第七章 機能の合一

T. オースチン-スパークス

五.機能の合一

「一つの体の中には多くの肢体があり、そしてすべての肢体が同じ機能を持っていないように、私たちも数は多いのですが、キリストの中で一つからだであり、そして各自は互いに肢体なのです。」(ロマ十二・四、五)

「それは、体が一つであって多くの肢体があり、体のすべての肢体が多くあっても一つの体であるように、キリストも同様だからです。なぜなら、私たちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つ御霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ御霊を飲むようにされたからです。体は一つの肢体ではなく、多くの肢体から成っています。もし足が、『私は手ではないから、体に属していない』と言ったとしても、それで体に属していないわけではありません。またもし耳が、『私は目ではないから、体に属していない』と言ったとしても、それで体に属していないわけではありません。もし体全体が目であるとしたら、どこで聞くのでしょうか?もし全体が聞くとしたら、どこでかぐのでしょうか?しかし今、神は各肢体を、それぞれ体の中に、みこころのままに置かれました。もしそれらがみな一つの肢体であるとしたら、体はどこにあるでしょうか?しかし今や、それらは多くの肢体ですが、一つの体です。目は手に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできません。また頭は足に向かって、『私はあなたを必要としない』と言うことはできません。それどころか、ほかより弱いと思われる体の肢体こそ、むしろ必要なのです。そして私たちは、ほかより尊くないと思う体の部分に、さらに豊かな尊さを授けます。こうして、私たちの美しくない肢体は、さらに豊かな美しさを持つようになります。ところが、私たちの美しい肢体には、その必要はありません。神は欠けている部分にさらに豊かな尊さを与えて、体を共に調和させられました。それは体に分裂がなく、肢体が互いに同じ顧みを持つためです。もし一つの肢体が苦しむなら、すべての肢体が共に苦しみます。もし一つの肢体が栄光を受けるなら、すべての肢体が共に喜びます。今や、あなたたちはキリストのからだであり、そして各自はその肢体なのです。」(一コリ十二・十二~二七)

「……彼のからだであり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満です。」(エペ一・二三)

「それは彼が(中略)両者を一つからだの中で神に和解させるためでした。」(エペ二・十五、十六)

「……それは、聖徒たちを成就して、務めの働きへと、キリストのからだの建造へと至らせるためです。」(エペ四・十二)

「キリスト(中略)この方から、からだ全体は、供給するあらゆる節々を通して、しっかりと共に結合され組み合わされ(中略)増し加わります。」(エペ四・十五、十六)

「彼は、教会であるからだのかしらです。」(コロ一・十八)

「なぜなら、夫は妻のかしらだからです。それは、キリストが教会のかしらであって、彼ご自身がからだの救い主であるようにです。」(エペ五・二三)

「私たちは彼のからだの肢体です。」(エペ五・三〇)

キリストとの合一に関するこの偉大な多面的啓示についての考察を続けることにします。私たちは今や、キリストとの合一の五番目の面に来ます。それは、私たちが機能の合一と呼んでいるものです。つまり、かしらと肢体を持つ一つのからだとしてのものです。

包括的機能:キリストの個性を表現すること

キリストのからだの包括的機能から始めることにします。この機能は、このからだの個性を表現することです。すなわち、キリストを表現することです。キリストのからだ、キリストのからだとしての教会は、自己を表現するために存在しているのではありません。それが存在するのは他でもなく、その内側の個性、からだの中に宿っている個性、すなわちキリストを表現するためです。死体のことを人と言うのは決して正しくありません。それは人体であるとは言えても、決して人とは言えません。人はそこにはいません。人体はそこにあるかもしれません。他方、生きた体のことを人と言うことはできるかもしれませんが、その体はたとえ活動していたとしても人ではないこと、あるいはせいぜい人のごく一部でしかないことを私たちはよく知っています。体は人の表現や活動のための手段・器にすぎません。真の人は体の内側にいます。

キリストのからだも同じです。彼ご自身と彼のからだは区別されますが、それでも一体です。つまり、彼は彼のからだと一つです。そして、ある意味において、彼のからだは彼と一つです。しかし、この違いは残ります。これを心に留めておくことが重要です。キリストはいわゆる彼のからだの中に融合されて、ご自身の個性を失なわれたわけではありません。彼は彼のからだの個性のままです。このからだがなくてもこの個性は存在できるのと同じように、この個性がなくてもその枠組みは存在できます。しかし――彼のからだとしての教会に関する教えは次のとおりです――実際上、この両者は一つなのです。つまり、キリストは彼のからだを必要とし、このからだは彼を必要とするのです。このからだは彼によって支配されています。それは、いましがた読んだ一つの節によると、それが彼を満たすもの、すなわち、「すべての中ですべてを満たしている方の豊満」となるためです。

ですから、このからだの機能には二つの主な点があります。一つはこの方、もしくはこの個性を宿らせること、このからだがある所にキリストをもたらすことです。それは、このからだが存在するところに、キリストもおられるようになるためです。彼はご自身をそのからだと結びつけることを決定・選択されました。それは、このからだ、すなわち教会が、彼が見いだされる場所となるためです。最小の代表人数――二人――で、それが彼を任意の場所にもたらすためです。それによって彼が任意の場所や状況の中に到来できるようになるためです。ですから、このからだの一つの目的はキリストを宿らせることです。

第二に、その機能はこの個性を表現すること、その中で又それによって主がご自身を表現して知らせることのできる手段・器となることです――人々が主を見、主を知り、主を理解するようにすることです。これはとても単純ですが、とても困難です。

幾つかの事柄がこれと関係しています。第一に、相対的・二次的事柄について見ることにしましょう。このからだを誇張するおそれがあります。時々、これが物理的・人間的領域でなされます。外観、体、布をあまりにも強調し、精緻化し、強化し、装飾するあまり――このパースンを覆い隠すことになって――主の臨在ではなく、形式、式典、外観が強い印象を与えることになります。それは人々の感覚に触れるものであり、人々の目を奪います。また、人々の人間的な天然の感覚は、教会の外観や、時として印象的な人々で占められてしまいます。そのため、主ご自身を見いだすことができません。体を誇張するおそれがあります。そして、このような(おそらくは誇張された)慣行とは別に、他の多くの形で、私たちは教会に関する、キリストのからだに関する方法論を持ち込むおそれがあります。いかになすべきかといったことが目につくあまり、主ご自身ではなくそうしたものにかかりっきりになってしまいます。とても注意深くしていなければ、この教えですら目を眩ませかねません。内側の個性である主が、採用されている手段をすべて超越しておられないなら、何かが間違っているのであり、私たちは手段を考え直した方がいいでしょう。

次に、体を人工的なものにするおそれがあります――いま私は薄氷の上に乗っています――化粧、装飾、塗装によってです。それは要するに何なのでしょう?それは欠落しているように感じられる個性を創出しようとする試みです。読者のだれかがこれで不快になったならお許しください。しかし、これがその根本的な目的なのです――すなわち、ある印象を与えること、重みをもたせること、個性を感じさせること、欠け目に感じる点を補うことです。印象づけようとして、教会に関するこのような取り組みにかかりっきりになるおそれがあります。確かに、それに関してかなりのことが、組織化された教会によって、これを目的としてすでになされています。人々はあらゆる種類のものを身に着け、取り上げ、利用しています。あらゆる塗料、金箔、金属、あらゆる人工物が利用されています。それは、衝撃力の欠如というこの感覚を克服するためです。印象づけるためです。なぜなら、元々そこには何の印象もないからです。そして、キリストのからだを人工的なものにし、その印象を人工的なものにする大きなおそれがあります。もっと絵の具を塗り、さらに塗らなければ、その効果が薄れてしまうのです。そうし続けなければ、それは色あせてしまいます。毎朝そうしなければならないのです!

他方、体を過小評価してそれについて不注意になるおそれがあります。これも同じように悪いことです。身だしなみに不注意で、だらしなく、みすぼらしいことは、人格を汚し、その人から何かを奪い、その人の品位を下げます。これは多くの形で適用できます。先に進むにつれて、キリストのからだを尊重しなければならないことがわかるようになります。私たちには、このからだを尊重する義務があります。それは、内側におられる御方のためです。私が述べているのは、もちろん、主の民の交わりについてです――互いに尊敬し合い、敬い合い、助け合って、霊の命の水準を高めるべく努力することについてです。状況が霊的にお粗末で、見すぼらしい、劣悪なものにならないようにすることについてです。他方――やや俗っぽい適用を許してください――それは私たちの個人的な身なりにも適用されなければなりません。クリスチャンである私たちの個人的外見は私たちの主を実際のところ辱めていないでしょうか。不注意な習慣や服装、行動や立ち居振る舞いによってです。こうしたことによって主は辱められます。クリスチャンとして私たちは決してそうであってはなりません。いま私はあなたに、すぐに行って入念に個人的な装飾品を整えよ、と言っているのではなく、キリストは体によって、また体において誉れを受けるのに相応しい、と言っているのです。体に関して不注意なせいでキリストに対して罪を犯すおそれがあります。私は、相互の顧みという点で、これについてもっとしっかりと見習いたいと思います――御言葉はこれを「互いに良い業を勧め合うこと」「互いの足を洗い合うこと」と呼んでいます。つまり、地から離れているように、この世の低い水準に触れないように助け合うことです。

機能的関連性

さて、一義的な事柄について幾つか見ることにします。今しがた考慮したことには、おそらく二義的な重要性しかないかもしれませんが、もっと大事なことがあります。この個性を完全に表現するのに重要なことがあります。私は熟慮したうえで、当面の間、この個性という言葉をキリストという言葉の代わりに用いることにします。というのは、そうした方が要点がわかりやすいと思うからです。この個性――それはキリストです――を完全に表現するには、まず第一に、一つのからだがなければなりません。コリント人への第一の手紙の十二章に述べられているような体であり、多くの個々のバラバラな肢体ではありません。このからだは多くの切り離された肢体や、つながりのない肢体ではありません。キリストのからだは聖霊による信者の交わりです。それは明確な関連性の意識によるものであり、次のような自覚や認識を伴います。すなわち、自分たちはすべての主の民と関係している、この問題においては場所は最終的な基準ではない、自分たちは至る所にいる主の民と関係している、という自覚や認識です。これを確かに新約聖書は、キリストを完全に表現するのに絶対に必要なこととして、きわめて明確に強調しています。キリストを完全に表現することは、無関係な個々の信者では不可能です。そのようなものの中にもキリストの何らかの表現が少しはあるかもしれませんし、部分的にあるかもしれませんが、それが満ち満ちたものとなるには関連性が必要です。この問題についてあなたはどうでしょうか。それは試してみることのできるものであり、絶えず実証されています。あなたのキリストの度量は、あなたの関連性によって決まります。孤立し、分離し、独立し、離れている状態では、キリストはほんの少ししか表現されないでしょう。キリストをさらに表現するには、彼のからだの他の肢体たちとの生き生きとした合一の中にいなければなりません。これはいくら強調しても強調しきれません。なぜなら私は至る所で、この偉大な現実の欠如に起因する霊的制限を目にしており、霊的惨禍をも目にしているからです。このからだがなければなりません。関連性がなければなりません。それはたんなる抽象的なものであってはなりません。現実でなければなりません。意識的なものでなければなりません。計画的なものでなければなりません。まさに生活の一部でなければなりません。私たちはこれを知っています――仮に私たちがそれを知らなくても、サタンはこれを知っています――主はこれを知っておられます。

相互の関連性

また次に、相互の関連性がなければなりません。相互の関連性は、この合一、この交わり、この関連性を完全に表すのに必要不可欠です。互いに助け合うこと、無条件で互いに助け合うことを目的として、共に働き、互いに思いやらなければなりません。私たちはキリストの肢体であるだけでなく――これについてはすでに二回読みました――「互いに肢体」でもあります。これは相互の関連性です。そして、互いに支え合い、互いに助け合わなければなりませんし、キリストのからだの他の肢体の益のために実際に努めなければなりません。これはキリストのからだのとても実際的な面です。これが彼を完全に表現する唯一の道です。これを試して実証しなければならない、と私は述べました。キリストの別の肢体を助けに出て行く時、あなたは自分のキリストの度量が増し加わることに気づくでしょう。このからだの他の肢体の必要を顧みて、それを満たすために自分にできることを行う時、自分自身の生活の中でキリストがますます豊かに表されるようになることに気づくでしょう。もし自分のことにかかりっきりで、自分の周りを堂々巡りし、自分の不平・苦難・試練・困難を処置するために自分に専念しているなら、そしてますます孤立して自分の中に閉じこもってしまうなら、あなたのキリストの度量は絶えず減少していきます。彼ご自身のものに対するこの外側の行いは、それを行う者にとって霊的増し加わりを意味します。このパースンを完全に表現するには、これが必要であり、不可欠です。

相互依存

そして次に相互依存です。これは同じことを言い換えた別の句にすぎません。これは柔和さという一般的精神を生み出します。ある肢体は別の肢体に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできません。おそらく、あなたはこのようなことを多くの言葉を費やして述べようとはしないでしょう。コリントではこのようなことが言われていたのかもしれません。そこではこのようなことが起きていたように思われますし、まさにこれらの言葉をある人々は他の人々に関して用いたのかもしれません。「私たちはあなたなしでやっていけます!」「あなたには価値がありません!」。しかし、霊的な人々がこうした実際の言葉を使うことはなさそうです。しかし、私たちはそのように行動しています。あまりにも頻繁にそのように振る舞っています。これは私たちが学ぶべき学課の一つです。どういうわけか少しも尊くない肢体が必要であること――私たちはこの問題を真に考慮しなければなりません。どういうわけか、自分なら軽んじかねない者たちが必要なのです。彼らの必要性を理解するのは、時として困難かもしれません。いずれにせよ、このような姿勢でなければなりません。主はこの人抜きでもやっていけるのでしょうか?神の救いと栄光の恵みが、この最も小さな人の上に、ことごとく下ったのではないでしょうか?そして結局のところ、私は最も小さな者ではないでしょうか?自分たちは他の人々よりも重要であり、したがって他の人々よりも神の恵みに値する、とでも感じているのでしょうか?柔和さというこの問題が生じることがわかります。相互依存は、ともかく私たちは互いを必要とすることを意味します。これは真実です。そして、互いに認め合い、互いに尊び合うこと――これがキリストを完全に表現するのに必要な基礎です。ですから、私たちは次のような姿勢を取ります、「今のところ、この神の子供は欠点や弱さだらけですが、軽んじることはできませんし、無価値であると切り捨てることもできません。彼らが御霊の領域の中でぴったりと全体の中に収まって、キリストの度量が増し加わる場所がどこかにあるはずです」。このようにして、私たちは最も小さな者を最も重んじるよう努めます。からだのこの事実を受け入れなければなりません。

機能の構成と決定

次に、私たちは各肢体の機能構成という事実を受け入れなければなりません。はっきりと受け入れなければなりません。つまり、各々の肢体は真にキリストの肢体であり――それゆえ内住の聖霊を持っており――各肢体は、聖霊によって、何らかの形である機能を持つように構成されているのです。今、私たちはこれを自分自身に適用しなければなりません。あなたは「自分には何の立場も機能もない」と感じているかもしれません。あなたはずっとそれが何なのかを見つけようとしてきましたが、決して見つけられませんでした。どれほど多くの人々が私のところに来て、次のように述べたことでしょう――「私はキリストのからだの中で何らかの機能を果たしている、とあなたは本当に信じておられるのでしょうか?それが何か教えていただけたら有難いのですが!」。私は別の方法でこれに答えることにしましょう。私が述べているのは、神の御言葉の中に述べられているこの事実を受け入れよ、ということです。この体の描写はたんなる絵図や例示ではありません。それは現実であって、この体は比喩以上のものです。それは生ける現実であって、教会はまぎれもなく人体の諸原則に基づいて構成されています。それは真実です。そうであるからには、これらの事実は有効であり、現実であって、私たちはこの諸々の事実を受け入れなければならないのです。

さて、なんなら、あなたは自分の体の機能について理論化することもできますが、遅かれ早かれ、その諸々の事実を受け入れなければならないでしょう。それらは事実です。そして、私が述べているこれらの事柄もです。私たちは次の事実を受け入れなければなりません。すなわち、聖霊が内住しているキリストの肢体として、私たちはキリストのからだの中である機能を持つように構成されており、機能しなければならないのです。私たちは理解しなければなりません。私たちがそこにあるのは機能するためであって、寄生者や通行人になるためではありません。むしろ、キリストのからだの中で生命機能を果たさなければならないのです。この事実を受け入れて、この事実に適応するなら、聖霊は事をなすことができます。しかし、もし私たちが受動的になるなら、もし座り込んで「自分たちは何の役にも立たない。したがって、今日は卵で明日は羽ぼうきだというなら、何の役に立つのか?」と思い込むなら、もしこのような態度を取るなら、聖霊は何もなさらないでしょう。聖霊は、「今、自分の足で立って、わたしに機会を与えなさい。自分はキリストのからだの一肢体であり、キリストに麻痺した肢体はない、というこの現実、この真理に対して、積極的姿勢を取りなさい」と仰せられます。

これは、もちろん、この事実――このからだにおける自分の立場という事実と、自分はこのからだの中で機能を持っているという事実――を受け入れる以上のことを意味します。それは自分の責任を受け入れることを意味します。つまり、キリストのからだの中で責任を負っている民であることを自覚しなければならないのです。キリストを表現する責任を負わなければならないのです――それは自己尊重や、自己主張や、自己実現のためではなく、キリストを表現するためです。私はからだの一肢体としてここにいます。その機能は内住する個性――それはキリストです――を表現することです。これは特権であるだけでなく、重大な責任、厳粛な命令・責任でもあります。私たちはこれを受け入れなければなりません。なぜ私はキリストに結合されたのでしょう?なぜ私はキリストのからだの肢体なのでしょう?キリストの中にあるからには、私はそのような者だからです。なぜ私はこの立場にあるのでしょう?キリストを表現する手段になる以外の目的のためではありませんし、それよりも劣る目的のためでもありません。もし私がそうしていないなら、私はキリストとの合一の意義に反しています。私たちはその責任を負わなければなりません。日々、キリストを表現するというこの問題に関して、責任を自覚しなければなりません。もちろん、これは多くの事柄に帰着します。私たちは失敗し、過ちを犯します。間違ったことを言ったり、正しいことを誤った方法で言ったりします。どういうわけか、履行を怠ってしまいます。その時直ちに、「これはキリストではありません。私はこれを正さなければなりません。それは悪印象を与えますし、私の主を辱めます。これを清算させてください」と言うこと、これが責任を負うことです。このような多くの些細な事柄があるでしょう――とは言え、キリストのからだの中に真に些細なものは何もありません。他の多くの事柄についても述べることができるでしょう。

無意識に機能することは健康のしるしである

さて、健康な体では、これはみな大部分意識されずに存在しています。私が述べたことに戻って「私の機能は何でしょう?」と尋ねるなら――あなたの問題は、あなたにはそれがわからないということです。健康な体では、すべてが無意識のうちに生じます。いつ次に呼吸するのか思案、分析、思考、決定する必要はありません。自然に呼吸します。それについて何も考えたりしません。あなたが健康なら、これがあなたの体の中で起きます。それはみな大部分無意識のうちに機能します。私たちの体組織には無意識的な感覚があります。それは私たちが感知する前に感知します。何らかの症状や感覚を覚える時、肉体的に何か問題が生じたことを私たちは理解し始めます。しかし、この組織は私たちがそれに気づく前にこれを感知したのです。それは、すでに認識していたものを私たちに認識させようとしているにすぎません。これが絶えず起きています。健康な体では、「私は何者なのか、私は誰なのか、私はどこにいるのか、私の機能は何なのか?」と自己に専念したりしません。そして、キリストのからだが健康な時、自然にキリストが表現されます。自然にそうなります。そうである時、それはいたって健康です――確かに、それが健康なのはそうである時だけです。人々が自己を意識する時、自分たちは主のために何かをしようと努めていることをあなたに知らせようとする時――そこには何か問題があります。それは主ではなく自分自身によって占有されているからだです。もし私たちが主によって真に占有されているなら、このように自己に専念することは大抵なくなります。自分の機能は何なのかと心配しないでください。主との合一の中に生きるなら、あなたは機能するでしょう。自分の価値が何なのか、あなたにはわからないかもしれませんが、あなたは価値を持つようになるでしょう。自分がどのようにこのからだの目的に仕えているのか、あなたにはわからないかもしれませんが、あなたはこれに仕えることになるでしょう。私たちは次のような人々を確かに知っているのではないでしょうか?彼らは自分たちのことを最も惨めで、弱く、愚かだと感じてきたのですが、私たちはその生活の中にキリストの香り、キリストの麗しい香りを見いだしたのです。それでも、彼らは何らかの役に立っているようには感じていなかったので、絶えず悩んでいたのです。私たちはキリストに会ったのです。それはいたって健康な状況です――その反対よりも遥かに優っています。無意識のうちに影響を及ぼしているのです。

そして、この無意識的な感覚があると、何か問題が起きた時に、内なる霊の中で感知されたことが外側でも感じられるようになりだして、その症状を自覚するようになります。何か問題があることを私たちは知ります。それはどこか深いところから生じました。何かが正しくありません。私が述べているのは、理解するより先に事実が存在するということです。知的理解より先に事実が存在します。私たちが理解するより先に機能の事実は存在します。このシリーズの前の章で述べましたが、時として、教えや方法論が何もなくても、キリストのからだの実際的意義に関する真の生ける麗しい表現がありえます。これは教えが不必要になるということではありません。しかし、正しい順番では、それがまず存在しなければなりません。そして、あなたはそこにあるものを理解することによって、さらに優ったものに至らなければなりません。他方、この順序を逆転して、まず教えや方法論をすべて得てから次に実物を得ようとしてもうまくいきません――それは逆です。

キリストの頭首権

私は次の言葉で締めくくることにします。これはすべてに対する鍵であり――それには私が述べた以上に大きな意義があります。キリストのからだとその機能について私たちがどれほど述べられるのかは、ご存じでしょう。それはまさに素晴らしい神聖な意義に満ちています――しかしすべてに対する鍵は、すべての肢体、すべての部分によって表現されるキリストの頭首権です。私たちの頭脳は、肉体的に、生まれつき、健康な体のすべての部分に存在する、と言えるように思われます。先の尖ったもので体のどこか末端に触れるなら――どう感じるでしょう?あなたはそれを自分の頭脳の中で知覚します。そこであなたはそれを感知します。健康な体では頭は、もしそれが自由に機能でき実際に機能しているなら、すべての部分と触れ合っており、まるですべての部分によって代表されているかのようです。同じようにキリストの頭首権――彼の絶対的主権、主たる身分、主権と呼んでもかまいません――がからだの任意のすべての部分によって、またすべての機能によって表現されること、これがすべてに対する鍵です。

これはもちろん、まさに次のことを意味します。すなわち、先述したことが真実であるためには、私たちは各々、どんなに数が多くても、イエス・キリストの絶対的主権の下に直ちに完全に服さなければならないのです。キリストが表現されるにはキリストの主権が必要であり、キリストが現わされるには彼がすべての部分でかしらとしての地位につくことが必要です。

さて、まとめるとこういうことです。しかし、これを記憶にとどめて、信じてください――なぜなら、あなたはそれを証明することになるからです――あなたは退くか前進するかのいずれかです。下降するか上昇するかのいずれかです。私たちはみな、霊的に前進するか後退するかのいずれかです。これに関して止まっていることはできません。私たちは滑りやすい斜面におり、唯一の道は昇り続けることです。さもないと、下に落ちてしまうでしょう。道中ずっとそうでしょう。これについて思い違いをしないでください。動かずにいることはできません。もし前進しないなら、私たちは地歩を失います。積極的でなくなるわけにはいきません――これは私たち全員の経験によって証明済みの事実です。クリスチャン生活において、積極的でなくなることはきわめて危険なことです。熱心さの欠如によって私たちは暴露され、私たちの守りは取り去られます。そして、私たちは未完成のままであり、バラバラなままであり、敗北したままでしょう。関係性と相互関連性と相互依存性とを持つ、生ける有機体としてのキリストのからだというこの問題は、理論や手法ではありません。これらは命に係わる関係であり、霊の命の増し加わり、キリストの表現の拡大、私たちのまさに存在理由と関係しています。しかし、これらは必要なものです。もし主の民との自分の交わりを損なうなら、あなたは自分自身の霊の命を損ないます。もし何らかの形であなたの霊・心・行動が引き離されて孤立するなら、あなたは自分自身の霊の命のまさに要を断ち切ることになります。そうなります。キリストのからだにおける彼とのこの機能的合一が必要不可欠です。それは彼にとって、ご自身の御旨を成就するために必要不可欠なのです。それは私たちにとって、まさに自分のクリスチャン生活を全うするために必要不可欠なのです。