第四章 創造的・種族的合一

T. オースチン-スパークス

「もしだれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。」(二コリ五・十七、改訂訳欄外)(この訳に注意してください。欽定訳を修正・改善しています。)

「なぜなら、私たちは神の傑作であり、諸々の良い働きのためにキリスト・イエスの中で創造されたからです。神は、私たちが諸々の良い働きの中を歩むように、それらをあらかじめ備えてくださったのです。」(エペ二・十)

「万物を創造された神の中に、世々隠されてきた奥義の経綸の何たるかを、すべての人に見せるためです。」(エペ三・九)

「割礼も無割礼も重要ではありません。重要なのは新創造です。」(ガラ六・十五、改訂訳欄外)

「そこでまた、『最初のアダムは生ける魂となった』と書かれていますが、最後のアダムは命を与える霊となりました。しかし、霊のものが最初ではなく、天然のものが最初であり、それから霊のものです。最初の人は地から出て地的であり、第二の人は天から出ています。地的な人に、地的である人々もまた同じであり、天的な人に天的な人々もまた同じです。そして、私たちは地的な人のかたちを帯びているのと同じように、天的な人のかたちをも帯びるようになります。」(欄外にある、最後の句の代訳に注意してください――「私たちもまた天的な人のかたちを帯びようではありませんか。」)(一コリ十五・四五~四九)

キリストとの合一のこの一連の面について、私たちは自然の順序に従うことにします。つまり、天然のものが最初であり、次に霊のものです。私たちは天然のものの絵図や描写の道を通って、霊的意義に至ることにします。これが神の順序です。万物の機能は霊のものに導くことであることを、主は示しておられます。もちろん、この創造の問題では、私たちは特にに目を留め続けることにします。私はできるだけ単純かつ実際的でありたいと思っており、それに怒る人はだれもいないだろうと確信しています。

キリストとの創造的・種族的合一というこの問題を扱うにあたって、次のことを思い出してください。神は創造のための一つの模範を持っておられたのであり、一つの模範に向かって働かれました。全被造物のためのこの模範は一人の人であり、その人は創造された万物の原型である御子でした。もし人が反逆・堕落してこの計画されていた模範の道から逸れていなければ、遅かれ早かれ――それにどれくらいかかったのかは言えませんが――遅かれ早かれ、多分早々に、人はその次元に達していたでしょう。人は神の御子のかたちに同形化されていたでしょう。「型に同形化」されて、万物の原型たる方に達していたでしょう。しかし、人は反逆してその道から逸れました。人をその道に回復するために贖いが介入します。贖いの必要が生じるからそうだったように、贖いにおいても、神の御子が模範です。

さて、これはとても単純な声明であり、理解するのはとても容易です。少しもたいへんではありません。しかし、これにはそれ以上の内容があります。つまり、型、この原型が何かということです。もちろん、これは私たちには到底困難です。しかし、この当初の模範にしたがって被造物を完成させることは、全く神の霊の働きによるのです。

さて、これをどう述べたら理解してもらえるでしょう?第一に、これをとても単純な形で述べることにしましょう。西洋世界から極東に初めて行ったとしましょう。それまで極東からの人に会ったことはなく、極東について読んだこともありません。突然――現代の交通機関と同じくらいの速さで――私たちの世界からその世界に連れて行かれたとします。私たちは最初からすべてを学び直さなければならないことに気づきます。私たちのやり方とは正反対の方法ですべてがなされています。考え方も全く正反対です。活動も私たちの素養や気質とは全く正反対です。精神性、行動、習慣、手順、基準、価値観など、すべてが完全に別世界で、自分がどこにいるのか本当にわからなくなります。すっかり途方に暮れてしまいます。立ち止まらなければなりません。その別世界を解してそれに順応・適応できる精神性を真に身につけるのに、半生か一生かかる人もいます。非の打ちどころなく、あらゆる面でこの人々の一人のようになれる人は、相当な才能のある人である、と言われています。多くの年月が過ぎた後でもそうなのです。

しかし、これをさらに展開することができます。言うべきかどうか迷うのですが、昔、よく劇場に行った時期がありました――何年も前のことです!そこで「火星から来た男」という劇をやっていたのを思い出します。それはとてもユーモラスな劇で、それ以来、私はそれについて時々考えてきました。火星から一人の男が私たちの地球にやって来て、すべてを見て回ります。「これは何だろう?」「なぜそのようにするのか?」「私たちのやり方とは違っています」。そこで彼はすべてを見て回り、比較します。すべてがとても奇妙で、その大半はとても滑稽で、とても馬鹿げています。彼は行き巡って火星の流儀にしたがってすべてを正します。私が何を言わんとしているかおわかりでしょう。

主イエス・キリストは、この世界にかつて存在したことのないような存在であり、人です。彼は、私たちの世界とは別の世界を個人的に体現しておられます。私たちがキリストの中に入る時、私たちは彼に属するすべてのものに対して全く不案内です。すべてを最初から学び直さなければなりません。私たちの考えはすべて間違っており、すべて的外れです。私たちの基準、観念、判断、計算、予想はすべて異なっています。そうです、構成が全く異なるのです。あらゆる点で彼は異なっておられます。そして、新創造もそうです。注意してください――「もしだれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去って、見よ、新しくなりました。しかし、すべては神から出ています」。

ですから、クリスチャンになることは、一組の教理・教え・理論・観念・実行・形式を受け入れることを遥かに超えたことです。それは新しい世界、見知らぬ遠い世界に入ることです。もともと私たちには、その世界のための能力は全くありません。その能力を与えてもらって、最初からすべてやり直し、新しい観念を学ばなければなりません。

さて、これは簡単に聞こえるかもしれませんが、実行するのは簡単ではありません。毎日、私たちはこのことで何度もつまづきます。キリストは私たちを怒らせます――そして、私たちがどれほど彼を怒らせているのか、彼だけがご存じです。毎日、そんな具合です。造り変えられること――これがクリスチャン生活です。それはこの新創造、この種族的合一、第二のアダムではなく最後のアダムの中にこのように入ることから始まります。すべては彼によって成就されます。第三はなく、それ以上はありません。これが最後です。

話しているうちに一つの伝説――いわゆる聖クリストファーの伝説――をふと思い出しました。クリストファーは肉体的にとても力が強く、自分よりも強くて自分を打ち負かせる人を生涯探していました――何としても自分より強い人を見つけようとしていました。自分より強い人のことを耳にし、出かけて行ってその人を見つけたのですが、大したことはありませんでした。しかし、その人は彼の探求に気づいて、「悪魔・サタンは自分よりも遥かに強い」と言いました。そこでクリストファーは出かけて行ってサタンを見つけ出し、サタンが自分よりも遥かに強いことを見いだしました。それで彼は自分を売り渡してサタンの僕になりました。彼はしばらくの間、遥かに強い主人であるサタンに忠実に仕えました。しかしそれは、だれかがイエス・キリストの御名を口にするまでのことでした――サタンは恐怖のあまり命がけで逃げ出してしまったのです。

そこでクリストファーは言いました、「疑いなく、サタンよりも遥かに強い者がいるようだ。その人を見つけに行こう」。そこで彼はこの方、イエス・キリストを探しに出かけました。そして、彼は一人の隠者に出会い、自分が探している方のことを話しました。すると、隠者は言いました、「行って、この川の渡し守をし、人々とその荷を運んであげなさい。このような慎ましい仕事に身をささげるなら、あなたはイエス・キリストに出会うでしょう」。そこでクリストファーは川岸に行き、小さな小屋を建て、昼も夜も人々とその荷を運びました。平穏な時も嵐の時もそうしました。

しばらくたった後、彼は一人の幼子、一人の少年の叫び声を聞きました。その小さな少年は川を渡りたがっていました。「よし」とクリストファーは言いました。「これなら船を出すまでもない」。そこで彼は少年を肩に乗せて川の中に踏み込みました。間もなく風が吹き始めて、川は氾濫寸前になりました――しかし、その他にも何かが起きつつありました。この少年が耐えられないほど重くなっていったのです。一歩ごとに少年は重くなっていき、ついに哀れなクリストファーは肩に乗っているこの少年の重さに負けてしまいました。そんなことは経験したことがありませんでした。「少年よ、お前は何者だ?」と彼は息を切らしつつ尋ねました。「お前は私を溺れさせようとしている!」。すると少年は言いました、「わたしはイエス・キリストです」。そこでクリストファーは言いました、「あなた様は私の御主人です!」。もちろん、伝説が告げるところによると、その少年は彼を父と子と聖霊の御名の中にバプテスマし、その時から彼はイエス・キリストの奴隷、聖クリストファーになりました。

まあ、これは伝説ですが、私の狙いに役立つと思います。あなたはイエス・キリストを乗せて、自分が思う以上に乗せることになるかもしれません。あなたは軽々と彼を乗せるかもしれません。クリスチャン生活を軽々と送るかもしれません。それは児戯のようだと思うかもしれません。しかし、間もなく、自分の手に負えないものをあなたは抱え込みます。あなたは一つの宇宙を自分の肩に担い、イエス・キリストが内側に入ってくださらないかぎり、倒れてしまいます。要点がおわかりでしょう。ああ、確かに、決心カードに署名して「私はクリスチャンになります」と言い、何らかの感情の促しの下で行動し、自分をキリストのものと称するのはとても容易です。あなたはイエス・キリストを乗せますが、間もなく、自分には彼を運べず彼に自分を運んでもらわなければならないことに気づきます。彼は私たちにはあまりにも大きすぎます。これが私たちが日々経験していることです。彼は私たちにとってあまりにも大きな存在なので、私たちには支えが必要です。その支えとは、自分がキリストの中にあることを保証してくれるもの、つまり、「あなたたちの内におられるキリスト」です。

しかし、まさにそのとおりです。キリストは被造物の型、絵図であるだけでなく――被造物の命です。被造物が彼を体現しているように、彼は被造物を体現しておられます。

これを述べたので、今、次の表題の下で、創造的・種族的合一について考えることにしましょう。その表題とは、構成された、条件を与えられた、注意を受けた、です。

(a)構成された

型としてのアダムからその本体であるキリストに、そして次にキリストにある私たち自身に移ることにします。アダムは特に、神と関わる能力を持つ存在に構成されました。キリストにおける神との合一は霊的です。キリストにおける神との合一の媒体は人の霊です。人は霊を持つ存在に構成されました。なぜなら、神は霊であり、人の霊は神との合一と交わりを可能にするものだったからです。人の霊と父なる神とを御子にあってつなぐのは聖霊です。キリストとの合一は全く霊的な問題です。これが私たちが新しい霊的存在になった理由です。最後のアダムであるキリストにおいては、御父との合一と交わりは完全でしたが、これは彼の人霊のおかげでした――私がいま述べているのは受肉した彼のことです――彼が持っていた人霊と、聖霊とのつながりのおかげで、御父との彼の合一は完全でした。彼は御父との完全な一つの中で、生き、歩み、話し、行動し、命を放棄されました。すべてを彼は御父から受けました。彼は自分の命を放棄する権威さえも御父から得なければなりませんでした。この一つは完全でしたが、それは全く霊的でした。

さて、私たちがキリストの中に、新創造の中に入るとき――私たちの人霊は生かされ、新しくされ、あるべき地位に回復されますし、私たちは自分の新しくされた霊とキリストとをつなぐ聖霊を受けます――神との関係が直ちに確立されます。神は遠い存在である、という感覚はすっかりなくなります。回心・再生の祝福の一つ、キリストの中に入って聖霊を受ける祝福の一つは、神は遠く離れた、縁遠い、近寄りがたい存在である、という感覚がすっかりなくなることです。神は近くに、とても近くにおられ、とても現実的です。合一が確立されたのです。

そして次に、確立された霊的合一により、まさにこの構成要素――すなわち聖霊によって主につながれて新しくされた霊――が全く新しい世界の基礎になります。その世界とはキリストです。それは新しい世界、新しい創造、霊の世界、霊の宇宙であり、そこで私たちは学び直すことになります。幼少期からすべてを新しく学び直すことになります。これを認識しないなら、霊の命に大きな害が及びます。キリスト教はそのような体系、そのような道になってしまいました。「救われなさい、すぐに取りかかりなさい!」――これがキリスト教であり、私たちの用語の多くは地的体系の意味合いを帯びています。たとえば、「あなたのみこころが天で行われているように、地でも行われますように」という御言葉はやや典礼的になってしまっており、神のみこころを行う天的方法という意味が見失われています。聖霊は、もしご自身の道を進むなら、私たちに普通ならしないような行動をさせ、普通なら決して言わないようなことを言わせ、普通なら決して考えないようなことを考えさせるでしょう。まるで、全く別世界にいるようです――まさか自分がそのように話したり考えたりするとは、と時として私たちは驚きます。私たちはそのようなたちではありません。そうです、しかし私たちは最初から造り直されつつあります。キリスト・イエスにあるこの新創造は、別世界なのです。これ以上これについて述べる必要はないと思います。

すべてが今や霊的です。罪(単数形)は基本的に霊的であることを覚えておいてください。なぜなら、罪(単数形)は神との関係に触れるからです。神との関係は霊的なものです。罪(単数形)は神との関係に触れます。罪(単数形)は人間の存在目的に逆らいます。ですから、罪を犯す時、私たちは自分のまさに存在目的を台無しにするのです。神の目から見たまさに自分の運命に逆らっているのです。私たちは神との交わりのために造られました。天の王国のために造られました――しかし、これを地理的な事柄にしないでください。天の王国は霊的秩序です――そして罪(単数形)は私たちのまさに存在目的に逆らう霊の働きです。私たちはこれを知っています。それが神との関係というまさにこの問題に触れることを、私たちは知っています。

罪(単数形)とは色々なことを行うことではありません。様々な名称の詰め合わせで罪(単数形)を呼ぶことはできません。罪(単数形)はただこのような一つの世界から発します。あなたは「これは罪です。あれは罪です」と言うかもしれません。確かにあなたは正しいかもしれませんが、あなたは罪(単数形)の各面を表すそれらの名称の背後に回らなければなりません。罪(単数形)と罪(複数形)は異なります。罪(複数形)の背後にある罪(単数形)は、神に対する私たちの関係に触れるものです。私たちのまさに存在目的に触れて、私たちの存在・構成目的を台無しにするものです。罪(単数形)は霊的であり、救いは霊的です。クリスチャンは霊的な人ですが、それは次のような意味です――すなわち、との関係が確立されている人、神にしたがっているものをすべて見るようになった人、天の王国の体系全体が自分を造り変える聖霊の働きの領域・基礎となっている人なのです。

単純ではない話をしてしまったでしょうか?あなたなら話についてこれると思います。この類のキリスト教は現行の今ある一般的キリスト教――それは「クリスチャンであるにはあれもこれもしなければならない」とあなたに告げます――とはかなり異なっています。これはそれとはかけ離れています。さて、次に進むことにしましょう。

(b)条件を与えられた/試された

アダムは、特に神と関わる能力を持つ存在に構成された後、卒業に向けて試験されました。彼がこの試験に無事合格していたら、どのように卒業していたでしょう?卒業の結果、変容していたでしょう。少し前に「遅かれ早かれそれが起きただろう」と言ったとおりです。アダムは変容されていたでしょう。すなわち、彼は栄化されていたでしょう。彼は卒業に向けて試験されました。人の子なる方の行程は、すべての神の子供の行程でもあります。聖霊の働きによって誕生します。人の子がそうであり、神のすべての子供もそうです。それから神のみこころの中へとバプテスマされます。なぜなら、バプテスマの意義は第一に――神のみこころに徹底的に委ね、明け渡し、そのために分離されることだからです。他のすべてに対して死に、ただ神に対して生きることだからです。人の子はその立場を取られました。そして、あなたも私もそのために再生されました。それが私たちの前にあります――すなわち、一つの種族に対して死に、別の種族の中でただ神に対して生きることです。次に、この立場に基づいて、彼は御霊を受けられました。彼が水の中から出てこられると、天が開けて御霊が彼の上にとどまりました。御霊を受けることが神のすべての子供の行程でなければなりません。

次に、奇妙なことに、彼はすぐに試みの中に、その状況の中に導かれました。あたかも、今やすべての準備が整ったと言わんばかりです。彼は御霊によって荒野に導かれ、悪魔によって誘惑されました。人の子は試され、試験され、試みられました。それは荒野の四十日四十夜だけでなく、その後しばらくの間そうでした。攻撃可能なあらゆる方面から攻撃されました。地獄、この世、友人たちから攻撃されました。試験されて試されました――しかし、勝利されました。彼の旅が外面的に最長到達点に達した時――そこから彼は転じてまっすぐ十字架に向かわれました――彼が変容されたことは無意義ではありません。まるで、それがこの人の目標であると言わんばかりです。エルサレムに上る残りの旅は彼ご自身のためではなく私たちのためでした。それは私たちのためであり、私たちをこの同じ道――誕生、バプテスマ、御霊の拝受、信仰の勝利、変容――の中にもたらすためでした。究極的に完成された合一について考える段になったら、変容について述べることにします。

(c)注意を受けた

アダムは警告と戒めを受けて、取りうる二つの道の選択肢があること、達しうる二つの決断の候補があることを知らされました。「それから取って食べる日、あなたは必ず死ぬ」(創二・十七)と彼は警告を受けました。警告を受けました――何のためでしょう?個人的変容のためだけでなく、嗣業のためです。神との交わりのために構成され、変容のために条件を与えられ、霊的に向上して嗣業に至るために警告を受けました。なんなら、嗣業を世界の主権と呼ぶこともできます。最初のアダムの場合そうであり、最後のアダムの場合もそうでした。そして、教会の場合もそうです――キリストとの合一の中にある、キリストと共なる主権です。

しかし、私たちはいま試されているところです。私たちは御霊から生まれ、神のみこころの中にバプテスマされ、聖霊を受けました。私たちは試されているところです。その目的は個人的変容だけでなく、主権のためでもあります。私たちは諸々の事柄に立ち向かい、諸々の事柄は私たちに立ち向かいます。敵は絶滅していません。主は敵を残しておられます。主は敵がエデンの園の中に入り込むのを許し、敵がアダムのもとに来るのを阻止するために何も行動されませんでした。それと同じように主は、敵を私たちの道から締め出すために、また私たちが敵の道に巻き込まれないようにするために、何もされません。主は敵に一定期間働くことを許されました。また、敵があらゆる方面から私たちを攻撃し、追い立て、試みるのを許されます――それには一つの目的があります。その目的とは私たちの個人的救いや個人的栄化ではありません。私たちがキリストと共に主権を持つようになることです。

エペソ人への手紙はこれを完全に明らかにしています。実に、これがエペソ人への手紙の目的です。それは主として個人的なことではありません。個人が団体の一部を成すかぎりにおいてのみ、それは個人的です。その目的とするところは教会であり、教会は天的戦いの中にあります。なぜなら、教会は「彼のからだ」であり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満だからです。そして、彼の普遍的主権の手段・器たるものが教会です。覚えておいてください。サタンがあなたを攻撃し、主がサタンに攻撃を「許可」される時、そしてあなたが辛い時を過ごす時、それはたんなる個人的問題や、個人的事情ではありません。それは、代々にわたって教会を宇宙統治の都にするという神のこの巨大な御旨と関係しています。敵の攻撃はこれを狙っているのであって、私たちを狙っているのではありません。敵は私たちを通してキリストを攻撃しているのです。このエペソ書に示されているあの合一、あの一つのゆえに、これがみな起きているのです。個人を打てば残りも打つことになることを、サタンはとてもよく知っています。個人を捕らえるなら、残りも捕らえることになるのです。個人からキリストを追い出すなら、人類からキリストを追い出して、彼自身が王位につくことになるのです。彼はそれを行って、この世の君と称されるようになりました。しかし、それに対する神の反応を私たちは見てきました。神は人々を霊的に天に連れ戻して、義とするために前進しておられます。まるで何も起きなかったかのように、この目的を抱きつつ信仰を持つ人々と共に前進しておられます。しかし、その信仰は試された信仰、試みられた信仰です。私たちはこれを知っています。それはみな私たちを霊的優位性と勝利にもたらすためです。嗣業へ、主権へと至らせるためです。

さて、他の文脈でそうするのと同じように、私は次のことをあなたたちに思い起こさせて終えることにします。すなわち、嗣業はキリストと教会にまつわる戦いの鍵なのです。そして、相続人たる身分には二つの面があるのです。法的面と霊的面です。新しく生まれた時、私たちは法的に相続人となりました。新創造の中にあるなら、私たちは法的に出生による相続人です。しかし、相続人としての法的身分と、霊的に相続する行為との間には、とても大きな違いがあります。後で見ることになりますが、聖書は他の文脈と同じようにこの文脈においても明確な区別をしています。ガラテヤ人への手紙はまさにこの思想を巡って構築されています。「相続人は子供である間(中略)父によって定められたその時が来るまで、保護者や家令の下にいます」(ガラ四・一、二)。この手紙はさらに続けます――子供であるなら子でもあります。私たちはみな子らです。それは信仰によって、つまり法的にです。たとえ子たる身分が意味する特権、つまり嗣業を、霊的に実際に所有していなくてもです。私たちは出生により法的相続人です。しかし、霊的に成長することによって私たちは嗣業の霊的所持者になります。

これについてはっきりしているでしょうか?もし教えについてはっきりしていないなら、実行と経験についてはどうか自問してください。どれだけ多くのクリスチャンがこの嗣業を享受し、自分の嗣業を所有し、さらに嗣業を獲得するべく前進しているでしょう?多くのクリスチャンはそうしていませんが、それでも彼らは神の子供であり、法的相続人です。法的相続人から霊的相続人になるまでの間に、何かが起きてあなたはこの嗣業を失うかもしれません。新約聖書は常に私たちに告げます。私たちは偉大な嗣業を持っているのでそれを失ってはならない、と。私たちは偉大な数々の権利を持っているのでそれらを放棄してはならない、と。私たちは永遠の過去からある事柄にあずかるよう召されています――しかし、しかと「あなたの召しと選びを確かなものにしなさい」。これが、私たちの法的身分と私たちの霊的状態との違いです。

この新創造でも同じです。私たちは霊的に学ばなければなりません。一つの領域から別の領域に漸進的に移らなければなりません。戦わなければなりませんし、争いの中に入らなければなりません。自分の救いのためではなく、キリストの中にある私たちの嗣業のためです。私たちは試され、試みられなければなりません。それは自分が良いクリスチャンであることを証明するためではなく、霊的優位性の何たるかを学ぶためです。こうして霊的優位性の中でこの嗣業の中に入ります。無代価の賜物として受け取ることと、次にそれを嗣ぐべきこととに関する、一見矛盾らしきことを、あなたは思い浮かべるでしょう。すでに見たように、一方は法的地位であり、他方は霊的地位です。私たちは新創造の中にあります。その圧倒的大部分は彼方にあります。しかし、私たちは進み続けています。確かに、私たちが集会に集まるのは、主と共に前進したいからです。一つの領域から別の領域に移りたいからです。私たちの心は主の御旨の上に定まっています。つまり、主がご自身との合一に中に私たちをもたらされたそのすべての意義の上にです。彼の恵みにより、私たちは切り抜けて前進します。