第四章 血による新しい契約

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:出エジプト十二・一~八、エレミヤ三一・三一~三二、ローマ七・四、一コリント十一・二五、エペソ五・二五~二八、黙示録十九・七、九

「これはわたしの血による新しい契約です。」

「わたしが彼らの父祖を、その手を取ってエジプトから導き出した日に、彼らと立てた契約(中略)わたしは彼らの夫であった。」

神がイスラエルと立てられた旧契約と、主イエスの血による新契約の両方に関する聖書の御言葉から、次のことは大いに明らかです。すなわち、この契約の基礎、この契約の性質は、それは婚姻契約だった、ということです。「わたしが彼らの父祖と立てた契約(中略)わたしは彼らの夫であった」。これに関して多くの聖書の御言葉が思い浮かびます。主は、イスラエルをご自身にめとった、と仰せられました。彼は預言者エレミヤを通して嘆かれました、「わたしはあなたについて、あなたの若いときの優しさ、花嫁の日々の愛を覚えている。あなたは荒野で、種が蒔かれていない地で、わたしの後に従った」(エレミヤ二・二)。この事実を証明する聖書の他の御言葉もあります。これについて今、議論することにします。

この新約聖書でも同じ観念が現れます。ローマ人への手紙のこの章で、使徒は、律法に嫁ぐこと、次に、この夫である律法に対して死ぬことについて述べています。そして、復活の中で、この夫から解放されます。それは別の方、すなわちキリストに嫁ぐためです。これは旧契約から新契約へ、モーセからキリストへの移行です。婚姻関係にあるキリストと教会という偉大な真理が、エペソ五・二五の比類ない次の御言葉によって示されています。「キリストは教会を愛して、そのためにご自身をお与えになりました」云々。そしてこれはみな、あの偉大な結末、小羊の婚宴を指し示します。それは偉大な輝かしいことであり、私たちの理解力を遥かに超えています。たしかに、それを把握することはできません。しかし、ここには熟慮すべき一つか二つの思想があります。

婚姻関係

婚姻関係が主とその民の目的であり、それは彼の血によって制定されます。教会とキリストの間のこの関係は彼の血、新契約の血によって確立されます。私たちの前の黙想では、この血の意義をいくらか見ました――その性質と、したがって、その途方もない力を見ました。次に、この婚姻の契約関係の中でなされるのは、ある関係を実際に確立することです。その関係は一つの命を共有することであり、一つの性質、一つの命、一つの本質的パースンに共にあずかる者となることです。これが血の意義です。

この問題に関する聖書の啓示全体によって私たちが今知っていることから、アベル以降のこれらのいけにえ、これらの血のいけにえの背後に何があったのかわかります。それは神との完全な一体化と交わりという関係の確立を求めていたのです。アベルは心の中でこれを求めていました。彼は神との契約関係のこの意味を求めて、その血のおかげでそれを見いだしました。同じことがアブラハムにも言えます。神はその血という手段によってアブラハムと契約を立てられました。イスラエルの場合についても、国家全体が血によって神との契約関係というこの基礎の上に導かれました。

その意義は明らかです。まさに神ご自身の命を共有することによる絶対的交わりと一体性の立場・生活が目的です。これがそれによって神が意図されたことです。こういうわけで神は小羊とその血を定められたのです。彼の御思いはご自身との完全な一体化であり、他のものはみな永遠に放棄するに至ることでした。これがそれに関する彼の御心でした。もちろん、これにより、不信実な花嫁であるイスラエルの不信実さに関して時々述べられている恐るべき事柄の説明がつきます。それは神の御思いが徹底的だったからなのです。もはや二つの命、二つの興味、二つの一連の関心ではなく、単一の命、単一の性質、単一の目的です――徹底的な一体性を永遠の契約のこの血は表しています。それは婚姻関係であり、この関係によって神が意図しておられる一切のものを伴います。神がどれほどこの関係を聖なるものとして保持しておられるのか、彼の目にこれが何を意味するのか、私たちは知っています。

私たちがしばしば述べてきたように、神が確立されたこの地的関係、この婚姻関係は、ある偉大で天的な永遠の事柄を地上で反映するよう定められています。その事柄は神が御心の中に抱いておられるものであり、ご自身とご自分が贖われた者たちとの間のものです――つまり、一つの血、一つの命、一つの性質による婚姻関係です――隔てはなく、二重の要素は全くありません。単一です。「これはわたしの血による新しい契約です」。「あなたたちはみなそれから飲みなさい」。

主によって生きる

私たちの飲食は謎めいています。どうなっているのか、だれもわかりません。その諸々の過程は描写できますし、状況の解析もできますが、だれも説明できない一つの点があります。その点とは、私たちが摂る食物はどこで私たちが考える思いや、私たちの音声になるのか、ということです。あなたがこれまで摂ってきた食事のおかげで、あなたは音声を発することができます。飲食を長い間やめるなら、あなたは自分の声を失います!あなたの思考力は失せ、あなたは考えられなくなります。どういうわけか、あなたが食べてきた食事、あなたが摂ってきた飲み物は、今や、思い、音、私たちの存在の表現そのものである他の多くの有形のものになります。

要点はこうです――「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」。主イエスの命を受けること、彼を受けることによって、どのように彼が吸収されて私たちによって表現されるのかは謎です。私たちであるものから彼であるものに変わるのです。私たちの食物と私たちの飲み物――これらがいま私たちの人格を構成しています。もしあなたがある制限された系統のものしか食べないなら、あなたの振る舞いは変わるでしょう。あなたは不機嫌で気難しくなるかもしれません。あなたに必要なのは食生活を変えることです。さもないと、あなたは別人、あなたがおもに摂取するものにしたがって別人になるでしょう。このようなことによって私たちの人格までもがどう影響を受けるのかは、謎であり、未知であり、不思議です。理解力のある人ならだれでも直ちに言うでしょう、「これこれのものをたくさん摂りすぎたので、あなたはこうなったのです。あなたは変えなければなりません。別のものを摂らなければなりません」。私たちの食べるものが、私たちを今の私たちにしたのです。

取って、食べなさい。取って、飲みなさい。そうするなら、ある結果、ある霊的な結果が生じるでしょう。あなたの存在、あなたの命の基盤は、あなたが摂取するものになるでしょう。もしあなたがキリストを摂取し、キリストを吸収するなら、あなたの中で奇跡が起きるでしょう。あなたがキリストを思うようになって、キリストを表現するようになるという奇跡です。無形ではあるものの、大いに現実的な数々の形で、キリストが現れるでしょう。これが婚姻関係です。私たちの中にある変化が起きて、もはや私たち自身ではなく、今や、私たちの命であるキリスト、私たちの思いであるキリスト、私たちの目的であるキリスト、私たちの道であるキリストになります。すべてキリストです。私たちの道と彼の道というような、二つの道はありません。二つの方法、二つの関心、二つの世界はありません。ただ一つだけです。「私にとって生きることはキリストです」(ピリピ一・二一)。私たちはキリストを受けました。私たちは常にキリストを受けています。その結果、私たちが受けるもののおかげで、私たちが与えるものもキリストになります。私たちが表現するのはキリストになります。

さて、これが婚姻関係に関する神の御思いである、と述べるのは、おそらく飛躍に思われるかもしれません。しかし、これはそうなのです。神によるとこの婚姻関係は次のようなものです。すなわち、夫に結ばれた妻は夫の命を受け、それにあずかるのです。そして、彼女は一つの命だけを持つのです――それは夫の命です。また、一つの関心だけを持つのです――それは夫の関心です。妻は夫と同調します。ですから、「これが神が求めておられるものであり、私たちはこれが可能であることを理解しなければならない」というこのような結論をしっかりと下すことが、なんと重要でしょう。私は脇道にそれて、この婚姻関係について小言を述べたくはありませんが、これが神の観念です――すなわち、一つの命です。そして、他のものはこの一つの命にすっかり明け渡され、この一つの命によって統治・支配されなければなりません。それは、もはや二つの命ではなく、一つの命になるためです。これが神の御思いです。なぜならそれは、彼ご自身と彼の贖われた者との間の、御子と御子の花嫁との間の、この高次の関係の反映だからです。一つの命となるためにキリストを吸収するのです。

信仰による主への私たちの明け渡し

さて、注意してください。聖書の中で契約、血による契約が示される時は常に、信仰の要素も常に示されるのです。「信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえをささげました」。その時、ある契約が立てられて、導入されました。少し後でアブラハムの箇所に来ても、この同じものがあります。信仰がアブラハムと立てられた契約の基礎です。神は一つの契約をアブラハムと立てられ、その契約は創世記十五章に記されている日に開始されました。その時、アブラハムはいけにえを用意し、それを二つに裂き、主の御前に置きました。すると、たいまつがそれらの間を通りました。大いなる暗闇の恐怖が臨み、空の鳥が食い尽くすために降りて来たので、彼はそれらを追い払い、とうとう日が沈みました。その時、神は契約を立てられました。そこには流された血があり、契約のために備えられた立場がありました。そして、神はアブラハムと契約を立てられました。しかし、その上を覆う信仰の要素について大いに述べられています。「信仰によってアブラハムは……」。これはみな信仰によります。彼の全生涯は信仰によります。この同じものがノアにもあります。「信仰によってノアは……」。神はノアと契約を立てられました。そして、祭壇が築かれ、いけにえがささげられ、虹が契約のしるしとして与えられました。そこには血がありました。信仰によって、すべては信仰によってです。イスラエルについてもです。契約が立てられる時は毎回、信仰の要素が基礎です。

これは新契約にもなんと当てはまることか。それは全く、信じる者に対するものです。

これは何を意味するのでしょう?血による契約により、婚姻関係が表明されるのです。

それは全く信仰によることは何を意味するのでしょう?それはとても単純だと思います。婚姻関係では信仰による大きな一歩が踏み出されるのです――一方の側は特にそうです。妻の側では、それは信仰の途方もない一歩です。それはまさに、相手への完全な委任を意味します。良いことであれ、悪いことであれ、優ったものであれ、劣ったものであれ、自分自身をそのために委ねるのです。そして今、私は単純に信じなければなりません、この相手は私を失望させず、がっかりさせないと。相手に自分自身を与えたことの正当性が最後には実証されると。

これがアベルがしたことです、すなわち、信仰によって自分を神に明け渡して、血をその行為の印・証拠としたのです。これがアベルがしたことです。彼は自分を神に明け渡して、血をその明け渡しの基礎としました。これこそ、神がこの血について常に御心に抱いておられるものです――すなわち、信仰、完全な信仰の行為による、徹底的明け渡しです。これは宣言します、「私は相手に全く信頼して自分自身を与えます。私には何の疑問もありませんし、何も差し控えません」と。それは信仰の一大行為、信仰による放棄です。これがこの契約の一つの面です。これが、私たちが取って食べることの意味です。私たちはこう言っているのです。すなわち、私たちは徹底的信仰によって主に明け渡したのであると。正しい関係にある花嫁のように、私たちは彼に信頼しており、彼を頼りにしているのであると。正しい関係とは、神が結婚に込められたとおりの関係です。花嫁は全き確信をもって自分自身を明け渡し、自分自身を去らせて、もはや自分自身の命を生きようとせずに、相手に生きてもらうのです。もちろん、もっと多くの結婚がこうだったなら、世界はずっと幸いなものになっていたでしょう。しかし、神の御思いは、いずれにせよ、花嫁が相手に明け渡してこの生活を実現してもらうことであり、相手はそうしてくれると信頼することです。これが、主イエスの血による契約の中に入った時に、私たちがしたことです。私たちはすべてを実現してもらうために彼に明け渡したのです。彼はそうしてくださる、と私たちは信頼しています。彼はまさにこの目的のために私たちを選ばれたのです。

私たちへの主の委任

しかし、この契約には他の面があります。契約には常に二つの面があります。私たちが、自分たちの側で、信仰によって彼の血による契約の中に入る時、それは彼への私たちの徹底的明け渡しを意味しますが、彼はご自身の側から、この契約の他の面からこう仰せられます、「あなたがわたしに尽くす時、わたしもあなたに尽くします。わたしはあなたに自分自身を委ねます。そして、わたしのすべての資源をあなたは自由に使えます」。

そして、ご存じのように、私たちはこの問題に関して試験されます。この契約関係の問題に関して私たちは大いに試されます。このことでアブラハムは試験されました。「今、あなたの息子、あなたが愛しているあなたの一人子を取って、わたしにささげなさい」(創世記二二・二)。神はまるでこう言わんばかりでした、「あなたは本気でわたしに尽くすつもりでしょうか?それを証明しなさい」。御言葉は「神はアブラハムを試された」と述べています。私たち自身の側が本気かどうかについて、私たちが彼に委ね切っていて他の関心は一切なく、彼に絶対的に信頼しているのかどうかについて、神は私たちを試しておられます。これがこの血が要求し、求め、意味することです。

しかし、試みが終わるたびに、こう言えるのではないでしょうか?すなわち、主に信頼し、主にすべてを委ねるというこの問題に関して、契約関係に忠実であり続けるというこの問題に関して、新たに試みられる時は常に、主はご自身の側から戻って来て、「あなたがこのことを行ったので(中略)わたしはあなたを確かに祝福し、あなたの子孫を大いに増やす」(創世記二二・十六~十七)と言ってくださるのである、と。彼は私たちの信仰を立証し終えると、ご自身の側から常に喜んで介入して、ご自身を増し加えてくださいます。そして、試練を通して私たちを彼ご自身との関係の中にいっそう深く確立してくださいます。

これは、次のことをさらに少しばかり垣間見たものにすぎません。すなわち、新契約の血の意義です。また、私たちがここで頻繁に行っていることの意義、主の食卓の意義、イエス・キリストの血の意義です――その意義とは、主への徹底的明け渡しと、彼を信じる徹底的信仰とによって、確立される関係です。これにより、彼の栄光のために、私たちの人生の可能性がすべて実現されるのです。