。そして、それは御子に関する神のあらゆる活動に対する愛とは正反対のものなのです。
(c)御子が誉れを受けなければならないという御父の要求によって
これは、第三に、御子が誉れを受けなければならないという御父の要求によって啓示されています。「これはわたしの愛する子である」という宣言が天から臨みました。「彼に聞きなさい」(マタ十七・五)。ここに御子の地位に対する御父の妬むほどの熱心さが見られます。御父は御子を素通りされませんし、熱心な使徒といえども御子に先立つことを許されません。私たちは「栄光と誉れを冠として与えられた」(ヘブ二・九)イエスを見ています。ペテロは変容に言及して、多くの年月が過ぎた後に、「彼が父なる神から誉れと栄光を受けられた時、厳かな栄光によって、『これはわたしの愛する子、彼をわたしは喜ぶ』という声が彼に発せられました」(二ペテ一・十七)と述べました。彼は御父から栄光をお受けになったのです。
黙示録では、これが中央大広場で合唱されています。「屠られた小羊は、力と富と知恵と勢力と尊貴と栄光と祝福とを受けるのにふさわしい」(黙五・十二)。御父は御子に誉れを授けておられます。私はヨハネによる福音書から引用しませんでした。なぜなら、御父が御子に誉れを授けておられることについて、御子ご自身が述べておられるからです。私たちはそれを受け入れますが、それを確証するものはもっとたくさんあります。彼の地位は御父の愛によります。それゆえ、御子が誉れを受けることを御父は要求されます。
さて、これはとても実際的なことです。あなたはイエス・キリストを経ずに神に至ろうと思っているのでしょうか?御父の定めでは、すべてが御子と共にあります。さて、これは包括的であって、被造物全体を網羅します。彼の中で、彼を通して、彼に至るよう、万物は創造されました。それゆえ、被造物全体についての神の定めは御子と共にありました。すなわち、神は御子という根拠に基づいて、創造された万物に対応されるのです。さて、被造物がその最初の君主であるアダムを通して神の御子の諸々の王権を破り、それらを敵対者であるサタンに手渡した時、神はどうされたでしょう?パウロの素晴らしい言葉によると、神は直ちに、全被造物のまさに中心に、「失望」を書き込まれたのです。御子の嗣業に対する彼の妬むほどの情熱は、彼は御子の外側の敵や反逆に目を向けないことを意味しました。パウロは「被造物は虚無に服した」(ロマ八・二〇)と述べています。そしてその瞬間から、被造物の中心に失望があります。これは人にも言えます。人のいかなる達成、成功、偉業、発明にもかかわらず、最後の結末は失望です。私たちの周囲の被造物の中に魅力的な美点があったとしても、それはそこそこ進んだ後、色あせて死んでしまいます。すべてが死と腐敗に服しています。これは失望です。定めは破られました。栄光、豊かさ、究極的完成は、御子に対して定められました。御子の外側では、そのように定められておらず、すべてが失望です。そうではないでしょうか?どうして人々にはこれがわからないのでしょう?他のだれも知らなくても、私たちクリスチャンは知っています。しかし、神はほむべきかな、私たちは神の定めに戻って、この失望は一掃されました。神は私たちのもとに、御子における定めに、キリストとの合一に戻って来てくださいました。
この合一は表向きのものや、法的・形式的なものではありません。それは愛情深いものです。ここでの支配的要素は義務ではありません。愛は決して義務にとどまることなく、常に究極的可能性へと進んで行きます。キリストとの合一は、神の愛の中心であるため、そのような性格を帯びています。もちろん、あなたはこれらすべてについて静かな黙想をかなりしなければなりませんし、私たちがキリストに関して述べていることをすべてクリスチャン生活と関係づけなければなりません。「彼の愛する御子の王国の中に移してくださいました」(コロ一・十三)。この側面――「彼の愛する御子」――だけでも驚くほど素晴らしいですし、豊かです。キリストとの合一は私たちをこの立場に、この領域の中に移します。ああ、神の愛は神がご覧になる善や悪の程度に応じて等級付けされてはいないのですから、この愛を等級付けして考えないようにしましょう。あなたや私に対する彼の愛は、彼が御子に対して抱いておられる愛です。これがその啓示です。キリストに結ばれることは、御父の愛子である彼が御父に対して持っておられる関係の広大さの中に包まれることです。いま述べた、「彼が御父に対して持っておられる関係の広大さ」とは、まさに神である彼についての話ではなく、人である彼、御子イエス・キリストである彼についての話です。
三.キリストの偉大さは霊的・道徳的なものである
「道徳的」というこの言葉をあなたは好まないかもしれませんが、私はこの言葉を特別な限定的意味で使っています。「霊的」という言葉は、神の方に目を向けて、御父との彼の合一について伝えます。「道徳的」という言葉は堕落の後に出てくる言葉で、堕落した人類に由来する事物の体系全体――道徳――と関連しています。ですから、私たちが道徳について述べる時、それは上ではなく下に触れるもの、神ではなく悪と関係あるものを意味します。ですから、キリストの偉大さが霊的なのは、御父と共にある彼の生活という理由によります。彼の偉大さが道徳的なのは、堕落した性質とその意義全般という下の領域からのものから完全に分離しているという理由によります。霊的そして道徳的という言葉を現時点で使う時、私が言わんとしているのはこれに尽きます。四福音書を読むと、これがすべての背景であることがわかります。この問題の根底には常にこの二つがあります。おそらく、先に進むにつれて、これについてさらに見ることになるでしょう。
しかし、あなたに思い出していただきたいのですが、全旧約聖書は来るべき聖なる御方、義なる御方、義なる僕の観念の上に構成されています。「あなたはあなたの聖なる者に腐敗を見させられないからです」(詩十六・十)。この御言葉が詩篇にあり、ご存じのように、ペテロがペンテコステの日にキリストに関して引用しました。「あなたの聖なる者」。この御方は、霊の領域ではこの称号によって認知されたのです。
悪鬼どもは彼のことを受肉前から知っていました。「私はあなたが誰か知っています。神の聖なる者です」(マコ一・二四)。これはあなたを旧約聖書の遥か昔に連れ戻します。一人の預言者から「義なる者」という句をパウロは引用します。いわゆる堕落を通して罪が侵入した最初の時から、聖なる者、義なる者の探求がなされてきました。義なる人はどこに見いだされるのでしょう?もし彼を見いだせるなら、彼はすべての問題に対する答えです。この義なる御方の無数の絵図が私たちに与えられています。アベルは義であるとの証しを得ました。その信仰のゆえに、アブラハムは義と称されました。ノアは義の宣教者でした。聖書を知っているあなたなら、これ以上私の後を追う必要はありません。義なる御方についてのこれらの絵図がたくさんあります。しかしこれらすべての絵図には失敗もありました。そのため、完全に義なる御方を求めるこの探求は依然として答えを得ておらず、かなえられていません。依然としてこの義なる御方、この聖なる御方を求める叫びとため息と共に旧約聖書は閉じます。被造物は宙に浮いたままです。人々は依然として輝かしい御旨の実現を待ち望んでいます。ある本質的状態の上に、人の中の内的状態の上に、運命がかかっていました。儀式的状態ではなく内的状態にかかっていました。すなわち、内的な義と聖さの状態にかかっていたのです。この状態が人の内に見いだされるまで、すべてが宙に浮いていました。ある状態がなければ、この偉大な素晴らしい御旨・運命は実現不可能でした。この点に集中して、これについてよく考えてください。神は最善を尽くして人々を助け、励まし、そこにもたらそうとされました。しかし、慎んで述べさせてもらうと、神の御旨は挫折したという感覚があります。神が主権的行為により人々を切り抜けさせて栄光にもたらすことを、状況は許しませんでした。神はそうできませんでした。すべてが内なる状態にかかっていました。ある内的状態がなければ、神の御旨の実現・成就は不可能であり、御旨達成の可能性はありませんでした。神は儀式的状態によって彼らをできるだけ連れて行かれましたが、それがどのように失敗したのかを私たちは知っています。正反対な内的状態は儀式の手には到底負えませんでした。秘跡はこれを達成しません。義の内的状態がなければなりません。
ああ、神はほむべきかな、キリストの内的状態はすべてを可能にする状態でした。そうです、キリストの卓越性は彼の内的状態であって、彼の法的身分や公的地位ではありませんでした。常にこれを覚えておいてください。彼は儀式、秘跡、祭儀、規則、挫折したあの体系をすべて遥かに超えて行かれました。彼は内的な在り方のゆえに、それをすべて凌駕されました。これが彼の卓越性です。
(a)天はこれを知っている
天はこれを知っています。そして、これが彼が聖霊で油塗られた理由です。なぜなら、旧約聖書には数々の油塗りがある一方で、それらは部分的・一時的なものであり、何の豊かさもなく、何の永続性もなかったからです。それらは一時的な目的を果たすためのものでした。彼は豊かに、また決定的に、神から油塗られました。彼は永久に油塗られた者であり、神は彼に御霊をかぎりなく与えられました。しばしば述べてきたように、油を塗ることは神がご自身をお委ねになることの象徴にほかなりません。神はご自身の諸々の要求にそぐわない状況にそのようにご自身をお委ねになる、とあなたは思うでしょうか?天は彼について、「あなたはわたしの愛する子、あなたをわたしは喜ぶ」と証言しました。
彼は試みを通って勝利されました。彼の内側の状態は、あの悪しき者自身の汚れた手により、あらゆる形・種類の試みにさらされました。そして、霊的に汚そうとするあらゆる試み、すなわち、彼ご自身と神との間に何かを介入させて、この関係と交わり、そして神と共なる清い聖なる真実な歩みを損なおうとするあらゆる試みに対して、彼は勝利されました。彼は勝利して優位に立ち、呪われた地と接触させて神の祝福の圏外にあるものとのつながりを生じさせようとするあらゆる試みに対して勝利しました。これが彼の卓越性です。それは内的です。天はこれを知っています。
(b)人はこれを感じている
人はこれを感じています。それでもやはり、それが意味することを皆が知っています。何らかの形でイエス・キリストに関して言及される時、人の内にある本能が湧き起こります。それは冷やかしや「すました優等生」といった批判から公然たる敵意に至るまで様々です。そして、それは人の良心に触れたからです。この御方の前では人は居心地が悪く、場違いに感じるのです。自分の存在には何か悪いものがある、と感じるのです。あなたはそれをご存じです。一言も発しなくても、もしキリストがあなたの中におられるなら、あなたはマークされます。人はこの霊的・道徳的卓越性を感じ、そして不快に思います。人はキリストの偉大さを感じています。そして、彼の御前では自分が哀れで惨めな卑しい者であることを感じて、居心地が悪く感じるのです。
(c)地獄は堕落させようとする試みによってそれを証明する
地獄はこれを証明します。さんざん述べてきましたが――地獄は堕落させようとする試みによってそれを証明します。キリストは目標であり、万物の相続者です。そして、この嗣業は神の御子のかたちに同形化されて聖なる不朽のものにならなければなりません。したがって、彼からその嗣業を騙し取り、神の御旨を打ち倒す唯一の方法、神の御子の道を回避する唯一の方法は、何らかの方法で堕落させることです。これはこれまでずっとそうでした。多くのことが心に思い浮かびます。
彼の偉大さは次のことから明らかである
(a)彼が神を満足させたこと
彼の偉大さは彼が神を満足させたことから明らかです。これは言うまでもありません。神は無限に聖なる方であり、御子をご自身の喜ぶ者として、ご自身の喜ぶいけにえをささげる者として証言されました。そしてそれによって、彼に関する完全な満足を表明しておられます。数々の絵図や型や象徴によると、キリストに属するあらゆるものに対する判決は、神は満足しておられるということです。彼の偉大さは彼が神を満足させたことから明らかです。
(b)彼の贖いの御業
これは彼の贖いの御業から明らかです。なぜなら、罪人は罪人を救えないからです。自分自身の生活と経験の水準を超えて、だれかに益を及ぼすことはできません。キリストが徹底的・決定的・究極的な贖いと救いを達成するには、彼は徹底的かつ完全に罪なき者でなければなりません。彼の贖いはそれに基づきます。
(c)御霊の働き
また、これは御霊の働きから明らかです。これが意味するのは、第一に、御霊はイエスの霊であるということであり、第二に、彼は聖霊であるということです。これによって、すべては言わば試されます。キリストの偉大さは教理や、何らかの事実の宣言ではありません。それはあらゆる方面から実際的に検証されます。さてそれでは、聖霊の御前で既知の罪を抱えたまま逃げようとしてみてください。そして、前進できるかどうか見てください。聖霊が指摘しておられるものを対処せずに霊の命を成長させようとしてみてください。そして、どれくらい遠くまで行けるのか見てください。これが証拠です。神のあらゆる御旨の頂点は内住する聖霊の賜物であり、聖霊の働きはすべてイエス・キリストの絶対的偉大さと栄光に基づきます。彼はごく小さな点に至るまで働かれます。それはキリストにしたがっているでしょうか?それはキリストに栄光を帰しているでしょうか?それはキリストを反映しているでしょうか?聖霊が「これはキリストに反しています」と仰せられたのに、私たちがそれに対して目を閉ざし、それを無視し、反逆的であるなら、霊の命は直ちに阻まれ、たとえ次の半世紀生きたとしても、それ以上前進できなくなります。聖霊はキリストのために妬むほど熱心です。結局のところ、クリスチャン生活とは何でしょう?それは一組の教理に同調することや、一組の規則に従うことではありません。キリスト教はキリストであり、それ以外の何ものでもありません。聖霊は私たちをこの状態に保たれます。ですから、すべてが試されます。これまで述べてきたことをみな、聖霊は実際問題とされます。
さしあたってこれについてはここまでにしなければなりませんが、あなたは今やキリストとの合一の意味を垣間見ているのではないでしょうか?ああ、神はほむべきかな、キリストとの合一は、神は彼に完全に満足しておられること、そしてそれゆえ、彼の中にある私やあなたにも満足しておられることを意味します。あなたはこれを把握されたでしょうか?これはクリスチャン信仰の基礎の一つですが、私たちはそれをどれくらい長く把握してきたでしょうか?「自分たちは標準に達しないのではないだろうか」と私たちはあまりにも恐れています。あなたはただイエス・キリストを、あなたのすべての必要を満たす神への答えとして、信仰によってしっかりと握らなければなりません。そうするなら、聖霊はご自身の立場を獲得されます。大事なのはキリストです。私がいかなる者かではなく、彼がいかなる方かです。そして、これがすべての問題を網羅します。神は彼に満足しておられ、その結果は栄光です。「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」(コロ一・二七)。前進できることがわかります。彼が答えです。これはすべて神の恵み、素晴らしい恵み、無限で無代価の恵みによります。キリストとの合一はあらゆる問題に応じ、神を満足させ、私たちを栄光に導きます。