第八章 命の有機的合一

T. オースチン-スパークス

「義を行う者はみな、彼から生まれています。」(一ヨハ二・二九)

「……彼らは血からではなく、肉の意志からでもなく、人の意志からでもなく、神から生まれたのです。」(ヨハ一・十三)

「ご自身のみこころにしたがって、真理の言葉によって、彼は私たちを生み出し(私たちを生み、欽定訳)」(ヤコブ一・十八)

「まことに、まことに、わたしはあなたに言います。人は新しく生まれなければ、神の王国を見ることはできません。」(ヨハ三・三)
そして、もちろん、ヨハネ十五章全体をここに置かなければなりません。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしにある枝はみな……」等々。

「新しく生まれた赤子のように、悪巧みのない霊の乳を求めなさい。それによって、あなたたちが成長して救いへと至るためです。」(一ペテ二・二)

「……むしろ、愛の中で真実を語り、私たちはすべての事で、彼すなわちかしらであるキリストの中へと成長し込むのです。」(エペ四・十五)

これから述べることには、掘り下げるべき新しい深遠な真理はないでしょうし、多くの人にとっては、おそらく、クリスチャン生活の最も初歩的な事柄、そのまさに最初に戻るように思われるかもしれません。しかし、何事も当然視しないことが必要だと私は感じます。私たちはこれらのことを知っており、長く知っていたかもしれませんが、このような事柄については絶えず再教育課程を受けて、これらの基本的な真理や私たちの命と成長に関する基本的な法則を思い出す助けをしてもらう方がいいでしょう。私たちの読者の中には比較的若い人々がかなりの割合でおり、疑いなく、霊的豊かさの中に入る最も早い道を求めていますし、できるだけ早く霊的生活に進むことに関心を寄せていますので、この言葉は彼らの助けになるのではないかと思います。少なくとも、絶えず心に留めておくべき事柄について再び強調することにはなるでしょう。

たねの原則

さて、存在と成長の原則は命です。存在と成長の手段・方法は、命を宿すたねであり、その中にそのしゅの有機体全体が存在します。これは、確かに、神がご自身の命ある被造物の大半をそれに基づいて構成された原則です。それは機械ではありません――有機体です。それは人工的な手段や外部のエネルギーによって動作・進行するようには造られていません。もちろん、それは外からの食物を必要としますが、食べるには命がなければなりません。それは自らの内にある命によって維持されます。どのしゅたねにも、その特定の有機体を特徴づけるものがすべて内在しています。そのしゅの特定の性質、形、大きさ、色、形体、特徴、能力はみな、命あるたねの中にあります。もちろん、これは自然の驚異です。それは驚くべきことです。その中に命の小さな胚芽を持つただの一粒のたねが成長・発達して成熟すると、あらゆる点で型どおりになります。それは素晴らしいことです。これが存在と成長のための神の方法です。それがみなそこにあります。

(a)生まれる

先ほど読んだ幾つかの御言葉では、特定の人々つまり被造物の特定の型に関して、「生まれる」という言葉が使われています。例えば、「神から生まれた」というように。このたねつまり産出原理は神の御言葉であり、この命は命の霊である神の御霊です。神の御言葉――もちろん、特に聖書中の真理の御言葉のことですが、神が仰せられることや真に神から私たちに臨むすべての御言葉のことでもあります――の中には、素晴らしい将来性や可能性がすべて含まれています。すなわち、神のものになる可能性、神に似たものになる可能性、神の性質を持つ可能性、神の心を持つ可能性、神の特徴を持つ可能性、神が意図された命の大きさに至る可能性です。神が意図された命の形に至る可能性です。神が語られる時、これがみなそこに現存するようになります。神が何かを語られて、御言葉がそれに適した土地に落ち、産出する信仰というしかるべき応答を得る時、それはみな潜在的に現存するようになります。(ある人々について、御言葉は彼らに何の益にもならなかった、と述べられていることをあなたは思い出すでしょう。それは、御言葉を聞いた人の中で御言葉が信仰と混ぜ合わされなかったからです(ヘブ四・二)。ですから、何も生み出されませんでした。この問題には常に二つの面がありますが、あまり詳しく述べたり分析したりするつもりはありません。幾つかのことについては当然のこととして受け取る必要があるでしょう。)しかし、神が何かを語られて、私たちの内に応答、神への返答をご覧になる時、神聖な意図、御旨、可能性、性質、秩序、形、大きさ、他の一切のものといった、素晴らしい満ち満ちた豊かさが、神が仰せられたことの中に現存するようになります。何かが起きて、素晴らしい可能性が生じます。もちろん、神が御言葉と、生み出す強力なあらゆる可能性をもって臨まれたとしても、私たちの態度のせいで何も起きないおそれがあります。しかし、応答、信仰の応答が与えられるとき、神の御旨・構想の範囲内であらゆることが可能になります。

今、私がこれを大いに強調しているのは、私たちは神の真理を聞くことに慣れ切ってしまっているように感じるからです。あまりにも多くの時、何も起こりません。私たちに語っておられる主と密接な関係にある途方もない数々の事柄を、私たちは十分に理解してきませんでした。主が何かをあなたに語られたなら、それを聞き流さないように、軽んじないように、細心の注意を払ってください。神は、何の目的もなく、そのような目標とそのような途方もない可能性とを抱いて、臨んだりはされません。神は私たちと遊んでおられるわけではありません。主が私たちに語られる時、その可能性と展望はきわめて厳粛なものであるだけでなく、きわめて輝かしいものでもあります。これを信じてください。彼の語りかけ、彼の御言葉の中には、神が表現されるようになる可能性がすべて現存することがわかります。

私は昔これを説明するのに、店に二つの窓がある種売り商の例を用いました。扉の片側に、彼は見物用の種と球根を並べていました――あまり見栄えはよくなく、パッとしません。それらの外見には何の魅力もありません。自分の絵の具を取り出して、種や球根の絵を描きたいと思う人はいないでしょう。しかし、窓の反対側に、彼は満開の花を並べていました――成熟して見事な色と素晴らしい形を帯びています。そして、彼は「これがかのものです。これがかのものの中にすべて内在しているのです」と言います。これが生き物の驚異です。

神が語られる時、その語りかけの中に神のすべてがあります。そして、あなたと私が栄光に達して彼と共に栄化される時、彼はこう仰せられるでしょう、「これがかのものです。あなたは私が語ったことに注意を払いました。そして、これがその結果です。私はあなたに語りました。あなたは受け取り、従い、勤勉でした。さあ、これがかのものです――これは別のものではなく、まさにかのものなのです」。どうか信じて、心に留めてください。主は語ること、生む性質を帯びた語りかけ―― 天で生み出されて天的性質をすべて宿す有機体を生み出す語りかけ――をすることを常に願っておられます。

しかし、もちろん、これは命の御霊の力と保護によります。私たちは御霊を受けなければなりません。御霊が私たちの中に宿って、神の語りかけの中にあるこれらの素晴らしい事柄をすべて実現しなければなりません。もししかるべく私たちの内側に神の御霊がおられるなら、あるいは、私たちが彼を内側に実際に受け入れる前だとしても、もし神の霊が私たちに対する御言葉に伴っておられるなら、神の霊がその御言葉に基づいて働かれるとき、そのとき、神の御旨は実現されます。クリスチャンである私たちにとって、神の語りかけを聞く時、御霊の中にいることがきわめて重要です。集会に行って、神が語られるとき、御霊の中にいることがきわめて重要です。あらゆる手段を講じて、御霊の中にいるようにしなければなりません。御霊を妨げるものが何もないようにしなければなりません。御霊を悲しませている覚えのあるもの、神の霊に逆らっている覚えのあるものが、何もないようにしなければなりません。なぜなら、もしそうなら何も起きないだろうからです。どんなに耳を澄ましても、何も起きないでしょう。しかし、御霊の中にあるなら、神の素晴らしい可能性を御霊はすべて引き受けて実現してくださいます。

この生み出すことにおいては、隠れた活動の期間、何が起きているのかわからず、おそらく何も起きているようには感じられない期間があるかもしれません。しかし、神が語られた時、何かが起きました。私たちは応答しました。一時のあいだ、当面、何かが起きていることに私たちは気づきませんが、それは公になるでしょう。間もなく、神が何かをなさったことを感じるようになるでしょう。その期間は長いかもしれませんし、短いかもしれません。しかし、次のことがきっとわかるようになるでしょう。すなわち、神が何かを語られたこと、そして、神は何かを語ることによって何かをなし、何かを開始されたこと、御業はやがて明らかになり、何かが秘密裏に進み続けるであろうことです。これが「神から生まれる」ことの意味です。

(b)誕生

これはもちろん、私たちを次の段階に導きます。多くの人々はこの二つの事柄――生むことと誕生――を混同しています。これらの性質あるいは恩寵は同じではありません。誕生――誕生とは何でしょう?誕生とは出現が始まる時、神がしてこられたことが現れ始めて出現する時です。命が今や何らかの神聖な有機体、新しい命、新しい秩序の中で現わされるのです。

私の述べていることについてきてもらえているでしょうか。往々にしてクリスチャン生活初期の頃はこのようであることがわかります。神が何かを語られます。彼の霊が私たちと共にその語りかけの中におられます。そして、私たちは応答します。その後、当分の間、何か重大なことが起きたことに私たちは気づきません。しかし、何かが起きました。遅かれ早かれ――それはすぐかもしれませんし、私たちの内におられる神の活動によりほとんど同時かもしれません。あるいは、内側の働きがある期間密かになされて、そもそも何か起きたのかどうかについて信仰が試された後のことかもしれません――何かが現れます。そして、以前していたことが全くできないこと、以前一度もしたことがないことを今やしなければならないこと、自分の思考や会話の方法に疑念が生じて変化と変容の過程を通りつつあることに、私たちは気づきます。何らかの新しい秩序が存在中に到来したこと、それによってあらゆる変化が生じつつあることに、私たちは気づきます。そして、私たちはますます明確かつはっきりと、昔あったものと今あるものとの間に、昔の自分と今の自分との間に、線を引けるようになります。これが正常なクリスチャン生活の行程です。つまり、この新しいものが今や出現し始めるのです。そして、何か新しいものが生まれたことに私たちは気づきます。以前の自分のままでいることは決してできません。以前していたことが全くできません。新しい方法で振る舞うようになります。別世界から何かが到来しました。新たな開始がなされました。それは全く新しい有機体です。「もしだれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です」(二コリ五・十七)。

ある特定のしゅの構成に関する要点は、それはそのしゅを表現し始めるということです。これが誕生であり――ある特定のしゅに属するものです。「人は新しく(あるいは『上から』)生まれないかぎり、神の王国を見ることはできません」(ヨハ三・三)。神の王国は一種の秩序、事物の性質です。一つの領域、一つの場所であるだけでなく、神の領域の中で物事が神と共になされる方法でもあります。それは神の領域にふさわしく、神の領域に適したものです。神の領域の中で物事が生じて作用する方法です。そして、この新しい有機体は神の領域の中に生まれるものの性質を示します。時々、小さな赤ん坊は猿のように振る舞いますが、普通は人間のように行動します!つまり、それは型に同形化するのです。赤ん坊のクリスチャンの中にはとても奇妙な行動をする人もいますが、間もなくあなたは、彼らが別の鋳型に属することを理解し始めます。他のすべての人も、彼らが別の秩序に属すること、新しい種類の存在が出現したこと、そして今や、彼らは彼らのしゅ、天の秩序にしたがってごく自然に行動していることを理解し始めます。神から誕生するとは次のようなことです――すなわち、何かが出現すること、何かが明らかになることです。これはとても基本的ですが、試金石でもあります。

(c)成長

そして、これが始まりについて言える以上、生むことと誕生に続く成長の問題についてもそう言えます、なおのこと言えます。ここで、二、三のとても単純ではありますが、大いに決定的な点を述べなければなりません。

(一)分与されたキリスト

神から生まれ、天から誕生した、この天的有機体の成長の原則・基礎は何でしょう?成長の原則は、最初から最後まで、分与されたキリストです。神の御言葉である全聖書はキリストを中心としています。生むこと・誕生・成長もまた、すべてキリストと関係しています。それは分与されたキリストです。神の御言葉であると主張していてもキリストを中心としていないどの務めも、神の効力を持てません。神の目的を達成しようとするなら、キリストを常に前面に保つことがとても重要です。なぜなら、最初から最後まで、最初も途中も最後も、神の目的はキリストを分与することだからです――御言葉を通して、教えにより、キリストを分与することだからです。そして、聖霊は御言葉に基づいて、教えに基づいて、キリストに関して働かれます。

これはキリストについての情報以上のものです。それは御言葉の中におられる御霊によるキリストの分与です。きっとあなたは、神の御言葉を無視するなら、また御言葉の務めを無視するなら、霊の命は衰退し、霊の成長は停滞・停止することを――消極的にであれ積極的にであれ、失敗によってであれ成功によってであれ――いずれにせよ学んでおられることでしょう。もし聖書が常に前面に保たれているなら(つまり、昼夜を問わず読むという意味ではなく、聖書が最も重要な地位を占めていて、少しでも神の御言葉に触れる時間があれば、それを追い求めるという意味です)、これが成長の道であり、御霊の道であり、霊的形成の道です。御言葉を無視し、キリストの務めを無視するなら、あなたは霊的に衰退します。

これはとても初歩的ですが、真実です。もしサタンが、あなたの聖書が閉ざされたまま手つかずになっていることについて、何らかの言い訳を持ち出すことができるなら、また、神の御言葉や御言葉の務めからあなたを遠ざけておくために、あなたの手、あなたの心、あなたの時間を何かで満たすことができるなら、彼はそうするでしょう。彼はあなたの成長を霊的に断ち切ろうとします。なぜなら、あなたが成長することはキリストが増し加わることだからです。キリストの増し加わりに彼は反対します。

これを大いに厳粛に受け止めてください。これをいずれにせよ実証してください。私たちはみなそれを実証してきました。御言葉の分与を失うなら自分の霊の命を失うことを、私たちは知っています。キリストは成長のために私たちに分与されます。そして、御言葉に言えることは同じように祈りにも言えます。なぜなら、私たちは祈りの十分の九を、主に便宜を図ってもらう問題、主に望みのものを与えてもらう問題にしていますが、祈りの真の意味は、私たちが真に主を受けること、キリストを受けることだからです。私たちが祈りの中でキリストを求めるとき、祈りは素晴らしい回復と刷新と強化の働きをします。よくあることですが、道中、疲労の中に、ひどい疲労の中にあるとき、これ以上体を引きずって進むのは無理だと思われる時、ただ主と共に数分間静かに退いて、「主よ、私にはあなたが必要です。力が必要です。刷新が必要です」と祈り求めるなら、なんと回復されることでしょう。これはそのとおりです。祈りのとき、キリストを分与してもらうようもっと心がけてさえいれば――自分の暮らしを少しばかり楽にそしてさらに楽しくする多くのものを求めるのではなく、キリストが増し加わるよう求めていれば――!聖霊はそれに基づいて働いて、それに応答してくださいます。ですから、成長は御言葉――その教え、その指示、その務め――を通してキリストが分与されることです――そしてそれは祈りを通してです。

(二)吸収されたキリスト

しかし次に、さらに必要なことがあります。あなたが食物を摂った後、それはあなたに何の益も与えないかもしれません――あなたに多くの害を及ぼすかもしれません。食物がすべてではありません。吸収する必要があります。そして、吸収に関して敵はたいてい成功を収めます。御言葉か祈りのどちらかを私たちにやめさせられないとき、敵は死に物狂いで吸収を邪魔しようとします。ですから私たちは必ず、何をさておいても、少なくとも僅かな時間を用いて、この分与に浸り、キリストに浸り、御言葉に浸らなければなりません。

これは内的姿勢を意味します。食物を摂っても、その食物に対して言わば適切な内的姿勢を取らなければ、何の益もありません。膵臓と呼ばれる臓器に関するある病気があります。膵臓が適切に機能しなければ、食物は体を養えません。好きなだけ食物を摂ることもできますが、何の益にもなりません。ひたすら食べることもできますが、その食物は体に益を与えません。膵臓の機能を刺激・回復する何かが必要です。私が何を言わんとしているのか、おわかりでしょう――この消化の働き、御言葉・主・彼に近づくこの内的姿勢は、おそらく一日に二、三分かもしれませんが、吸収にはとても長い時間がかかるのです。これが成長の道です。ある特別集会の十一の集会をくぐり抜けて、山のような知識を得たとしても、それはあなたに少しも益にならないかもしれません。一つの集会の中に、私たちを長時間支えて霊的成長を大いに促すのに十分なものが含まれているかもしれませんが、それでも何の効果もないかもしれません。あなたはそれについてどうされるのでしょう?あなたはそれを内的に把握しておられるでしょうか?あなたの姿勢は、「私はこれを得なければなりません!これが私の霊の命と成長の助けになるというなら、私はこれを握って咀嚼します!」というものでしょうか――あなたはこのような姿勢を取るでしょうか?これが成長に不可欠です。成長は有機的であり、不可欠です。

(三)キリストを知る

そして次に、第三に、成長はキリストを知ること――新約聖書が霊的理解力と称しているもの――によります。聖霊は、御言葉、祈り、私たちの黙想を通して働いて、主に関する知性の中に私たちを導いてくださいます。それは、私たちが「そうです、私はそれを聞き、それを受け入れました。それを握って、それを用いてきました。しかし、私は今、理解しています。その意味、重要性、価値を理解しています」と言えるようになるためです。私たちの霊的成長は、霊的理解力と大いに関係しています。その正しさを御言葉がどれほど示しているのかはご存じでしょう。多くのものを見て、多くのものを与えられた人、「さて、主のビジョンと啓示について言うと、私は一人の人を知っています。その人は十四年前天に引き上げられ、語ることのできないこと、人が語ることを許されていないことを示されました」(二コリ十二・一~四)と言えた人ですら、これをすべて持っていてさらに持っていた人ですら、その生涯、地上におけるその行程が終わろうとしている時に、「それは私が彼を知るためです――これがなおも私の大志です」と言えたのです。これは知識による成長です。

そしてこの人は、よくご存じのように、神の務めをかなり豊かに分与された人々――というのは、パウロがどれほど長くエペソにいたのか考えてみてください――に書き送りました。彼は自分の務めに関して、「私はひるまずに、あなたたちに神のみこころをすべて宣言しました」(使二〇・二七)と言いました。なんと多くのものを彼はエペソの信者たちに与えたことでしょう!それでも、最後に彼らに書き送るにあたって、終わりにかけてこう述べています。「私は(中略)絶えずあなたたちのために感謝して、私の祈りの中であなたたちに言及しています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて、彼を知る知識を得させてくださいますように」(「彼を知る十分な知識」がここで使われている言葉です)。「あなたたちの心の目が照らされますように。それは、彼の召しの望みがどのようなものか、聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光の富がどのようなものか、また信じる私たちに対する彼の力の卓越した偉大さがどのようなものかを、あなたたちが知るためです」(エペ一・十五~十九)。知ること、見ること、理解することは、たいそうなことです。それは拡大の道であり、成長の道です。

もちろん、これは正常な人なら、当たり前のことです。私たちは成長します。そして成長するにつれて、私たちの理解力は増し加わります。そして、私たちの理解力が増し加わるにつれて、私たちは成長します。霊的理解力は双方向で働きます。主を知りつつあるクリスチャンたち、特に若いクリスチャンたち――メッセージや外面的なものに基づいて生きているだけでなく、主を知る彼ら自身の知識が成長しつつあるクリスチャンたち――を見いだすのは素晴らしいことです。

そして、これは確かにキリストとの生命結合であり、確かに有機的です。それは命の問題であり、命の道です。そして、これは全く私たちの主との私たちの合一の問題です。これこそ、それを備えるものであり、それを生じさせるものであり、それを促すものであり、それを開始させるものであり、それを出現させるものであり、それを完成させるものです。ヨハネ十五章を読むと、それはみな「わたしの中に」という句に込められています。「わたしの中に」「わたしの中に住んでいなさい」「わたしの中で実を結びます」「わたしの中に住んでいなさい、そうすれば多くの実を結びます」等々。それはみな「キリストの中」にあるのです。