第四章 すべてを管理しすべてを支配するビジョン:
私たちの主であるイエスを見ること

T. オースチン-スパークス

主よ、私たちはあなたのあわれみを求めて再びあなたに懇願しなければなりません。もし私たちが地的手段で天的働きをしようとするなら、自分自身の人間的な力で神聖な働きをしようとするなら、それはなんと哀れなことでしょう。そして、それこそまさに私たちの現状です。私たちにはあなたの同情、あなたのあわれみが必要です。なぜなら、私たちが話したり聞いたりしても、実際のところ私たちになんの益も及ぼさず、なんの永遠の価値もないだろうからです。ああ、主よ、あなたの神聖な助けをもって、私たちを今このとき助けてください。それは、私たちが油塗りの下で、聖霊の注油をもって話せるようになるためであり、また同様に聞けるようになるためです。私たちの耳を油塗ってください、私たちの耳を油塗ってください、そしてたんなる天然の聴力ではない聴力を与えてください。それは私たちが今朝、聖霊の力によって、神の御子の声を聞いて生きるためです。あなたご自身の御名と栄光のゆえに、このあわれみを私たちに与えてください、アーメン。

この朝の時間、私たちは、アダムにある古い信頼のおけない人性から、キリストにある新しい信頼のおける人性への、大いなる移行に専念してきました。私たちは最初に、この信頼のおけない人性の悲惨さが暴露されたことに注目しました。主イエスの十字架の周りに集められたカヤパ、ピラト、ユダ・イスカリオテ、ペテロ、エマオ路の二人がその代表例であることを、私たちは見ました。次に、十字架がなんと悲惨だったのかを、古い人性の最高・最良の暴露がなんと悲惨だったのかを、私たちは見ました。これよりもひどい終わり方はありえなかったでしょう。次に私たちは、コリント人への二つの手紙に示されている二つの人性の戦場へと進みました。この二つの人性とは、一方は古い人性である「天然の人」であり、他方は新しい人性である「霊の人」です。

私たちは立ち止まって、これらの手紙を一般的な方法で少しばかり調べて、そこに記されているいくつかの点を指摘しました。すなわち、古いものが新しいものの中に持ち込まれていたことについて、天然の人と霊の人との間の戦い、つまり、天然のものと霊のものとの間の戦いについて、多くのものに――きわめて神聖なものにさえ――触れる天然的接触についてです。御霊の事柄に天然の人の手が触れて、それらを取り上げ、天然の人の満足と栄光のために用いていました。これがコリント人への第一の手紙の内容です。

もっと多くの詳細がありますが、扱わないことにします。それに触れたのは、あることを示唆するためです。その示唆をあなたたちは理解したと私は信じています。その示唆とは、天然の人が霊の事柄に触れることがいかに危険なことであり、どれほど悲劇的な結果を招くのかということです。私たちは例のきわめて恐ろしい警告、コリントにいるクリスチャンへの警告を取り上げました。彼らは「再生された」人々で「聖徒」と呼ばれており、神へと分離されていましたが、例の恐ろしい警告を受けました。その警告の根拠として、荒野におけるイスラエルの悲劇が挙げられています。彼らは荒野で滅びました。そして使徒はこれを用いてコリント人たちに、天然のものと霊のものとの間で何らかの妥協をするなら、荒野で戦いに敗れるおそれがあると警告します。もしあなたがまだエジプトにいるなら、すなわち、地理的には言わばエジプトの外にいてもエジプトが霊的にあなたの中から出て行っていないなら、あなたは立場的にはコリント人たちと同じところにいるのです。

さて、これはみな消極面ですが、昨日の朝指摘したように、使徒が第一の手紙全般に関して与えた答え、コリント人が彼への手紙で提起した十の質問への答えは、モーセの律法のような規則や律法といった規約の形ではなく、諸々の原則という形で与えられました。そして、それらすべての原則はまとめて次の一つの原則になりました。すなわち、この中にキリストはどれくらいおられるのか?あなたたちの分裂の中にキリストはどれくらいおられるのか?「キリストは分けられたのか?」という原則です。

パウロは、分裂の問題全体に照準を定めて言いました、「キリストは分けられたのですか?あなたたちはパウロへとバプテスマされたのでしょうか?」。キリストは分裂の問題や他のすべての問題――それらについては今は繰り返しません――を解決する原則です。これらの困難を解決するために彼が与えた答えは、キリストに焦点を合わせることです。彼が彼らに与えた答えは、これはキリストをどれくらい供給しているのか?ということでした。これはキリストをどれくらい表現しているのでしょう?すべてはこの観点から試され、評価され、決着がつきます。これらに対する答えは原則によって与えられるのであり、その原則とはキリストです

「私は私たちの主であるイエスを見たのではないでしょうか?」

さて、これを過ぎたので、これらの手紙の残りのすべての部分と共に、積極面に移ることにします。コリント人への第一の手紙の一つか二つの句を見ていただきたいと思います。それは九章一節の一つの句にすぎませんが、「私は自由ではないでしょうか?私は使徒ではないでしょうか?私は私たちの主であるイエスを見たのではないでしょうか?」とあります。次の句を手に取って、一、二分の間、保持していただきたいと思います――「私は私たちの主であるイエスを見たのではないでしょうか?」というこの句です。

さて、第二コリント四章四節に移ります。「彼らの中で、この時代の神は、信じない者たちの思いをくらましてしまい、神のかたちであるキリストの栄光の福音の光を、彼らの上に照らさせないようにしています」。また六節「なぜなら、『暗闇の中から光が照りいでよ』と言われた神は、私たちの心の中を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光を与えてくださったからです」。

「私は私たちの主であるイエスを見たのではないでしょうか?」

「神は、私たちの心の中を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光を与えてくださったからです」。

さらにもう一つの句を加えたいと思います。今度はガラテヤ人への手紙一章十五節からです。この句はかなり大きな区分の中にありますが、一つの句だけ挙げたいと思います。「ところが、神が喜んで御子を私の中に啓示して、諸国民の間で彼を宣べ伝えるようにされた時」――私の中に御子を啓示することを神は喜ばれたのです。

「私は私たちの主であるイエスを見たのではないでしょうか?」

もちろん、これらの言葉の直接的背景は、使徒が自分の使徒職を立証して、「彼は十二使徒の一人ではないので、正当な使徒ではない」と言った者たちに返答したことです。これはその非難と関係していますが、これにはそれよりもっと大きな、もっと包括的な背景があります。それはこれらの他の節やそれと同様の多くの節に見られるとおりです。彼らに対する彼の返答は「私は私たちの主であるイエスを見たのではないでしょうか?」でした。「神は喜んで御子を私の中に啓示してくださいました」。神、最初に「光あれ」と言われた同じ神が、「私たちの心の中を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光を与えてくださった」のです。これが意味するのはイエス・キリストのパースンです。

私たちの主であるイエスを見ること

今朝専念するのは、このすべてを管理し、すべてを支配するイエス・キリストのビジョンです。これは、私たちと関係するきわめて重大な事柄の四つをもたらします――これはなんと包括的であり、革命的なのでしょう!この四つは重要です。第一に、神のエコノミーにおける人の地位と運命です。それは私たちの主であるイエスを見ることによってもたらされます。

使徒が「私たちの主」というこの最後の句を付け加えたことを私は嬉しく思います。また、私は指摘したいのですが、「イエス」という名前が使われるのは、それが彼の復活前の生活と関係する時だけです。イエスという名が単独で使われている場合、その背景は彼の復活前の生活であることがわかります。しかし、復活後、使徒たちは彼のことを決してたんに「イエス」とは呼びませんでした。常に、私たちの主、私たちの主イエス、主イエス・キリスト、私たちの主であるイエス・キリストと関連付けました。そうです、「イエス」に留意しましょう。しかし、「私たちの主」と彼の主権が、彼の復活と昇天の後、視野に入ってきました。ダマスコ路で「彼は『あなたはどなたですか、主よ?』と言」いました――「わたしはイエスです」。その方がイエスであることを彼は知りました。「主よ(『イエスよ、あなたは私に何をさせるおつもりですか?』ではありません)主よ、あなたは私に何をさせるおつもりですか?」。まさに革命の始まりであり、その革命は肉にしたがって知ることから御霊にしたがって知ることへの移行です。これはみな補足の説明です。先に進みましょう。

イエスを真に霊的に見ることで、四つの重大な事が見えてきます。

神のエコノミーにおける人の地位と運命
現経綸における務めの性質と原動力
現在及び後の代々の時代における教会の性質と目的
十字架につけられ、復活し、高く上げられたキリストの、この三重の文脈における絶大な意義

これらは四つの重大な点であり、「私は私たちの主であるイエスを見たのではないでしょうか?」――「神は喜んで御子を私の中に啓示してくださいました」の中にすべて含まれています。神が御子を私の中に啓示された時、これを私は見始めました。使徒が述べているのは「これを私は見始めました」ということです。彼はこのようにこれらを列挙していませんが、私はこれらの四つの重大な点を新約聖書の内容・本質として取り上げました。

ここから私たちは始めます。第一に、私たちの主であるイエスを見ることから、あるいは、神が御子を私たちの中に啓示して、神のエコノミーにおける人の地位と運命を照らし出し、明らかにされることから始めます。ここで私は言わねばなりません。(それにより私は論争の舞台に置かれるかもしれませんが)使徒パウロがヘブル人への手紙の執筆に直接関与していたと私は堅く信じています。彼がそれを実際に書いたにせよ口述したにせよ、少なくとも、ヘブル人への手紙の執筆に彼は明確かつ直接的な影響をかなり与えたことは確かです。私が述べようとしていることは、そこに記されていること、それから発していることが、おわかりいただけるでしょう。

さて、パウロは、このコリント人への第一の手紙でも、人をその最初から、その開始から取り上げています。十五章に「最初の人、アダムは」とあります。それは人と共に始まります。人、人類の始まりにまで遡っていることがわかります。そして、彼は二つの人性の戦場にある人類を辿って行き、ついに栄化された人の地点に達します。この章はなんと素晴らしいのでしょう。私はこの章を何回も離れて立って見て、「どうやって死すべき人がこのようなことを知ったのだろう」と自問しました。その答えは、彼がイエス・キリストを見たこと以外にありえません。唯一の答えは「キリストの中にある一人の新しい人」です。

キリストの中にある一人の新しい人

「地上の体と天上の体があります。地的な体と天的な体があります。私たちは地的なかたちを帯びているのと同じように、天的なかたちをも帯びるようになります」。ここでパウロはこの天的なからだ、天の肉体、栄化された人間の特徴を描写しています。これは神のエコノミーにおける人の運命の驚くべき啓示です。

ですから、パウロはアダムにある人をまず取り上げて、次に十字架によってアダムにあるこの人類を打ち、拒絶し、退け、脇にやって、新しい人すなわち「最後のアダム」から始めます。「もしだれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です」――古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました。人の歴史がすべてこの手紙で網羅されています。つまり、まさに神の御心における人の始まりから、最初のアダムの創造における人の始まり、この手紙における人の拒絶、そして、新しい人であるキリストにあって創造された人に至るまでです。

ああ、栄光の中にあるこの人はなんという人でしょう。この幕屋の中で私たちはうめきます!しかし、このうめきは何のためでしょう?ああ、私が創造された目的のため、私に対する神の御旨のためです。この幕屋の中で私たちは待ち望みつつうめきます。「子たる身分、すなわち、私たちの体の贖いを、熱心に待ち望んでいます」。私たちの新しい人を着ることを熱心に待ち望んでいます。「この朽ちるものが朽ちないものを着る時」。ああ、あなたはこれを求めてうめかないでしょうか?朽ちるもの、この死すべきものは、永遠に生きる「不死」を着ます。さて、いったいパウロはこれをみなどうやって得たのでしょう?「私は私たちの主であるイエスを見たのではないでしょうか?」「神は喜んで御子を私の中に啓示してくださいました」。

パウロは言いました、「神はご自身の神聖な命令を私の中に繰り返してくださいました。混沌と暗闇の中にある全世界に対して神が『光あれ』と仰せられると――『光が生』じました。神はこれを私の中に行ってくださいました。神はこの暗くされた人性の中で『光あれ』と繰り返し仰せられました。そして神がそう仰せられた時、私は――この光の中で――御子を見、また御子の中に人類に対する神の御旨を見たのです」――神のエコノミーにおける人の運命を見たのです。

これがみな十五章の中にあります。そしてパウロはこの見聞に基づいて、来るべき世界はこの人、この人性に完全に服することになる、と私たちに告げます。前に述べたように、これはヘブル二章です。「あなたは、あなたの御手のわざを支配させるために、人を造られました。あなたは、あなたのエコノミーと御旨により、万物を彼の足下に置かれました」。しかし、私たちが見るかぎり、これは古い人類には言えません。それは信用をなくし、失われ、その王国を失っています。

しかし、私たちはイエスを見ています。この新しい人類を代表する人、包括的な人、この人類の最後のアダムであるイエスを見ています。栄光と誉れの冠を受けた彼を見ています。これが神の御旨における人の運命です。これがパウロが御霊によりここで述べていることです。

神は得なければならないし、得ることになる!

パウロはコリント人へのこれらの手紙の中で、また少なくとも彼の影響を受けているヘブル人への手紙の中で、人に対する神の強烈な関心と、歴史全体に及ぶ人に対する神の無限の忍耐と根気と労苦を私たちに示します。神は、人が後戻りできない点を超えないかぎり、決して、決して、人を一掃されませんでした。その点を超えたとき、人は「否、否」と言い、最終的に「否」と言いました――これがノアの時代でした。ノアは義の宣教者であり、それが彼らに及ぼした効果は「否」でした。そこで神は言われました、「わたしの前ですべての肉が終わるときが来た。なぜなら、地は彼らによって暴虐に満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地と共に滅ぼす」。不義の杯が満ち溢れるまで、神はこのようなことを決して何も行われませんでした。人は啓示された神の御旨を受け入れない決意を固めていたので、何の希望もありませんでした。

他方、神の無限の労苦と忍耐と根気を見てください。ああ、神の主権はなんと素晴らしいのでしょう。神がユダヤ民族を選ばれたのは、彼らが完全な忍耐を神に強いることになっていたからだと私は思います。そして、確かにそうなりました。神の主権は素晴らしいです。時々私は思うのですが、神がユダヤ民族を選ばれたのは、ご自身が持っているあわれみを示すためにほかなりません。さて、これにより私たちはコリント人への第一の手紙の別の箇所に導かれます。「神は愚かな者(中略)弱い者(中略)卑しい者(中略)無に等しい者を選ばれました」。人類に対するなんという神の側の忍耐、辛抱、労苦、根気を使徒は示しているのかがわかります。それというのも、神はこのような被造物を大事にしてこられたからです。もし神が最後にこのような人類を得ないなら、神は完全に敗北したことになります。彼は神、すなわち聖書の神ではないことになります。彼は得なければなりません――御心にかなう人類を彼は得なければなりませんし、得ることになるでしょう。

さらに、使徒はここで御霊によって次のことを示します。すなわち、ご自身の子供たちに対する神の取り扱いはみな(彼ご自身の子供たち、彼ご自身の家族という用語は、家庭を意味する用語です)彼ご自身の子供たちと家族に対する神のあらゆる取り扱いの目的は――栄光へと移すこと、多くの子らを栄光に導くこと、多くの子らを栄光へ至らせることなのです。しかし、次の御言葉と関連付けなければなりません。「わが子よ、主の懲らしめを侮ってはならない。また、彼に叱責されるとき弱り果ててはならない。主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子を叱責されるからだ」。ヘブル十二章は神の子供たち、神の家族に対する彼の取り扱いに関する素晴らしい章であり、「懲らしめ(子供の訓練)がないことは今は喜ばしく思われるが、悲惨なことである」ことを示しています――今、悲惨なのです。

あなたも私もこれについて幾らか知っています。しかし、「後になると」。「後になると」とあります。この「後になると」に向かって、神は私たちを取り扱う働きをしておられます。この取り扱いがいかに厳しくてもです。後で再びこれについて見ることにします。今朝、私たちがそこまで到達するかどうかわかりませんが、ここに一つの原則があります。ああ!!私たちが辛い時をすごしている時、神は私たちに反対しておられるわけではありません。「神はお前に反対しているのだ」と悪魔は言います。辛い時、小悪鬼があなたの耳元で神を訴え、中傷し、あなたの思いをあの問いで捻じ曲げようとします。あなたを再びエデンの園に戻らせて、「神はそう言われたのですか?」と問いかけます。あなたを再び古いアダムの立場に戻らせようとします。ああ、兄弟たち、このような経験を通るよりも、これについて口で述べる方が楽です。あなたたちも、このような経験を通るよりも、これについて聞く方が楽です。しかし、「後になると」があるのです。「後になると」どうなるのでしょう?第一コリント十五章の終わりです。ああ、そうです、これはすべて、「しかし神に感謝します。神は私たちの主イエス・キリストを通して、私たちに勝利を与えてくださいます」という結果になります。私たちに対する彼の取り扱いはみな、この偉大な運命によって支配されています。そのために彼は私たちを造って召されたのです。

子たる身分に定められた

さて、使徒が示すこれはすべて、これはすべて栄光の内におられる完成された人によって示されています。そして、これはみな、人類に対する神の究極的御旨として彼によって示されているだけでなく、栄光の内におられるこの人によって確保されています。それは私たちに保証されています。そしてこの文脈で、使徒はギリシャからの一つの絵図を私たちに与えます。その絵図は、私たちの最終的贖いの「保証」として聖霊が私たちに与えられていることに関するものです。それがどんな絵図かご存じでしょうか?鉄道の駅の倉庫で、何かの品物、何かの製品を見たとしましょう。その用途や行先は決まっており、その上に「見本」という印が押されています。子たる身分に定められた「見本」です。それは保証、初穂、預言ですが、さらに続くものがあります。しかも、さらに続くものがたくさんあるのです。これは始まりにすぎません。来るべきものの一片にすぎません。使徒はこの比喩を用いています。「彼は将来の『見本』、保証、預言として、御霊を私たちに与えてくださいました」。それは保証されています。それはみな、私たちに臨むべく、彼にあって保証されています。そして、彼は私たちに御霊を送ってくださいました(聖霊についてこのように述べるのは不敬でしょうか?)――彼は見本なる方を送ってくださったのです。もしあなたや私が真に御霊を持っているなら、私たちは何を得ているのでしょう?――私たちの嗣業の保証です。それは何でしょう?――私たちはこの証し、この保証、私たちを保持して何かへと、ある運命へと至らせるこの力の働きを持っています。この保持のゆえに神に感謝します。使徒ペテロの言葉を引用しましょう、「終わりの時に啓示される救いへと至るよう、私たちは信仰を通して神の力によって保たれています」。

私たちは御力によって保たれている

さて、保持されていなければ、今日、私たちはどこにいたでしょうか?私たちが実際に諦めた時、「これ以上進めません。もう終わりです」と実際に言った時、もし放っておかれていたなら、私たちは去っていたでしょう。さて、奇跡的なことに、私たちはそれに対する御霊の保証によって保たれて、ここにいます。なぜなら、それは私たちのためにキリストの中に確保されているからです。ですから、使徒は言います、「あなたの確信を投げ捨ててはいけません、投げ捨ててはなりません。それには大きな報いがあるからです。神のみこころを行った後、あなたには忍耐が必要です……」。兄弟たち、これにはとても多くの内容があります。使徒が示しているように、これはみな、天におられる完成されたこの人にあって表されており、さらに、それは彼処の天で彼の中に確保されています。それは彼処の天にあって、この世の外にあり、どんな力も及ばず、安全であることを、私は嬉しく思います。

(1)すべての総計―御子

さて、使徒が次に示しているのは、イエス・キリストのこの世界への降誕は次のとおりであったということです。まず第一に、それは神がご自身を啓示された昔のすべての形式や方法の総計でした。「神は、様々な時に色々な箇所で預言者たちに語られました」。預言者たちによって、多くの面を持つ断片によって語られました。ここに一つの節があり、あそこに一つの節があります。この預言者を通して少し語られ、あの預言者を通して少し語られます。皆が小片、かけら、断片を語ります。彼は今やそれらすべてをまとめ、総結集し、ひとまとめにされました。御子が受肉してこの世に来臨された時、それはすべてを総括するものでした。それがこの箇所が示していることです!イエスを見るとき、神がご自身を啓示された昔のすべての方法や道や時期の総計を見ます。それはイエス・キリストにおける神の完全かつ最終的な啓示です。

これをこの若者、タルソのサウロは見ました。彼には旧約聖書の背景知識がありました(ですから、聖書がなくてもすべて引用できました)。この背景知識と共に、彼はイエス・キリスト、復活・栄化された主を見ました。そして、彼の聖書は新しい書になりました。この御方の中にすべてが結集していること、すべてが総括されていることをパウロは見ました。「私は私たちの主であるイエス・キリストを見たのではないでしょうか。私が彼を見た時、私は見たのです」。もはや断片はありません。今や完全です。もはや小片やかけらはありません。一つの偉大な輝かしい総体だけです。もはや「昔」も「今」も「後」もありません。今や、神がご自身を啓示された昔の方法の総計は、すべて永遠に彼の中にあります。

(2)御子―旧経綸の終わりと全く新しい経綸の導入

次にパウロが見たものは、一ユダヤ人にとって、教育を受けた一ユダヤ人にとって、とても多くのことを意味しました。タルソのサウロのように徹底的教育を受けた者にとっては特にそうでした。私たちの主であるイエスは神がご自身を啓示された昔のすべての方法の総計であるだけでなく、経綸全体、モーセの経綸全体の成就でもあることを彼は見ました。このヘブル人への手紙にパウロが関与していたことは確かであると述べたのは、これが理由です。なぜなら、この手紙ではモーセの経綸はすっかり過ぎ去っているからです。ではこの手紙の目的は何でしょう?モーセの経綸からキリストへの移行です。は大祭司です。いけにえです。祭壇です。宮です。はあの経綸が型や絵図で示した一切のものですが、その成就でもあります。彼はその終わりであり、全く新しい経綸の導入です。それは天上にある天的なものであり、「手で造られた」ものではありません。ああ、この句は明確です。「この被造物からではありません」――経綸全体の成就です。兄弟たちよ、キリスト教界はパウロが見たものを見ているでしょうか?キリスト教界はこれをもう把握しているでしょうか?それは依然として旧経綸の祭服、衣、儀式、外面的事柄にしがみついているのではないでしょうか?これはすべて終わっているのであり、今や私たちの衣は彼の義の衣であること、そしてそれ以外のものは神の御前に出られないことを、それは見ることに失敗したのではないでしょうか。

ペテロはこれを見ました。というのは、一ペテロ三・三~四で彼は親愛なる姉妹たちに向かって、「あなたたちの飾りは、髪を編んだり、宝石を身につけたりすることではありません」と述べているからです。「飾り」は原語では「その世界(コスモス)」です――「その世界」が「飾り」という語です。「そのコスモス、その世界」、その領域・体系は、このように自分の見栄えを良くすることではありません。ああ、私は不注意さや、だらしなさや、そのような類のことに決して賛同しているわけではありません。問題は、あなたがどんな「世界」に住んでいるのか、ということです――あなたは他の人から見てどう見えているでしょう、これらの外面的事柄によってあなたはどんな印象を与えているでしょうか?「そうではない」とペテロは言います。聖徒らしい婦人たちの世界はそのようなものではありません。それは彼らの世界ではありません。それは彼らのコスモス、彼らの体系ではありません。彼らの「飾り」は「柔和で穏やかな霊という飾り」です。ですから、外面的な一つの体系が終わり、今や全く心の中の御霊の体系であることがわかります。天的なものが天的な民にふさわしいのです。

さて、この原則を見た人々もいます。彼らはある種の衣服を着ることでこれを有効化しようとして、その種の衣服を着る分派になりました。彼らがこの原則を見たのは結構なことですが、このような方法で原則を満たすことはできません。御霊が現れてご自身を表現されることが必要です。一つのエコノミーが終わって成就され、次に全く新しい体制に移行しました。それは、この新しい人性のための神の模範として、栄光のうちに完成・任命されたこの人の体制です。「キリストにしたがって」という句が頻繁に使われています。「キリストにしたがっている」か「キリストにしたがっていないか」が問題です。天で任命されたこの完成された人・人性――それに向かって彼は働いておられます――にしたがっているかどうかが、試金石であり、問題です。

彼は働いておられます。そしてここで私たちはコリント人への手紙、特に第一の手紙における聖霊の地位に戻ることにします。この手紙を読み通すと、聖霊の完全かつ究極的な最高の目的は何でしょう?――「たとえ私が人や御使いの言葉で話したとしても(中略)たとえ私が自分の持ち物をすべて貧しい人に与えたとしても、たとえ私が自分の体を焼かれるために与えたとしても、もし愛がなければ、私は無です」。聖霊の最高の御業は、ものとしての愛ではなく、イエス・キリストの御性格です。愛をものとして身に着けることは可能ですが、それは見せかけ、言動の一つの流儀かもしれません。愛する人よ、人々があなたのもとに来て、あなたの肩に手を置いたとしても、陰では裏切ってあなたの間違い等を指摘するかもしれません。「偽りのない愛」でなければならないと使徒は言います。「偽りのない、偽善的でない、兄弟愛」―これがイエス・キリストの霊です。

パウロが彼の手紙を書き終えた時、彼は「イエス・キリストの恵み……」と述べましたが、これは驚くべきことではないでしょうか(この祝福はあまりにも一般的になりすぎて、コリントの状況全体に適用・関連付けられたその文脈的意義の多くを失ってしまいました)。私たちの主イエス・キリストの恵みとは何でしょう?「……彼は富んでおられたのに、あなたたちのために貧しくなられました。それは私たちが彼の貧しさを通して富むようになるためです」。自己を空しくすること、これが主イエスの恵みです。パウロはこれを後にピリピ人に述べています。

この祝福は何でしょう?「主イエス・キリストの恵み」です。常にイエス・キリストです。「神の愛」。これはどうやって知るのでしょう?ただイエス・キリストによります。他のどんな方法によっても神の愛を知ることはできません。「聖霊の交わり」―これは交わり、一つ(the unity)であり、諸々の分裂やあの分裂的精神(私はパウロにつく、アポロにつく、ペテロにつく等々)を取り除きます。

「私は私たちの主であるイエスを見たのではないでしょうか?」
「神は喜んで御子を私の中に啓示してくださいました」

今朝、今は時間の都合で、次の偉大な点である、イエスを見ることはどのように現経綸におけるすべての務めの源であり性格であるのか、に取りかかることはできません。しかし、今朝私たちが聞いたことを静かに主の御前に保ちましょう。なぜなら、それは私たちへの課題だからです。ここにいる私たちは、「私は私たちの主であるイエスを見たのではないでしょうか?」「神は喜んで御子を私の中に啓示してくださいました」と、それが及ぼす効力、つまり、変革と変容と移行に照らして、どれほど言えるでしょう。それが起きた時、驚いたことに、なんと多くのものが去って行ったことでしょう。それは去って行きましたが、なんと多くのものが到来したことでしょう。なんという違いでしょう!私はこの区分に「すべてを管理しすべてを支配するビジョン――私たちの主であるイエスを見ること」という題を付けました。

すべてを管理しすべてを支配するビジョン――私たちの主であるイエスを見ること

行って、「これを私に行ってください」と彼に求めなさい。これだけは言わせてください。これは一度ですべて完了するものではありません。ああ、そうではありません、私たちの中には、長い年月を経て、今日、私たちの主であるイエスの意義と意味を、これまでの人生で見たことのないほど見ている人もいます。そうでなければなりません、神に感謝すべきことに、そうでなければなりません。最後まで私たちには常に余白、追加、余剰があります。ある兄弟は、「どの務めも、だれもその説教を終わらせられないほど、溢れ流れていなければならない」と言いましたが、彼が言わんとしたことはおわかりでしょう。あなたは、自分の時間の最後に至る時、自分の時間が許すよりも遥かに多くのものを得ているでしょう。主イエスに関しては、そうでなければなりません。ああ、これまで述べてきたことや、今日述べられることよりも、なんと多くのものを私は見ていることでしょう。彼はとても巨大で、とても満ちていて、とても広大であることを、私は見ています。私たちがここにいるのは、親愛なる友よ、キリストの偉大さについて一つの主題として話すためではなく、その表現となるためです!――これは私たちを打ちのめします。私たちは(もし彼が来臨されなければ)墓に葬られる時、「ああ、自分たちはまだ取りかかってすらいない」と感じるかもしれません。しかし、そうでなければなりません。はとても偉大で、とても素晴らしいです。もしそう判断していなかったのなら、そう判断してください。しかし、もしそう判断してきたのであり、私たちの目、私たちの心の目を照らされてきたのなら、私たちは彼の何かを見始めているのです。思い出してください、これに関して何の膠着状態もあってはなりません。コリントのように成長の停滞があってはなりません。幼児期が長引きすぎてはなりません。たしかに、赤ん坊の時に赤ん坊でいるのはかまいません。しかし、成熟期なのに赤ん坊でいるのは恐ろしいことです。

コリントではそのような状況でした。成長は抑えられ、妨げられました。何のためでしょう?彼らは主イエスを見ることに実際に失敗したのです。彼らは教えを聞きました。使徒が話していることを知っていました。しかし、使徒は「私たちの心の目が照らされ」という点に再び戻らなければなりません。この第二の手紙で「覆いを取り除かれて」という点に再び戻らなければなりません。そして、私たちはみな覆いのない顔で別の御顔を見ます。「イエス・キリストの御顔にある神の栄光」を見ます。そして、「栄光から栄光へと、同じかたちへと変えられていきます」。

ですから、主よ、この真理の提示により、私たちはこう言うしかありません、「あなたは彼方まで行かれます。私たちを彼方に連れて行ってください。そして、地上での全生活を、イエス・キリストの覆いのない御顔――その中の栄光――の益に浴させてください。私たちの主であるイエスを見たことの益に浴させてください。おお、私たち一人一人にこれを実現させてください。大いに実現させてください。素晴らしく実現させてください。ますます実現させてください。ついには私たちが最終的に彼の御顔を見るようになるまで。これを御名の中で求めます、アーメン」。