第五章 務めの性質と原動力及び教会の性質と目的

T. オースチン-スパークス

「さらにあなたご自身を」という言葉以外に何を私たちは述べられるでしょうか、また、それに優る何を述べられるでしょうか。おお、時々刻々、あなたの栄光をさらに示してください。おお、私の神また主よ、あなたのあらゆる恵みの中でさらにあなたご自身を、さらにあなたの愛と真理を示してください。受肉した御言葉よ、この時、この祈りに応えてください。主イエスの御名の中で求めます、アーメン。

暴かれ、信用を失い、裁かれて、脇にやられた一つの人類から、試され、完成され、私たちの主イエス・キリストにあって栄光のうちに任命された別の人類への、この大いなる移行について考えるにあたって、とうとう私たちは共に過ごすこの時の終わりの時間を迎えました。私たちは、この移行が明確かつ大いに実際的なものになる光の中で、すべてを支配するビジョンに至りました。また、昨日見たように、使徒パウロにとって、このビジョン、彼が言うこの「天のビジョン」は彼の全生涯の務めの秘訣であり鍵でしたが、彼が復活して栄化された主イエスを見た時、そのビジョンの中で四つの点が使徒パウロに明らかになりました。この四つの点とは、すでに述べたように、第一に、神のエコノミーにおける人の地位と運命です。第二に、この経綸における務めの性質と原動力です。第三に、今と後の代々の時代における、教会の性質と目的です。そして第四に、十字架につけられ、復活し、高く上げられた、イエス・キリストの途方もない意義であり、これはすべてこれら三つの点の中に含まれています。

さて昨日、私たちはこの四つの最初の点に専念しました。今朝、私たちは二番目、すなわち、この経綸における務めの性質と原動力に進むことにします。四番目の最後まで辿り着くかどうかは主次第です。

使徒パウロは言いました、「神は喜んで御子を私の中に啓示してくださいました。それは、私が諸国民の間で彼を宣べ伝えるためです」。今、一時の間とどまって、一つの問いを発してそれに答えなければなりません。その問いとは、「務めとは何を意味するのか?」という問いです。おそらく、この務めの問題について、私たちは見方を改める必要があるでしょう。なぜなら、「務め」というこの言葉が発せられるやいなや人々の心に自動的に思い浮かぶものといえば、手に聖書を持って立って聖書から教える人のことだったり、救われていない人に福音を宣べ伝える人のことだったり、聖書と共に閉じこもって、それを学んで注釈を付け、公衆の前に出て来て自分の聖書研究の結果を与える人のことだったりするからです。こうしたことが常に「務め」という語句と関係しています。私がこの経綸における務めについて述べる時、あなたたちの中には、手に聖書を持って講壇の上にいる人や、群れの中で教えたり、説教したりする人のことを、すぐに思い浮かべる人もいるでしょう。この朝が過ぎる前に、主はあなたたちのためにこの観念をすっかり改めてくださる、と私は信じています。

この務めの問題に関して、新約聖書は二つのことを述べています。新約聖書はエペソ書の中で、教会における務めのための特別な個人的賜物について確かに述べています。昇天された主は「ある人々を使徒、ある人々を預言者、ある人々を伝道者、そしてある人々を牧者また教師として与え」られました。これらは教会の中の特別な個人的務めの賜物です。そして、どうかこの「中の(in)」という言葉を丸で囲んでください。教会の中にはこれらの個人的な務めの賜物があります。しかし、新約聖書は教会自体の務めに関してさらに多くのことを述べています。御言葉は、教会の中のこれらの個人的賜物は教会がその務めを果たすことを可能にするためである、と述べています――教会がその務めを果たすため、キリストの奉仕者となるためなのです。

さて、あなたは、「彼はある人々を使徒、ある人々を預言者、ある人々を伝道者、そしてある人々を牧者また教師として与えられました。それは聖徒たちを成就してその務めの働きへと至らせるためです」という節を覚えておられるでしょう。この文章に何の区切りも入れてはなりません。「(教会を)成就して(教会を『完全にして』)その務めの働きへと至らせるためです」。私の聞いたところでは、キャンベル・モルガン博士は、まさにこの節に関して、「この務めを果たしていない教会の奉仕者を神が助けてくださいますように……」とかつて述べたそうです。そして、この二番目の点、すなわち教会自体の務めに、今朝は専念することにします。

使徒、預言者、伝道者、牧者、教師、これらの特別な奉仕者について話すつもりはありません。そうではなく、教会の務めについて話すことにします。そして、私たちが今週おもに専念してきたこの二つの手紙(コリント人への二つの手紙)は、非常に明確かつ強調的に、教会の務めを視野に入れています。使徒が述べていることはみな、コリントにおける神の務めの遂行を背景としています。そして、これらの手紙は、この経綸全体を貫いて私たちの時代へと至る伝達手段なので、聖霊が教会の務めについて教会に語っておられるものなのです。

コリント人への第一の手紙で、使徒は、教会のこの務めを挫折させたり損なったりする、あのようなあらゆる事柄を扱っています。第二の手紙で、彼は「私たちはこの務めを持っているのですから」という言葉を用いて、この務めの問題をより明確かつ強調的に打ち出しています。使徒は一つの教会、地方教会に宛てて書いていることを思い出してください。使徒は自分の務めについて述べているだけではありません。それについて彼は多くのことを述べていますが、ここでは教会の務めについて述べています。「私たち」という言葉はコリント教会のことです。「私たちはこの務めを持っています」。それに関連する句を私たちは知っています。すなわち、「私たちはこの宝をもろい土の器の中に持っています」です――これは使徒たちだけでしょうか?いいえ、この「私たち」は団体的であり、私たち全員です。やがてこの点に戻ることにします。なぜなら、今朝、私たちが真に関心を寄せているのは、信者全員の務め、つまり教会の務めだからです。

務めの性質と原動力
第一部

さて、これを述べたので、先に進んで務めの性質と原動力について考えることにします。もう一度この使徒、これらの手紙を書いている特定の使徒について述べるにあたって、パウロは務めの代表者・模範であることを思い出しましょう。これらの手紙全体を通して、彼は自分のことをそう述べています。そして、務めに関して彼に言えたことは、彼が言うには、教会にも言えなければなりません。彼はこのような言い方はしませんでしたが、彼がこう述べているのは大いに明らかです、「私の務めの源、性質、力について言えることは、すべての信者や教会にも言えなければなりません」。彼は奉仕者の代表であって、例外ではありません。彼には他のすべての人を上回る度量があるかもしれませんが、問題は彼の代表者としての性格です。主はこの人によって、務めとは何か、務めはどのように生み出されるのか、務めの原則と法則は何か、そして包括的に言って、務めの背景は何か、をここで例示しておられるのです。あなたはこの使徒を、たしかに偉大な奉仕者ではあるのですが、原理的には、代表的な奉仕者として見なければなりません。

パウロは始めるにあたって、直ちにダマスコ路に、彼のクリスチャン生活と務めの始まりにまで戻ります。すべてがここで始まったのです。なぜなら、覚えておられるでしょうが、そのとき、まさにこの開始時に、主がダマスコへの途上にある彼に会われた時に、主は「わたしはあなたを彼らに遣わす」(使徒二六・十七)という任務を彼にお与えになったからです。パウロは自分の回心に、キリストとの合一の中にある自分の生活の始まりにまで戻って、こう述べます、「生活、使命、務めについて言うと、私が彼を諸国民の間で宣べ伝えるために、神は私の中に御子を啓示してくださいました」と。ここにすべての源があります!主イエスのこのビジョンこそ、務めの性質であり、務めの源であり、すべての真の務め――つまり、この経綸におけるすべての真の務め――の原動力です。この経綸はイエス・キリストを啓示する神の光の内なる輝きから発して、進んで行きます。「神は喜んで御子を私の中に啓示してくださいました」。これは私たちに秘訣を与えます。

タルソのサウロはダマスコへの途上にあります。そして、その途上、彼は天からの光を見ました。それは客観的な光であり、彼を外から盲目にしました。その光は栄光を受けた主イエスであることが判明しました。そしてパウロは、このガラテヤ人への節の中で、自分は客観的にあの光とあの栄光を受けた人を見ただけでなく、自分の内側にも何かが起きたのである、と述べています。彼の内側にです!彼は言いました、「私はナザレのイエスを迫害する途上にあります。この人を迫害することが私の人生の唯一の情熱になりました――ナザレのイエス、あの詐欺師(と私は信じています)、あの悪人、あの偽り者――これが彼なのでしょうか?彼は私たちの間にいて、エルサレムやガリラヤの通りを歩き、この国を行き来しました。その同じがいま私に現われました。この同じであって、別のではありません――外見や見聞に関するかぎり、同じです。これは何を意味するのでしょう?」

あの内なる輝きはパウロの人生で圧倒的意義を持つものになりました。それで、彼は砂漠に行って暮らし、これについて熟考しました。彼の上に輝いたあの光は彼の中に輝いていました。そして、彼はこの方の意義を見ていました。この方は誰でしょう?――神の御子です!そうです、しかし彼はナザレのイエス、栄光を受けた人を見ていました――人に対する神の御旨の究極に至ったこの人を見ていました。パウロは内側で考えました、「私は彼を一人の人として知っていました。肉身の彼を見たことがあるかどうかはともかく、私は彼を知っていました――人々の中の一人としての彼については何でも知っていました。人の目では彼と他の人々とを区別できませんでした。ただあそこでだけ、彼はどこか違っていました。しかし、彼は人の中のであり、これはあの同じ人です――変容した人なのです」。これについて彼はあの内なる啓示の光の中で考えなければなりませんでした。

ここにいるギリシャ語を知っている人々は、「神は喜んで御子を私の中に啓示してくださいました」という御言葉が主観的・客観的であることを知っています。パウロは「私は客観的に見ましたが、主権的にも見たのです」と言うことができました。そして、これが起きないかぎり、親愛なる友人たちよ、私たちは効果的務めの道の中にはありません。今週あなたに話されたことによってあなたは見ているかもしれませんが、あなたはある種の客観的な形で見ているのかもしれません。すべてを客観的に見ているのかもしれません。それはとても素晴らしいことです。しかし、客観面から主観面に移って、「ああ、私はこれまで決してそれをそのように見たことはありませんでした。彼をそのように見たことは決してありませんでした」と言えるようになったでしょうか。使徒はこのように「客観的・主観的に」見るようになりました。そして、それが彼のクリスチャン生活と彼の務めの両方の出発点でした。そして、それらは共に進みました。

兄弟たち、あなたは一信者として、一クリスチャンとして、新生した日から務めのために構成されていることをご存じでしょうか?この新しい人類の中に再生された瞬間に奉仕者に任命されたことをご存じでしょうか?だれかが務めに自分を任命する日をあなたは待っているのでしょうか。ああ、そうではありません、神はあなたを最初から務めへと召しておられます。これについて、これは創造の時に起きたことに対応している、とパウロは言いました。パウロは第二コリントの中で、務めに関するあの偉大な手紙の中で、「光あれ、光あれ」と言われた神は、この神聖な命令を霊的な形で私たちの心の中で繰り返して、「私たちの心を照らしてくださいました」と述べました――神は暗くされた人の心の中で「光あれ」と言われました……私たちの心を照らしてくださいました。目的は何でしょう?――「イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光を与えるため」です。これを前に聞いたことのある人、前に私がこれを述べるのを聞いたことのある人があなたたちの中にいると思いますが、少しのあいだ私がこの「栄光」という言葉に時間を費やしても、どうか我慢して付き合ってください。たしかに、タルソのサウロが見たのは彼にとって客観的な栄光でした。しかし、その栄光とは何でしょう?神の栄光とは何でしょう?

二回目の集会で、アブラハムに現われた神の栄光について私たちは聞きました。その神の栄光とは何でしょう?神の栄光とは、だれかに対して、あるいは何らかの状況に対して、彼が全く満足されることです。神が満足される時、何かが彼から放射されます。クリスチャン経験でこれを知るのは容易です。あなたが戦い、実際の戦いを抱えているとします。それを切り抜けて、主があなたを至らせようとしている地点にあなたが到達し、その戦いが終わって、あなたが神のみこころに全く応じたとしましょう。何が起きるでしょう?内側に大きな祝福の感覚が生じます。戦いは終わり、戦闘は終わります。内側に安息と平安と喜びがあります。さて、これが栄光です。なぜなら、それは、人類における神の全きみこころの究極的成就へと至る道だからです。その時、この栄光は普遍的になります。そうです、「イエス・キリストの御顔にある神の栄光」はまさに次のことを意味します。すなわち、主イエスは神の御性質を大いに満足させたので、彼は平安・安息・喜びを帯びておられるのです。彼は神の満足を帯びておられました。「わたしは常に彼を喜ばせることを行います」―これが栄光です。

栄光のことを、ただ客観的に輝いて燃え上がるもの、と思わないでください。むしろ、あなたたちの心を照らすもの、と思ってください。ああ、どう説明すればいいのでしょう?それはまさにこういうことです――すなわち、私たちは、主イエスに満足して、神の満足を満たす地点に、内的に達したのです。「大事なのは私がどのような者かではなく、あなたがどのような方かです――私の魂が真に安息できるのは、ただこれだけです。私の愛ではなく、あなたの愛です」。これが栄光です。パウロは言いました、「コリント人たちよ、神は私の心の中で、そしてあなたたちの心の中で、この新しい命令を実行してくださいました。彼が『光あれ』と仰せられると『光が生じ』たのです」。それは陸にも海にも決して存在しない光でした。「イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光」でした。

さて、これが務めの源です。では、務めとは何でしょう?務めという言葉で私たちは何を意味しているのでしょう?務めとは私たちの生活からイエス・キリストが輝き出ることです。集会に行く必要はありません。何らかの人工的・機械的手段を持つ必要はありません。あなたは自分の聖書を読んで、きわめて素晴らしい系統的で秩序だった聖書講解を与えるかもしれません。しかし問題は、それは務めなのか?ということです。

あなたはキリストを発しているでしょうか?
キリストを伝達しているでしょうか?
キリストがあなたの教えを通して伝わっているでしょうか?

人々はあなたの研究、あなたの書庫、あなたの注解、あなたの見解、あなたの翻訳ではなく、キリストを感じているでしょうか?しかし問題は、これは何に由来するのか、私たちはどこでそれを得たのか、どのようにしてそれを得たのか???ということです。

兄弟たち、聖書研究は悪いことだ、と私は述べているのではありません。私が言っているのは、一体それを通してキリストが現れたのか?!キリストが現れているのか?!ということです。あなたは奉仕者、説教者、有名な聖書教師かもしれませんが、それ止まりかもしれません。しかし問題は、自分は役職上そういう者なのか、それとも、キリストのつつましい一肢体なのか、ということです。公的賜物が全く何もなくても、人による任命が何もなくても、私はキリストを供給することができます。何らかの形でキリストを供給することができます。そして、これこそ務めです。最初から最後まで、これがあらゆる真の務めの源です。使徒はこう述べています、「それは私の中で始まり、私の中で進行しつつあります。あなたたち信者に私が述べるべきは、私が主イエスについて見ていること、つまり神の御子についての成長しつつある内なる啓示に尽きます」。

務めの成長は「苦難」―「慰め」による

さて、どのように務めは成長して前進するのか?という問題が生じます。これらの手紙に、特にコリント人への第二の手紙に、その答えがあります。そして、それは務めの手段、務めの成長というこの問題に関して、私たちの奥深くに強く触れることになると思います。これはどのようにそうなるのでしょう?もっと多くの学び、もっと多くの本によってでしょうか?ああ、違います、親愛なる友よ、それは成長・継続する務めの道ではありません。務めは絶えず成長しなければなりません、絶えず深まって拡大しなければなりません。しかし、どのようにしてでしょう?あなたのコリント人への第二の手紙をもう一度読んでください。そうすれば間もなく、この手紙を読み始めてすぐ、何度も繰り返されている言葉に出くわします。その言葉とは何でしょう?「苦難」と「慰め」です。

この第二の手紙の冒頭のこれらの言葉に下線を引いてください。そしてその文脈の中で使徒は彼自身のたいへんな経験を示します。「何が私に降りかかったのか、あなたたちに知っていただきたいと思います――大きな死が降りかかったのです。(それは死であるという判決を彼は受けました。)しかし、私たちは死の判決を受けました。私たちは生きる望みを失いました。私たちは耐えられないほど圧迫されました」。その後、この手紙全体にわたって、使徒は絶えず、苦難、苦難、苦難という音色を響かせます。

「私たちはこの宝を持っています」
それはこの務めであり、
私たちの心の中に啓示される
イエス・キリストの啓示です。

「私たちはそれを器の中に持っています」。私は逐語訳の「もろい土くれ」が好きです。壊れて粉々になるおそれがあるのです。「耐えられないほど圧迫されて、絶望するほどでした。私たちは生きる望みを失いました」。そして次に、彼は私たちに彼の苦難の一覧を与えます。

もしあなたが務めについて考えているなら、座って考えてみるべきです。パウロ自身が出会い、遭遇し、中心から周辺に至るまでくぐり抜けたことをすべて考えなければなりません。その中心に何が見つかるでしょう?――不忠信、不忠実、不誠実な兄弟たちです。そして、その中心から外に向かってもっと大きな輪に移って行くと、人々が彼についてどう言っていたのかに関する多くの暗示や記述があります。「彼は真の使徒ではありませんでした。彼は十二使徒の一人ではありません。彼は復活後のイエスを一度も見たことはありません。彼は真の使徒ではありません。詐欺師です。偽り者です。彼はうろついてたかり、クリスチャンたちから金をまきあげているのです」。これらのことが示唆されています。その一覧全体があります。これが暗示されています。これがそこに示されています。

パウロは続けて、苦難に関して「私は彼ら全員よりも苦難を受けてきました」と述べます。そして次に彼は、自分が何回牢獄にいたのか、何回むち打ちを受けたのか、何回海で難破して、一昼夜海の中にいたのか、飢え、裸、危険な目に何回遭ったのかを告げます――海で、陸で、盗賊たちや仲間のクリスチャンたちから危険な目に遭ったのです。彼が第二コリントのこれらの章で与えているのは恐ろしい二重目録です。それらをもう一度読んでください。この手紙の冒頭で次の言葉が重大な位置を占めているのも不思議ではありません――「キリストの苦難が私たちに溢れていますが、それは慰めもまた溢れるためです」。これが務めです。それは、おそらくキリストがこれまで得られた中で最も偉大な奉仕者である、このパウロのような人ですら、「私は絶望しました。生きる望みを失いました、私は耐えられないほど圧迫されました」と言うような時期のことでした。このようにして務めは成長するのです。

もし主に向かって「主よ、私の人生をキリストの務めとしてください」と本気で言うつもりがあるなら、これが務めの成長の方法です。これがそれが前進する方法です。これが効果的な奉仕者になる方法です。これが務めが前進し、深まり、さらに多くの実を結ぶ方法です。私を信じてください、親愛なる友人たちよ、この使徒が務めの代表者である以上、そして、私たちは神の僕として霊的に実を結ぶべきである以上――実際にイエス・キリストの真の奉仕者である以上、私たちの生活の背後に隠れた苦難、御手の下での神との隠れた歴史が生じるでしょう。

もしあなたが、キリストを供給する、真のキリストの奉仕者になるつもりなら、彼はあなたをご自身と共に何らかのどん底の経験の中に連れて行かれるでしょう。そこで、他の人々に対して大きな価値がある何かをあなたは発見します。なぜなら、十字架につけられて苦しんでいる神の僕こそ、真に豊かに実を結ぶ者だからです。そのような人について、「この人は彼の書庫や、彼の本から話しているのではありません。この人は自分が話していることを知っています――彼はそこにいたのです。その中にいたのです。これは彼の魂の苦しみから発しているのです」とあなたは言うことができます。務めが成長する方法に関する光の中で、もう一度第二コリントを読んでください。ああ、私はこれらの事柄をあなたたちに話したり述べたりしていますが、どれほど私が息を殺しているのかはただ神だけがご存じです。なぜなら、主が何かを行われるとき、それは厳しい道によることを私たちはよく知っているからです。キリストの「慰め」を知ることができるのは、キリストの「苦しみ」によってです。神の民として、私たちは何を望むのでしょう?情報でしょうか、それとも、慰めでしょうか?

これに対するあなたの答えを私は知っています。しかし、これは宇宙全体にわたる恐るべきものであることを、私はあなたに注意していただきたいと思います。なぜなら、務めは私たちがその間で活動する人々に限られていないからです。この種の務めは「宇宙的務め」です。私は何を言わんとしているのでしょう?私が言わんとしているのは、この世の神は信じない人々の思いをくらましてきた、ということです。それは予防的措置、戦略的措置としてであり、神の栄光の知識の光が彼らを照らさないようにするためです。もし私たちの福音が隠されているとするなら、この世の神が盲目にした、滅びつつある人々の間で隠されているのです。――そのような務めとは何でしょう?それは霊的盲目という悪魔の業を滅ぼすものです。霊的盲目はみな、たんなる天然的なものではなく、悪魔的なものです。たんなる天然的状態を超えた所を打つ何かをあなたは得なければなりません。それはその状態の原因である「盲目にした者」を打ちます。

サタンは「この世の神」です。そしてコリントの問題は、第一の手紙全体が示しているように、この世がこの人々の上に致命的な麻痺させる手を置いてきたことです。この世と古い人類は呪いの下にあります。兄弟たち、これは強烈に聞こえるでしょうか?しかし、あなたは「この呪われた自己」と言ったことが一度もないでしょうか。常に道を妨げているのはこの呪われた自己です。確かに、この人類は最初から呪いの下にあります。そして、この世も呪いの下にあります。これは、この人類とこの世は神の目的に決して至れないことを意味します。この人類とこの世の最後はどうなるのでしょう?滅び、すなわち、神の御顔の前からの排除です。パウロはこれをコリント人たちについて見ました。天然の人が侵入し、そしてこの世――その判断、標準、観念、価値観、考え――が教会の中のこれらの人々の間にありました。それが支配して、影響を及ぼしていました――コリントの世がコリントの教会の中に入り込みました――その思い、慣習、手続きの中に入り込みました。この世はどのようにそれを行ったのでしょうか……これがコリントの状況でした。

確かに、私たちの天然の人は呪いの下にあります。私たちの古い人性は呪いの下にあります。それは神の御霊の事柄を受け入れることができません。なぜなら、神はそれを拒否されたからです。それは拒否されています。そして、この世は神の事柄に関して拒否されています。誰がそうしたのでしょう?この時代の神、この世の君です。そして神が介入される時、彼は「光あれ」と言われました。なぜなら、暗闇は神からではないからです。それは悪魔からです。そして、霊的部分について「彼は盲目にした」とここにあります――この時代の神が、この古い人性を盲目にして暗闇の中に陥らせたのです。そして神が「光あれ」と言われる時、悪魔の業は滅ぼされ、裁きは撤回されます。これが務めの効力でなければなりません。

キリストの務めは、暗闇から光の中へと移すものでなければなりません。使徒パウロに最初に与えられた任務をあなたは覚えておられるでしょう。「彼らにわたしはあなたを遣わします。それは彼らを暗闇から光へ立ち返らせるためです」――ギリシャ語の正しい訳はこうです、「それは彼らが暗闇から光へ、またサタンの力から神に立ち返るためであり、彼らが嗣業を受けるためです」。暗闇から光へ、サタンの力から神へ立ち返らせること、アダムにあって失った嗣業を受けさせること、これが務めです。それは実に豊かです。それが、キリストの奉仕者たる私たちの存在が及ぼす効力・影響でなければなりません。

キリストが現存しておられた時、彼は多くのことを話されました。彼は、おもに弟子たちに対して宣べ伝え、彼らを彼らの将来の働きのために備えられました。しかし、大事なのは彼が話されたことだけでなく、同じように彼の個人的臨在も大事でした。彼がある場所に行き、何かを話そうものなら、悪鬼どもは「私はあなたがどなたか知っています。神の聖なる者です」と叫びました。彼らは平安を保てませんでした。彼の臨在が彼らを引きずり出しました。彼の臨在によって人は暴露され、悪魔は暴露されました。彼の臨在、それこそがキリストの職務でした。

ああ、主よ、私たちを奉仕者にしてください、私に耐えうるかぎり私を奉仕者にしてください。それは、その衝撃力、効力、影響によって、人々が光の中に移り、内なる方法で真に光を見るためです。光を――真理の光や、第一に聖書の光ではなく、しかし聖書を通して――イエス・キリストの光を見るためです。

務めの試金石はその永遠の価値である

務めに関して今朝述べるのは以上です――しかし、再びコリント人への手紙から次の言葉を付け加えることにします――務めの試金石はその永遠の価値です。さて、使徒パウロは苦難と永遠の価値というこの二つを関連付けています。「私たちが受ける束の間の軽い苦難は、遥かに卓越した永遠の重い栄光を私たちにもたらします。他方……」(さて、ここで読むのをやめないでください、接続詞に注意してください)「……他方、私たちは見えるものにではなく、見えないものに目をとめます。見えるものは一時的(過ぎ去って行く儚いもの)ですが、見えないものは永遠だからです」。私たちの務めの試金石は、おそらく、存命中に私たちが目にするものではなく、永遠へと続く後のものです。

あなたが栄光に至る時、自分には自分が思っていたよりも遥かに多くの価値があったことを見たくないでしょうか?あなたが地上にいたことには、あなたの理解を超えた大きな価値があったことを見たくないでしょうか?ああ、古い人性のこの魂の命は、これを見ることを切望します。その結果を、その価値を見るために、常に事を行います。「他方、私たちは見えるものに目をとめません」。おそらく、これは聖書中、古い人を最も試みる言葉だと思います。どうすれば、見えないもの、永遠の未来のものに基づいて生きて、満足していられるのでしょう?ああ、古い人性ではなく、新しい人性によってです、務めの永遠の価値によってです。

教会の性質と目的
第二部

さて少しの間、次の点に進みます。今および後の時代における、教会の性質と目的です。そしてここでまた、教会について述べる時、意味の再考が必要です。何年間も私は教会について多くのことを話したり書いたりしてきました。しかし、まさに教会というこの問題について、変更を余儀なくされていることに私は気付きました。これまで述べ、教え、信じ、それに基づいて行動してきたことを放棄するわけではありません。そうではなく、私たちが先に進むにつれて、自分たちが最初に行ったことの大部分、自分たちの教会の教えと称してきたものの大部分、多くのものが崩壊したと言えるのではないでしょうか?!

さて、兄弟たち、今日あなたたちは教会について何に気づいているでしょうか?まず初めに、あなたたちは周囲を見渡して、「それはどこにあるのでしょう?これは教会でしょうか?まあ、これはエペソには及びません。それとはかけ離れていて、コリントに酷似しています」と言っているかもしれません。では、教会とは何でしょう?今及び来るべき時代における、その機能は何でしょう?使徒パウロはこれら二つの点を常に一緒に結び付けています。「教会の中で、またキリスト・イエスの中で、彼に栄光がすべての時代にわたって、永遠にかぎりなくありますように」――これが今だけでなく後の教会の機能です。

教会とは何でしょう?もちろん、教会の様々な象徴があります。教会は「神の家」、「宮」、「キリストのからだ」、「花嫁」等々と呼ばれています。「これらは別のものなのですか?」とあなたは尋ねるかもしれません。いいえ、それらは一つのことの諸々の面にすぎません。神の家――神が住まわれる場所です。神の宮――神が礼拝される場所です。キリストのからだ――ひとつのパースンの器です。キリストのからだは一つの機能です、このパースンを表現する多くの面を持つ一つの機能です。花嫁――キリストと教会の間の愛情関係の表現です。「キリストは教会を愛して、そのためにご自身をささげられました(中略)同じように夫たちは自分の妻を愛しなさい……」。花嫁はキリストとその教会との間の愛情関係です。これらはみな一つのことの象徴です。では、これらの面を持つ一つのものとは何でしょう?そして、この点に私たちは達しなければなりません、ここで思いを改めなければなりません。

それでは、教会の包括的名称は何でしょう?「一人の人」です――この表現はあの偉大な教会書簡であるエペソ書にあります。そこにはこうあります、「彼は隔ての中垣を取り壊されました」。その中垣はユダヤ人と異邦人(昔ながらの民族的な人の区別・区分です)との間のものであり、彼はこの区別を取り除いて、「この二つのものから一人の新しい人」を造られました。包括的名称は人、「一人の新しい人」です――一つの新しい人類です。それは新創造の人々、男女、ユダヤ人と異邦人(生来のままではないユダヤ人と異邦人)の集合体であり、ただ一人の新しい人、一つの新しい人類です。これが教会です!では、どちらの人類でしょう?これはその機能と関係しています。その性質があるのです。

ああ、これを心に留めてください、親愛なる友よ、私はだれも怒らせるつもりはありませんが、神は何をしておられるのでしょう?何を求めておられるのでしょう?教会と称される新しい施設、新しい教会組織、個々の宗派・非宗派のように共通の性質を有する何かを人々の間に造ることを求めておられるのでしょうか?神はそういうことをしておられるのでしょうか?そういうことを神はしておられるのでしょうか?(ここで私たちは考えや心を改める必要があります。)いいえ!彼はその中にはおられません。いいえ、彼はそのようなことをしておられません。彼は人々と共におられるのであり、物事と共におられるのではありません。しかし、神は霊的な方法で、最初になさったことをしておられます。「人を造ろう、人を造ろう」と神は述べつつ前進しておられます。ご自身の構想と共に進んでおられます。教会は一人の新しい人です――施設や、教会がそう呼ばれているこれらの事柄のいずれでもなく、人を造ろう、と神は仰せられます。神は「人を造ろう」と言われました。そして、これが彼があなたや私に行っておられることです。神は私たちから、クリスチャンたちがそう呼ばれているところのものや、彼らがそれで通っているところの名を造り上げようとしておられるのではありません。彼が私たちの上にまさに働いておられるのは、私たちを「この人」に構成するためです。

最初に述べたことを、あなたは覚えておられるでしょう。「彼は彼ら(男と女)を何と呼ばれたでしょう――彼らを人と呼ばれたのです」。ここのこの箇所では(姉妹たちよ、私が今から言おうとしていることをどう受け取るか注意してください、なぜなら「そこには男性も女性もない」からです)一人の人となっています。つまり、一つの人類なのです。私には説明できません。なぜなら、栄化後の人類がどうなるのか私は知らないからです。しかし、イエスは結婚と再婚に関するある人の問い(女性が再婚した場合、その女性は将来誰の妻になるのか?という問い)に答えて、「あなたたちは間違っています(中略)復活の時には、彼らはめとったり嫁いだりしないで、御使いたちのようになります」と言われました。それは別の種類の人類です。ああ、諸々の疑問が湧くでしょう、「天では私の夫がわかるでしょうか、天では私の妻がわかるでしょうか?」。わかります!しかし、夫と妻、妻と夫というこの地上の人間関係がいかに尊いものだったとしても――そうです、これは尊いものであり、とても尊いです――それよりも遥かに優った形で知るでしょう。しかし、夫と妻が互いを知るのは、肉の中でよりも、御霊の中での方がよくないでしょうか?彼らが一つ御霊、一つビジョン、一つ目的の源から共に流れ、彼らの結び合わされた生活から家庭や近所でイエス・キリストが現わされるなら、それは素晴らしくないでしょうか?これはとても尊いことです。

私には息子がいました。主は三、四年前に彼を取り去られました。私の息子との関係は良好でした。父と息子としての私たちの間に争いはなく、困難は全くありませんでした。そして、彼と私の間にはとても霊的な交わりがあったので、私は自分の心を彼に全く開くことができました。だれに対してもそうであるように、また大抵の人々に対する以上に、そうすることができました――なぜなら、彼は私の息子であっただけでなく、私の霊的友人でもあったからです。兄弟たち、あなたたちは私が何について述べているのかご存じです。このように私たちは知るようになります。そして、このように知ることの方が優っています。ですから、自分の夫、自分の妻がわかるのか、と心配しないでください。ああ、「その時、私が主に知られているように、私も知ることになります」という御言葉どおりに、あなたも知るでしょう。

その使命:キリストを放射すること

さて、先に進まなければなりません。今そして永遠における教会の使命は、キリストを放射するものとなることです。今そうなることが御旨であり、私たちがそうなるよう神は助けてくださいます。今日、教会についての御思いはこの一事に集約されます。すなわち、この別種の人が、個人的にまた団体的に、存在するようになることです。これを広く受けとめましょう。

ペテロが古いユダヤの人性からの移行をどのように通り抜けたのかに、あなたは感銘を受けないでしょうか?――彼はカイザリヤとコルネリオの家で異邦人に関する戦いを通り、ヤコブと長老たちがエルサレムから下って来た時、アンテオケで戦いを通り、異邦人と共に食事をすることから身を引きました(パウロはこれを「欺瞞」と称しました)。こうした出来事をすべて彼は通り抜けました。神に感謝すべきことに、ペテロはそれをすべて通り抜けました。そして、彼は彼の手紙の冒頭で何と言ったでしょう?――「ポント、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビテニヤに散らされている聖徒たちへ」。ペテロは言います、「あなたたち、ガラテヤ人、カパドキア人、アジア人、ビテニヤ人よ、あなたたちはみな散らされています。このような離散が起きました。あなたたちはみな散らされています、あなたたち聖徒たちよ、それでも、あなたたちは霊の家であり、一つの家です。多くの家ではなく、一つの家です。至る所にあります」。これは何でしょう?それは主が男たちや女たちの中に住まわれる場所です。

普遍的な教会は、神の観念によると、地上におけるただ一人の人です。素晴らしいことではないでしょうか、私たちが主の民のだれかに初めて出会う時、これに気づくのは!ついには、「あなたたちは何に属していますか?」と、あなたたちか彼らが尋ね始めるようになるのです。あなたが主、一人の人、一人の幸いな人の事柄について話し始めるだけで、こうなります。さて、これはとても初歩的です。とても単純です。しかし、これこそが普遍的な教会の姿であり、地域的な教会の姿なのです。

人々が地元の群れにやって来る時、彼らが来て「さて、これが彼らの振る舞い方であり、こういうことを彼らは行っています。彼らにはバプテスマ、主の食卓があり、このような礼拝形式があります」と言うようではいけません。そうです、これらは結構なことであり、それなりの役目があって、神聖な秩序の一部かもしれません。しかし、そこで彼らは何に出会うべきなのでしょう?――私たちのバプテスマ、私たちの主の食卓、私たちの進め方、私たちの手腕ではありません。「神がこの場所におられる!」――彼らは主に出会わなければなりません。それをこう述べることや、それを定義・説明することは彼らにはできないかもしれませんが、「そこには何かがあります。この人々には命があります。この人々は他のどこにも見つからない何かの益に浴しています。それは主です」という印象を受けます。ああ、私たちのすべての地方の群れがまさにこうでありますように。私たちが進んで行くところがどこであれ、与える印象が「主はここにおられます、主はここにおられます」でありますように。

私は普遍的群れから地元の群れに移りました。今、個人に移ることにします。コリント人に使徒パウロは、「あなたたちは自分の体が聖霊の宮であることを知らないのですか?彼があなたの中に住んでおられるのです」と言いました。私は教会の縮図です(もしくは、そうなることが御旨です)。また、あなたたち各人も教会の縮図となることが御旨です。それは何でしょう?普遍的教会に団体的に言えることは、私たちにも言えなければなりません。人々が私たち一人一人と出会う時、彼らが出会うのはキリストでなければなりません。このパウロという人の心に臨んだのは、彼が学び、読み、知性を働かせた事柄ではありませんでした。そうではなく、彼は主であるイエスを見たのです(そして、彼の生涯は見る生涯でした)。教会が実際には何なのかを彼は見始めて、見続けました。そして私は申し上げたいのですが、兄弟たちよ、もしイエス・キリストを見ていないなら、あなたは教会について何も知らないのです――それについてどれほど読んだり、語ったりしてきたとしてもです。もし彼を見ていないなら、教会とは何かわかりません。それはものではありません。しかし、もしあなたが彼を見ているなら、人々の中に住んでいるのは彼、一人のパースンであることがわかります――それが教会です!今朝はこれで十分だと思います。もっと多くのことを述べることもできましたが、時間が尽きました。祈りましょう……

おお、主よ、この真理を私たちの内に生かしてください。あの神聖な命令を実現させてください。光が私たちの心を照らし、私たちの理解力の目が照らされますように。それは、私たちがあなたの光の中で光を見るためです。あなたの御名と栄光と満足のために、アーメン。