第六章 使命の合一

T. オースチン-スパークス

「私は私の教会を建てる」(マタ一六・一八)。

「キリストは御子として神の家に対して忠実でした。もし私たちの確信を最後まで堅く持ち続けるなら、私たちは彼の家なのです」(ヘブ三・六、改訂標準訳欄外)。

「キリスト・イエス(中略)この御方の中で建物全体は共に組み合わされ、主の中にある聖なる宮へと成長していき、この御方の中で、あなたたちもまた御霊の中にある神の住まいのために共に建造されます」(エペ二・二〇~二二)。

「あなたたちも、生ける石として、霊の家に建造されます」(一ペテ二・五)。

キリストとの合一のこれらの様々な面には特別な価値・意義・観念があって互いに関係しあっていることを、あなたは理解してくれていると思います。もしこれを明確かつはっきりと把握していないなら、前に戻って最初から始めてもらえないでしょうか。これらはキリストとの合一の様々な面であること、そこには永遠の合一、創造による合一、夫婦の合一があることを受け入れるだけでなく、各面の特別な意義及び観念をしっかりとらえて、できれば、各々に一つの言葉、あなたが選ぶ言葉を付けて下さい。

この四番目の面に相対する言葉は使命です。というのは、神の家はある特別な目的のために構成されるのであり、その目的のために家は存在するからです。先に進む前に、「家」というこの言葉と共に私たちは立ち止まらなければなりません。「私たちは彼の家なのです」。これはとても興味深い、含蓄に満ちた言葉です。私たちがいずれにせよ英語で「家」というこの言葉を使う時、私たちの念頭にはごく限られた観念しかありません。原語の中には、住まい、家族、案配、供給、執事職といった観念がすべて見い出されます。そして、宝石のファセットのようなこれらの様々な意義について、今短く考えることにします。しかし、覚えておいて下さい。この意味におけるキリストとの合一を支配するものは、家としてのキリストとの合一なのです。

(a)建物

この元の言葉の第一の意味は建物です。「私は私の教会を建てる」。「どの家も誰かによって建てられるのですが、万物を建てた方は神です」(ヘブ三・四)。この家は建物です。この建物はキリスト御自身に相当するものです。彼はあの家、石の家、大きな束の間の建物をご覧になった時、直ちにその霊的意義を御自身に、御自身の体に適用して、「この宮を壊しなさい。そうすれば、私は三日のうちにそれを起こす」(ヨハ二・一九)と仰せられました。「私は私の教会を建てる。ハデスの門もそれに勝つことはない」。地獄のあらゆる破壊的策謀をもってしても、彼が建てられるもの、彼の建物に勝つことはできません。その建物は、今は石ではなく、生ける石でできています。これがこの家に関するペテロの言葉の意味です――「あなたたちも、生ける石として、霊の家に建造されます」。

「私たちである」この家を支配する目的・使命は、神御自身の臨在をもたらして人々が利用できるようにすることです。これが第一の目的です。この建物は神の住まいのためです。「御霊の中にある神の住まい」は、聖霊のパースンの中にある神の住まいです。それは神が臨在して利用可能になるためです。これは一つの文言です。これは単なる真理の文言にとどまるおそれがありますが、そうであってはなりません。これは一つの試金石です。神の家が存在するかどうかの試金石です。神の家の存在についての、もしくは、神の家を構成する生ける石についての試金石です。そもそも神が臨在しておられるかどうかの試金石です。神がそこにおられることが知られているでしょうか?この家に関する限り、これがすべてを試す試金石です。これがその使命だからです。この使命から離れるなら、それには何の意義もありません。

旧約聖書には、聖所から栄光が上って行った時のことが記されています。それは神がおられた場所から上って行きました。そして、聖所は存続し続け、この仕組みも進み続けましたが、それは抜け殻でした――それには何の意義も価値もありませんでしたし、まったく無意味でした。もし何か意味があるとしたら、悲劇という意味でした。栄光は上って行って、取り去られました。もはやそこに神は見い出されませんでした。ですから、ごく簡単に言って、神の家の存在と生ける石の存在とに関する試金石はまさにこれです。主は私たちの中に見い出されるでしょうか?主は私たちのただ中に見い出されるでしょうか?もし主がおられるなら、これはまさに主の要求をすべて満たします。主は手の込んだ華美な構造体を欲しておられません。「二人または三人が私の名の中に集められているところには、私がそのただ中にいるからです」(マタ一八・二〇)。これが神の家です。神の家かどうかを決めるのは、名前、称号、名称、場所、物事ではありません。それを決めるのは主の臨在です。そして、どこでも二人または三人の間に――それがどこであれ、また彼らが何者であれ――神が見い出されるなら、それは神の家です。そして、これを神は欲しておられるのです。

人々が抱えている問題は、その上に又その周りに何かを持たずにはいられないことです。集まる建物を得て、それを「教会」と称さずにはいられないことです。このようなことが起きるやいなや栄光が去ってしまうことが、何と多かったことでしょう。何かが去ってしまうのです。これを準備し始め、序列を設け始めると、主はどこに行ってしまったのか?となります。こういうことにあなたはこれまで何度も出くわしてきました。主は率直に「私に生ける石をまとめて与えなさい。私が欲しているのはただそれだけです。それを改善しようとしてはいけません。あなたにできるのはもっと多くの生ける石を集めることです――それが道であり、私が欲しているのはただそれだけです――生ける石を内的『一体性』の中に集めることです」と仰せられます。なぜなら、第一に、それはキリストとの合一であり、結合されたキリストであり、御自身の一体性の中にあるキリストだからです。主は「それを私に与えなさい。そうすれば、私の臨在を大いに現実のものにします」と仰せられます。

そして次に、もちろん、その目的はただ主の臨在を享受するものとしてただ存在することではありません。多くの場合、ここで間違いが起きます。「そうです、私たちは主と共に素晴らしい時を過ごしています。私たちは少数で、小さな群れですが、主と共に素晴らしい時を過ごしています」――そして、これを無限に永らえさせることができるとあなたは思います。無理です。それは主の臨在のためだけでなく、主を他の人々に利用可能にするためなのです。どこで主が見い出されるのかを彼らが知るためなのです――いいえ、それ以上です。すなわち、主を見い出すことは可能であることを彼らが知るためなのです。それは「神は本当に人々の間に住まわれるのでしょうか?」という彼らの問いに答えを与えるためです。そうです、ここに神がおられます。主の臨在が人々の心に対する、人々の探求に対する答です。そして、それで十分です。聖霊がペンテコステの日に教会の上に臨んだ時、「群衆が集まり」ました。何が起きたかと言うと、神が利用可能になったのです。必要なのは二、三の生ける石です。教理、神学、教会の体制やそのような事柄に関する細則について議論するためではなく、主について告げ、主で占有されるためです。もし地上における私たちのすべての日々を満たすのに主が十分ではないなら、私たちは何かが間違っています。あなたが主について話し始めるとだんだん疲れてきて、話をあらゆる種類の他の事柄で満たさなければならないなら、どこかに深刻な間違いがあります。

神の永遠の願いは住まいを持つことであり、人々と共に住むことです。そのように聖書は啓示しています。驚くべきことです!これにソロモンは驚きました。「神は果たして地上に住まわれるでしょうか?見よ、天も諸天の天も、あなたを容れることはできません」(一列八・二七)――「それでも、あなたは私に『私に家を建てよ』と命じられました!」。神は人々と共に住むことを欲しておられます。これが家に関する第一の点です――すなわち、それは住む場所でなければならないということです。キリストとの合一は神を中にもたらすことであることがわかります。なぜなら、キリストが団体的に表現されて個人的に臨在しておられる所に、神は入って来られるからです。もし神の臨在を知り、御子で占有されたいなら、これを覚えておいて下さい。なぜなら、前の黙想で述べたように、神の諸々の約束は御子と共にあるからです。

(b)家族

「家」というこの素晴らしい言葉の二番目の面は、家族としてのキリストとの合一です。これはこの観念を少し拡張したものです。私が何を言わんとしているのか、もしくはそれが何を意味するのか、私が次のことをあなたに思い出させるなら、あなたは理解するでしょう。すなわち、旧約聖書には「ヤコブの家」「イスラエルの家」といった句が出てきますし、新約聖書にも「信仰の家族」(ガラ六・一〇)という句が出てきます。ドイツにはハノーバー家があり、イギリスにはウィンザー家があります。

家族は二つのことを示します――始祖と家名です。例えばヤコブの家があります――ヤコブは始祖であり、その家は彼の名を名乗りました。また、イスラエルの家があります―― 一人の人が子孫全体に自分の名を付けて、イスラエルの家と名付けました。次に、信仰の家族について考えてみて下さい。この信仰の家族――私たちは誰が始祖か知っています。「私は信仰の中に生きます。神の御子の中にある信仰です」(ガラ二・二〇)と使徒は述べました。私たちは信仰の者たちです。これは一つの家族の団体的観念であり、直ちに家族――御父、御子、子供たち――としての教会の観念をもたらします。

さて、ここで述べたいことがあるのですが、それはあなたたちにとって決して目新しいことではありません。しかし、とても重要なことです。私たちはこれらの事柄を抽象的な真理や観念としてとらえてはなりません。もちろん、神の家についての教えをすべて持つこともできます。神の家について聖書が述べていることを知って、専門的概念をすべて得ることもできます――しかし、それでもそれには実際的価値が何もないおそれがあるのです。この神の家は局所的に表現されなければなりません。局所的に存在していることが見い出されなければなりません。別の句の下で、間もなくこの文脈で述べることになることから、次のことが大いに明らかになります。すなわち、これは神の数々の要求を満たすために秩序正しく存在しなければならないのです。生ける石たちの合一に相当するものが――たとえ最低の人数である二人しかいなくても――複数の場所に、実際に文字通り存在して、神にこれを与えなければなりません。

しかし、もう一度言わせて下さい。これは神の家と称されている教会の建物のことではありません。私たちのキリスト教的観念はまったく道を誤っています。もっとよく実際に知るべき人々がいます――なぜなら、彼らは常にこの教えの響きの下にいるからです――彼らは集会にやって来ると、祈りや賛美の中で、「主の家にやって来て嬉しいです」と依然として言います。自分たちは一つの場所にやって来た、というのです。彼らが言わんとしているのは、主の民のいる所にやって来て嬉しいということではありません――とはいえ、もちろん、これはたまたま本当のことかもしれません。この家は、彼らにとって、依然としてどこかの場所、外面的な何かというこの別の概念なのです。しかし、そうではありません。それは制度的教会ではありませんし――言うまでもなく建築物でもありません。それは特別な場所や特別な形体ではありません。その方法論から始めて、神の家の方法論を要求するなら、私たちは神の家を殺しかねません。この路線にしたがって臨むものは何であれ、別の機会に見ることになりますが、有機的かつ自然に臨まなければなりません。私たちは、ある形にしたがって何かを構築することから始めることはしません。私たちは生ける石として一つの場所に一緒に居て、生き生きとこの神の家を表現し、その使命を果たし、その地域に神をもたらし、神を利用可能にします。おそらく、私たちが先に進むにつれて、これはよりよく実証されることになるでしょう。

この家庭の観念、この家族の概念は、第一に、血統もしくは家系の純粋さを物語ります。覚えておられると思いますが、エズラとネヘミヤの時代、神の家の回復・再建に少しでも関わる人はみな、とても厳しい試験を課されました。自分の家系図を示さなければなりませんでした。なぜなら、「分け前」に与りたい人々、この中に入り込んでそこで地位を得たい人々が大勢いたからです。また、大勢の人が入り込んで、色々な子孫が混じっていたからです。今や、皆が自分の家系図を示さなければなりません。「さて、それでは、あなたの出生証明書をお願いします。あなたはどこで生まれましたか。いつ生まれましたか。あなたの家系はどうなっていますか。どれだけ遡れますか?」。もし私がこう尋ねたら、あなたは何と言うでしょう?あなたはどこで生まれましたか?

さて、おそらく、それが起きた正確な日・時・分を言える必要はありませんが、少なくとも「はい、私の生涯のある時に何かが起きたこと、そして、その出来事は新生に他ならないことを私は知っています」と言えなければなりません。この家族の中にいるにはそう言えなければなりません。あなたの家系図はどうでしょう?あなたはどこで生まれたのでしょう?さて、「私はどこそこの場所で再生されました」と言うなら、それは大間違いです。唯一の答えは「私は天に上から生まれました。私の国籍は天にあり、私の特権は神の都にあります」です。「この者は彼処に生まれた」(詩八七)。「私の泉はすべてあなたにあります」――私の起源、私の支えは彼処の天の都にあります。あなたはどこで生まれたのでしょうか?あなたの家系図はどれくらい遡れるでしょう?ああ、神はほむべきかな、それは時の彼方まで、まったく時の外側まで遡ります。キリストにあって、私たちはアダムの子らではありません。私たちは永遠の子らです。世の基が据えられる前から、私たちは彼にあって選ばれていたのです。

ですから、この家族には血統・家系の徹底的純粋さが必要です。ここには何の混合もあってはなりません。

次に、それは子としての関係を物語ります。神の家族は、子としての関係によって共に結ばれた家庭です。「私たちは死から命へと移っていることを知っています。なぜなら、私たちは兄弟たちを愛しているからです」(一ヨハ三・一四)。子としての関係と私たちの出生とは共につながっています。もし兄弟たち――同胞、家族――を愛さないなら、あなたは自分の出生を証明できません。もしこれが真実でないなら、あなたは自分の出生を証明できません。私たちの出生証明は互いに対する私たちの相互愛です。

また次に、家族としてそれは御名に対する忠誠と熱心さを物語ります。私たちが忠誠心に欠けているせいで、神の家はどれほど駄目にされ、この家族はどれほど傷つけられていることでしょう。私たちは私たちの主に対する忠誠に欠けているとは思わないかもしれません――そのようなつもりはないかもしれません――しかし、私たちはみな彼の御名を担っています。そして、互いに対する忠誠心に欠けることは、御名に対する忠誠心に欠けることなのです。クリスチャンたちが――個人であれ団体であれ――これほど容易に互いに批判しあっているのが見い出されるのは、恐るべき悲劇ではないでしょうか?クリスチャンたちの間の忠誠心よりもましな忠誠心が往々にしてこの世の中にあります。職業に対する忠誠心について考えてみて下さい――医者が他の医者に不都合なことを話すのを耳にすることは決してありません。そこには誉れ高い誓約、忠誠心の基準があり、絶えず弁明・釈明しています。そこだけでなく他の領域でも同じです。しかし、悲しむべきことに、この私たちの間では、容易に弁明しようとすることも、多くの罪を覆ったりしようとすることもありませんし、悪い点よりも良い点に注意を向けさせようとすることもないのです。これはこの家族に反します。

そして、これはとても実際的です。もし神の臨在と、利用可能な神という観念が真実なものなら、それは私たちの関係に実際的影響を及ぼさなければなりません。この家には家族が必要です。この家族は家庭よりも大きな観念であり、この地上を超えた天の命という純粋な血統から成ります。

(c)宮

また、キリストとの合一は宮です。「神が臨在していて利用可能である」と述べるならこれも網羅される、とおそらくあなたは思うかもしれません。これらはキリストとの合一に関する厳密に区別された概念ではありません。それらはみな、一つのまとまり、すなわち神の家の一部分です。宮はただ一つの特別な概念を明らかにします。それは神がおられる所であるだけではないことがわかります。神は彼の聖なる宮の中におられますが、この宮の概念は、宮は神の権利が受け入れられる所であること、そこでは神は御自身の権利を獲得されることを意味します。なぜなら、これこそまさに礼拝の意味だからです。宮は礼拝の場所であり、礼拝は神に彼の権利を与えることに他なりません。神の権利は絶対的であり、彼の宮の中で神はすべてを獲得されます――すべては神のためです。宮が神の意図通りのものではなく、型として大いに異なるものだった時代――イザヤはこう記しました、「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に主が座しておられ、また彼の衣の裾が宮を満たしているのを見た」(イザ六・一)。そこは他の何者の余地もない所です。ウジヤの物語は御存知でしょう――彼は香を炊くために非合法的に宮の中に入り、そうする権利もないのに香を炊くために中に押し入りました。そして、彼はらい病で打たれ、離れ殿で死にました。言い換えると、彼は神の場所の中に入ったのです。その後、ウジヤが道からどいた時、イザヤは宮を満たしている主を見ました。これが宮の真の目的です。そこは、これから見ることになりますが、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」です。ですから、宮の背後にある思想は――ここでは、ここにいるこれらの人々の中では、局所的に見い出される二人または三人、あるいはさらに大きな群れの中では、神はすべてを獲得されるということです。神は完全で、自由な、妨げのない、無条件の道を得られます。完全な降伏、服従、明け渡し、従順という彼の権利が、彼に渡されます。そして、それは口先だけのことではなく、生活上のことです。これがこの宮、生ける宮、霊の家です。神の権利が彼に渡されているのです。

(d)執事職:(e)秩序

そして最後に、執事職また秩序としてのキリストとの合一に来ます。「執事職」と訳されているこの言葉は、まったく奇妙なことに、「家」というギリシャ語と同じ語根に由来します。それは家や家族の管理を意味し、私たちに私たちの「経済(エコノミー)」という言葉を与えます。それは他の箇所では「経綸(ディスペンセーション)」と訳されている言葉です――いわゆる経済(エコノミー)もしくは管理です。すなわち、物事の秩序です――ある特定の場所に特定の時間存在する秩序です。それには二つの面があります。一つは、神聖な天的秩序を代表・表現する面です。他方は、管理的地位、管理や務めの地位としての面です。これが執事職の二重の観念です。

私は少し前に、「天的秩序を表現する団体がないのに天的秩序を見い出そうと考えるのは愚かなことである」と述べました。地上の此処彼処にこの秩序を表現するもの、その中にこの秩序が見い出されるものがなければなりません。さて、私が「あなたは新約聖書の体系を導入しなければなりません」と再び述べたとしても、私は矛盾しているわけではありません。それは、それが入って来る方法によります。しかし、それはそこになければなりません。それは表現された天の秩序でなければなりません。しかし、教理抜きでこの秩序を持つことは可能です。その方がこの秩序抜きで教理を持つよりも優っています。まさにこれがそこに存在しているのに、人々はそれについて何も知らない、という事例を私たちは見い出してきました。素晴らしい霊的秩序――そこにそれがあります。それが存在しています。これが主が物事をなさる方法であることを彼らは感知しました。まさにこの事柄に関する神からの完全な啓示がそこにあるという指摘が彼らに対してなされてきましたが、彼らは決してそれに気づきませんでした。しかし、それはそこにありました。彼らは聖霊の管理の下に来て、これが主が物事をなさる方法であること、これが主が得ようとしておられるものであることを見い出しました。それは自然発生的なのです。

ですから、私たちはこう言って始めることはしません、「さて、天の秩序の表現を持つために、あなたたちはまず人々を共に集めて一つの群れにしなければなりません。そして次に、主の食卓とバプテスマを実行しなければなりません。また、兄弟たちを権威と団体的務めの中にもたらさなければなりません――すべては団体的でなければならず、交わりの中になければなりません」。このような考えを持たないで下さい。それは致命的です。それは他のもの同様、地的になるおそれがあります。聖霊が実際に物事を御手の中に握られるとき、あなたは事物に関して訓練されるようになり始めることがわかるでしょう。これが見事に起きるのを私たちは見てきました。キリストに対する完全な服従と明け渡し、また彼の主権と頭首権の確立を求めつつ、キリストが宣べ伝えられている所では、また、これらすべての事柄が注目されて受け入れられる時、間もなく人々はこう言うようになります、「私はこれこれのことについて訓練されるようになり始めています。あなたはこれについて決して何も言いませんでしたが、最近私はこれについて考えるようになりました」。

有益で価値があるのはこの道であり、この道だけです。聖霊が御自身の地位を得る時、彼は物事を促進されます。彼はその家をもたらされます。執事職、分与、経済、天の秩序をもたらされます。そして、そうなる時、それはとても幸いなことであり、あなたは「これは私が取り組んできた教えの体系ではありません。これは主が私に示して下さったことです」と言います。これが道であり、唯一の生ける道です。御霊の中を歩むなら、真に御霊の中を歩むなら、先に進むにつれて、あなたは次のことを見い出すでしょう。すなわち、あらゆる種類の調整がなされるのは、主がそれらをあなたに示されるからなのです。あらゆる種類の物事が除かれたり導入されたりするのは、主が語っておられるからなのです。彼は神の家を治める御子であり、そのような者として彼はこの天の経済、この天の秩序を導入しておられます。それは慣習ではなく証しを持つためです――霊的・天的な諸原則を体現するものを持つためです。

これは多くの人にとってお馴染みの立場ですが、この文章を読んでいるすべての読者にとっては同じようにそうではないかもしれませんし、もしかすると、主がこの言葉を語ろうとされたのかもしれません。そうです、執事職としてのキリストとの合一です。神の家の中に聖霊が造られる案配、神の家を治める御子としてキリストが生じさせられる案配があります。それは天的案配です。それは新しい心を意味します――「神の諸々の奥義の執事」とパウロは述べました(一コリ四・一)――新しい心、物事に関する新しい観念です。あるいは、ペテロはこう述べています、「めいめいは賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い執事として、あなたたち自身の間で供給しあいなさい」(一ペテ四・一〇)。「神の様々な恵みの家僕」。これは意味を違えている、と思うなら、文脈を見て下さい。その直前の御言葉は「互いにもてなしあいなさい」となっています。「めいめいは賜物を受けているのですから、それにしたがって、神の様々な恵みの良い『家僕』として、あなたたち自身の間で供給しあいなさい」。

それは天的観念をもたらす新たな心――天に向かう心――を意味します。アダムはすべてのものに――動物や花のことだと思います――名前を付けた、と御言葉は述べています。(きっと、彼はラテン語の名前は付けなかったでしょう。どうかパラダイスにラテン語がありませんように!)彼はすべてのものに名前を付けました。私の要点はこうです。私たちはすべてのものに天的な名前を見つけなければならないのです。主が物事をどう呼ばれるのかを見い出さなければならないのです。主は物事を特定の名で呼ばれます。私たちはその周囲を巡って他の名で呼びますが、主は「いいえ、そうではありません。それはこうです。あなたはそれを違う名で呼んでいます」と仰せられます。私たちは物事をその正しい名で呼ばなければなりません。物事に正しい天的な名を付けなければなりません。主はある特定の美徳を柔和さと称されますが、私たちはそれを弱さと呼びます。物事に正しい天的な名を付けなさい。そうすれば、あなたは為すべき多くのことを持つようになるでしょう――それはとても広大な世界です。

他の面は管理もしくは務めです。執事職、務め、務めの場所としての家です。これが意味するのは、もちろん、専門的な務めやいわゆる奉仕者の特別な群れを設けることではありません。それは家族です。それは務めの場所です。この家の中の皆が執事職を持つべきです。皆が神の様々な恵みの執事であるべきです。何らかの方法であなたは執事になることができます。なぜなら、あなたが召されたのは執事になるためであり、主からのものを得てそれを与えるためだからです。これが主がこのようにあなたを取り扱っておられる理由です。主はあなたを彼の家の執事にしようとしておられます。あなたが誰かに何か与えるべきもの、あなたが受けた彼御自身からのものを持てるようにしようとしておられます。それは、あなたが他の誰かに渡せるものを持つようになるためです。

さて、これをみな、この家という言葉とそれに関連する句は網羅しています。それはみな神の家に言及しています。この家は素晴らしいものです。それが何を意味するのかをもっと明らかにして下さるよう、主に求めなさい。また、主の天の家の文字通りの表現がこの地上にますます広まるよう、大いに主に求めようではありませんか。