聖書朗読:ヨハネ二・一~十一、十三
「このもろもろのしるしのはじめ」、最初の奇跡、この基礎的な事柄を構成する諸々の点(というのは、疑いなく、このもろもろのしるしのはじめの意義は、他のすべての基礎だからです)、この基礎的な事柄を構成する諸々の点は:三日目、婚姻、水、ぶどう酒、イエス・キリストの主権です。
婚姻関係
この結婚から始めることにしましょう。これについては私たちの前の黙想で述べました。そして、新契約、あるいはむしろ、血による契約は、旧契約と新契約の両方とも、結婚の契約だったことを示しました。主はイスラエルと結んだこの第一の契約に関して、「わたしは彼らの手を取って、彼らをエジプトから導き出し、彼らの夫となった」と言われました。このように手を取って導き出すことは過越の夜になされました。過越の小羊の血がその新しい関係、その新しい歴史の基礎でした。そして主は言われました、「この月はあなたたちにとって月々の始まりとなる」(出エジプト十二・二)。これは、彼ご自身との関係――血という基礎に基づく主との婚約関係――による新しい生活でした。新契約はこれです。それは婚姻関係、婚約、結合であり、小羊の婚宴で最高潮に達します。
前に私たちが述べたことの大部分は一方の側からでした――結婚に関する神の見解・観念は、一方の側からすると、信仰による、相手への完全な信頼による、徹底的明け渡しです。次のことを理解することがとても重要です。すなわち、主イエスの血は命の合一、契約による合一を表しているのであり、私たちの側からすると、それは常に相手を信じて無条件で明け渡して委ねる問題なのです。それは結婚の契約なのです。
もちろん、これは理想です、神の理想です。これは、ご存じのように、この地上の人々の間では一般的状況ではありません。とは言うものの、このような思想、このような標準を人々が心に抱くなら、それは途方もない影響を及ぼして、世界を実に幸いなものにするでしょう。
しかし、別の面もあります。つまり、神の観点からすると、信仰の従順による徹底的明け渡しが一方の側に要求されますが――これは教会である花嫁によって示されており、私たちはその肢体であり、その中に含まれています――他方、「キリストは教会を愛して、そのためにご自身をささげられました」(エペソ五・二五)。「彼がご自身の血で買い取られた神の教会」(使徒二〇・二八)――この別の面もあるのです。天の事柄や霊の事柄に対する地上での証しというこの問題に関して、人間的・天然的水準に降りて、人間的に述べることにすると、この明け渡しは他方の側によって正当化されなければなりません。つまり、妻が無条件で自分自身を夫に明け渡して、自分の命を夫に全く委ね、自分自身の生活と作法を放棄して、夫のために夫と一つの生活を送るには、夫はそれにふさわしい必要があるのです。それに適っていなければならないのです。
これについて聖霊はエペソ書の御言葉の中で大いに強調しておられます、「夫たちよ、キリストが教会を愛されたように、あなたたちの妻を愛しなさい」(エペソ五・二五)。「そのように、夫たちも自分自身の妻を自分自身の体のように愛さなければなりません。自分自身の肉体を憎んだ者は、いまだかつて、一人もいません」(エペソ五・二八~二九)。これは、男の側に維持すべき途方もない水準があることを意味します。なぜなら、男は絶対的確信と信頼にふさわしくなければならないからです。これは人の側についてです。
これは何か神聖なものを表しており、次のような問いを生じさせます。「キリストは私たちが自分を明け渡すのにふさわしい方でしょうか?このような徹底的信用を正当化する基準を彼は満たしておられるのでしょうか?」。これは主イエスに関する私たちの評価の問題です。どれくらい私たちは他の一切を放棄して、彼だけに尽くすのでしょうか?これは彼の徹底的・絶対的信頼性を私たちが実際に自覚しているかどうかの問題です。私たちは今生だけでなく永遠においても、自分自身を彼に委ねて、もはや自分自身の関心を何も持たないでいられるでしょうか?彼をすべてとすることができるでしょうか?これが結婚によって彼が意味しておられることです。彼はご自身を与え、ささげて、問われます、「わたしはあなたの信頼にふさわしいでしょうか?わたしはあなたの信用に値するでしょうか?あなたが全き安息の中ですべてをわたしに明け渡すことのできる標準をわたしは満たしているでしょうか?自分自身の行路を進み、自分自身の道を守り、自分自身の独立した判断を行使する必要がある、とあなたは感じるでしょうか?」。
さて、これは多くの方法で、主イエスに対する私たちの関係と、主との結婚が意味するところとを、解き明かしてくれることがわかります。これは何度も、私たちが進むにつれて、次のような問題を解き明かしてくれます、すなわち、独立した判断、独立した道、道中における彼との衝突の無数の原因、という問題です。彼は何度も戻って来て言わなければなりません、「これを見てください、わたしたちの契約はどうなっているのですか?わたしたちの関係の根拠はどうなっているのですか?あの時、わたしたちは多くのことについて合意するけれども、それ以外のことでは合意したりしなかったりする、という認識だったのでしょうか?それとも、判断、決定、取るべき道というあらゆる問題で、わたしに完全に明け渡す、という認識だったのでしょうか?」。
私たちは折に触れて、いわゆる「十字架」に立ち返る必要性に気づきます。私たちはいずれにせよ自分自身の分離性を自分の中で死に渡して、イエス・キリストの主権に新たに明け渡します。これがこの最初の基本的なしるしで際立っています。それはしるしであり、何かを意味しており、基本的です。
キリストの主権
私はここのマリアに大いに感心します。ぶどう酒がないことを彼に告げるという結論に彼女がどのように至ったのか、私にはわかりません。なぜ彼女は彼に告げる必要があったのでしょう、また、なぜさらに僕たちにも、「彼があなたたちに言うことは、何でもしてください」と言ったのでしょう。しかし、次のことは全く明らかです。すなわち、彼女は彼を主とする立場に立っていたのであり、この問題をすっかり彼の主権の下に置いたのです。彼女はこれをすべてそれに集約しました。彼は主です!そして実際、彼はこの結婚の主です。もし彼がおられなければ、この件はすっかり破綻して、失敗、悲劇、醜聞になっていたでしょう。彼は主権の地位についておられます。マリヤはこれを認め、これを証しし、これを貫き通しました。この結婚におけるキリストの主権――これがこの件がうまくいくかどうかを決めます。これが彼に対する私たちの関係の主要な要素です――私たちが恥をかかず、醜聞を招かず、主に対する私たちの関係を破綻させずに、切り抜けられるかどうかは、全く彼の主権にかかっています。旧約聖書の結婚はこの基礎に基づいていました。というのは、夫は常に妻から「主」と呼ばれていたからです。
まさにこの言葉がエレミヤ三一・三二の「わたしは夫となった」で使われていますが、これは「夫」と訳されている多くの言葉の一つです。これ――この特別なヘブル語――が旧約聖書の中でそのように訳されているのは三回だけですが、それは「支配者」を意味します。「わたしは支配者になった」。しかし、この同じ言葉が使われている別の箇所では、それは明らかに「夫」を意味します。その箇所における夫は支配者だったのです。イスラエルの問題は、夫である主が主ではないことでした。そしてその結果が――イスラエルの悲劇でした。これについてはこれ以上述べることはしません。これがその背景です。この結婚は彼の主権の中で設けられ、この結婚が成功するか悲劇に終わるかは、それが次のようであるかどうかによります――すなわち、「彼があなたたちに言うことは、何でもしてください」というものであるかどうかによるのです。彼があなたたちに何か仰せられるなら、それをしてください。すべてがそれにかかっています。他の人々に言われたからという理由で、それをしないでください。彼が言われることをしてください。
神の豊かさ
三日目:この箇所に記されていることはみなこのしるしの範疇に入ると思います。聖書では数字の三は、ご存じのように、神の豊かさを意味します。そして、これが実際に、この件全体にわたって大いに前面に出ています。
この水に来る時、あなたはお手上げの状態になります。大きな水がめがいくつもありますが、その中には水がある程度しかありません。いっぱいではありません。そして、注意してください、それらは清めのためだったのに、なかったのです。全く水で満ちてはいませんでした。これらの水がめや水は何を表しているのでしょう?それらはイスラエルを、イスラエルの霊的状態を、彼らの道徳的水準と彼らの霊的生活の不十分さを表しています。主イエスの時代のイスラエルを見てください。彼は彼らの腐敗について何を述べなければならなかったでしょう。聖潔、義、真理、純粋さという事柄に関する神の要求に、彼らはなんと遠く及んでいなかったことでしょう。キリストの時代のイスラエルは霊的に破綻しています。そして、この状態にこの結婚は至ります――破綻に至ります。この水は貧弱で、劣っており、不十分です。その当時のイスラエルを表しています。
主イエスがその場面に登場して水がめを満たし、水をすべてをぶどう酒に変えます――ご存じのようにぶどう酒は常に血の象徴です。それは告げます、これは、主イエスとの関係において、霊的破綻状態、霊的欠乏、不十分さ、弱さ、失望、悲劇から移ることであり、そうしたものからキリストの豊かな命へと移ることであり、それはキリストとの合一の中にあるのである、と。この結婚によるキリストとの合一により、旧契約――旧契約は守られなかったので、その祝福はすっかりなくなりました――から移ります。彼の血、神の豊かさによって、旧契約から新契約へと移ったのです。
さて、この神の豊かさを得るには、イエスを絶対的に主とすることが必要です。それ以外ありえません。それには彼の尊い血、彼の命という基礎が必要です。この新しい命は、このぶどう酒、最後まで取っておかれた最上のぶどう酒、並外れたもの、驚くべきもの、すばらしいもの、彼の命・彼の復活の命の栄光なのです。
さて、この諸々の特徴がわかるでしょう。このたとえはとても単純です。ここで私たちは、ですから、霊的解釈をしているのです。それはキリストとの合一の問題です。主と結婚したのです。この合一は豊かさを、神の豊かさを意味します。この神の豊かさは彼の奇跡的な命の分与によります。再び象徴的言葉を使うと――それは彼の血の力によります。そして、それは全く、彼が言われることを行う問題です。
これにはもっと多くの内容があることがわかるでしょう。「わたしの時はまだ来ていません」、この句を彼は生涯どれほど使われたことでしょう!それは十字架と関係しています。それは十字架に導きました。ですから、このまさに最初の奇跡は十字架と関係していたのです。「わたしの時」という言葉は彼の十字架の血を意味します。彼の母親への彼の言葉に関する私たちの翻訳はとてもぶっきらぼうに聞こえますが、原文では私たちの言語の響きほどぶっきらぼうではありません。「女よ、わたしはあなたと何の関係がありますか?」。それはこうではありませんでした。彼が実際に言われたのはこういうことです、「女よ、あなたの思わくはわたしの思わくとは異なります。あなたとわたしは二つの別々の思わくを抱いています。さしあたって、わたしの思わくはあなたの思わくとは違います」。これは次のことを意味します――彼の母はこの醜聞、この恥辱、この困惑に思いを馳せていたのであり、彼が何かを行ってくれることを期待していたのです。彼は何事かを行って、この破綻した状況による困惑から救ってくれることを、彼女は知っており、信じていたのです。彼女の思わくは、彼が奇跡的な力を用いて、人が招いた不都合や困惑を取り去ってくださることでした。しかし、彼は別の思わくの中を進んでおられました。「わたしの時」がすべてを支配する目的です。「わたしはわたしの時という領域の中を進んでいます。そして、わたしの時は血を流す時です。これはそれと一致しなければなりません!」。ああ、これはなんと壮大な領域でしょう!それはまさに小羊の結婚にまで至るのです。