第三章 二つの人性の戦場

T. オースチン-スパークス

「主よ、ここで私たちがする祈りというこの行為は、私たちはあなたなしでは進めませんし進みたいとも思わないことを、認めて告白するものであることをあなたはご存じです。主よ、あなたの真理を語り、受け入れ、理解し、それに従うために、私たちにはあなたが必要です。あなたなしでは私たちにはできません。あなたの信実さ、あなたの憐れみ、あなたの恵みに私たちは拠り頼みます。そして、あなたに信頼するとき、あなたは私たちを失望させることはない、と私たちは信じています。私たちは神の助けによって切り抜けます。そうであることが分かっていますので、私たちの主イエス・キリストにより栄光はただただあなただけのものです、アーメン。」

私たちはこの期間、神の御子が人の形を取ってこの世界に出現されたことによって示された、人性の極点に専念しています。そして、私たちはこの一連の黙想で、目下のところ二つの人性の戦場に専念する地点に至りました。この戦場は特にコリント人への二つの手紙で注目されています。これが神の主権的配置におけるこの二つの手紙の地位です。他の手紙には特別な面がありますが、コリント人への手紙では、古い人と新しい人、最初のアダムと最後のアダム、一つの人性と別の人性との間の議論というこの焦点を見い出します。

先に進む前にここで言わせて下さい。私たちの考察はあまりにも破壊的性格を帯びていて、辛く、厳しく、私たちの古い人性にはまったく楽しくないように思われるかもしれません。これらの手紙は過激であり、前に述べたように古い人性にとっては悲惨です。使徒は実際にとても厳しく非難しており、とても強烈なことを述べています――とはいえそれは愛の中でであり、とても信実なのです。私はこれを大いにはっきりと指摘したいと思います。使徒がこのような姿勢をとって、あのように強烈に、力強く、過激に状況を取り扱ったのは、誰かを傷つけたかったからではありませんし、この人々に同意しなかったからでもありません。彼が栄光の中におられる主イエスを見て衝撃を受けたからなのです。この人の生活と務めは彼の言う「天の幻」によって駆り立てられていたのであり、この宇宙の神の経綸全体におけるイエス・キリストの偉大さとその途方もない意義を彼は見ていたのです

それを説明・表現することはパウロの能力を超えていました(そうしようとして彼は言葉をすっかり使い果たしてしまったからです)。イエス・キリストは彼に現われて、絶えず心の中に啓示されていました。それは、到達する邪魔をするものは何でも断固として対処しなければならない、と彼に感じさせるほどでした。彼は言いました、「兄弟たちよ、私は到達したわけでも、すでに完成されたわけでもありません。私は目標に向かって、賞に向かって進みます」。どんな賞でしょう?――

神の御子のかたちへの完全な同形化です――

イエス・キリストの素晴らしさと栄光を
自分自身の経験で実際に理解することです――

それに到達することは彼の全生涯の目的であり
情熱でした。それは彼が見たからです!

さて今朝の私の要点の目的は破壊的・消極的であることではなく、ただ反対することです。この古い人に対してとても厳しいと思われたとしても、それには常に積極的な目的があります。それはあるものに――神の御子のかたち――に至ります。さてこれを述べたので、二つの人性の戦場について進むことにしましょう。それはコリント人へのこの二つに手紙に集約されていますが、今週私たちはそれに軽く、不完全に触れることしかできません。しかし、あなたに把握できる以上のことを示すには十分だと思います。

イエス・キリストを表現すること

たしかに私たちは新約聖書の状況のただ中にあります。すなわち、一つの人性から別の人性への移行の中にあります。これにクリスチャンたちは関係しています。これらの手紙は一地方の会衆に宛てて書かれたことを、あなたは思い出さなければなりません。その会衆の個々人が抜き出され、特定され、その行い、振る舞い、生活の仕方に対して直接的に述べられている一方で、使徒が関わっているのはその会衆であり、イエス・キリストの表現としての各地の会衆のあるべき姿です。イエス・キリストを表現すること――これこそ各地の会衆の唯一の存在目的です。使徒が関わっていたのはキリストのからだ全体の、コリントにあった核でした。二十世紀の間ずっと、コリント人たちに対するこの務めは国民から国民へ、国から国へ、この地の果てまで絶えず広がってきたことは、とても印象的だと思います。そして今日、それは私たちを対処しています。各地の会衆はこの性格を帯びているべきであり、たんなる局地的なものであってはなりません。それは普遍的意義を有するべきであり、何かを表現しなければなりません。ああ、主の民の各地の群れがすべて、イエス・キリストの意義に関して、常に、永遠にわたって、何かを表現していれば!

各地の教会の目的はイエス・キリストの価値を持つことであり、たんなる局地的なものではありえません。それらは――それらの努力、組織、機構、そのような類の何ものによってでもなく、それらがそうであるがゆえに――自分たち自身や自分たち自身の時代を超えて広がる影響力を持たなければなりません。霊的価値を持たなければなりません。今、それはどのように達成されるのか、主の民を個人的・団体的にそのようにするものは何か、というこの問題に取り組みたいと思います。

この問題全体の核心は教えや実行の体系ではないことがわかります。それは教会主義――これは教会制度の別名にほかなりません――ではありません。キリスト教がそうなったいかなるものでもありませんし、その付帯物や発展や形式でもありません。この問題全体の核心はパースンです――ひとりの人なる方のパースンです。人間が創造における神の御旨です。神は創造のこの形体――人――を最高に重んじておられ、ご自身の関心をすべてある種の人に注いでおられます。神はご自身を表現する人を持つことを欲しておられます。「われわれのかたちに、われわれのすがたにしたがって人を造ろう」。かたち、すがたとは何でしょう?表現です。神は「われわれのかたち、われわれのすがた、われわれの表現」と言われました。残念ながら、この表現はコリントでは事実上とても貧弱でした。人と呼ばれる種においてご自身を表現すること――これに神はご自身とご自身の関心をすべて傾けてこられました。聖霊の来臨と御業の実際の目的が何か知りたければ、それはまさに次のことにほかなりません――すなわち、このひとりの人にかなった人類を得ることです。

ですから、大事なのはひとりのパースンです。常にこのパースンに注目し、このパースンに目を留め続けなさい。新約聖書はすべてこれに尽きます。大事なのは常にこのパースンであり、この御方は「私は……です」と繰り返し述べて保証して下さっています。羊飼い、門、ぶどうの木のどれも、彼のパースンの諸々の面にすぎません。「私は……です」という彼ご自身の諸々の面にすぎません。彼は歴史の舞台に踏み込んでこられましたが、ただ彼だけが「私は……です」と言うことを許されている唯一の御方です。これについて途方もないことが述べられています。神は世界を義の中で裁く日を定められましたが、その裁きはご自身が定められた人に「よって(by)」ではなく、その人「において(in)」なされます。この全世界の裁きはキリストに基づいてなされることになります。あなたがどんな罪を犯したか――程度の差はあれ、あなたはそれを大きい罪、小さい罪と呼ぶかもしれません――に基づいてではありません。いいえ、それが裁きの根拠ではありません。裁きの根拠はあなたがイエス・キリストといかなる関係にあるのか、彼がそこにどれだけ存在されるのか、ということです。神はこの人において世界を裁かれます。今、これについて考えて下さい。この御方こそ、私たちが進むとき常に目を留め続けなければならない方なのです!

この人は全人類とはまったく絶対的に異なっています。ですから、これまで見てきたように、この途方もない違いのゆえに、他方の人のための余地を設けるために、一方の人は滅ぼされなければなりません。神はこの人と共にまったく完全にやり直されます。これは次のことを意味・示唆することに気づきます。すなわち、主イエスがこの世界にやって来られた時、人類は終わらせるのに十分なほど巨大になっていたのです。ここにユダヤ人と異邦人の大群衆がいて、当時の世界を満たしていました。それは全世界、一つの種族、巨大な種族を代表するのに十分でした。そこで主なる神は、「おしまいです。私たちは一人の人と共に再びやり直します。それはひとりの人、最後のアダム、新しい種族です」と言われました。全人類は退けられ、この最初の人すなわち「多くの兄弟たちの長子」によって新しい種族がもたらされます。

このコリント人へのこれらの手紙の中に、すでに指摘したように、クリスチャンたち、個人としてのクリスチャンや団体としてのクリスチャンに臨みかねない悲劇を私たちは見ます。この悲劇はこの一つのことのためです。すなわち、あの古い拒絶された疑わしい人性を新しい人性の中に持ち込んだことのためです。これは恐るべき悲劇です。神の御霊がこれをコリント人への手紙の中に記させたのを見て下さい。これを読むのは不快であり、この手紙を私はあまり読みたくありません。ここに記されていることを読む時、このクリスチャンの会衆の中で人々がしていることについて読む時、クリスチャンの会衆の中に近親相姦のようなものがあったということ(また、その他のありとあらゆることがありました。それらの幾つかについて後で触れることにします)を読む時、これを読む時、私は思います――クリスチャンたちの何と恐るべき悲劇だろう、と。

それは二千年前のコリントだけのことです、と言ってはなりません。私たちはクリスチャンの諸団体の中で常にこれ――姦淫――に出会っているのではないでしょうか?神が十字架によって一つの人性と別の人性との間に設けられたあの大きな隔たりを無視するのは、恐るべき悲劇です。十字架が造り出したあの亀裂がいかに完全なものだったのかを認識しないのは、恐るべき悲劇です。人間生活のこの問題で十字架を迂回する時、あなたは悲劇の道にあります。すなわち、あなたの霊の命と証し全体に関する悲劇です。これはまさに試金石です。十字架は教えや教理以上のものです――それは神が行ってこられまた求めておられるあの大いなるものを極度に示します。しかし、他方において、その示しは大いに栄光に満ちています。ここで新しい人が導入されるからです。この悲劇と、これらの二つの人性の間の戦場について述べている時も、私たちは彼に目を留め続けなければなりません。

この戦場は二人の人すなわち「天然の人」と「霊の人」との間のものである

さて、特にコリント人への第一の手紙に示されている私たちの状況について、少し時間を費やさなければなりません。彼らの状況(それは私たちの状況かもしれません)は、疑いなく、今日の多くのクリスチャンの状況でもあります。コリント人たちはどのような状況にあると使徒は述べており、使徒を通して聖霊は述べておられるでしょう?このコリント人への最初の手紙では荒野におけるイスラエルの歴史について十四回述べられていることにあなたたちが注目したことがあるのか、私は疑問です。この歴史は出エジプト記から申命記に記されている通りであり、それがとても特別な方法で指摘されています。ここでは、コリント人たちはエジプトと良き地の間のあの期間にあることが示されています。彼らの霊的状況は次の通りです。すなわち、彼らは小羊の血によって贖われており、その覆いの下で脱出していました。コリント人たちはその立場にあり、使徒はそれに着目して、手紙を「聖徒たち」に宛てて始めます。さて、必要なら、「聖徒たち」という言葉に関するあなたの考えを改めて下さい。それが意味するのは「分離された者たち」、すなわち出て来て神に至った者たちということにほかなりません。ただそれだけです!これが聖徒です。尊い血により分離されて贖われ、出て来て神に至り、地位的に分離されて外にいます。どうやってでしょう?彼らは尊い血により贖われているのです。

コリント人への第一の手紙の一〇章でパウロは述べています、「兄弟たちよ、私はあなたたちに知ってもらいたいのですが、私たちの祖先はみな、雲と海の中でモーセの中へとバプテスマされました」。バプテスマされた――コリント人たちは雲すなわち御霊の体制の下でバプテスマされて脱出しました。聖霊の体制の下でです。これがクリスチャンの地位ですが、状態がそうだとは限りません。地位的には彼らは分離されています。彼らはバプテスマされていますが、このコリントに見る通り、彼らは荒野にいます。彼らは地位的にはクリスチャンであり、聖霊の体制、御霊の時代の下にあります。彼らは神の王国の中にいます。神の王国が神の主権的支配を意味する以上、確かにそうです!彼らは神の主権的統治の下にあります。彼らは地位的には神の王国の中にあります――ここで言う神の王国とは、宇宙を支配する神の主権という一般的意味においてではなく、神の主権についてのもっと特別な意味においてです。そうです、彼らはみなそうであり、神の超自然的活動を経験しつつあります。客観的に超自然的なことが彼らに起きつつあります。

パウロは言います、「コリント人たちよ、どの霊の賜物についてもあなたたちは後れをとっていません」。すべての賜物――「超自然」(ネスレのギリシャ語行間注釈)――があります。後に、彼らが提示した十の問いの一つに答えて使徒は言います、「さて、霊の賜物については……」。さて、私たちはゆっくりと注意深く進もうではありませんか。なぜなら、イスラエルがエジプトと良き地の間の荒野にいたあいだ、これはみなその通りだったからです。それでも、コリント人に関してこれがみなその通りだったにもかかわらず、使徒は身構え、気を引き締め、一つの明確な決意をしなければなりませんでした。これをすべて持っているこれらの人々に向かって、彼は言いました、「あなたちの間でイエス・キリスト、十字架に付けられた方以外何も知るまいと、私は決意し、心を決めました」。このクリスチャンたちはこれをみな持っており、貴い血により贖われ、地位的に神へと分離され、神の王職と神の王国の主権的支配の下にいました。また、神の主権的な超自然的活動を経験的・客観的に良く知っていました――その彼らに向かって使徒は断定的に述べなければなりませんでした、「あなたたちの間でイエス・キリスト、十字架に付けられた方以外何も知るまいと、私は心を決め、決意し、決定しました」。これは一体何のことでしょう?それは二章のこの断裂のことであり、「天然の人」と「霊の人」と使徒が称する二者の間のものです。そして、この二者の間で戦いがなされています。これがこれらの二人の人の間の戦場です。

あなたたち、この国の人々が、座って考えたことがこれまであるのか、私には疑問です。あなたたちの凄まじい活動を私は知っていますが、ただ座って考えたことがこれまであるのか、私には疑問です。いま私はあなたたちにあるものを勧めたいと思います。それはあなたたち自身の必要のためであり、あなたたち自身の静思の時のためです。公の朗読やその類のためではありません。私はあなたたちに詳訳聖書の新約聖書を勧めたいと思います。記憶にあるかもしれませんが、詳訳聖書は序文でこう述べています。「私たちの目的は原語の中に入り込むことです。原語は英語よりもはるかに豊かであり、とても多くの意味合いを帯びています。それらの意味は、いかなる英単語も伝えられないものです。この詳訳は原語の意味や意義を忠実に伝えるものです。原語であるギリシャ語を説明するには、多くの言葉や多くのニュアンスが必要です。そこで、私たちは原語の意味に忠実な言葉をこの詳訳に加えました」。(詳術についての説明)。さて、これを読むには多大な忍耐が必要です。しかし、この聖書を持って座り、あなたの新約聖書の節を読み進めつつ自分の道に思いを馳せる時、あなたは探られ、照らされるでしょう。

さて、一体なぜ私はこのようなことを述べているのでしょう?私は今日のクリスチャンたちを見ており、自分の新約聖書を読んだことのない人が大勢いると思っているからです。何ということか、キリスト教圏をご覧なさい!そこには(コリント人への手紙にあるのと同じように)絶対的齟齬があります。彼らには見えていませんが、それでも自分たちの憲章としてこの新約聖書を保持しているのです。

さて、これはなぜでしょう?その答えは一つの句にあります。パウロがこのコリント人への第一の手紙を書いて、そこでの状態について述べた時、彼は指摘して言いました、「あなたたちがこれこれのことをする時、あなたたちは『ただの人』ではないでしょうか?」。「『ただの人』ではいけないのですか?」と言う人がいるかもしれません。いけません、ある種の人性にしたがった人であってはなりません。そのような人はここで「人」であってはなりません。十字架は彼からその人性を剥ぎ取りました。「……あなたたちはその衣を脱ぎ去りました(ギリシャ語はまた)あなたたちはその衣を取り去りました。あなたたちは古い人とその行いを脱ぎ去って、新しい人を着たのです」。ですから、そこにはここでまったく許されていない人性があります。

「あなたたちはただの人のようではありませんか?」。パウロは言います、「あなたたちはただの人のように、人々が話すように話しています。人々が振る舞うように振る舞っています。そんなことは許されません、その類の人性は許されません」。そのような人は不法侵入者であり、神の禁制の下にあります。そしてこの二章はこの禁制を示しています。「天然の人」――これがこの人であり、「天然の人は神の御霊の事柄を受けることも知ることもできません」。神に対してキリスト教圏はこれを受け入れようとしません。この天然の人は、神に対して何の立場も持たない場所に侵入した不法侵入者です。それは思い込みであり、うぬぼれに至ります。新しい人性のこの領域の中に自分自身のまま入ること、何らかの方法で自分自身を持ち込むことはうぬぼれです。この天然の人の力がここのこの二章に示されていることがわかります。実際の言葉は引用しませんが、私はこの本文に注意を払っています。これがここに示されている真理です――すなわち、天然の人の行動力は自分自身からのものである、ということです。使徒は力について述べています。そして、このコリント人たちは力による支配に関して、ある大それた考えを持っていました。力!確かに、それが神の力なら、力は結構なものです。しかし、力に関する彼らの考えは力に関するこの世の考えであり、彼らの力は彼ら自身からのものでした。これが意味するのは、それはこの世からのものであるということです。

さて、別の人を導入することにします。この別の人はこれについて何と述べておられるでしょう?ヨハネ五章に戻って下さい。そこで彼は「子は自分自身からは何もすることができません」と述べておられます――神の御子が自分自身からは何もすることができないのです。そしてこの偉大な僕であるパウロは、コリント人への手紙を書いて、「自分自身からは、私は何もすることができません。私は弱い時に強いのです。私は自分の弱さを誇ります。それは神、キリストの力が私の上に宿るためです」と言いました。

この旧創造の能力の力、この古い人性は、新しい人性により完全に根絶されます。そして、あなたがすでにそこに達していてもいなくても、神の御霊があなたを握っておられる以上――そしてそうしてもらうことをあなたが彼に願い、おそらく、そうしてくれるようあなたが彼に祈っている以上――あなたに言いたいのですが、あなたは何かに直面することになります。もし彼があなたを真に握っておられるなら、自分自身の完全な無力さをあなたが感じるようになる日が来ます。何事であれ、あなた自身の内にあるあなたの能力はすべておしまいになります。そして、あなたは「主よ、あなたが……して下さらないなら、これでおしまいです」という地点に至ります。力に関するこのような考え――それは最初のアダムが求めたものであり、神のようになること、自分自身が強くなることです――はみな、この新しい人すなわち「十字架に付けられたキリスト」により根絶されます。

力?親愛なる友よ、力は神に属するという積極的見解を保って下さい。このコリント人たちに対して、使徒は述べています、「あなたたちの間にいたとき、私は弱さと、恐れと、おののきの中にありました」。なぜでしょう?彼はその理由を答えています――「それはあなたたちの信仰が人の知恵の中にではなく、神の力の中に立つためです」。

古い人性がそれを行う方法:それが許されない領域

知恵はこの二章のもう一つの重要語句です。それはこの世の知恵、人々の知恵について述べています(そして知恵を求める探求、知恵とその哲学者たちについて述べています。それはギリシャ人についてもコリント人たちについても、ほとんど欲求と言えるものでした)。「知恵」は「判断力、識別力、決定力、解決力」です。しかし、コリント人流の知恵は彼ら自身からのものでした。彼らの知恵は彼ら自身のものであり、この世からの知恵でした。

白状すると、ここに私に分からないこと、私を超えているものがあります。このコリントの会衆に向かって使徒は、このように持ち込んだ他のものの一つについて非難しています。もしあなたたちの中の誰かが問題を抱えているなら、この世の知恵を持つこの世の人に、自分の問題を裁定するよう求めてはなりません。それは古い人性の流儀です。今コリントにいるあなたたちは、キリストにある新しい人性の中にある会衆として、この世が知恵や判断の問題に関して持っていない能力を持っていてしかるべきです。そして、ここに私に分からないことがあります。それはこの句です、「私たちは御使いを裁くようになることを知らないのですか?」。あなたはこれについて考えたことがあるでしょうか?ああ、御使いは私たちよりも優った存在である、と私は思っていました。彼らはあらゆることで神に従います。しかし、使徒が言うには、「私たちが座して御使いたちを裁く」時が来ます。私たちは御使いたちを裁くでしょう。彼はそれをここで用いて、別の種類の知恵があることを示します。その知恵は古い人性の最高の知恵とはかけ離れています――彼が言うには、その知恵は「この世から」のものではありません。なぜなら、キリストにあって彼は「私たちへと至る」神の知恵とされたからです。

聖霊は知恵と理解力の霊です。そして、それゆえ、霊の人はこの世の裁判官ですら持たない判断力、識別力、理解力を持つべきです。そうです、この新しい人にあるこの人性は大いに異なっています!しかし、コリント人たちはこの古い人性、彼らの世的知恵を持ち込みました。なぜならコリントでは、彼らの原動力は彼ら自身の魂から出ていたからです。それは魂の力でした。そして、それがこの世の原則です。魂の力――これは熟慮すべき事柄です。魂の力――この時代の最後の期間にある私たちは、それに何が成しえるのかを見てきたのではないでしょうか?そうです、それが文字通り恐ろしく凄まじい勢いで広がるのを、魂の力が諸国民に広がるのを私たちは見てきました。この魂の力は私たち全員と共にあります。しかし、魂と霊について述べ始めるつもりはありません。それについてやや述べ過ぎた、と私は感じかけています。それが核心を突いていた時もありましたし、今日も核心を突いています。しかし、それは一つの題目、魅力的な題目になりました。そして、数々の題目にかまけないよう大いに注意したいと思います。しかし、ここにその事実が示されています。すなわち、コリントでは、原動力が魂の力だった、という事実です。それは御霊の力ではありませんでした。この人々は賢い人々、知的な人々、効率的な人々でした。しかし、それはそれが許されていない領域にあったのです。

人の知性主義を偏重してはなりません。今日、最も致命的なものの一つは神学だと思います。キリスト教圏はここで迷ってしまったのだと思います。すなわち、神の事柄の領域の中に知性主義を持ち込んだことです。頭脳の力により、キリスト教圏は恐ろしくひどいことになってしまいました。そうです、人々はギリシャ哲学によって知的になりました。彼らは賢く、効率的です。しかし、この手紙は「それは出て行かなければなりません――その類の知恵はここでは許されません」と述べています。ここには別の種類の知恵があります。「天然の人は神の霊の事柄を受け入れることも、知ることもできません。それらは霊の人によって霊的に識別されるものなのです」と使徒がこの問題に関して述べた時、彼は何と徹底的であることでしょう。これが霊の人――御霊の人――です。彼は言います、「こう記されています。目が見たことがなく、耳が聞いたことがなく、人の心に思い浮かんだことのないもの、そのようなものを神は彼を愛する者たちのために用意して下さいました」。

それは今生の後のことである――神が私たちのために用意して下さったものは後のためである、とあなたはすぐに考えるだろうと思います。ああ、私はそうは信じません。それは今始まる、と私は信じます。それは今の私たちのためです。それは目、天然の目、古い人の目が見たことのないもの、決して見ることのできないものであり、天然の心、古い人の心に決して思い浮かんだことのないものです。それを「神は御霊によって私たちに啓示して下さいました」。「啓示して下さいました」は現在完了形です。それは今生の後のことではありません。「御霊によって私たちに啓示して下さいました」。開かれた天、油塗りの御霊、御子を私たちの内に啓示される神――その益に私たちは浴しています。そうすることによって神は私たちに打撃を加えておられますが、それと同時に可能性と驚異に満ちた新しい展望を開いて下さっています。私たちの行程は常にそうです。それが自分にも起きている、とあなたは言えるでしょうか?そうです、私は自分の心の中に御子をますます見るようになりつつあります。理論としての真理ではなく、御子をますます見るようになりつつあります。そして御子を見ることにより、私自身の観念、私の考え、私の判断は取り除かれます。しぼんでしまいます。彼は全く新しい観念であることがわかります。彼にあって私は教会に関する新たな観念を得ます――

教会は人類において表現されるひとりのパースンである

教会は物ではない、と私は繰り返さなければなりません。それは施設ではありません。宗派ではありませんし、宗派をすべて一緒にしたものでもありません。そのような何物でもありません。教会は人類において表現される、人間生活において表現される、一人のパースンです。使徒はどこに行くにしても、「私たちはここに教会を造りましょう。ここに教会を設立しましょう。ここに教会を形成しましょう」という先入観を決して抱きませんでした。彼らは出かけて行ってイエス・キリストを宣べ伝えました。そして人々が神を見た時、彼らはイエス・キリストを見始めました。彼は集める凝集力になられました。そして、彼らがその立場の上に真にあったとき、彼らは何に出会ったのでしょう?彼らはイエス・キリストに出会いました。彼らはイエス・キリストに出会いました――これが教会です。それ以外の教会は新約聖書にありません。

これはこの点に戻ります――天然の人は見ることができず、御霊の事柄から締め出されているのです。「しかし、霊の人はすべてのものを判断します」。霊の人はこの新しい霊的能力を持っています。それは、この手紙が教えているように、あの霊の能力、霊の度量の増し加わりです。これがコリントのこの人々に対する要請の根拠です。パウロは言います、「あなたたちが『ただの人のように』話し、『ただの人のように』振る舞っているからには、あなたたちは赤子ではないでしょうか?」。コリントと同じように今日も、私たちは次のことを認識しなければなりません。すなわち、この天然の人は過去最大の頭脳を持ち――天体や地球全体を理解し、この「原子時代」の人は今日の人類の規模にまで発展したにもかかわらず――それにもかかわらず、赤子のような人であり、神の霊の事柄を知ることも見ることもできないのです。この天然の人にはある限界があります。このような状況ですが、新しい人類に属する霊の人に対して開かれているある世界、ある領域があります。それは古い人類の他のすべての能力を超越しています。

コリント人たちの問い:一つの原則の宣言

さてこの点から、コリント人たちがパウロに書き送ったこれらの事柄に取り組むことにします。ある時、彼らは質問の一覧表と一緒に一通の手紙を彼に送りました。そのすべてに答えようとするつもりは私にはありません。しかし、一つの点に注意してほしいと思います――パウロはこれらすべての問いに実際どのように答えたのでしょう?彼は確かにそれらの問いに答えて、助言を与えたりこの問題について彼らと議論しましたが、彼は彼らに答える際、規則書や法律書のような一冊の本にまとめられるような形では答えませんでした。彼は答えのための青写真を一つも書いていません。例えば以下のような質問に対してです、「クリスチャンになった女性にクリスチャンではない夫がいる場合、彼女は彼から去るべきでしょうか?」。あるいは反対に「クリスチャンになった男性に主を受け入れていない妻がいる場合、彼は彼女から去るべきでしょうか?」。「クリスチャンになった奴隷は奴隷としての地位を捨てて、自由になろうとするべきでしょうか?」。「以前偶像にささげられていた肉が市場に売られていた場合、その肉を食べるのを拒むべきでしょうか?」。

この手紙にはこのような多くの質問があります。そして、明らかにそこには、今日カリスマすなわち「霊の賜物」と称されているものについての一つの質問があります。これに関してパウロには言うべきことがありましたが、あなたは彼の述べていることは包括的であると感じるでしょうか?私はそうは思いません。ここでのパウロの意図は決してそのようなものではありませんし、もう一人のモーセになって十の質問に対する十の戒めを記すつもりも毛頭ありませんでした。彼にはそれらの質問に答えるさらに優った方法がありました。しかしそれは、彼らにそれが分かればの話でした。これらすべての事柄について、彼は実際どのようにアプローチして答えたのでしょう?―― 一つの原則を宣言したのです。その原則を把握できさえすれば、答えを得たことになります。どうかこれを覚えておいて下さい。他のことはたとえ忘れても、どうかこれを把握して下さい。これらすべての質問に対する答えは一つの原則だったのです。

さて、賜物、異言等々に関する例の質問に取り組むことにします。それがコリントの問題、問いでした。パウロはそれに関して尋ねられたので、手紙の一部を用いて、「さて霊の賜物については……」と述べます。彼は異言について述べます。異言についてかなり明確に述べます。しかし私の見る限り、彼は異言に関する問いに決定的答えを与えていません。ところが、彼はそれとすべての賜物に関する一つの原則を宣言します。彼は次のような方法でそれに答えます。これがその効力であり、これこそまさに答えです。すなわち、一方において、これらのもの――神の賜物――はどれもそれ自身を目的とするものではないのです。もしあなたがそのどれか、あるいはそれらすべての周囲を巡って、「これこそ『すべてを知ることであり、すべての目的なのです』」と言うなら、あなたは遅かれ早かれ行き詰まります。自分はお手上げであること、そして自分の霊的成熟が阻害されていることに気づくようになります。

兄弟たちよ、それがどれほど超自然的で貴重なものだったとしても、ある経験が最初であり最後となってしまうことに注意しなさい。これらのものはどれも、それ自身が目的ではありません。使徒は賜物全体について取り扱う際、この特定の賜物に関して、そして賜物全体に関して、それらに関する原則はこれである、と述べています――すなわち、それらはさらに大きなキリストの度量へと導いているのか?という原則です。

この手紙で使徒はある言葉を用いていますが、残念ながら、翻訳者たちはそれを取り除いて、その代わりに別の言葉を置いています。彼らが用いている言葉とは「建徳」です。そして、もちろん、「建徳」に対するギリシャ語の厳密な意味・定義を与えるなら、使徒の思想の真の意義がわかるでしょう。パウロがまさに述べたこと、彼が言わんとしたことは「建造」です。何を建造するのでしょう?――イエス・キリストの増し加わりです。これらのものは、確かに素晴らしいかもしれませんが、それ自身が目的なのでしょうか?それらはさらに大きなイエス・キリストの度量へと導いているでしょうか?キリストのからだを建て上げているでしょうか?これがすべての賜物の課題です――すなわち、それはどのように供給していて、イエス・キリストの増し加わりという効力を発揮しているのか、ということです。

さて、コリントにはこれらのものがみなありました。それにもかかわらず、道徳的にはこのように低水準でした。霊的にはこのように貧弱な水準でした。このコリントには賜物があり、いかなる霊の賜物に関しても後れを取っていませんでした。しかし、キリストはどこにおられるのでしょう、キリストの増し加わりはどこにあるのでしょう?「私は赤子に対するようにあなたたちに話さなければなりませんでした」とパウロは言わなければなりませんでした。主が求めておられるもの、あるべきものは、イエス・キリストの豊満の度量の増し加わりです。唯一の問題は、結局のところ、個人の中に、会衆の中に、キリストがどれくらいおられるのか?ということです。大事なのはキリストがどれくらいおられるかであり、どれだけもの――それらがどれだけ超自然的だったとしても――に熱中しているかではありません――なぜなら、主はある日を定められたからです。その日、主はご自身が定められたあの人によって、義の中で世界を裁かれます。……ただ主だけにならなければなりません。彼がそうであるところの人種、彼がそうであるところの人類だけにならなければなりません。

御子への同形化

あなたたちや私たちの中には、神の御手の下で深い深い水、暗い水の中を通ってきた人もいるかもしれません。私たちは叫び、「なぜこのようなことが私に臨んだのでしょう、主よ?他のクリスチャンたちにこのようなことが臨んでいるでしょうか?なぜですか?」と尋ねてきました――私には一つの答えしかありません。「彼はご自身のみこころの熟慮にしたがってすべてのことをなさいます」――すなわち御子への同形化です。そして一方において、十字架の側では、これは何かを取り除きつつあります。何かを取り壊し、あなたを空っぽにしつつあります。あなたはあまりにもいっぱいで、他方において空っぽにされなければなりません。あなたにはわからないかもしれませんが、天はあなたの柔和さ、あなたの忍耐、あなたの同情、あなたの理解力、他人や主に対するあなたの思いやりの中におられる主イエスをよく知っています。主が私たちに許される最も危険なことは、自分たちがどれほどよくなりつつあるのかを私たちが知ることである、と私は言わねばならないと思います。そうではないでしょうか?これについては後ほどさらに言うべきことがあります。終わりましょう……

私たちの主よ、ここに多くのものがあります。あなたの覆い、あなたの取り扱い、あなたの保護が必要です。あなたの親愛なる民に恵みが必要です。多くの恵みが必要です。受け入れ、理解する恵みを彼らに与えて下さい。大事なのはキリストがどれくらい存在しておられるかであって、キリスト教的事柄ではないということに関して、私たち全員を守って下さい。キリストこそ私たちの目的であり目標です。御名のためにそうでありますように、アーメン。