第二章 新しい生ける道

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:創世記四・二~十四、黙示録十二・十一~十二、レビ十・一~五、十六・一~二、十二~十九、ヘブル十・十九~二〇、ルカ三・二一~二二。

私たちの考察を支配する節は、ヘブル人への手紙からの節である、ヘブル十・十九~二〇――彼の血による、新しい生ける道――です。

私たちが聖書朗読を始めたこの二つの節の中に、神の偉大な贖いの働きと関係している血に対する、最初と最後の言及があります。この「血」という言葉は黙示録十二章以降数回現れますが、それは神のあの特別な御業とは関係ありません。もっと一般的な意味で使われているだけです、つまり、キリストの血ではないのです。私たちが次のことを認識することが重要です。すなわち、この究極的完成の書により、すべてが結集・結晶化されて最後の局面に至り、新しい天と新しい地が明示され、神の偉大な贖いの働きの実際的適用がこの宇宙で完成される時、こう宣言されるのです――「彼らは小羊の血のゆえに、また彼らの証しの言葉のゆえに、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでも、自分の命を愛さなかった」。血に関するこの最後の記述は、ある事柄に関するいっそう詳しい説明であることがわかります。そのある事柄は、最初から起きていたことであり、道中ずっと起きていたことです。つまり、アベルの事例における、血に対するこの最初の言及の中に、まさにこれらの要素を私たちは見ることができるのです。

アベルの死に関する、あるいは、彼が持ってきたいけにえに関する、この創世記の記事の中に、「血」という言葉は実際には使われていません――つまり、彼のいけにえに関しては使われていません――「叫んでいる」ものとして彼自身の血について述べられています。疑いなく、彼のいけにえ、彼が持ってきた供え物、そして彼自身の死の中に、いけにえの血に関して後に見られるすべての要素が揃っています。それは証しの血であり、この黙示録十二・十一で明確に述べられているあの証しです。これに今、少しのあいだ、私たちは注意しなければなりません。

再び指摘させてください。黙示録十二章に来る時、私たちは事物の最後に立ち会います。時の最後に、終局点に立ち会います。そして、まさにこの最後の時、きわめて強烈な形で、霊的にきわめて激しい戦いと敵意を帯びた雰囲気の中で、この血を目にするのです――この血について明確に言及されているのです。彼らはこの血のゆえに打ち勝ちました。これから私はこう推測します、すなわち、アベルと共に勃発した戦いは、諸々の時代をすべて経て、最後に完全な形で表れることになる、と。最初から勝利の基礎だったこの諸々の要素は、最後の時、特別に強化されることになるでしょう。最初は個人的・私的なものでした――だからといって重要性は劣りません――他方、最後の時、人々の一団によって究極的に完成される神の御旨は、悪の全勢力によって激しく攻撃されるでしょうが、この同じ勝利の手段が全き意義と真価を発揮するでしょう。それは、黙示録のこの十二章で述べられているあの人々を解放するためです。

ここでサタンが徹底的に暴露されていることがわかります。彼の肩書がここにすべて記されています――龍、大きな赤い龍、サタン、欺く者、兄弟たちを訴える者、敵。これは詳細なサタンの絵図であり、とても詳細なサタンの絵図です。それまでと同じサタンですが、今や、「男の子」と称されているこの群れに敵対しています。単数形の「男の子」と、次に複数形の「彼らは彼に打ち勝った」に注意してください―― 一つの実体としての、一人の男の子としての、一つの群れなのです。この群れに対して、サタンの狙い、意図、力、激怒、敵意、憤怒がことごとく向けられます。そして次に、悪の力、暗闇の力の全面的な反対に対して、「彼らは小羊の血と彼らの証しの言葉のゆえに打ち勝った、彼らは死に至るまでも自分の命を愛さなかった」と述べられています。一個人としてのアベルに言えたことが、今や、別の男の子にも言えるようになります(私たちは、カインとアベルの誕生に関する、創世記のあの章の最初の節を読みませんでした)。それは団体的な種類の別の男の子です。アベルの勝利に言えたことは、この男の子にも言えます。

この血によって神に受け入れてもらうこと

この勝利とは何でしょう?それをこれから見ることにします。しかし、ヘブル十一・四のアベルに対する言及から、それを直ちに示せるでしょう。「信仰によって、アベルはカインよりも優れたいけにえを神にささげ、このことを通して義であるという証しを得ました」。これについてさらに詳しく触れる前に、私は直ちにあえて言いましょう、もしあなたや私がそれに達することができれば、自分たちは勝利したと見なす十分な理由を得たことになる、と。神が証しして「あなたは義です」と言ってくださるなら、あるいは、それを少し言い換えて、神が私たちに「あなたはわたしの愛する子、あなたをわたしは喜ぶ」と言ってくださるなら、この全き享受の中にあなたや私が実際に入れたなら、私たちはこれを「勝利」と見なすべきではないでしょうか?しかし、ここに神の御子との団体的一つの中にある男の子がいて、「愛されている者にあって受け入れられ」ています。「あなたはわたしの愛する者」(マルコ一・十一)。「愛されている者にあって受け入れられ」(エペソ一・六)、御子の中に包み込まれているので、彼らは御父にとって御子と同じほどです。彼らは、御子に言えることを、信仰と証しによって受け継いでおり、義です。さて、これが勝利者たることの意味です。勝利すること、そこに到達してそこにとどまることの意味です。いつの日かある人々がそこに到達したとしても、翌日にはそこにいないかもしれません。つまり、いつの日か、彼らが信仰によって得ている神の義を理解して喜んだとしても、その翌日には、彼らはその立場を失って、敵が彼らに対してやりたい放題かもしれないのです。戦場で勝利することと勝利者であり続けることは、この立場を維持することを意味します。

聖所への一つの新しい生ける道

しかし、私たちは戻ってこれを部分に分けて見なければなりません。これに関する聖書の基本的な節はこうです、「こういうわけで、私たちはイエスの血によって、大胆に聖所へ入ります。それは、彼が私たちのために、一つの新しい生ける道を開いてくださったからです」。聖所への一つの新しい生ける道。創世記三章は閉ざされた扉で終わります。彼らはエデンの園から、パラダイスから追放されました。なんなら――当時の天から追放された、と言ってもかまわないでしょう。「彼は人を追放された」。彼は門、入口のところにケルビムを置いて、入口を守らせました。彼らは追放されました。扉は閉ざされて、かんぬきがされました。彼らは排除されました。次の章では(もちろん、原典には章はありません)直ちに次のことが始まります。すなわち、一人の人が登場するのです。その人は立ち返る道を見いだし、閉ざされた扉を通って中に入り、ケルビムをものともしません。彼は神の御前に出ても死なずに、開かれた天にとどまることができます。「主はアベルと彼の供え物を顧みられたが、カインとその供え物は顧みられなかった」。次の言葉に注意してください、「そしてカインは言った、『あなたは今日、私を追放されました』」。「私は追放されました」が、彼の弟のアベルは中にいました。アベルは中に入り、開かれた道を見いだし、受け入れてもらえました。彼は神に受け入れられました。まさに神の臨在の中に受け入れられたのに死ななかった、と言ってかまわないでしょう。

私たちが読んだ聖書の御言葉から気づいたでしょうが、これがこの血の意義全体への鍵です。神がおられる所にまさに入るというこの問題が視野にある時は常に、それは生か死かの問題です。一方において、「彼は死なない」と絶えず繰り返されています。ナダブとアビフは中に押し入って主の御前で死にました(レビ十・一~二)。アロンは中に入りましたが、神の臨在に対する神聖な指示に従ったので、死にませんでした。たとえ大祭司のアロンでも、この備えがなければ、自分の息子たちと同じ運命に遭っていたでしょう。その備えとは尊い血です。神の臨在への道を開くのはこの血です。そして、この道は生ける道であって、死の道ではありません。

サタンの反対

ヘブル書のこの節は「一つの新しい道」と述べています。神の臨在の中に入る道が新しく開かれたのです。一つの新鮮な道、一つの新鮮な扉が、イエスの血によって開かれたのです。これにはどんな内容・意味があるのでしょう。というのは、これは明らかにサタンが憎み、サタンが恐れていることだからです。サタンが実際に反対するのは、この束縛、この捕囚――自分の王国のその中に彼は人々を連れ込みました――から逃れる民、天のあの王国に到達する民がいてはならないからです。自分の主権、自分の支配から自由になりつつある民に、彼は大反対します。別の主権の下で構成されつつある民に、彼は大反対します。そして、この別の主権とは特に、彼の普遍的支配に対する大敵である、神の御子イエス・キリストの主権です。彼はそれに大反対します。この天的団体、自分に対する隷属から解放されて自分の王国に対する脅威となった民の形成に、彼は大反対します。彼の統治と体制を打倒して全く滅ぼすことに、彼らは関わっています。切り抜けるすべての男女、この開かれた天の祝福の中に入るすべての男女、このように近づくすべを知っているすべての男女は、ですから、最後まで、サタンのきわめて激しい憎しみと執拗な敵意の的の一部になります。

黙示録十二章の問題はまさにこれです。それはこの民の最終的な登場・解放です。何が起きるのでしょう?大きな赤い龍はこの男の子を飲み込もうと待ち構えています。これが伝えるのは、全き悪意の描写であり、全く獰猛で、破壊的で、邪悪で、冷酷な――大きな赤い龍です!――これがこの男の子を食い尽くそうと見張って、待ち構えています。しかし、男の子は直ちに天に引き上げられます。男の子は切り抜けて、脱出します。そしてこの龍は、その標的、その餌食を失って、直ちに大きな怒りを抱いて地の民の所に下って行った、と述べられています。「地と海は災いだ。なぜなら、悪魔が大きな怒りを抱いて、おまえたちの所に下って行ったからである」。なぜでしょう?この男の子が脱出し、切り抜けて、解放されたからです。

ある種の字義的方法で私たちに示されていることを、私たちは霊的に解釈しなければなりません。疑いなく携挙があるでしょうし、文字どおり共なる脱出と携え挙げがあるでしょう。しかし、それでも、私たちは認識しなければなりません。これは基本的に霊的なことなのです。つまり、この民は今、霊的な方法で形成されているところなのです――キリストにしたがって一つの民が形成されているところなのです――この民は、パウロが述べているように、御子のかたちに同形化されつつあり、ついには「あなたたちの中にキリストが完全に形造られ」(ガラテヤ四・十九)ます。これはこの男の子の形成です。起きているのは霊的なことです。それを見ることはできませんが、起きています。この霊的形成が進んでいる間、神が生活の中で真に霊的な御業を行って、その群れに対して又その群れの中にキリストの度量を増し加えつつある間、その群れはすぐそばに敵意、憎しみの霊があることにすでに気づいているのではないでしょうか?その憎しみの霊は、食い尽くし、飲み尽くし、引き裂き、滅ぼし、駄目にすることを欲しています。この恐るべき霊的圧迫の下で私たちが自覚しているのはこれではないでしょうか?人々がこの世で神に対して聖なる生活を送ることは、ますます容易になっているでしょうか?この世であなたの証しを維持することは、ますます容易になっているでしょうか?私たちはこの悪しきものについて、それが私たちと私たちの証しを滅ぼそうとしていることを、ますますよく自覚するようになっているのではないでしょうか?それは強まっています。疑いなく強まっています。私たちを滅ぼすことが、悪のこの勢力の狙いです。これは一つの問題、一つの危機、一つの極点、一つの究極的結果を指し示しています。

神はほむべきかな、この問題について、それがまさにどうなるのかについて、私たちは告げられています。彼は食い尽くさず、飲み込まないのです。この男の子の群れを仕留めないのです。男の子は神とその御座に引き上げられます。しかしこれは、男の子は私たちの周囲の至る所にある霊的怒りと憎しみの雰囲気を通らないことを意味しません。

しかし私が述べてきたように、血の証しの第一の特徴は、人々は霊的に切り抜けた、ということです。つまり、彼らに対して天が開かれており、彼らはそれを知っているのです。彼らはもはや、「私は追い出された」と言うカインとは違います。

私たちが今日ここで主の子供たちとして胸に秘めている別の面は、私たちは自分が中にいることを知っている、ということです。自分が中にいることを、あなたは知っているでしょうか?たしかに、私たち自身は完全ではなく、それからかけ離れていますが、私たちは中にいて、開かれた天を持っており、切り抜けて、受け入れてもらっています。ひょっとしたら近づけるのではないだろうかと思いながら外に立っている必要はもはやないことを、私たちは知っています。恐れおののかず、大胆に進み出られることを、私たちは知っています。私たちは近づけますし、無限に聖なる神のまさに臨在の中にとどまることができます。イエス・キリストの血の効力に関する私たちの理解のゆえにです。

しかし、ああ、私があなたに見ていただきたいこと、あるいは、ご自分の民がもっとしっかりと見て把握することを主は必要としておられると私が感じることは、これに関する血の適切な理解の途方もない力です。この血は、疑念、疑問、胸の奥に潜んでいる疑いの結果生じる弱さを、私たちのためにすべて片づけます。その疑いは、主に対する自分の立場に、私たちに対する主の姿勢に関するものです。この胸の奥に潜んでいる疑いは私たちの力を損ない、私たちの敵の力を増し加えます。私たちは途方もない戦いのこの舞台の中に置かれます。この戦いはアダムの時代から続いており、この時代の終わりまでずっと続きます。大きな敵、恐ろしい仇との戦いです。それが霊的なものであることを理解するとき、それは次のような結果になります。すなわち、敵は何とかして私たちを霊的に弱めて台無しにしなければならないのです。それは、自分自身の要塞を維持するためです。そして、私たちの側の霊的強さは、彼の側の霊的弱さを意味します。また、私たちの側の霊的強さは、主イエスの血の価値を信仰によって理解した結果です。あなたが強いか弱いかは、この血をあなたがどう理解したかによります。教理や教えとしてではなく、あなた自身の最も深い部分で、どう理解したかによります。ご自身に対して真に信実で徹底的なすべての者たちのために、主は労苦されます。イエス・キリストの血が彼らに対して、ご自身が見ているとおりのものとなるように、主は労苦されます。これは次のことを意味します。主は何度も何度も、実際的な方法により、諸々の経験を通して、彼らを立ち返らせて、この血の無限の価値を彼ら自身の心に新たに感得させなければならないのです。また、彼らの証しの力、意義、豊かさは、常に大いに成長し続けなければならないのです。

私は今日イエス・キリストの血の中に、数年前に見ていたよりも遥かに多くの内容を見ています。今日この血の中にさらに多くの内容を見ています。そしてこの血は私の生活の中で、一年前よりもさらに尊いものとなっています!これはそうでなくてはなりません。これは静止した証しや真理ではありませんし、教理にまとめられて私たちが受け入れたものでもありません。いいえ、これは強力な力であって、私たちのうちに増し加わらなければなりませんし、私たちはそれにもたらされなければなりません。そして、それにもたらされるのは、私たちが罪の中に導かれてこの尊い血の価値を尊重するようになることによるのではありません。私たち自身の心と、私たち自身の性質の中にある不法の深さとが、私たちに開示されることによります。これが一方において意味するのは、私たちは自分自身の徹底的無力さをますます意識するようになる、ということです。しかし、それと並行して、私たちは自分の無力さの中に取り残されるわけではなく、この血の強力な可能性を理解するようになるのです。もし私たちに全き御旨に至るつもりがあるなら、主は私たちに対してこれを行ってくださいます。

これが勝利の意味です。そして、私が述べてきたように、この血の価値に関するまさに最初の点は、主に対する自分の立ち位置と、私たちに対する主の姿勢とに関して、なんの不安もないということです。あなたはこれに関して何か根本的な疑いを抱いているでしょうか?この確信があなたの中に霊的な方法で造り込まれたでしょうか?たんなる知的な事柄としてではなく、神があなたの中にどん底の経験を通してなさったものとして、造り込まれたでしょうか?あなたは開かれた天――神と共に切り抜ける道――というこの問題に関して、この血の力を学んできました。そうです、幕を通って、まっすぐ至聖所の中に、この宇宙で最も荘厳な恐るべき場所に入るのです――この血がなければ、死んで運び出されてしまいます。

これが意味するところを誰が定義・描写できるでしょう?死はとても恐ろしいものです。神の御子、主イエスは、すべての人のために死を味わわれました。これは彼の磔殺のことだと思いますか?これは、人々が彼を殺した時に、彼が肉体的に十字架につけられたことだと思いますか?全くそうではありません。あなたは磔殺とこの死とを常に区別しなければなりません。キリストの死をキリストの磔殺と同じものとは思わないでください。途方もない違いがあるのです。ローマ・カトリック「教会」は常に磔殺を、外側の客観的な面を力説します。しかし、ローマ・カトリック「教会」が道徳的に腐敗しているのは、キリストの死の意義を把握してこなかったからなのです。そうです、彼が「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられたのですか?」(マタイ二七・四六)と叫んだ時、彼はすべての人のために死を味わわれたのです。神に全く見放されて捨てられることの意味を完全に自覚する実感の中に、魂が真に、徹底的に、全く入ろうものなら、その魂は死を味わいます。死そして地獄とは、神から捨てられることだけでなく、それを知ること、それを理解すること、それを十分に実感することでもあります。これが死です。神との交わり、神との生き生きとした関係を知っている人にとって、この実感を失う経験は、それがごく短いものであっても、地獄であり、死です。彼らはこの関係を実際に失ったわけではありません。しかし時として、地獄の雲が湧き起こって、魂の上に広がり、あなたは「主は自分と共におられる」というあの幸いな感覚を失い、一人ぼっちに思われます。魂が知りうる最も恐ろしい経験は、神に捨てられる恐ろしい現実の中に入ることです。これを一瞬でも経験する時、それは永遠のように思われます。一瞬でも永遠のようです。そしてイエス、神の御子は、すべての人のためにこれを味わわれました。「それは人が死なないため」、そのようなことが起きないためでした。旧約聖書における字義的意味はこの霊的現実――「それは人が死なないためです」――の一つの型にすぎませんでした。そして、この血があの恐ろしい必然性・可能性に対して備えをしたのです。その血とは主イエスの尊い血です。

血による勝利

さて、罪が存在する領域では、死はサタンの正当な武器・道具であることを考える時――罪はサタンの根拠だからです――イエスの血はサタンの権利、力、根拠を彼から取り去らなければならないことがわかります。イエスの血は罪を対処します。罪はサタンの立場です。イエスの血はサタンの権利を対処し、サタンの力を対処します。死はサタンの力です。聖書における血に関する啓示全体からわかるように、この血はこれらすべてを対処します。まさにそのとおりです。この血は罪の問題を引き受けます。罪はサタンの訴えの正当な根拠であり、この根拠に基づいて彼は死という自分の正当な武器を行使します。この血はそれをすべて失効させて、サタンから彼の立場と力を奪います。これを認識すること、強い信仰でこれを保持することは、悪の領域においては、その領域の敵対心を徹底的に刺激するようなことです。しかしそれは、この血の結果に対する恐れによって引き起こされた憎しみなのです。この血は、一方において、サタンを滅ぼすためであり、他方において、この血のおかげで神の御前に立つあの人々のためです。これがみな、その血のこの証しと密接な関係にあります。これは切り抜ける道、新しい道です。

私はここで終えなければなりませんが、終えるにあたって再びあなたたちに尋ねることにします。この血はあなたにとってどんな意味があるのでしょう?それはあなたのキリスト教的信条、主イエスを信じるあなたの素朴な信仰の一部にすぎないのでしょうか?まあ、それでも結構かもしれません。しかし、ああ、あなたはこの血の途方もない力をますます見るようになっているでしょうか?それをますます理解するようになっているでしょうか?もしそうなら、勝利の生活はあなたのものです。あなたは恐ろしい戦いの中にあるかもしれませんが、その戦いのまさに中心に勝利があります。もしこの信仰があなたにあるなら、主イエスの血にしがみつきなさい。

私はこう感じています。主は主イエスの基本的証しに関する十分な立場に私たちを戻らせようとしておられるのです。それは、ますます困難になりつつある終末の霊的状態に対処するためです。「霊的圧力や戦いに関して全く理解していない人々に向かって自分は話している」とは私は思っていません。霊的戦いとは何なのか、まさに悪魔との霊的戦いとは何なのか、悪の勢力の抵抗を受けているにもかかわらず知らない人があなたたちの中にいるなら、あるいは、何の戦いもない輝かしい勝利の行進の中をあなたたちがまさに進んでいるなら、その場合、私が述べていることはあなたたちにとって何の意味もありません。しかし、霊の命を得るのがますます容易ではなくなりつつあり、ますます困難になりつつあること、そして、あなたに霊的に立ち向かっているこの勢力がますます自分たちの力を示しつつあることに、あなたが気づきつつあるなら、あなたは私が何を話しているのかわかるでしょうし、問題は「それにどう対処すればいいのか?」であることがわかるでしょう。これが神の御言葉から予期されることです。これはそうなることが予期されます。そして、最終的にサタンは、食い尽くそうとするこの大きな赤い龍に込められた彼のすべての称号を帯びて、出現することになります。私たちはどのように勝利し、切り抜けて、神のもとに、彼の御座に引き上げられるのでしょう?これは内なるものに基づく何らかの結果です。

外なるものは内なるものの結果です。そして、その内なるものとはこれです、「彼らは、小羊の血のゆえに、また彼らの証しの言葉のゆえに、彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでも、自分の命を愛さなかった」。これが意味するのは、必ずしも私たちが文字どおり殉教者になることではありません。そうではなく、これは確かに次の事を意味します。すなわち、私たち自身の生活、それが意味する一切のもの――私たち自身の生活を構成している私たちの諸々の関心――これはことごとく、私たちの証しと釣り合ったものにならなければならず、この一つの偉大な問題に服さなければならないのです。その問題とは、神がご自身の求めているものを私たちにおいて獲得されることです。もし主の関心と私たちの関心、彼の生活と私たちの生活との間に何らかの齟齬があるなら、そこから敵は入り込んで、すべてを破壊します。それが弱点です。二心ではない心が、敵に対して完全に勝利するのに必要です。

私たちが現在知る必要がある、と主が見なしておられることを、主ご自身が語ってくださり、私たちに明らかにしてくださいますように。