第一章 この証しに関する戦い

T. オースチン-スパークス

私たちは激sii 霊的圧迫の時の中にあることを、私たちはみな大いに意識しています。疑いなく、それは世界情勢と大いに関係しています。(注:この一連のメッセージの日付はわかりませんが、第二次世界大戦中に与えられたように思われます。)つまり、憎しみ、恨み、悪意のこのような津波により、大量破壊へと至る殺意により、大気が悪と敵意と死に満ちようとしているのです。それを真に霊的な男女の繊細な霊はひしひしと感じています。そして、そのような者たちは、このような状態の衝撃力を感じることになります。しかし、それらすべての背後には、何かそれ以上のものがあります。

疑いなく、悪の勢力によって霊的敵意が増しつつあります。その真の性質に関してそれを真に認識・察知できるのは霊的な人々だけです。つまり、すべての人が遅かれ早かれ、長引く戦争の影響を認識するようになるでしょう――それを体と魂に感じるようになるでしょうが、すべての人が、この邪悪なものが何なのかを霊の中で悟るわけではありませんし、その意味に関する認識を持つわけでもないでしょう。しかし、私はこう言えると思います。すなわち、私たちの大半は戦争にはほとほとうんざりしており、霊的敵意と神のものを破壊しようという決意の激化を意識している、と。

私たちは二つのことを区別したいと思います。状況をこのように感じるにあたって、私は次のように分析して問いました、「さて、私たちが大いに意識しているこのことに関して、そのどれくらいが戦争に対するたんなる倦怠感であって、全般的な世界情勢の結果・影響なのでしょうか?もし戦争が終わったら、もしいわゆる『平和』が宣言されたら、そのどれくらいがなくなるのでしょうか?そうしたら、私たちはそれから抜け出すのでしょうか?」。そこにはこれ以上のものがあるのではないのでしょうか。そして私たちにとっては、外側で何が起きても、この戦争は続いていることに気づくのではないでしょうか。というのは、それは戦争と共に生じたものではないからです。これは私たちの霊的生活全体にわたって続いてきたものであり、その遥か昔に始まったものなのです。世界情勢は、霊的戦争を感じる私たちの感覚のための、絶好の背景かもしれませんが、この霊的戦いは何か本質的なものなのです。

そこで、神の民の歴史を遡って、いま言及できる事例よりも多くの事例について考えてもいいのですが、一つか二つのとても単純な事例によって、私の言わんとしていることを示すことができます。

主が一つの民をこの世の王国の束縛から救い出し、彼らを解放して連れ出して、ご自身の民にしようとされた時、モーセが生まれました。そしてモーセが誕生した時、彼の誕生を予期していたかのように、恐るべき憎しみの状況が生じて殺人という結果になりました。私たちはこの物語――すべての男の子を殺せというパロの命令――を知っています。悪意、悪、憎しみが、恐れに促されて広まりました。そして、神からのものを滅ぼし、飲み込み、丸飲みしようという決意が広まりました。これがパロの命令の背後にあるものでした。パロはこれを完全には理解していなかったかもしれませんが、別の勢力によって動かされていました。これに続く同様のすべての事例からこれは明らかだと思います。彼は別の勢力によって促されて、神のこの動きを予期し、神の新しい事柄のためのあの道具・器を飲み込もうとしました。ヤコブの子孫らがいたこの世、その中にモーセが生まれた世は、暗闇の世であり、悪、邪悪な意図、悪意、憎しみ、殺人で満ちていました。

少し先に進むと、エリの時代の状態を見ます。エリもまたまさにこの雰囲気の中にあります。それは霊的暗闇と霊的死の悪い状況です。彼に平安は訪れず、平安は彼から失せました。そして、サムエルが生まれました。

ユダの歴史のあの時代に移ることにします。再びとても暗い状況です。イゼベルを通してアハブの家にアタリヤが入り、アタリヤはこれらの同じ悪の勢力に促されて、神から出ている王家の子孫をすべて一掃し、飲み込む決意をしました。それで彼女は皆殺しにするよう命じました。一人の赤ん坊が祭司によって救い出されて、六年間神の家の中に隠されました――ヨアシです。

さらに先に進んで主イエスに至ると、ヘロデによるこの別の動きがあります。神のこの動きを飲み込もうとする、憎しみ、悪、殺人の動きです。

要点はこうです――神の動きのある特別な期間の目的が遂げられることになる時、神が御旨の新たな一歩を踏み出そうとされる時は常に、毎回、このような状況が生じるのです。これは最後まで、黙示録十二章に至るまでそうです。最初から最後までそうです。神の動きが転機を迎えるとき、一つの期間が終わり、完全な御旨に合わせて新たな一歩を踏み出さなければならないとき、そのような時、霊的不法が激化して、神からのものを滅ぼそうとする恐るべき決意が生じます。この神からのものは、神のこの新たな動きを確保できるものであり、神のさらに進んだ御旨と関係しているものです。

私の問い、そしてそれに対する答えだと私が思っているのは、まさにこうです――真に霊的な民のとても多くが感じている霊的悪のこの激化は、私たちが神の諸々の道の一つの段階の終わりに達しつつあり、一つの新しい段階に達しつつあることを意味・暗示しているのではないでしょうか?これまでの段階ではこの新しい状況に応じられないことを、私たちはみな意識しています。今までのものでは今の状況に十分ではありません。私が言わんとしているのは、開始時の神の備えは将来のためには十分ではない、ということではありません。そうではなく、私が言わんとしているのは、神の諸々の方法、神が祝福された諸々の手段は、この新しい状況に対応するために、何か新しいものに道を譲らなければならない、ということです。彼は新しいことをなさなければなりません。実際、彼は、この地上におけるご自身の歩みの歴史において、何度もこのように次に進まれました。一つの段階から別の段階へ、一つの道具から別の道具へ、一つの種類の手段から別の種類の手段へと進まれました。そして、一方から他方へと移るとき、霊的敵意のこの恐るべき台頭が常に生じました。その中に、また、その中から、彼はご自身の新しい道具や器を生み出されたのです。

私が挙げた事例からわかるように、そのような時に神によって導入されたものはとても小さなものでした。モーセは赤子であり、サムエルは子供であり、ヨアシは幼児であり、主イエスは赤ん坊です。それはとても小さなものですが、それには凄まじい、言語を絶する、偉大な可能性や目的が関係しています。このように小さな事柄の日を蔑むことは許されません。それらには何か大いに偉大な意味があります。そして、サタンは私たちの価値を評価・査定する別の基準を持っています。私たちはかさによってある事柄は大きいと考えます。サタンは赤子のモーセ、子供のサムエル、幼児のヨアシ、赤ん坊のイエス・キリストの途方もない身の丈を察知することができます。悪の勢力の激化した戦い、敵意、憎しみ、殺人の中から、神は何かを生み出されます。それは、天然的・地的観点から見ると小さなものですが、それに永遠からの彼の動きの次の段階の意義と価値がすべて関係しています。

これによって生じる信仰の試練については、何も述べるつもりはありません。なぜなら、その価値を認めるにはかなりの量の霊性が要求されるからです。信仰の試練を人々は軽蔑し、無視し、無と見なしています。なぜなら、天然の人のこの魂の命はこぞって、その重要性が一目瞭然でわかるもの、大々的に成功しているものを探しているからです。そして、成功、繁栄、偉大さのしるしが全く見当たらないとき、人の側から判断すると、その中には何もないことになります。しかし、信仰の見方は反対です。しかし、これは重要な問題ですが、さしあたっての私の要点はこうです。すなわち、神の動きが一つの段階から別の段階に移るとき、もはや彼の道ではない一つの段階から彼の新しい道である別の段階に転換するとき、その移行は激しい霊的戦いの時なのです。そして、その中で新しい器が生まれますが、それが端緒となってこの戦い全体が生じるのです。もしかすると、神の真実で誠実な子供たちが今日感じているこの霊的圧力は――彼らはこれによって大いに苦しんでいます――次のことを示しているのかもしれません。すなわち、私たちは神のエコノミーにおいて、神の方法において、一つの状況の段階から別の段階へ移ろうとしているのかもしれません。そして、この危機の中で苦しんでいる真に霊的な人々は、新しい状況に対する鍵なのかもしれません。

あなたの助けになるかもしれないので、私はこれをあなたにお委ねします。なぜなら、私が常に求めているのは、私たちがその中にいる時代や状態に関する神の解釈・説明を得ることだからです。

この戦いで勝利を得る人々

他にもう一つ言えることがあります。この状況全体の行方をざっと眺めていた時、私は次のことに気づきました。すなわち、神にとって尊いものの回復に関連して神に仕え、一時期、その生活が神にとってきわめて価値のある特徴を帯びていた人々の多くが、失敗の恐ろしい影や雲の下に落ち込んでしまったことです。

特に有用な方法で主に仕えた後期の王たちの何人かを例に挙げましょう。アサ、ヨシャパテ、すでに述べたこのヨアシ、ウジヤです。この人々が何かのために立っていたことに、何の疑問もありません。そして彼らが何のために立っていたのかは認知されています。しかし、彼らはみな雲の下に落ち込みました。彼らは何らかの理由で最後には失敗しました。異なる形で彼らは最後に妥協しました。彼らは偉業をなしましたが、高き所を取り除きませんでした。主に嫌われているものと同盟を結びました。要するに、敵が最後に彼らをやっつけたのです――これが要点です。すべてが衰退しつつある時に、一時のあいだ、彼らは何かのために立ち、何らかの役に立ちました。彼らは悪の勢力に立ち向かって、それを滅ぼしました。彼らの人生には輝かしい面もありましたが、敵が最後に彼らをやっつけて、彼らは雲の下に落ち込みました。

パウロのような人は彼らとは何と好対照なことか!彼はその生涯のあいだ何かのために立っただけではありませんでした。彼はその生涯をどう終えたのでしょう。「私の去る時が来ました。私は良い戦いを戦い、私の行程を終え、信仰を守りました」(二テモテ四・六~七)。これは輝かしい最後です。ペテロはどうでしょう?ペテロは何かのために立っていましたし、輝かしい最後を遂げようとしていました。「……私は、自分の幕屋を脱ぎ去るのが迫っていることを知っています。それは、私たちの主イエス・キリストも私に示してくださったようにです」(二ペテロ一・十四)。彼は御旨に関して慎重に行動しています。彼は打ち負かされておらず、追い出されてもいません。彼は主と協力しており、最後までその中にいます。

要点はこうです――これらのその他の人々は、大いなる霊的必要を抱えている時代に、主に仕えるために起こされました。敵の勢力は彼らの抵抗を受けました。概して彼らは敵を倒しましたが、最後には敵が彼らをやっつけました。敵が彼らをやっつけたのは、正面攻撃によってではなく、裏に回って妥協させることによってでした。これは何という警告でしょう。

さて、主が私たちを召されたのは、私たちがこの地上でこの敵意の総勢に対処するためです。私が「私たち」と言う時、それは彼の真の子供たち、彼の霊的な子供たちのことです。私たちは彼のためにここに立って、霊的敵意の総勢に対抗しなければなりません。彼の動きの次の段階のための彼の架け橋とならなければなりません。そうです、私たちはこの立場を取らなければなりません。立ち上がって、私たちが遭遇する霊的悪の意味を察知しなければなりません。しかし、私たちは覚えておかなければなりません。敵は正面攻撃で私たちをやっつけられないとき、私たちが大いに注意していておおっぴらな攻撃では捕えられないとき、敵は常に私たちを捕えるための裏口を探そうとするのです。それは何らかの妥協、私たちの生活の中にある何らかの裁かれていないもの、破壊されていない何らかの高き所、主に嫌われているものとの何らかの同盟によってです。これはみな、このような時に、主が私たち――彼の民――をその中に召されたこの途方もないことに関して失敗しないよう、私たちを大いに駆り立て、励まし、警告します。

どうか主が堅固な私たちをご覧になりますように。ご存じのように、私たちが大いに好んでいる言葉は、ある預言者がアサに言った言葉です。「主の目は全地をあまねく行き巡り、心が彼に対して全き者たちのために、ご自身の強さを示されます」(二歴十六・九)。アサはシリヤとの数々の同盟の一つを結びました。預言者は彼のところに行って、彼に思い起こさせました、「エチオピヤ人とリビア人は大軍で、非常におびただしい戦車と騎兵があったではありませんか?しかし、あなたが主に拠り頼んだので、彼は彼らをあなたの手に渡されたのです。なぜなら、主の目は全地をあまねく行き巡り、心が彼に対して全き者たちのために、ご自身の強さを示されるからです」。アサの心が主に対して完全だった時、彼は「エチオピヤ人の大軍が主にとって何だというのか?」と言うことができました。

私たちはとてもちっぽけな少数派かもしれません。それが主にとって何だというのでしょう?二心でないなら、主はご自身の強さを示してくださいます。しかし、アサが二心になってあの同盟――主の御心にしたがっていないもの――を結んだ時、彼の敵が力を得て、彼は恐れました。「主の目は全地をあまねく行き巡り、心が彼に対して全き者たちのために、ご自身の強さを示されます」そして、彼に対して全き心は、「それが何だというのか?」―「多くの人をもって救うのも、少ない人をもって救うのも、主にとっては何の妨げもありません」(一サムエル十四・六)と言うことができます。

この世界にいる私たちにとって価値あるものは何でも引き出そうではありませんか。