第九章 究極的に完成された合一

T. オースチン-スパークス

「これらの言葉の後、八日ほどして、彼はペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登って行かれた。そして彼が祈っていると、彼の顔の様子が変わり、その衣は白く輝いた。すると見よ、二人の人が彼と話し合っていた。それはモーセとエリヤであり、栄光のうちに現われて、彼がエルサレムで遂げようとしている最後について語っていた。さて、ペテロと彼と共にいた者たちは熟睡していたが、すっかり目を覚ますと、彼の栄光と、彼と共に立っている二人の人を見た。二人が彼と別れようとした時、ペテロはイエスに言った、『ご主人様、私たちがここにいるのは素晴らしいことです。私たちは三つの天幕を造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために』。彼は自分が何を言っているのか、わからなかったのである。彼がこれらのことを言っている間に、雲が現れて彼らを覆った。その雲の中に入った時、彼らは恐れた。すると、その雲の中から声がして言った、『これは私の子、私の選んだ者である。彼に聞け』。その声がした時、イエスひとりだけが見えた」(ルカ九・二八~三六)。

「そしてもし子供であるなら、相続人でもあります。すなわち、神の相続人であり、またキリストと共同の相続人でもあります。ただしそれは、私たちが彼と共に栄化されるために、彼と共に苦しむならばの話です。(中略)被造物は切なる期待をもって、神の子たちの出現を待ち望んでいます。なぜなら、被造物が虚無に服させられたのは、自分自身の意志からではなく、それを服させた方のためであり、それは被造物自身も、朽ち果てる束縛状態から解放されて、神の子供たちの栄光の自由の中に入る望みがあるからです」(ロマ八・一七、一九~二一)。

「……主は来られるその日に、その聖徒たちにおいて栄光を受け、また信じたすべての者たちにおいて驚嘆されるのです」(二テサ一・一〇)。

「見よ、私は一つの奥義をあなたたちに告げます。私たちすべてが眠るのではありません。しかし、私たちすべては変えられます。それは最後のラッパの時、一瞬にして、またたく間にです。ラッパが鳴り響いて、死者は朽ちないものによみがえらされ、私たちは変えられるのです。なぜなら、この朽ちるものは朽ちないものを着なければならず、この死ぬものは死なないものを着なければならないからです。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着る時、書き記されているこの言葉が成就します、『死は勝利のうちに飲み尽くされた。おお、死よ、おまえの勝利はどこにあるのか?おお、死よ、おまえのとげはどこにあるのか?』」(一コリ一五・五一~五五)。

「主イエス・キリストは(中略)私たちの卑しい体をも変貌させて下さいます。それは、それが彼の栄光の体に同形化されるためです」(ピリ三・二〇~二一)。

「万物がその方のために存在し、万物がその方を通して存在する方が、多くの子らを栄光へ導き入れるのに、彼らの救いの創始者を、苦難を通して成就されるのは、彼にふさわしいことだったからです」(ヘブ二・一〇)。

「そして彼は私を御霊の中で、大きな高い山へ連れて行き、聖なる都エルサレムが天から出て神から下って来るのを私に見せたが、それは神の栄光を持っていた」(黙示二一・一〇~一一)。

私たちは、まず第一に、遥か過去を仰ぎ見て次のことを思い出さなければなりません。すなわち、神が人を造られた時、神は変容を目的として人を構成されたということです。つまり、神聖な栄光が目的だったのです。これが神の意図でした。しかし、人は神に反逆して霊的自殺を犯しました。そして、その反乱と失敗により、人はこの素晴らしい運命を失い、いま読んだように、神はただちに全被造物の上に「虚無」を宣告されました。あるいは、この一連のメッセージで前に述べたように、神はこの被造物と人の中心に「失望」を書き込まれました。しかし、神は別の人を任命されました。その人は神御自身の心にかなう人、神御自身の御子であり、人の子となられました。そしてこの別の人、人なるキリスト・イエスにあって、永遠の合一が確保されました。それはキリストまた御子の中にある信者たちとして神が予知していた人たちの間の合一です。神は御子にあって変容・栄化が可能な新しい被造物を確保されました。あの山の上の変容した主イエスを見る時、私たちは彼の中に個人的に、最初のアダムがなるべきだったもの――栄化された人、変容された人――を見ます。後で私たちは、彼と共に栄化されること、彼が多くの子らを栄光にもたらされること、私たちの体が彼の栄光の体のようにされること、神の栄光を持つ天のエルサレム、といったこれらの素晴らしいすべての点について読むことになりますが、その時、私たちが目にするのはこの当初の意図の実現に他なりません。これが神が最初から意図しておられたことであり、試練の時に人が勝利していれば、問題や悲劇に見舞われずに、ずっと早く得られていたはずの地位です。

しかし、それは今やキリスト・イエス、栄光の中におられる人にあって究極的に完成されています。栄光とは――倦まずに私たちはこれを述べます――創造主である神とその全被造物とが満足することです。栄光とは、その完全な素晴らしい享受と実感の中で、「これこそあるべき姿です!」と言えることに他なりません。これが栄光です。ささやかではあっても、あなたはこれを御存知でしょう。あなたはおそらくそれを栄光とは呼ばないかもしれませんが、それを感じています。何かがまさにあるべき姿にあると感じる時、内側であなたは栄光の感触、色彩を感じます。しかし、一つのまとまりとしての人類と全被造物とがまさにあるべき姿にあって、誰もが保留したり疑問に感じたりすることなく、「そうです、これこそそのあるべき姿です!」と言えるとしましょう――これが栄光です。そして神が――神の標準はとても高くて、絶対的です――神がその観点から、「これこそまさに、私が意図した通りの、そのあるべき姿です」と言える時、確かにそれは栄光の日でしょう。

次に、これはキリストとのこの合一の究極的完成です。この合一について、私たちはその様々な面から考えてきました。それらの面とは、永遠の合一すなわち私たちはこの世の基が据えられる前からキリストにあって選ばれていたこと、創造的・種族的合一すなわち私たちは最後のアダム・第二の人であるキリスト・イエスにあって新創造であること、それから夫婦の合一です―― これは花嫁が準備を整えて、彼と彼女、彼女と彼の間の愛情関係がすべて成熟に達する時のことであり、その時、疑問や疑い、ためらいや不安はもはやなくなります。彼とその教会、この二者の命が完全に融合します――これが小羊の婚宴です。これがその究極的完成です。さらに、使命の合一があり、これにより神の家が確立され、神の天的秩序が設立されて現わされます。また、キリストのからだの機能的合一があり、これによりこのからだはそれに内住するパースンである彼御自身を現します。それから、命の合一、有機的合一があり、これにより彼の命、彼の神聖な天的命はその有機体を完全な表現・成就へともたらします。これらが合一の各面であり、それがみな究極的完成――彼の全栄光の究極的完成――にもたらされます。

さて、先ほど読んだ節から、これらのことにはみな、私たちが考慮している以上に考慮する価値があることがわかります。この究極的完成について様々な方法や文脈で展望されているのです。

第一に、個人の霊的・肉体的完成に気がつきます。個々の子らが栄光へともたらされ、栄光の中にもたらされるときに個々の肉体が造り変えられます。この御言葉は素晴らしいです、「私たちの卑しい体は彼の栄光の体に同形化されます」――医者や看護婦は全員失業します。間違いなく、そうなって皆が大喜びするでしょう!その事柄の領域はすべて終わって、解散します。栄光の体、栄化された体は「彼の栄光の体のように」なります。これは朽ちるものから朽ちないものへの変化と呼ばれています。

ああ、少しの間立ち止まって、主イエスの復活の体について考えたいと思います。主イエスの死者からの復活は極めて素晴らしいものでした。ヨセフはイエスの体を乞い求めて、それを受けると、彼とニコデモは百ポンドもの防腐剤の香料を持ってきました。百ポンドというのはかなりの重さです!この途轍もない重荷を運んでいるこの二人の老人を、あなたは思い描くことができるでしょう。次に、彼らは彼を亜麻布の衣に包みました。その衣の内側に、重い香料がすべて包まれていました。そして彼らは墓の中に入った時、彼の復活後、それらがみなきちんとそこにあるのを見い出しました――墓中に香料が散らばっていることはありませんでした。それはみなきちんとそこにあり、外形も変わっていませんでした。彼はそれをすべて通過されました。後に閉ざされた扉を通り抜けたのと同じように、彼は出て来て、その包みを後に残されました。これは栄化された体に何ができるのかを示唆しています。

「彼の栄光の体に同形化」されること。これがキリストとの合一の個人に関する究極的完成です。霊はすでに彼に結合されています。「主に結合される者は一つ霊です」(一コリ六・一七)。そして、霊のこの合一は、体の栄化すなわち栄光の新しい体において究極的に完成されます。これがその目標です。私たちはその団体的面について見てきました。多くの子らがいますが、裔はひとりです。これは称号・名称は異なりますが同じものです。それはキリストの団体的からだです。栄化された教会であり、「神の栄光を帯びて」います。教会は彼のからだであり、彼との何重もの合一の中にあります。そして、しみやしわやそのようなもののない、「栄光の教会」になります。神の栄光を持つ栄光の教会になります。

そして次に――何と素晴らしい節でしょう!――キリストの正しさが彼の聖徒たちにおいて証明されます。彼が内住している者たちにおいてキリストの正しさが証明されます。「彼は来臨して彼の聖徒たちにおいて栄光を受け、信じたすべての者たちにおいて驚嘆されます」。キリストの正しさが彼の聖徒たちにおいて証明されること――これは素晴らしいことです。この世界のここに今いる私たちは、蔑まれ、軽視・無視され、排除され、中傷され、迫害され、苦しんでいます。それはキリストが私たちの中におられるからに他なりません。キリストとの私たちの合一のために他なりません――ああ、これは何を意味していることか、時として何という代価が必要になることか!――私たちの中におられるキリストは私たちにおいて栄光を受け、私たちにおいて驚嘆されることになります。光景は変わることになります。内住のキリストは常に苦難、逆境、迫害、悲しみ、試練を意味するものではなくなります。内住のキリストは最終的に、究極的に完成されるとき、極めて素晴らしいものになります――彼の聖徒たちにおいて栄光を受けられ、驚嘆されるのです。彼を客観的に見るなら、私たちが彼を見る時、私たちは彼に驚くだろうことが分かります。しかし、この節が述べているのは、彼は信じたすべての者たちにおいて驚嘆されることになる、ということです。

さて、これは単なる将来展望ではないことに注意しましょう。自分の幻、夢、幻想に興奮することも可能です。これらの素晴らしい知識や観念を、ただそれらがキリスト教信仰を構成しているからという理由で、信奉することもできます。クリスチャンたちはこのようなことを信じています。いわゆるキリスト教宗教を構成しているものがあります。しかし、それはそんなものではありません。ああ、そうです、キリスト教は他のどの宗教とも違って、実験してみることができます。試してみることができます。そして、それは試験に耐えて、それが完全に現実であることを今も実証します。クリスチャンたちの希望や期待や見通しは、未来にのみ存するわけではありません。あなたや私、男性や女性が、決定的行為によって、主に結合されるようになるその日、この究極的栄光の証拠が直ちに生じます。

あなたの経験や経歴からこれを証明することができます――十分に証明することができます。そのため、ほとんど羨望のまなざしと切ない気持ちで、その日々すなわち初めの日々を振り返っている自分をあなたは見い出します。自分の霊に全く従って次のように歌う人々がいます。

「私が経験した祝福はどこにあるのでしょう、
最初に主を見た時のあの祝福は?
魂を新鮮にしてくれたあの光景、
イエスとその御言葉の光景は?

戻って下さい、ああ 聖なる鳩よ、戻って下さい
安息の甘い使者よ。」

彼らは続けます、

「私が最も大事にしてきた偶像を、
たとえその偶像が何であったとしても、
あなたの御座から引き裂くのを助けて下さい、
そして、あなただけを礼拝するようにして下さい。」

そうです、多くの人がこう歌うようになりました。しかし、あなたがこう歌うにしても歌わないにしても――クリスチャンはそうであってはなりませんが――この最初の日々を私たちは常に振り返るものなのです。私は自分自身の最初の月日を鮮明に覚えています。当時、主は私の心と生活の中に、完全な、障害物の無い、自由な道を得られました。その月日は素晴らしいものでした。その後、その月日は素晴らしいものではなくなったというわけではありません。しかし、何が起きたのでしょう?ああ、私たちは栄光を味わったのです!その場ですぐに、自分たちは栄光のために造られたという証拠が生じました。キリスト・イエスにあって新創造の中に入ったとき、ただちに、新創造の宿命――栄光――をもって封印と証印を受けたのです。神の新しい開始には常に栄光が伴います。

しかし、これは最初だけではありません――クリスチャン生活の行程で繰り返し起きます。とても悲しいことに、私たちのクリスチャン生活において、私たちは転倒したり、堕落したり、罪を犯したり、足を滑らせたり、深刻な悲しむべき過ちを犯したりせずに、真っすぐ進み続けることをしません。そして、私たちがそうする時、敵はすかさず駆けつけて来て、私たちを全く追い払おうとします。私たちはとても悲しく、とても申し訳なく感じ始めて、沈み込みます。私たちの霊はうなだれて、この問題に捕われてしまいます。栄光は去ってしまいます。そして、栄光は二度と戻って来ない、と私たちは思います。しかしその後、どういうわけか主は私たちに何かを語られます。再保証の御言葉を再び私たちに語られます。そして、その問題は正されます。私たちは再び信仰を握ります。そして、栄光が戻ってきます。主は私たちを見捨てておられなかったのであり、その宿命も失われることはありません――それは再び戻ってきます。

主から離れ去るなら、私たちは惨めです。主から離れているなら、何の栄光もありません。主と共に進んでいた時の人々と現在の人々との違いが、あなたには分かります。しかし立ち返るなら、栄光が待っていることを見い出します。私たちの生活の中でこれを何度も経験します。栄光が待っています。私たちはそのために造られました。キリストとの私たちの合一はその保証です。私たちがキリストから漂い去るとき、栄光は差し止められます。私たちが立ち返るとき、栄光は再びそこにあるようになります。主と論争するとき、あるいは主があなたと論争するとき――主が語られたこと、御心にかなっていないことを主が示されたもの、あるいはおそらく、私たちがその中を通るのを主が許された何らかの経験、試練、困難に関して論争するとき――私たちは苦々しく不快になり、悲しくなります。主についてのこの不平という冷たい手が自分を握るのを許すとき、栄光はすべて去ります。しかし、立ち返って、主が要求されたものを正す時、あるいは、主に戻ってその不平を明け渡し、「それは私の生活全体を台無しにして、すべてを駄目にしようとしています。それはこのまま在り続けてはなりません。どんな代価を払っても私は主と共に進み続けます」と言うなら――栄光が戻ってきます。

最後のこの栄化は作り話ではありませんし、単なる将来への期待でもありません。これは道中ずっと聖霊が証しされることです。そしてこれは、彼が私たちの生活の中にこれらの危機をもたらされる理由の一つではないでしょうか?――それは、キリストとの私たちの合一により絶えず何度も素晴らしいものが生じるということを、私たちが当然視しすぎないためです。しかし、これらの危機の真の目的は何でしょう?なぜ主はこれらの危機を私たちの生活の中にもたらされるのでしょう?私たちが物事に直面する時、あるいは困難な経験の中を通らされる時、何らかの新たな調整、何らかの新たな放棄が必要になる時、それは一体どういうことでしょう?それはまさに次のような結果になることがわかります――すなわち、主イエスのためにさらに大きな場所を設けることになるのです。なぜなら、栄光の根拠はキリストだからです。神の定めは御子と共にあります。御子から離れるなら、失望することになります。しかし、御子が私たちの中でさらに豊かな地位、さらに大きな地位を得られる時――おそらくそれは危機を通して、戦い、再調整を通してです――彼がさらに豊かな地位を得られる時、神の栄光のためのさらなる根拠がなおも生じることになります。栄光の望みは私たちの内におられるキリストです。栄光の根拠は私たちの内におられるキリストです。言い換えると、栄光という結果になるのは私たちの内におられるキリストです。そしてこの合一がますます深く、強く、豊かになって、ますます定着するにつれて、栄光のための根拠は増し加わります。クリスチャン生活の中を進んで行くとき、道中ずっと、私たちはますます深刻な危機を迎えるように思われます。どういうわけか、「自分はどん底に達しました。これ以上低くなるのは不可能です」と思う地点に私たちは至ります。すると、私たちはさらなるどん底の中に連れて行かれます。状況はかつてないほど絶望的に思われます。しかし、主は私たちを切り抜けさせて下さり、前よりも多くの命、前よりも多くの主からのもの、前よりも多くの栄光があるようになります。新約聖書の中に「栄光の御霊があなたたちの上にとどまって下さいます」(一ペテ四・一四)という御言葉があります。栄光への道は苦難です。かしらについてそうだったように、その肢体たちについてもそうでなければなりません。主人についてそうだったように、僕についてもそうでなければなりません。彼についてそうだったように、私たちについてもそうでなければなりません。苦難と栄光――これがその道です。

私はここで終えることにします。目的・目標はこの栄光の結末です。繰り返しますが、これは今試してみることができます。おそらくあなたは前の時に私が述べたことを覚えておられるでしょう。私にとって、主の来臨という問題は、単なる預言の問題ではありません。主の来臨に関する預言を学んでも、私はあまり爽快感や刺激を覚えません。それは結構なことです――私を誤解しないで下さい!預言を学ぶのが好きなら、学んでください。しかし、それが常に栄光という結果になるとは限りません。しかし、私たちが主の来臨について歌う時、歌っている数人の人々が単に興奮・熱狂するだけではないことに、私は気付きます。別の何かが入って来るように思われます。その別の何かとは栄光の御霊です。なぜなら、聖霊は過去・現在・将来の御方ではないからです。聖霊は永遠です。聖霊は永遠に――今――なる御方です。どの瞬間にも永遠が宿っています。聖霊にとって、主イエスの来臨はまるで今の出来事のようです。来臨について述べると、聖霊は「そうです、ここにその証拠があります!」と仰せられます。彼はそれを聖徒たちのただ中に与えて下さいます。そして、あなたが主の来臨について歌う時、何らかの栄光がそこに生じます。それは、状況は将来よくなることを思い出させる単なる備忘録ではありません。それは、あの未来が「今」の中に入って来る感触・味わいです。これは素晴らしい締めくくりの言葉です。これらの事柄は現存する実際であり、すべて試して経験することができます。なぜなら、この栄光は将来だけのものではないからです。、私たちの上に栄光の御霊がとどまっておられ、道中ずっと結末を保証して下さいます。どうか主が私たちを、私たちの信仰がもたらす霊的益に浴して生きる、そのようなクリスチャンに保って下さいますように。教理のみに基づいて、諸真理に基づいて生きるのではなく、聖霊の中でこれらの事柄の実際の中に生きる、そのようなクリスチャンに保って下さいますように。