祈りと戦い

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:一列十八・四〇~四六、十九・一~二

「最後に、私の兄弟たちよ、主の中で、また彼の力強い大能の中で力づけられなさい。神のすべての武具を身に着けなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるためです。というのは、私たちの格闘は肉や血に対するものではなく、主権者たちに、権力者たちに、この世の暗闇の支配者たちに、高き所にいる悪の霊の勢力に対するものだからです。こういうわけで、神のすべての武具を取りなさい。それは、あなたたちが邪悪な日にあって抵抗することができ、またすべてをやり終えた後も、なお立つことができるためです。絶えず御霊の中で祈りと願い求めの限りを尽くして祈り、すべての聖徒のために根気と願い求めの限りを尽くし、このために目を覚ましていなさい。」(エペソ六・十~十三、十八)

まず第一に、戦いの領域を認識することが必要です。それは明確に天と関係しています。私たちが読んだエリヤの物語では、それはこれが起きた天と大いに密接かつ明確に関係していたことを、私たちは知っています。天が視野をかなり占めています。祈りにより天が閉ざされ、祈りにより、後に天が開かれました。しかし、天が閉ざされていた期間のあいだ、次の偉大な問題に決着がつきました。すなわち、誰が支配することになるのか、そして、誰が天で統治することになるのか、という問題です――バアルが優位・至高の地位を占めて、上から支配する力として、主の民の生活を統治するのでしょうか。それとも、主ご自身がその地位に就かれるのでしょうか。それは、誰が天を、主権の地位を、至高の地位を占めるのか、という問題でした。そして、この戦いが徹底的に戦われ、しばらくの間、この民がこの立場に至るまで、主はご自身の継続的支配という恵み深い御業を差し止められました。

この問題の決着がつきました――「主こそ神です」。そして次にバアルは彼の高き所から投げ落とされ、天上から悪の勢力と体制は追い出され、主の民の心に関する限り、主に天における彼の適切な地位が与えられました。

エペソ書に来ると、自分が直ちにその領域の中にあることがわかります。あなたは天の領域の中に入って、次のことを教わります。すなわち、私たちの戦いは天におけるものなのです。そして、神の民――すなわち教会、この手紙が続けて扱っているキリストのからだ――の戦い、彼らの戦いは天の勢力と関係しているのです。彼らの仕事は、天で主権者たち、権力者たち、この暗闇の世の支配者たちに対して優位に立ち、天上で主の絶対的主権を確立することです。それは天上においてであり、人々の間でのことではありませんし、肉や血に対するものでもなく、上なる彼処でのことです。

この戦いの領域は霊の領域であり、私たちが情報としてとてもよく知っているように、彼処でこの戦いが荒れ狂っています。また、私たちの中には次のことを情報としてではなく経験的に知っている人もいます。すなわち、目に見える一切のものや、私たちの感覚で捉えられる一切のものの背後で、この戦いが進行中なのです。不可視の領域で恐ろしい戦いがなされています。これを思い出すことが重要です。私たちがどれほどよくそれに、理論として、教えとして、真理として精通していたとしても、この戦いの実際の領域は、すべての背後にある不可視の領域、霊の領域なのです。そして、これを真の霊的知性で把握するとき、ほぼすべての出来事に対する鍵を私たちは得ます。主の子供たちが今日特に必要としている一つのことがあります。それは次の事実を常に意識すること、目を覚ましていることです。すなわち、私たちが集まる理由は、たんなる人間的根拠によるものではありませんし、たんなる周囲の目に見える環境によるものでもないのです。そうではなく、私たちが集まる理由は別の根拠によらなければならないのです。

この領域が彼処にあることを述べたので、次にすべきことはこれをさらに詳しく説明することです。

この戦いの原因は何か?

この戦いの領域は天です。その原因は何でしょう?この戦いの原因は明らかに教会です。エペソ書に来ると、あなたは教会すなわちキリストのからだの大きな戦い、そのための大きな戦いの中に入ります。そしてその後、その所で、これに関して、私たちはきわめて恐ろしい形の悪を知ります。

もし私たちが携わっているのが、例えば、たんなる個人的なことや、たんなる地的なもの、この地上の局所的なものにすぎないなら、同じようにあの戦いに遭うことはないでしょう。エリヤを例に取りましょう。小川が涸れた時、彼は現世の必要に関する痛切な試練を経験しました。彼はこの飢饉と旱魃の時を通過しようとしていました。エリヤの信仰が試され、試みられました。疑いなく、信仰のこの試練は、彼にとって大いに現実的なものでした。しかし、その中に超自然的な悪の要素は一切ありませんでした。信仰の試練は常に大いに現実的なものですが、それは彼と主との間の個人的なものでした。それは個人的なものであり、彼は無事にそれを切り抜けました。しかし、注意してください。神の団体的な民の問題を残らず取り上げることになった時、彼は別の領域に触れたのです。十九節から始まる一連の節を見ると、エリヤはもはや、純粋に個人的な状況の時と同じようには、その状況に立ち向かえないことがわかります。

現世の問題に関する水準では、彼は勝利のうちに進み通せました。その水準で彼は主を立証しました。あなたたちの多くは主を立証しました。主はあなたの必要を満たしてくださることを立証しました。しかし、あなたは別の領域の中に立つ必要があります。その領域であなたは神の教会の任務を残らず取り上げて、神の民に対する主権者たちや権力者たちの力を滅ぼします。これは別の領域です。エリヤはそこで最高の試練を受けました。その領域で彼は、それまで会ったことのない何かに出会います。そして、彼は自分の命を救うために逃走した、と御言葉は述べています。これはまったく別の領域であり、確かに、この現実の戦いの原因は教会です。

さて、これはあなたが御言葉の中に辿れることを述べたものです。一貫してずっとこれはそうであることを、あなたはご存じです。黙示録でもそうです。龍が打ち負かされるのは小羊の血のためです。これは今や主に対する個人的関係の問題ではありません。これは団体的・関連的なことであり、これに神の選びの群れが関係しています。この民はまず第一に、暗闇の権威から解放され、主権者たちや権力者たちが天で占めている地位に就き、霊的にバアルに相当するものを退位させて、天を占領しなければなりません。キリスト・イエスにあってそこを支配しなければなりません。これはまったく別の任務であり、これによりあなたはとても困難な状況の領域の中にもたらされます。

もしあなたがそれより劣る水準にあるなら、何かを行うそれより低い水準、この地上で主のために何らかの素晴らしいささやかな働き、個人的な働きを行う水準にあるなら、しょせんそれは局所的なものであって、普遍的なものではありません。それは主イエスの主権の領域全体に触れることはありません。あなたはこの同じ戦いには遭わないでしょうし、もっと幸いな時を過ごすでしょう。そこには、もう一方の領域で私たちが出会う、あの戦い、致命的影響はまったくありません。結構なことです。しかし、あなたはこの戦いの領域の外に出て、神があなたを召されたものよりも劣るものの中に陥ってしまったのです。キリストのからだ全体に関わるものの中に、あのからだにおけるイエスの証し――それは普遍的・絶対的なものでなければなりません――の中に入り込みなさい。そうするならあなたは、人々の中で最も狡猾な者さえも当惑させるよう仕組まれた状況に出くわします。悪魔の策略に出くわします。

使徒が示している武具が、これらの策略に対する鍵です。腰に締めた真理で、あなたは悪魔の策略を対処します。包み隠された嘘を対処します。あなたは腰に帯をして立たなければなりません。帯は力と行動の象徴です。真理の中で、また真理によって、積極的に帯を締めて立たなければなりません。あなたが真理の帯を締めなければ、あらゆる種類の示唆、暗示、誤解、噂やそうしたものの限りを尽くした悪魔の策略が遂行されることになるでしょう。ですから、どの武具もみな、悪魔の策略のある種のものを対処するものなのです。今あなたはあの領域の中に入ります――これが私が強調したい点です。

何か劣ったものを受け入れるなら、私たちはみな戦いから抜けられるでしょう。「主が私たちに示してくださったのであり、主イエスの主権を普遍的に示すための道具であるキリストのからだとの関連でその中に私たちをもたらしてくださったのである」と私たちが信じているものを手放せば、私たちはみな戦いから抜けられるでしょう。私たちは今、その中に信仰によって立たなければなりません。将来、文字どおり実際に、彼は来たるべき代々、天を通して、ご自身の教会を通して、あまねく統治されます。現在の戦いはこれと関係しています。なぜなら、敵は知っているからです。教会、キリストのからだは、イエス・キリストが絶対的主権の中で、自分を天から追い出す道具となるよう定められており、予定されていることを。あの男の子が御座に引き上げられる時、サタンは投げ落とされます。この二つは同時に起きます。彼はこれが目的であることを知っています。ですから、からだ全体に対するこの証し、教会の使命に反対し、この実現に反対し、それが意味するところすべてに反対して、敵はこれに細心の注意を払っているのです。そして、あなたはこの領域で出会うものに他の領域では会いません。

私たちはどのように切り抜けるのでしょう?私たちの経験は共通しています――私たちは素晴らしい時を求めて祈りの集会にやって来ます。ひとえに素晴らしい時を期待します。つまり、主が私たちと同在してくださることを期待します。そして、私がその場にいると間もなく、私の上に恐ろしい気配、死の感覚、暗闇が臨みます――祈りによってです!すべてが揺れ動いて、あなたの中から祈りが消えてしまいます。何が問題なのでしょう?これは主ではなく、悪魔です。愛する人よ、あなたは理解します。自分は天上で何かに出会ったことを。そして、あなたや私の姿勢は尊い血の恩恵の中になければならないことを。

御言葉には「この領域の中に立って抵抗しなさい」とあります。それには、主の民がこの血の強力な力に基づいてその中に入ることが必要です。こうした気配が立ち込めていて、すべてが地獄の気配を帯びている時でも、そうしなければなりません。そして、この尊い血を取って、自分たちの戦場は天であることを、祈りの中に勝利があることを、理解しなければなりません。なぜだれかがもの寂しい祈りをしたのか、私たちには説明できません――これがその背後にあります。私たちはあの血の力の中で立ち上がって、それを対処しなければなりません。

肝心なのはまさに次のことです。すなわち、私たちは状況を見たままの額面どおりに受け取ってはならず、それを主の普遍的御旨との関連で認識しなければならないのです。私たちは、人間的立場からは決して説明のつかない、ただならぬ経験の領域の中に霊的に入りました。本質的な点は、私たちは次のことを認識しなければならないということです。すなわち、主イエスの血はそれを対処するのに十分であること、私たちはそれに基づいて中に入らなければならないこと、そうすれば切り抜けられることです。これはたんに素晴らしい祈りの集会を持つことではありません。これは地獄の勢力との血まみれの戦いです。これを視野に入れて、これを考慮して、祈りの時に来ない限り、私たちは素晴らしい時を持つかもしれませんが、何も成し遂げられないでしょう。私たちは肉のエネルギーの中に召されているのではなく、この尊い血の効力に浴して、これらのことに遭遇する時、立ち上がって「否」と言うように召されています。

次に、この二つの節が共に示していることに注意してください。エリヤはカルメル山に上って行き、彼の頭をひざの間に伏せました。ヤコブは言います、「彼が再び祈ると、天が開かれました」。「彼が再び祈った」ことに何と多くのことがかかっていたことでしょう。彼は自分の僕に「行って海の方を見なさい」と言いました。パウロは「目を覚まして祈りなさい」と述べています。「また七回行きなさい」。エリヤは祈って、こう述べます、「主よ、あの祭壇、あの十字架がこの問題をすべて解決して、この御旨を達成しました。私はその上に立ちます。今や、悪の力は砕かれて、主の全き主権が介入しなければなりません」。彼はこの必死の祈りの中で、これに基づいてそこに立ちます。彼は僕を見にやらせます。何も見えません。「エリヤよ、それは無駄です。それに効き目はありません」。エリヤは言います、「主よ、あの血は十分です。私はその上に立ちます。あなたが介入してくださらなければなりません。私はそのために立ちます」。でも、何も見えません。そこで再び――「主よ、私は待ち続けます」。七回です。全き辛抱強さです。六回ではだめです。何も見えません。エリヤは中断して、「これは効き目がないのだろうか?」と言います。、七回目になって、ついにこの人が戻って来て「雲が見えます」と言います。それで十分です、「行ってアハブに告げなさい」――信仰はこの小さなものを握って、「間もなくこの小さなものは素晴らしいものになります」「この天の戦いを祈りによって切り抜けて、この祭壇が確保したものが実現されることになります」と信じます。祭壇はイスラエルの中に神の主権を確保しました。祭壇が偽りの神々を打ち倒しました。エリヤは根気の限りを尽くして、あの血の立場に基づいて、戦い抜かなければなりませんでした。七回彼はじっと待ち、しるしが何もなくても気にしません。

パウロは言います、私たちの戦いは上なる天においてであり、そこでの祈り、忍耐、警戒による、と――彼は言います、それは神の民のためである、と。たんなる個人的なものではありません。これはからだ全体と関係しているものです。私たちはキリストのからだのために戦っているのであり、教会は天の中に入って治めなければなりません。

自分たちがどこにいるのか、私たちは理解しなければなりません。さもないと、追い出されてしまうでしょう。私たちがその中にいる事柄の真の性質を認識しない限り、何らかの形で悪魔の策略が私たちを追い出すでしょう。この戦いの中にある主の民、この恐るべきものに遭遇している主の民の何人かにとって、最大の誘惑の一つは、主の民の他の者たちはその領域の中におらず、気楽な時を過ごしているのを見ることです。彼らは決してこの類のことに遭遇しません。そして、彼らは主の愛に大いに満たされています――愛の領域の中に生きている、このような素晴らしい小さな主の民の群れを、あなたは得ることができます――しかし、あなたがカルバリの実際的効果を導入し始めるやいなや、この愛はこの地上の人々の愛のように神の愛ほど大きくなかったことがわかります。戦いが生じて、そこには個人的関心があったことがわかります。それらは、あなたがいっそう大きな関心――主イエスの主権とその血の力――を持つまでは、決してわかりませんでした。そして、主の民のどの群れの中にも、どれほどそこに肉があるのかを、あなたは見いだします。それが現れます。敵が煽動を始めて、主イエスの主権の確立を不可能にします。

激しい戦いの日にこの追加の説明の言葉を述べる必要があることに、私は気づきました。それは、私たちはどこにいて、それは何なのかを、私たちが認識するためです。裏口から出されて排除されないためです。むしろ、あの十字架、あの血は強力であり、十分であり、これを達成したことを、私たちは認識しなければなりません。また、私たちは立って、抵抗し、すべてをやり抜いた後もなお立って、戦場で勝利者であり続けなければなりません。

どうか主が御言葉を通して再び私たちの心を奮起させて、御霊の真の強固さの幾ばくかを私たちの中に注入し、おののき、ためらい、動揺から、私たちを救ってくださいますように。