第二章 私たちの古い人性の実際的惨状

T. オースチン-スパークス

主よ、私たちは知っています。私たちは昔の人の一人が大昔に使った言葉を今しがた使いましたが、その人は、語っているのは主であることを理解していませんでした。彼は、語っているのは人――神の人――だと思いましたが、最終的に事実に直面しました。語っているのは人ではなく神だったのです。そして次にあなたご自身に彼は直接話しかけました、「主よ語ってください、僕は聞いております」。私たちは祈ります、主が語っておられる時、語っているのがたんなる人ではなく主である時、どうかそれがわかりますように。そして、ああ、サムエルに対してそうだったように、私たちに対する主の語りかけになんと多くのことがかかっていることでしょう。私たちは神の民の間で力強い権威だったサムエルのようでありたいのです。私たちはあなたに求めます。他のどんな声を通してあなたが語られたとしても、どうか私たちが真にあなたに聞くことができますように……内側で主の御声を聞くことができますように……あなたの御前に行って、私たちが受け取ることをあなたが願っておられる指示や委託を何でも受け取ることができますように。ですから、主よ、今朝、あなたの御名のために私たちを助けてください。アーメン。

私たちの詩歌の本の一つの中に、ある詩歌があります。あなたたちの中には知っている人も知らない人もいるでしょう。それはこう述べています。

私の目標は神ご自身です。
喜びや祝福ではなく、
私の神、彼ご自身です。
御旨に私を導いてください。
私の意志ではなく御旨に、この地上で、
どんな代価を払っても、愛する主よ、
どんな道を通っても。

あまり経験のない若いクリスチャンたちはこれを大いに情熱的に歌います。年配のもっと成熟したクリスチャンたちはこれを心を込めて歌います。あなたはこの最後の数行「どんな代価を払っても、愛する主よ、どんな道を通っても」に同意されるでしょうか。あなたはこれに「同意します」と言います。あなたがそうするとき、何かが起きることをあなたは覚悟しなければなりません。なぜなら、まさにこの立場に基づいて、今朝私たちは一つの課題に直面することになる、と私は強く確信しているからです。それは実際的転機という一つの課題を課すでしょう。その上に、私たち全員の多くにとって、自分が思う以上にとても多くのことがかかっています。

さて、こう述べておいて先に進むことにしましょう。私たちの集会の今の時間、私たちは二つの人類に専念しています。特に一つの人類から別の人類への移行に専念しています。最初のアダム(これは包括的言葉・語句であり、個人的であるだけでなく団体的でもあります)の人類から最後のアダム――この御方も個人的でありまた団体的です――の人類への移行です。

今週末、この新しい人類の団体面についてさらに何か述べるかもしれませんが、そこに至るまでに網羅すべきことがたくさんあります。その地点に至るには、この団体面――私たちはそれを教会と称しています――に関する私たちの考えや観念に大きな調整がなされなければならないと思います。この教会という観念について考えを改めなければならないと私は確信しています。しかし、この問題は措いておいて、今朝、私たちはこの移行に、一つの人類から別の人類へのこの過ぎ越しに戻ることにします。全聖書特に新約聖書はこれで満ちています。

私は自分の言葉を慎重に選んでいます。私はとても注意深くしています。あなたに多くの教えや情報を伝えることに私は少しも関心・興味はありません。そうするには私はあまりにも年老いています。すべては、運命がかかっている命に関わるものを含んでいなければなりません。ですから、私は自分の言葉を慎重に選んでいます。そして、私は次の点を繰り返したいと思います。新約聖書は一つのことで全く占められています(この一つのことには多くの内容がありますが、これが唯一のものです)。すなわち、あの一つの人性、存在の種類――人類――から、別の人性への移行です。この他方の御方であるキリスト、この新しい種族と人類の秩序の第一位である御方の上に、神の御心は最初から定まっていました。人類のこの新秩序は、昨日言及・指摘したように、御使いたちよりも遥かに重要です。小さな子供の頃、「私は御使いになりたい」というささやかな詩歌を歌ったものでした。そうではないでしょうか?神はあなたのために御使いよりも遥かに、遥かに偉大な未来を備えておられます。「御使いたちはこれらのことを見ることを願っています」。それは「彼らはこれを見ることを願っています」と述べています。「御使いたちではなく、人に」――これがこの被造物について神が御心に抱いておられる最高の御旨であり、この被造物においては御子であるキリストが第一――その始まり――です。

転換:聖霊の支配の中で

ですから、あなたの新約聖書の中であなたが出会うものは、いずれにせよ、この転換です。また、私たちが自分自身の霊的経験の中で出会うものはすべて、もし私たちが真に聖霊の御手の中にあるなら、これと関係しています。「ああ、私はこの経験を通っているところであり、この困難を抱えているところです。私は悲しみのこの道、困惑のこの道を通っています」とあなたは言います。どうであれ、それはみな聖霊の支配下にあり、この移行と関係しています。一つの立場から別の立場への、一つの種類の人から別の種類の人への動きと関係しています。その焦点は目下のところ、あなたのいる状況にあります。良い状況であれ、悪い状況であれ、そうです。「どんな道を通っても、どんな代価を払っても」とあるとおりです。

そして、まずは黙想するのが心地よくない次の点から始めることにします。それは何でしょう?一つの種類の人性の実際的滅びが絶対に必要だということです。私は実際的という言葉を強調します。私たちの古い人性の教理的、理論的、神学的、哲学的滅びではなく、実際的滅びです。

旧約聖書は最初から最後まで、一方において次のことに満ちていることに、あなたは気づいているでしょうか。すなわち、きわめて有利な条件下でも、この人性は神を満足させられないことを明らかにしているのです。神は一つの民を召し出し、ご自身に結び付けて、ご自身のものとされました。彼らが彼の立場にとどまっている間、神はあらゆる地的な現世的祝福――霊的祝福ではありません――で彼らを祝福されました。彼らが戒めに従順でありさえすれば、彼らの香油、たくわえ、かご、家族、仕事は祝福され、この地上のすべてが栄えました。神はご自身の主権の下で、エデンの園のあいだずっと、またイスラエルの時代のあいだずっと、彼らに素晴らしいエコノミーをお与えになりました。それなのに、私たちの旧約聖書の最後はどうなっているでしょう?どんな条件下でも、神が一時的に与えられた全く有利な条件下でさえも、この種類の人性は失敗したのです。それは悲劇的物語であり、旧約聖書はそこで閉じざるをえません。この人性は目標に到達せず、失敗しました。この面については、神との関係における人類の歴史全体にわたって、「失敗だった」と特筆しなければなりません。

さて、新約聖書に入ると、どんな出来事に出くわすでしょう?この問題はすべて、新約聖書で絶頂に至ります。神が踏み込んで介入し、一つの線に沿って仰せられました、「わたしたちは徹底的かつ積極的にこれを絶頂・極点に至らせます。しかしそうするには、なぜわたしたちがこの人性を絶頂・極点に至らせる必要があるのかを、すべての歴史と時代の人々に見て知ってもらわなければなりません」。ああ、私たちはたんなる幻想に興味はありませんが、これは魅力的です。一度見だすと、心を掴まれます。

神類の人:この異質な人

ですから、いわゆる四福音書は時や出来事の順序にしたがっていません。この四福音書は何でしょう?二つのものです。もちろん、四福音書は神類の人の導入です。彼は地上に置かれ、次に神類の人と並んで別種の人が配置されます。この観点からこれらの福音書を読むと、衝撃を受けずにはいられません。この異質な人――神がただ中に置かれたこの人――の傍らで人が暴露されるのを見て、衝撃的という言葉しかありません。この光の中であなたの福音書を読んでください。この人に対する人々の反応を見てください。恐ろしくないでしょうか?さかしくもこの人に反対するとは一体何事か、と時々疑問に思います。

さて、福音書では、この種類の人の暴露、露出、発現がますます激化していきます。この悪意、この憎しみ、この偏見、この邪悪さが新たに激化するように思われる時点に注意してください。誰に対してでしょう?ああ、私の主が何をしたというのでしょう?この怒りや悪意は何を意味するのでしょう?まさに十字架の時に至るまで、これが激化していきます。もちろん、彼はバプテスマ以降、十字架につけられた人の立場に基づいて行動されたことは覚えておられるでしょう。これは意義深い事実であり、敵対勢力が働いている不可視の領域ではなおさらです。

神に対して「否」と言う心

しかし、今や、実際に十字架の時に至ります。磔殺の前の時とその瞬間に至ります。この十字架をめぐって人類のあらゆる面が示されます。内側の輪からより広い輪に至るまで、すべてがそこにあります。そして、その焦点はイエスの十字架です。この十字架は何を明らかにしているのでしょう?これに関する二、三の事例を取り上げましょう。歴史上最高の宗教組織・体制の最高代表者から始めることにします。

カヤパはイスラエルの大祭司であり、この民族は公式にこの人を中心にまとまっています――彼はこの国民の代表者です。カヤパがこの劇の主人公である、これらの記事をまとめた物語を読んでください。私や人の言葉では、この異質な人を前にしたこの人を描写できません。この人を何とか描写する唯一可能な描写、唯一可能な言葉は、かなり昔にイザヤによって預言されたものだと思います。覚えておられるでしょうか?イザヤ書六章の言葉はよくご存じでしょう。「誰がわれわれのために行くだろうか?……」という主の要請に預言者は応じて、「ここに私がおります。私を遣わしてください!」とイザヤは言いました。主は彼に何と言われたでしょう?……彼は言われました(主は言われました)「行ってこの民に告げよ。『よく聞け、しかし理解してはならない。よく見よ、しかし悟ってはならない』。この民の心を肥え太らせ、彼らの耳を鈍くし、彼らの目を閉ざせ。それは、彼らが自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で理解せず、立ち返らず、癒されることのないためである」。これは恐ろしく聞こえます。「……しないためである。……しないためである。彼らが立ち返らないためである」。彼らがそうできないようにせよ、自分の道を引き返す彼らの能力を取り去れ。これは恐ろしくないでしょうか?

しかし、ここでは何を扱っているのでしょう――心のかたくなさです。それは御言葉に対して、預言者たちに対して、神が与えられた一切の啓示に対して、ひたすら何度もかたくなになります。かたくなになり続けて、とうとう引き返せない点を超えてしまいました。神は言われました、「あなたは自分の心をあまりにもかたくなにして、わたしの道に対してあまりにも積極的に『否』と言ってきたので、もう治療できません」。これが十字架でのカヤパとイスラエルです。神に対して「否」という心です。

至高の権を持つ御方の御前における、なんという心、なんという暴露、人の可能性のなんという啓示でしょう。そうです、それまで進行していたことが今や明らかになります。その始まりは、おそらく、とても単純なものだったでしょう。しかし、それは成長し続けて――引き返すこともできたのに引き返せなくなりました――とうとう神がこう仰せられる時になりました、「聞いたり見たりする彼らの能力を取り去れ」。神のあらゆる訴え、嘆願、うめき、涙にもかかわらず、人の心はかたくななままであり、それに対する裁きが十字架で明らかになります――陥りかねない心理について十字架が啓示するところが明らかになります!

「それはカヤパのことであって、自分のことではない」と言う人がいるかもしれません。もしそう言うなら、あなたは人の心がわかっていないのです。もし心の中で反逆したことは少しもないというなら、もし主に対して「否」と言ったり争ったりするおそれは決してなかったというなら、あなたは人の心がわかっていません。それは存在します。それはカヤパではなくアダムです。これは発達して最後までつきまとうアダムです。

この人にはなんというチャンスがあったことか

反逆が高じる中、カヤパからピラトに移ります。ポンテオ・ピラトです!この人にはなんというチャンスがあったことでしょう。ああ、歴史はピラトについてどう述べているでしょう?嫌悪感を覚えずにピラトについて考えることはできません。ピラトは人類のためのチャンスを両手に握っていました。彼はどうしたでしょう?彼は揺れ動いています。右と左に揺れ動いています。時には堅固であるように思われます。しかし、すべてが弱さを物語っています――片側に百パーセント堅く立って、完全かつ決定的な決断を下すことができません。他のだれかに決断を委ねようとしており、責任を放棄しようとしています。……しかし、なぜでしょう?なぜでしょう?――彼は時流に仕える人の代表者です……「もしこの人を釈放するなら、あなたはカエサルの友ではありません」。そうです!――カエサルの好意、この世の自分の権益を推進してくれるカエサルの力が大事なのです。「もしこの路線を取ったら、この世の私の権益はすべて危うくなってしまいます。商売上の繁栄や、私の権益を推進する権力を持っている当局者たちとの良い関係が危うくなってしまいます」。彼は時流に仕える人です。そしてピラトは、イエスに味方する決定を下せずに彼を十字架に引き渡した人として、歴史に語り継がれていきます。「彼を連れて行きなさい、あなたたちが彼を連れて行きなさい。すでに述べたように、私は彼になんの非も見いださない。しかし、あなたたちが彼を連れて行って、十字架につけなさい」。何による弱さでしょう?――二心という恐るべき悲劇による弱さです。その主な特徴・要素は「これは私と私の権益にどう影響するのか」です。これが道中ずっと私たちにつきまといます。

これこそ、イエスご自身が荒野で悪魔と戦われたものだったことがわかります。悪魔は「もし行くと決めた道をあなたが行くなら、あなたにどんな影響があるでしょう、それはあなたにどう影響するでしょう」と言いました。「この世の王国が欲しければ、妥協の道を取りなさい」――これがピラトでした……人の内面のなんという暴露でしょう。

所有欲

急いでこの輪の中心近くに迫ることにすると、ユダ・イスカリオテに至ります。不愉快さや軽蔑感を覚えずに、この言葉、この名前を使うことは今ではできないのではないでしょうか。「ユダ」――だれかについて最悪の悪口を述べたい時、「あいつはユダだ」と言います。それはどこかで、とても単純な形で始まりました。主ご自身か(彼は自分のしていることをご存じだったことに気をつけてください)あるいは他の弟子たちがユダに向かって、「これを見てください。人々は私たちに贈物を与えて道中助けてくれるでしょう。だれかにこの贈物の世話をしてもらわなければなりません。ユダよ、あなたがその袋を持っていてください」と言った日に始まりました。

始まりは単純でしたが、何が起きたでしょう?その地位にあったことで、この人の奥底にあった何かが引き出されました。おそらくユダですらそれを知らなかったでしょうが、これによってそれが引き出されました。その結末はご存じでしょう。一人の人がまたもや引き返せない点を超えてしまい、自分が主を裏切ったことに最後に気づきます。すべて彼の栄光の道、天的秩序のために寄付されたものでした。もう自殺するしかありません。

何が暴露されたのでしょう?この人性の中には何があるのでしょう?根本の深い所にあって、機会さえあれば現われるものは何でしょう?私はキャンベル・モルガン博士が「人は機会さえあれば何でもしでかすおそれがある」とかつて説教の中で言うのを聞きました。これは心を探ります。何が現れるのでしょう?貪欲さしかありません。所有欲です。私の友人たちよ、ユダの名を嫌がる一方で、気をつけてください。それは私たち全員の中にあります。主の働きの中にすらあるのです。認められたい、奉仕の機会を与えてほしいという貪欲さ、神の事柄においても自分自身のために欲しがる貪欲さです。弟子として、その根――所有欲、ひとかどの者になりたいという欲――が存在するかもしれません。貪欲さを御言葉は偶像崇拝と述べています。十字架は私たちの中に何があるのかを発掘します。顕わにします――これがユダです。

自分を知らなかった人

さて、さらに中心に迫ることにしましょう。すなわち、おそらく中心の最も近くにいたシモン・ペテロです。シモン・ペテロは自分自身を知らなかった人であり、真相とは異なる自己像を持っていました。「私は決してあなたを見捨てません。私は死に至るまであなたと同行します。たとえすべての人があなたを見捨てても、それでも私は見捨てません」――「私は……します」――「私」です。これはどこから始まったのでしょう?あなたはこれを前に聞いたことがあるでしょう。この自己、この自己中心性によって盲目にされて、ああ、シモン・ペテロよ、あなたは自分自身を知らないのです。しかし、十字架があなたを暴露し、探り出し、暴き、粉々にしようとしています。あなたは自分自身に絶望して出て行って、多くの涙を流すでしょう。主はだれかを遣わしてあなたを探させ、「わたしの弟子たちとペテロのところに行きなさい(中略)そこで何が起きているのかわたしは知っています。彼がどこにいて、何が起きているのかわたしは知っています」という特別な使信を伝えさせなければなりません。

可哀そうな、可哀そうなシモン・ペテロ。何が起きていたのでしょう?主はペテロに何が起きるのかを告げられましたが、後になるまでシモン・ペテロはそれを理解しませんでした。「シモン、シモン、サタンはあなたを得ることを、あなたを麦のようにふるいにかけることを願いました」――自己中心性というあの偽りの覆いを剥ぎ取ります。実際のところ、ペテロよ、そこに何があるのか、あなたは知りません……麦のようにあなたをふるいにかけます

十字架は心を大いに探るものであり、あらゆる種類の自信、自己充足、自己の利益、自己に属する一切のものを木端微塵にするものであることを、シモン・ペテロは見いだしました。十字架はまさにその種類の人性を荒廃させます。

何も残っていない人々

さて、イエスが十字架につけられた後、この物語のその部分が完了した後の、他の例をもう一つだけ取り上げることにします。弟子たちの二人がその日、エマオの村に向かっていました。ルカ二四章の物語はご存じでしょう。彼らが悲し気に話していると、この見知らぬ人が彼らに近づきました(彼がだれかわからないように、彼らの目は閉ざされていました)そして言いました、「悲し気に歩いているようですが、どんな話をしていたのですか?」。彼らは答えました、「あなたは私たちの都へのたんなる訪問客でしょうか、ちょうど着いたばかりで、この数日に起きたことをご存じないのでしょうか?」。すると主は「どんなことですか」と尋ねました。「どんなことですか?」と主は彼らから聞き出そうとしておられます。彼らは言いました、「ナザレのイエスに関することです。彼は言葉にも行いにも力ある預言者でした。イスラエルを贖うのはこの方であると、私たちは期待していました。しかし、私たちの支配者は彼を十字架につけてしまったのです」。言い換えると彼らは「私たちの希望は失せました。私たちの期待はすっかりなくなりました。私たちには何も残っていません」と言いました。

するとこの見知らぬ人は旧約聖書を取り出し(彼がそれを手にしていたとは私は思いません。彼らはそれを知っており、頭の中に記憶していたのです)最初から始めて、聖書の最後まで進みました。彼が彼らに聖書を開かれた時、彼らの口は解け、彼らの目は開きました。彼らが着いた時……結末はご存じでしょう。彼らは食事の席に着き、彼がパンを取って祝福しました。目が開かれて、彼らは彼がだれなのかを知りました。すると、彼は彼らの視界から消えました。

何が明らかにされたのでしょう?何が暴露されたのでしょう?次のことです――たとえ頭をすっかり聖書で満たして、頭で聖書を知り尽くせたとしても、危機の日に聖書は決してあなたを救ってくれないのです。十字架が私たちの生活のまさに中心に植え付けられる時、私たちの救いのために神によって記されたものですら、私たちを救ってくれません。それは一つの危機であり、その中で私たちは挫折します。これは恐ろしいことです。聖書を知り尽くせたとしても、それでも何らかの凄まじい経験、辛い経験という試みの時になると、それまで読んだり聞いたり考えたりして知っていたものは全く私たちの役に立たないのです。

もちろん、この物語にはそれ以上の内容があります。しかし、私の要点は、人の心をなんと暴露していることか、ということです。この別の人をなんと顕わにしていることでしょう。どうして、そのような人が彼の弟子になれるでしょう。どうして何年もの間、主に同行できるでしょう。どうして主が語られたことや、主がなさるのを見たことを、すべて理解できるでしょう。どうして頭の中に教えを保てるでしょう。真の試練の時になると、耐えられずに挫折します。――私たちは(自分の聖書を手に持って)ひたすら希望を抱いてきましたが、彼らは失望の中にあります。

全く別の人性

あらゆる種類の試練の下でこの一つの人性を滅ぼされることが、別の人性――それはキリストです――にとって必要不可欠です。なんと彼は異なっておられることでしょう――全く別の人性です。別種の人であり、この御方の中にここからのものは何もありません。ここからのものは何もありません。使徒はかつて信者たちに、「あなたたちはそのようにキリストを学びませんでした」と言いました。言い換えると、「もしキリストを学んでいたなら、そんなことはしていないでしょうし、そんなふうでもなかったでしょう」ということです。

さて、先に進む前にこの問題を把握しましょう。それは何でしょう?ああ、それ――この滅び――は直ちにすべて実現するわけではないかもしれません。そんなことは不可能でした。それは一生かかりますが、始まりがあります。よく聞いてください、始まりがあるのです。そして、真に霊的な生活の行路は次のとおりです。次の一つのことから、霊的発達、霊的成長、霊的成熟がわかります。それは、各人が自分自身のことをどれほど軽んじているのか、彼ら自身に関する彼ら自身の評価や他の人々の評価によるとどれほど自分が取るに足りないものであるのか、ということです。あるいは、別の言い方をすると、彼らの間でどれだけ彼ら自身ではなくキリストに出会うのか、ということです。彼ら自身の天然の生活の中で十字架がどれだけ彼らを滅ぼしたのか――これが試金石です。これが霊的豊満に至るのに、キリストとキリストの豊満――それは全く私たちとは異なります――に至るのに、必要不可欠な不可避の道です。

別の人性を持ち込む悲劇

さて、これを述べたので、今朝さらに進むことにします。私はあなたたちを新約聖書の例の箇所に連れて行きたいと思います。その箇所は他のどの箇所にもましてこの問題全体に焦点を置いています。それは一方において一つの種類の人性を暴露し、他方においてキリストであるところの別の人性を明らかにします。私は、例えばローマ七章について、「これは『再生』された人の経験ですか、それとも再生されていない人の経験ですか?」とたびたび質問されてきました。ここに来た時から私はこの質問をされてきましたが、今までその答えを保留することを提案してきました。

「最初の人は地からであって、地的であり……」云々。これは回心していない人、再生される前の人のことでしょうか、それとも再生された人のことでしょうか?これは再生された人のことです。これについて間違ってはなりません。パウロはコリントにいる再生された人々に書き送っています。彼はキリスト・イエスにある聖徒たち――キリスト・イエスにある信仰を通して立っている聖徒たち――への呼びかけと共に彼の手紙を始めます。そして、これらの手紙の内容はみな、クリスチャンたちに宛てられています。しかし、それはクリスチャンに関する恐るべき暴露です。私はあなたたちに告白しますが、コリント人への第一の手紙を読んで、こう自問することが私の人生に一度ならずありました、「この人たち、この民は本当に再生されているのでしょうか?彼らをクリスチャンに分類できるのでしょうか?」。できます、この手紙は「コリントにいる、信仰を通して立っている聖徒たちに」対するものです。

コリントの悲劇は、別の人性の遺物・名残を持ち越した悲劇です。ここに新しい人性からのものがあるのに、古い人性から持ち越したものがクリスチャン生活の中にあったのです。その結果は混乱です――混乱した判断、混乱した振る舞い、混乱した関係です。もしこの言葉は正しくないと思うなら、次のことを思い出していただきたいと思います。すなわち、彼らはあるとき使徒パウロに書き送って、クリスチャン生活に関して、キリスト教の何たるかについて、十の初歩的な質問を彼にしたことです。彼らはキリスト教の初歩的事柄について混乱の中にありました。

今週、これらの質問のすべてに付き合うつもりはありませんが、このような質問をしたのです。コリントは混乱していて、恐ろしい状態です。そこには弱さがあります――命は弱く、生ける証しも弱いです。そこには恥や非難があります。使徒はとても強烈でとても辛辣なことをクリスチャンたちに向かって述べなければなりません。それは、彼らが古い人性を、それと手を切らずに、新しい人性との関係の中に持ち込んでいるからです。こういうわけで使徒は、第一の手紙の序文の後、「私はあなたたちの間で、イエス・キリスト、十字架につけられた方以外に何も知るまいと決心し、決定し、決意しました」と述べているのではないでしょうか。ああ、この二つの手紙全体を通して、彼らの霊的生活の要所要所で、私たちは「十字架につけられたキリスト」に何度も出会います。パウロは言います――「これが土台であって、その上に私たちは建造します。あなたたちコリント人よ、あなたたちは新しい人性の領域の中に古い人性からのものを持ち込んでおり、この二つは同行しえないことを見いだしました――直ちに混乱と敗北が生じるのです」。

さて、コリント人へのこれらの手紙の中に私たちはいます。そして、これらの手紙は新約聖書の他のどの手紙にもまして、二つの人性の戦場を示しています。第一の手紙の冒頭を皮切りに、この戦いがずっと続きます。この二つの人性の戦場――コリント人たちはそこにいます。

先に進む前に一つのことを示してもいいでしょうか。パウロはコリントでこの状況に出くわしてそれを対処しましたが、そうするにあたってこう述べました、「あなたたちのもとに行くにあたって、私は『あなたたちの間でイエス・キリスト、十字架につけられた方以外に何も知るまい』という決定的・積極的・包括的決断を下しました」。こう述べた時、彼は何をしたのでしょう?次の言葉は何を意味するのでしょう?――「哲学志向で哲学に大きな関心を抱いているあなたたちのところに行くにあたって、私は新しい哲学、新しい宗教、新しい教えの体系を携えて行くつもりはありません。新しい体制・形式・技術を携えてあなたたちのところに行くつもりはありません。すべてをひとりのパースン、一人の人に集約・焦点づけて行くつもりです」。

この手紙の焦点は一人の人、ただ一人の人、ある種類の人です。すべては一人の人に集約・焦点づけられています。今から先、この点からすべてが展開します。他方、この人――それを彼らは持ち込もうとしてきましたし、依然としてコリントで育んでいます――がおり、他方にはこの別の人がいます。読むとすぐに「だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という御言葉と出会います。この大きな分断は十字架においてです。さて、これがコリントであり、新旧の人性が真の戦場です。これはどんな戦場でしょう?

もし客観的・歴史的に考えようとしているなら、やめてください、直ちにやめてください。この二千年を飛び越えて、その間隙を超え、地理上のコリントや歴史上のコリントから離れて、直ちにこの点に来てください。私たちは生来この同じ人性に属しています。しかし恵みによって、別の人性に属しています。そしてこの点に関して、今日キリスト教圏は全く混乱と敗北の中にあります。そのため、今日のようなキリスト教の有様を私たちは新聞で読んでいます。キリスト教は大したものではなく、実際重要なものでもなく、世界情勢・状況などになんの影響も及ぼしていません。天然の人はキリスト教圏の有様を見て、そう結論づけています。

そうではない点も私たちは知ってはいますが、大筋で合意せざるをえません。それにもかかわらず、キリスト教圏は今日、この恐るべき窮地に陥っています。それはまさに次の理由によります――すなわち、イエス・キリストの十字架がこの二つの人性の間に設けた分断を理解していないことです。十字架はまさにこの二つの人性の間に切り込みます。そして私が述べてきたように、これは一度にすべて実現するわけではなく、一生にわたるかもしれません。しかし、聖霊は私たちを教えてくださるでしょう。もし私たちが素直で、敏感で、御霊の中を歩いているなら、「(一言で言うと)それはあなたであって、キリストではありません。それはあなたであり、あなた流の話し方、あなた流の考え方、あなた流の振る舞い方です。それはまさにあなたであって、キリストではありません」と聖霊は私たちを教えてくださるでしょう。

ああ、それには長い時間を要するかもしれません。しかし、この別の人がこの世界を歩まれた時のことを学んで、その生涯を支配していた諸原則を理解することは大いに益になるでしょう。この方の生涯は全く天的・霊的であり、そのためこの世の中で彼は全く予測不能でした。

分断:
「霊の人」と「天然の人」

私たちは今、コリントに向かおうとしています。私たちはこの手紙の中にあまり入り込んでいないので、何が一方に属し、何が他方に属するのかをまだ見ていません。ああ、キリスト教界がコリント人への第一の手紙の二章に対して真に目が開かれていれば。ここに二つの名称があります。ここに二つの人性があります。一方は天然の人です。再び申し上げたいのですが、これは必ずしも再生されていない人のことではありません。コリントはこれを示していますし、これを示すために用いられています。それは霊的歴史全体を通して、この大いなる移行の完遂を許さずに一つの人性を別の人性に持ち込むことの悲劇を示し続けています。それがここで示されていることです。それで、コリント人への手紙ではこの分断を示しています。「霊の人」と「天然の人」を示しています。そして次に、各々の特徴を見せています。

コリントの特徴を見始めるとすぐに、次の点に行き着きます。すなわち、人々の一団です――これが「天然の人」です。「私はパウロに、私はアポロに、私はペテロに、私はキリストにつきます」。「そんなことは自分たちにはありえない」と私に言う人もいます。「神の僕、大いに用いられている神の僕、聖人である神の僕を焦点とすること、その周りを巡る中心とすることなんてありえません――自分に訴える彼の教え方、彼の解釈、彼の人格を焦点・中心とすることなんてありえません」。聖霊の使徒はこの類の事柄を天然の人の範疇に分類しています。なぜなら、それはキリストのからだを分裂させる影響を及ぼすからです。ああ、人々について話してはなりません。彼らはあなたを助けるために用いられたかもしれません。彼らのゆえにあなたは主から多くの恩恵を受けているかもしれません。しかし、彼らばかり見てはなりません。パウロは反論して言います、「パウロは何者でしょう、アポロは何者でしょう、ペテロは何者でしょう?――あなたたちを信仰に導いた神の僕にすぎません!」。僕には後ろに下がってもらって、キリストに前に出てもらいなさい。彼に占有されなさい。主イエスについて語りなさい。

おそらく、このような大会ではこのようなもの――この人の名やあの人の名、この教師やあの教師――がたくさんあるでしょう。私たちには自分の好みや愛着がありますが、それをすべて落とさなければなりません。パウロは「イエス・キリスト、十字架につけられた方」以外に何も述べようとしません。私たちは人々の一団という問題をすべて落とさなければなりません。この問題は発展すると、キリストのからだの分裂にしかなりません。そして、分裂は弱さであり敗北です。私たちはこの類のものを控えなければなりません。なぜなら、これは間違った路線を進むことだからです。これは外側から行動することです――内側からそれを対処する代わりに、人々を集めてそれを「一つ」と呼ぼうとすることです。そして結局のところ、もし私たちがイエス・キリストを見てさえいれば、私たちは教会の何たるかを見ていたでしょう。

親愛なる友よ、イエス・キリストの教会は「モノ」ではありません。教えの体系ではありません。組織的なものではありません。施設ではありません。(ああ、神がこれを私に示してくださった日のゆえに神に感謝します。)教会とはパースンであり、このパースンは団体的に表現されたイエス・キリストです

教会すなわちキリストのからだについて話すには、思いを改めなければなりません。あなたたちは何を話すつもりでしょうか?――まるでそれ自体が大したものであるかのように、モノや何か、教えそのものについて話してはなりません。そうです、教会は神から生まれた家族、子供たち、兄弟たち、姉妹たちを伴うこの人なる御方です。それが教会です。ああ、私たちは家族生活抜きで、なんと多くの教会主義を持てることか。しかし、教会とは結局のところ最終的には、その構成員たちの中に存在するキリストの度量にほかなりません――「私たち全員が(中略)キリストの度量に到達するまで」――これは私たち一人一人のことです。これがキリストのからだであり、これが教会です。

さて、この朝の集会を終えようと思います。私たちはこの最初の点を見ました。すなわち、コリントで出会うのは、古い人性を人々の一団という形でこのように持ち込むことである、という点です。主は「否」と言われますし、使徒も「否(中略)イエス・キリスト、十字架につけられた方だけです」と言います。この二つの人性に関して主は私たちの心を探られます。祈りましょう……

今、主よ、私たちが去った直後、このメッセージはたちまち、とても容易に覆われてしまって、この時に何があったのかを思い返さなければならなくなるおそれがあります。そうならせないでください。私たちをそのようなことから救ってください。主よ、私たちはあなたの民になんの圧力もかけたくありません。私たちは祈ります。どうか聖霊が、時間と永遠に属する一大事中の一大事であるこのような問題の前で、私たちの心をかしこまらせてくださいますように。どうか私たちに静かな黙想を与えてください、私たちの心の中に祈り深い黙想を与えてください。それは、私たちがどこにいるのか、この全聖書の中で私たちがどこにいるのかを見るためです。ですから、私たちを助けてください、神よ、あなたの御子のゆえに、アーメン。