第三章 血による復活の命

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:ヘブル十・十九~二〇、創世記八・二〇~二一、一ペテロ三・十八~二一、マタイ三・十三~十七

前の章で私たちは、主がイエスの血の強力な効力に関して、御言葉を通して新たな方法で私たちに語りかけることのできる領域の中に入ろうとしました。特に、悪の勢力からのますます強まる霊的圧力――終末の状況はこのようなものであると神の御言葉は啓示しています――の観点からそうしようとしました。私たちは終末の状態を示す黙示録十二章に言及しました。この章の描写によると、大きな龍、あの太古の蛇である悪魔、兄弟たちを訴える者であるサタンが、あるものを食い尽くそうと待ち構えています。そのあるものとは、形成されつつあるものであり、神へと、そして、御座へと引き上げられることになっているものです。私たちはこう結論してもかまわないと思います。すなわち、これはラオデキヤ時代の勝利者たちに対してなされた「わたしと共にその座に着く」という約束を成就するためであり、「鉄の杖で諸国民を支配する」という御言葉を成就するためなのです。この群れの誕生と携挙に反対して、サタンの敵意のあらゆる圧力が加えられます。自分たちは今これを多少経験している、と私たちは確信しています。

今は、まさにこれが霊的に進行しつつある時です。そして、真に霊的な神の民は、悪と死の勢力の霊的圧力に気づいています。そのため、イエスの証しの維持・拡大はますます困難になりつつあります。そのための道は細く、閉鎖・封鎖されようとしています。霊的前進、真正の霊的前進を一歩でも果たすには、真に霊的性格を帯びているものを実際に少しでも獲得するには、近頃では、とても大きな戦いと代価がつきものです。私たちが述べているのは諸々の大きな運動についてではなく、まことの霊的益についてです。

何事かを成しつつあるかのように思われる、大きな組織的運動がたくさんあります。しかし、私たちはもっと深く見ることを学びました。この類の活動はまことの霊的益を常に示すものではないことを、私たちは経験的に知りました。往々にして、しっかりとした霊的価値がほとんどないことが後でわかります。真にキリストの増し加わりであるものは、きわめて強烈な方法で常に悪の勢力から攻撃されます。正しい道の立場に少しでも立つには、大きな代価が必要です。そして御言葉が示しているように、これは終末に向けてますますそうなります。また、神の民は自分たちの立場を徹底的に知り、自分たちの武器を実際に知る必要があります。このような霊的圧力の状態の存在と、私たち自身の生活とこの世界で真の生ける証しを維持することの困難さとに、私たちが気づくとき、私たちは神が勝利のために備えてくださった諸々の手段に関する常に新しい霊的理解を持つ必要があります。そして、勝利の第一の包括的な手段は主イエスの血です。ですから私たちは、主イエスの血の途方もない意義と価値に関する理解に、常に新たに立ち返る必要があります。

少しだけ見たように、アベルは地上における主の最初の証し人であり、サタンの全力の敵意に遭って死にました。しかし、彼の体は損なわれて殺害されましたが、霊においては勝利して勝利者の証しの系譜の最初のものになりました。彼は血のゆえに勝利しました。彼が勝利したのは彼の証しの血のゆえでした。彼の勝利の性質について、私たちはもう少し詳しく触れることにします。さしあたって事実に触れるだけです。アベル以降、あらゆる時代を通して、これが勝利の手段でした。というのは、この同じ敵意に、あらゆる時代の神のすべての真の子供たちは常に遭ってきたからです。そして最後まで、黙示録が明らかにしているように、これはそうです。「男の子」と称されているこの群れは、「小羊の血のゆえに、彼らの証しの言葉のゆえに勝利した。彼らは死に至るまで自分たちの命を愛さなかった」。この血が最初から最後まで勝利の基礎です。勝利することは決して小さなことではありませんでした。恐ろしい戦いだったのです。

諸々の事例の幾つかを見さえすれば、これがいかに大きなことなのかがわかります。ここでついでに、イスラエルのエジプトからの解放――エジプトにおけるあの素晴らしい過越の夜――の問題に言及することにします。それは何と途方もないものだったことでしょう!神はそこで悪の勢力を極みまでも引き出されました。この物語を注意深く読んだことがあるなら、「なぜ神は、パロに対する取り扱いの最初の時に、全力で介入してこの状況を打破し、ご自身の民を脱出させなかったのだろう」「どうして神は一種の段階的な方法を取られたのだろう」とあなたは不思議に思ったかもしれません。一戦目はモーセの杖によってです――魔術師の杖は神に匹敵するかのように思われます。確かに、これが一戦目です。唯一の違いは、モーセの杖――モーセの杖が転じた蛇――が他の杖をすべて飲み込むことです。これは至高性を示していますが、決してこれで終わりではありません。次に、他の事柄も同様で、匹敵しうるかに思われます。神はそれらを利用されます……次々と災厄が起きて広まります。御言葉が「エジプトのすべての神々に対して」(出エジプト十二・十二)と述べているのを思い出すなら、当時起きていたことは、霊の領域に次のことを銘記するものだったことがわかります。すなわち、神はエジプトの神々を対処して行動不能にしようとしておられたのです。彼はまさに礼拝の対象を礼拝者たちの上に降りかからせました。川が礼拝されていたので、彼はそれを血に転じられました。その背後にはひとりの神(god)がいました。神(God)は霊的背景を取り扱っておられ、徐々に引き出されます。そしてついには、これを十分に伸ばして、まさに命か死かの問題にされます。これが最後です。

私の要点はこうです。霊的悪の力はことごとく徐々に引き出されつつあり、その後、神はそれを丸ごと粉砕されるのです。小羊の血によって粉砕されるのです。過越の夜、血が契約の印、勝利の手段でした。そして、十分に伸びきった悪の力は、この血の根拠に基づいて対処され、打ち倒され、民は脱出しました。私がこれを述べるのはただ、主イエスの血は勝利の基礎であることを示すついでです。主イエスの血は、十分に伸びきった悪の力よりも、偉大であり、強力なのです。

血は命である

さて、少しのあいだ、この血の性質のおかげであるこの勝利の性質に、さらに向かいたいと思います。そこで、まず最初に、「血」というこの用語を識別すること、つまり定義することが必要です。次のような場合、私たちは自分の頭の中からその象徴性を排除しなければなりません。すなわち、「血」という言葉は象徴的用語であるため、その象徴性のゆえに、この血の真の意義を知的に誤解したり理解しそこなったりする場合です。復活した主イエスに血はありません。復活の体は血のない体です。それは別の原理によって動かされ、力づけられています。彼は「わたしに触り、そして見なさい。霊には肉や骨はありませんが、あなたたちが見ているとおり、わたしにはあります」(ルカ二四・三九)と言われました。もしこれが復活の前なら、「肉や血」であったでしょう。しかし、この血のきわめて強力な力について、彼の復活・昇天後も、ずっと最後まで、依然として述べられています――文字どおり血があるわけではないのにです。ですから、「血」は象徴的用語であり、私たちは象徴されているものの意義を理解しなければなりません。

簡単に述べると、血は性質です。時としてそれは「魂」であると述べられています――これは同じものです。時としてそれは「命」であると述べられています――命と血は同義語です。時としてそれは「心臓」とも述べられています。しかし、これは象徴的用語としての「心臓」であり、文字どおりの意味ではありません。なんなら、それを命、一種の命・性質として述べることもできます。その場合、これは主イエスの性質・命ということになります――彼の中にある類の命、性質ということになります。これが力です。血について述べる時、私たちは常に覚えておかなければなりません。私たちが述べているのは、彼の血管中の赤い液体のことではなく、彼が注ぎ出された血と彼の中にある性質のことなのです。

次に、神にささげるべきささげ物に関する旧約聖書のすべての象徴に戻ると、それは常に傷もしみもないものでした。小羊には傷もしみもありませんでした(出エジプト十二・五)。先ほど読みましたが、ノアは清い獣を取って主にささげました。常にそうです。彼らは神にささげるいけにえの清潔さや清さに関して細心の注意を払いました。マラキの時代、神が民を責められた最大の点は、彼らが傷のある盲目のものを神の祭壇にささげていることでした。そのようなことは犯罪であり、邪悪な犯罪でした。なぜなら、祭壇といけにえは主イエスを表すべきものだったからです。神にとって耐えられないことです。「離れよ、わたしは何も受けない!『あなたたちは呪いをもって呪われる』」(マラキ三・九)。いけにえの意味を認識していなかったのです。これらのいけにえの目的は、主イエス・キリストの性質の徹底的な完全性、無罪性、潔白さ、不朽性を象徴することでした。そして、この道徳的性質の中に強力な力があるのです。それに対してサタンには何の権威もなく、何の立場もありません。「この世の君が来ます。しかし、彼はわたしの内に何も持っていません」(ヨハネ十四・三〇)とイエスは仰せられます。

これが、サタンが主イエスについて抱えている、大きな問題であり謎です。彼はあたりを何度も巡って、中に入り込む道を見つけようとします。彼を滅ぼすための正当な足掛かり、権威の立場を自分に与えてくれるものを得ようとします。サタンを破滅させるのはこの性質です。主イエスが受けた誘惑はすべて、サタンが仕掛けたものであり、それは彼の中にない何かを彼に取り込ませるため、彼に何かを取り入れさせるためでした。「もしあなたが神の子なら……」(マタイ四・三)。彼の内にない何かを内にもたらすためでした。それは、サタンがこの御方を霊的に優位な地位から退位させるためであり、この子たる身分が有する意味をすべて損ない、完全な性質、神ご自身の性質、神ご自身の御心を持つ神の御子を損なえるようになるためでした。ここにキリストの至高性があります。それは彼の罪なき性質です。

今、次のことがわかります。無罪性、聖さ、純粋さ、不朽性は、サタンを滅ぼすものであり、サタンを打ち負かすものなのです。そして、これはすべて聖書中の一つの言葉に帰着します――すなわち義です。「信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、このことを通して義であるとの証しを得ました。神が彼の供え物に関して証しされたからです」(ヘブル十一・四)。彼は義であると神は証しされました。これが彼の勝利でした――すなわち、信仰による義、信仰による神からの義です。そして、彼は悪の力の残忍な襲来に直面しても勝利しました。彼は肉体的には死んでいますが、それでも語りかけています。これは、旧約聖書の他の御言葉に照らして解釈すると、次のことを意味します。この血は、その器から分離されても、なおも生きているのです。私たちは今日これを知っています。近年、輸血が大いに発達しました。血を数週間たくわえておいても、依然として生きており、依然として活気づけて活性化できるのです。血は生きているものです。

さて、アベルの血は、それが流されて大地がその口を開いてそれを受け入れた後も、なおも語っており、なおも力があり、なおも活力があり、なおも訴えかけているものとして述べられています。「あなたの弟の血の声がわたしに叫んでいる」。これは象徴的表現です。

主イエスは彼の十字架を通してご自身の血を解き放たれました。彼は血を流された、と私たちは言います。たしかに、これは象徴的表現です。しかし、彼はご自身の命を解き放ち、注ぎ出して、言われました、「取って、飲みなさい。人の子の血を飲まなければ、あなたたちの内に命はありません(ヨハネ六・五三)。この杯はわたしの血による新しい契約です(一コリント十一・二五)。あなたたちはみなそれから飲みなさい(マタイ二六・二七)」。彼は彼の性質、彼の神聖な性質、彼の罪なき性質を解き放ち、彼の霊によってそれを私たちに与えてくださいました。ペテロは言います、「際立って偉大な尊い約束。それによって私たちが神聖な性質にあずかる者となるためです」(二ペテロ一・四)。私たちは彼の命を受け入れました。象徴的に、私たちは彼の血を飲み、彼の命を受け入れました。私たちの新しくされ、再生され、新生した霊の中には、受けた何かがあります。それは神の霊による、罪のない、朽ちないものです。私たちはそうではありませんが、彼はそうです、「神が御子に関してされた証し。その証しとはこれです。すなわち、神は私たちに永遠の命を与えてくださったこと、そして、この命は御子の中にあることです。御子を持つ者は命を持ち、神の御子を持たない者は命を持ちません」(一ヨハネ五・十~十二)。私たちは二つのものから成っています。外面的に、私たちは依然として生来のままですが、内面的に、私たちは別の者です。キリストにあずかる者、彼の神聖な命、彼の性質の共有者です。私たちは彼の血から飲みました。

さて、これこそあらゆる戦いの原因・契機です。この血は何でしょう?それは彼の義なる性質です。それは私たちの存在の最も深い部分にある真理であり、彼が神の御前でそうであるように私たちを義とします。これが証しです。「彼がそうであるように、私たちもこの世でそうであるからです」(一ヨハネ四・十七)。彼のように義なのです。これは途方もないことです!これは把握するのが困難です。そしておそらくこの困難に敵はときどき乗じます。しかし、これを握ることだけを私たちは叫び求めます。それは、私たちが地獄から救われて天に至る問題であるだけではありません。サタンは打ち倒されて、神の王国がもたらされること、そして、神のすべての御旨が実現されることに対する、この強力な証しの基礎でもあります。それは罪の赦しの単純な福音の一部であるだけではありません――それはこれでもあるのですが、無限に優ったものです。まさに最後までずっと、この宇宙における神の壮大な御旨はすべて、この血と密接に関係しています。この血の意義を私たちが信仰によって保持することと密接に関係しています。この血の中に神を真に満足させる義があるのです。

血による復活の命

こう記されています、「ノアは主のために祭壇を築き、すべての清い動物と、すべての清い鳥のうちから取って、祭壇の上で全焼のささげ物をささげた。そして、主はそのかぐわしい香りをかがれた」(創世記八・二〇、二一)。何が起きたかわかるでしょうか?それは新しい世界です。それは裁きの中から現れました。一つの世界が裁かれ、死に下り、葬られました。ペテロの表現では、一つの世界がバプテスマされました(一ペテロ三・二〇~二一)。ペテロが言うには、洪水は世界をバプテスマするものであり、裁かれて罪に定められたものとして死の中にバプテスマするものであり、新しい世界を起こすものだったのです。

しかし、それでは不十分です。その起こされた新しい世界は活かされて、神に対して生きているものとされなければなりません。そこで、ノアは祭壇で血を注ぎます。そして、血を注いで、このいけにえを祭壇上にささげることにより、神に対して生きている世界を贈り物として進呈します。血がそれを生けるものとします。

これが正しい解釈であることを疑うなら、幕屋とそのすべての備品と体系の事例を見てください。それについてどう述べられているのかを思い出してください。血がすべてのものの上に振りかけられました。幕、祭壇、備品の上に、契約書の上にまで振りかけられました。何のために血はすべてのものの上に塗られたのでしょう?幕屋は麗しい体系であり、模型にしたがった完全なものですが、それだけです。聖書の模範にしたがって物事を構成したとしても、全く死んでいるおそれがあります。新約聖書的秩序を打ち立てたとしても、命に欠けているおそれがあります。これは活気づけられ、活性化され、生けるもの、実際に生きているものとされなければなりません。ノアは実効的に、そのいけにえの血によって、これを神に対して生きているものとしました。どうやってでしょう?ペテロがそれを説明しています。「八人が水を通って救われました。その水はバプテスマの予表であって、今やあなたたちをも救うのです」。次に彼は自分が述べたことを保護します、「バプテスマは肉の汚れを除き去ることではなく、神に対する正しい良心の審問、応答です」。

神に対して正しい良心とは何でしょう?人々は、多くのことを行わず、多くの別のことを行っているがゆえに、自分自身に対して正しい良心を持っているかもしれません。これは神に対してとがめのない良心ではありません。神に対して正しい良心は一つしかありません。すなわち、清められた良心です。言い換えると、絶対的義の神の水準にかなう良心です。つまり、罪なき完全です。さて、これをその文脈から抜き出さないでください。私の話は終わっていません。教理としての、自分自身による罪なき完全を私は説いているのではありません。私たちが何者であるのかには関わらず、神は罪なき完全より低いいかなる水準にも決して下られません。これを彼は要求しておられ、徹底的な罪なき完全より劣るものを一瞬たりとも受け入れようとはされません。神に対して正しい良心を持つには、あなたはこの立場の上に立たなければなりません。

このようなことがどのように可能なのでしょう?神ご自身が小羊を備えてくださったのです。神はそれを見いだして、ご自身でそれを御子において備えてくださいました。主イエスの性質の徹底的無罪性が神の要求に応えます。「あなたはわたしの愛する子。あなたをわたしは喜ぶ」(ルカ三・二二)。しかし、それがどのように起きたのか、あなたは気づいているでしょうか?この証しはバプテスマを通してなされました。それは主イエスによりバプテスマを通してなされました。ペテロはそう述べています。「正しい良心の応答」。どのようにしてでしょう?パウロ流の説明をするとこうなります。ここに、一人の犯罪人がいます。彼の良心は大いにとがめています。当然のことながら、裁判は彼に対して全く不利です。彼は死刑判決を受けて死に渡されます。彼は自分の罪の最終的罰を受けます。「罪の報酬は死です」(ローマ六・二三)。彼は死にます。法律の要求がすべて執行されます。法律が彼の上に執行し尽くされて、今や彼は死にます。その人が起き上がり、死者の中からよみがえります。法律を再び適用して、刑をすべて執行し直すことは、正しいことでしょうか?いいえ、法律は満たされたのであり、その人は自由です。パウロはこれを解放と呼んでいます。苦しんだ者は、パウロが言うには(彼が意味しているのはこの死の最終的苦しみのことです)、罪から義とされ、解放され、自由なのです。私たちはキリストにあって死にました。彼は私たちとして死なれました。彼は私たちのために呪いとされ、神の要求はすべて満たされました。そして、彼は死者の中から私たちとしてよみがえらされました。裁きはもはやありません。解放され、義とされたのです!

これが、「今はそうさせてください。このようにすべての義を成就するのは、わたしたちにふさわしいことです」(マタイ三・十五)と述べた時に、彼が言わんとされたことです。あなたはすべての義をどのように満たすのでしょう?すべての罪に対して死に、罪人として死ぬことによってです。不義があるところに、神の義なる要求をすべて執行してもらいなさい。そして、不義は対処されて葬られたがゆえに、不義はもはや通用しない立場につかせてもらいなさい。

神に対して正しい良心の応答とは次のようなものです。すなわち、私たちは復活されたキリストの中にあり、そこでは私たちの罪は永遠に裁かれ、私たちの罪深い性質、私たちの罪深い人は彼にあって対処され、取り去られているのです。そして、私たちは信仰によって彼の罪なき性質、彼の罪なき命を受けているのです。もう一度言うと、私たちの存在の最も内奥の現実に神は満足しておられるのです。

血による絶え間ない清め

さて、これによりある状況をもたらす何かがなされました。その状況により、サタンは無力化され、彼の根拠は彼から取り去られ、彼の権威は滅ぼされます。しかし、その絶望的状況の中でも、彼は諦めません。私たちの主に対して働いたのと同じように、彼は私たちに対しても働いて、この立場――そこでは彼は無力です――から私たちを引き離そうとします。さて、主イエスに関しては、彼はそこにない何かを持ち込もうとしました。私たちに関しては、彼は何とかして私たちにこの立場――キリストはどのような方なのかという立場――を放棄させて、別の立場を取らせようとします。特に、私たち自身がどのような者なのかという立場を取らせようとします。ですから、最後の最後の箇所で、彼は兄弟たちを訴える者、「彼らを私たちの神の御前で昼も夜も訴える者」(黙示録十二・十)と呼ばれています。彼は「このことやあのことを見てみなさい。この人やあの人に関する別の面を見てみなさい。あの気性の荒さ、あの失敗、あの……を見てみなさい」と言います。ああ!私たち自身に言える無数の事柄を何でも言います!彼は訴えて、私たちをこの立場にもたらして、この立場を取らせようとします。私たちが一瞬でもそうするなら、私たちの喜びは失せ、私たちの保証は失せ、私たちの力は失せ、私たちの顔色は悪くなり、私たちは悲惨になります。死が入り込んで、サタンは絶えずこの支配力を強めます。正しい立場を回復すること、取り戻すことは、なんと困難なことか。それは真に戦いを意味します。それにもかかわらず、神はこのすべてに関して備えをしてくださっています。

神は備えをしてくださっています。この基礎、最初の立場とは次のようなものです。すなわち、信仰によって私たちは義とされる、ということです。つまり、私たちは義と勘定してもらえるのです。キリストにあって、彼の血のゆえに、私たちは義である、という証しを私たちは持ちます。次に、神は残りのこと、私たち自身がどのような者なのかということを、明確にご覧になって、備えをしてくださいました。それは、そうした一切のことによって、この基礎的立場が影響を受けたり覆されたりすることのないためです。「もし私たちには罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いているのであって、真理は私たちの中にありません」(一ヨハネ一・八)。多くの人々が、自分の状態と自分の立場との間の不一致というこの困難を克服しようとしてきました。自分たちの中にはなんの罪もない、といったことを主張することによってです。それは幻想であり、真実ではありません。この人々の大半はそうではないことを知っているので、罪を別の名で呼ばざるをえません。しかし、神は真実をご存じであり、事実上こう仰せられます、「あなたがキリストにあって根本的にどのような者なのか、ということは一つのことであり、あなたはそのような者です。あなたが自分自身にあってどのような者なのか、ということは別のことですが、それに関してもわたしは備えをしましょう」。

「もし私たちには罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いています(彼を偽り者としています)」(一ヨハネ一・十)。「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら、彼は信実で義であられるので、私たちの諸々の罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださいます」(一ヨハネ一・九)。ああ、この述べ方が私は好きです。なぜこのように述べられているのかを理解すればするほど、私はますますこれが好きになります――「彼が光の中におられるように、私たちが光の中を歩くなら、私たちは互いに交わりを持ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます」(一ヨハネ一・七)。私たちの英語では元の意味が失われています。この御言葉の時制は、「御子イエスの血はすべての罪から清め続けます」です。この命は永続的なものであり、このように聖める命であり、このように義なる性質を持っています。もしかすると、私たちは何らかの暗闇、暗闇の行動、暗闇の霊、暗闇の気性の中に落ち込んでいるかもしれません。暗闇であって光ではない何かの中に落ち込んでいるかもしれません。それについてどうすればいいでしょう?その中で前進し続け、その中に居続けるべきでしょうか?あるいは、そこで脇に行ってそれを告白するべきでしょうか?暗闇の中を歩くなら、何が起きるでしょう?私たちに対するこの血の効力を無効化してしまいます。私たちが立ち止まってそれを告白するとき、この血は新しいことをするわけではなく、常にし続けてきたことをし続けます。つまり、神の御前における私たちの立場を維持するのです。それは神に対して短く清算する問題です。罪の中を進み続けることではなく、告白することです。彼は信実で義であられるので、すべての不義から私たちを清めてくださいます。この血、この命、この性質、この義の強力な力が働き続けます。ただしそれは、私たちが信仰によってそれとの関係の中に居続けるならばです。

あなたは次のことを少しは理解できると思いますし、あなたにはできると信じています。すなわち、この血とその意義には、霊の事柄や霊の勢力の全領域で、途方もない力があるのです。そして、それは神の御旨を実現できるのです。この血、この性質、神に対する正しい良心のこの応答、神のこの満足を、内住の主イエスは備えてくださいます。それは「あなたたちの内におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ一・二七)です。もし私たちがこの栄光の望みを他所に、あるいは自分たち自身の内に探すなら、栄光の望みは全くありません。内なるキリストが栄光の望みなのです。

主がこれを私たちに対してますます大いに尊いものにしてくださいますように。