第六章 御子に関する神の証し

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:一ヨハネ五・五~一二

「証しするものが三つあります。それは御霊と水と血です。そしてその三つは一つとなります。」

これは神の御子である主イエスに対する三重の証しであり、単一の証しに集約されます。この三つは証しして一つになります。そして、この三重の証しの支配的点は、イエス・キリストは命であること、この命はイエス・キリスト、神の御子の中にあること、そしてそれを神は彼にお与えになったこと、そして彼の中に永遠の命があることです。

ですから、これはまったく次のような問題であることがわかります。すなわち、イエスは神の御子であると、神が御子に対して証言される問題、神が御子に対して証しされる問題なのです。これは包括的事実です。彼は神の御子であると、神は御子に対して証しされます。次に、これは神が証しされる方法、彼が証しされる手段・方法です。これは、イエスは神の御子であることを私たちが知る方法の問題です。そして、この知識は一つのとても実際的な点に帰着します。それは理論・教理・信条の領域外に引き上げられて、経験と内的知識の領域内に置かれます。気をつけてください、それに関してここで述べられているのは、ある内的な事柄なのです。そして、御子に対して内的な方法で証しされる神のこの三重の手段・方法は、御霊と水と血であるとここで述べられています。

御霊の証し

第一に、まず、御霊は主イエスの神聖な子たる身分に対する内なる神の証しです。これは次の点に帰着します。すなわち、聖霊が働いておられる所では、その結果、主イエスを神の御子として内なる方法で知るようになるのです。聖霊の働きの結果、彼を命の観点から内的に知るようになります。もちろん、聖霊は主イエスを証しすることにまったく注力しておられます。私たちはこれを外面的方法で知っています。主ご自身が、「慰め主が来る時、彼は私について証しします」(ヨハネ一五・二六)と言われたことを、あなたは覚えているでしょう。次に、使徒行伝の中で――そこでは諸々の出来事が起きます――「私たちはこれらの事柄の証し人であり、聖霊もそうです」(使徒五・三二)という宣言がなされています。

しかしここでは、それは聖霊によってなされる事実に対する外面的な証しというよりは、むしろ聖霊による内面的な証しです。聖霊はどのように主イエスの神聖な子たる身分を内面的な方法で証しされるのでしょう?答えはこうです。すなわち、命の観点によってです。つまり、命という手段によってです。ここのこのヨハネの手紙では、それはまったく命の問題です。神は証しされました、「その証しとはこれです。すなわち、神は私たちに永遠の命を与えてくださったこと、そして、この命は御子の中にあることです」。神が御子に対してされる証しは、彼は私たちに永遠の命を与えてくださったということです。私たちが永遠の命を持っていることが、キリストに対する神の証しです。

しかし、永遠の命を持っていることは、どうすればわかるのでしょう?言い換えると、命に関する神の証しはどうすればわかるのでしょう?第一に、まず、それはその方面における聖霊の活動・働きによります。聖霊の御旨は、生活の中で正当な道を得ておられる所ではどこでも、イエスは神の御子であるという神の証しを私たちの中に確立することです。したがって、聖霊はこの命、主イエスの命を、あるとても実際的な方法で、多くの実際的な方法で知らせるために働かれます。

例えば、ローマ八・一〇~一一の議論を取り上げましょう。「体は罪のゆえに死んでいても(中略)イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊があなたたちの中に住んでいるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたたちの中に住んでいる彼の御霊を通して、あなたたちの死すべき体をも生かしてくださいます」。これは何を意味するのでしょう?これは次のことを意味します。すなわち、聖霊の御手の中にあるので、一方において私たちは自分自身の中で死を経験します。私たちの体においても死を経験します。つまり、私たちは経験を通して、命が枯渇することがどういうことかを知ります。自分の活力を奪われて、遂には、必要に直面してもまったく無力な状態になることがどういうことかを知ります。私たちは自分ではそれを対処できません。その要求に応じる能力、エネルギー、活力、命はありません。その要求は私たちにはあまりにも大きすぎます。それを私たちは自覚させられます。聖霊がそうされたのです。次に、聖霊が来臨して、肉体、死すべき体さえも生かし、力づけ、要求に応じてくださいます。その要求に応じることは、この生かし以外では不可能でした。そして、事がなされます。この働きは成就されます。この義務は果たされます。この要求は満たされます。この働きは私たち自身のものではないエネルギーによって果たされます。イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた方の御霊が生かしてくださったのです。そしてこれが、イエスは神の御子であることを聖霊が証しされる方法であり、内的な方法で証しされる方法です。私たちはその結果、「私たちは主を私たちの命として知っています」と言うようになります。私たちが知っているのは、神がそのような仕方で、御霊によって、経験的に、あるとても内的な方法で、命の観点から、ご自身の子を御子として証しされたからです。

聖霊は、一方において、私たちに次のことを知らせるために働かれます。すなわち、主イエス・キリストから離れるなら、私たちに命はなく、活力もなく、無力であり、望みなく、状況は私たちにとってまったく手に負えないものである、ということです。聖霊はこれを行われます。もしあなたが神の真の子供としてこのような立場――あなたに対処できない状況にあなたは直面しますが、主はあなたがそれを対処することを望んでおられます――に陥って、それを対処すべきことが神のみこころなら(こう述べる必要があるのは、何かを行うことが主のみこころではなく、そういったことに対しては主から命を得られないことも時々あるからです)、神のみこころによると何か対処すべきものがあるのに、自分にはそれを対処することも切り抜けることもできないことがわかるとき、思い出そうではありませんか。それは聖霊の働きなのです。聖霊が意図的に、かつ確かに、これを行われたのです。これが真の霊的生活の道です。

万事十分であると常に感じること、自分はできる、自分は有能であると感じることは、真の霊的生活の道ではありません。大いに有能な人々が常に霊的に極めて生産的とはかぎりません。聖霊は、一方において、天然的・人間的に無能にするために働かれます。それはまさにイエス・キリストの子たる身分を自ら証しする道を開くためです。聖霊は、消極的な立場、無理な状況の上に臨んで、それをくぐり抜けるために命を与えてくださいます。おそらく、それをくぐり抜けることしかできないかもしれませんが、とにかくくぐり抜けます。堂々とくぐり抜けます。その結果、キリストを私たちの命として知るようにされます。神は御霊によって御子の子たる身分を証しされ、私たちは神の御子であるイエス・キリストをそのような方として知ります。この第一の証しは、聖霊が神の子供の生活の中に働いて、キリストに対する神の証しを命に関して示されることです。これは個人的に言えますし、団体的にも言えます。ご自身の民の群れにおける神の証しとは何でしょう?神の証しは、彼らがイエスは神の御子であることを彼らの教理や信条の一部として信じることではありませんし、それに大いなる情熱で賛同することでもありません。「悪魔どもも信じて、おののいています」(ヤコブ二・一九)。いいえ、群れにおける神の証しとは、その群れがそれ自身は死んでいて――それ自身は命も希望もなく無力です――が、それでも、その群れが共に御霊の中にある時、神の命の鼓動が感じられることなのです。

この人々は何なのでしょう、この人々は何者なのでしょう?彼らは無ですが、それでもあなたはそこに命を感じます。この命は会衆や集会のたんなる興奮や熱狂を超えています。そこには力、活気、活力があります。彼らの間にいると、彼らと共に集まると、力づけられます。おそらく、あなたは立ち去る時、教えによって多少は啓発されて理解するようになっているかもしれませんし、あるいは、述べられたことを少しも理解していないかもしれません。それでも、あなたは言わずにはいられません――「これは命です、刷新です、革新です、活力を与えてくれます。それは新しいぶどう酒のようです」。神が命に関して御霊によってその教理、その真理に対して証しされたのです。神の証しは――命です。私が述べているのは、命は教理としての真理とは別である、ということではなく、命のない教理は大いに死んでいるおそれがある、ということです。あなたは、教理の問題として、イエスは神の御子であることを全力で信じているかもしれませんが、効力があるのはそのようなことではありません。それはたんなる根本主義――それは常に霊の命とはかぎりません――にすぎないおそれがあります。大事なのは、聖霊なる神が主イエスの子たる身分という事実を命に関して証しされることなのです。

ですから、聖霊は主イエスを内なる方法で神の御子として知らせることに取り組んでおられます。この大いに実際的な手段によって、彼は私たちに対する命であることを知らせることに取り組んでおられます。主を私たちの命として知らなければ、私たちは進み続けられないでしょう。

水の証し

「御霊と水」。神は水という手段によって、御子をご自身の子として証ししておられます。これには様々な解釈があることを私は承知しています。私としては、これは彼のバプテスマと関係していることは大いに確かであると感じています。「この御方は水によって(by water)来られた方です」。あるいは、水の中で(in water)です。そして、この水は彼の子たる身分を神が証しされる道具です。もちろん、彼ご自身のバプテスマの場合がそうであり、彼のバプテスマという方法、水という方法によりました。神は直ちにこう証しされました――「これは私の愛する子である」と。

しかし、どのように主はこれを内なる方法で水によって行われるのでしょう?この水、彼のバプテスマ、あるいは、バプテスマの意味は何でしょう?短く述べるとこういうことです。すなわち、前の黙想で述べたように、それはすべての義を成就することだったのです。彼がヨハネに話された通りです――「今はそうさせてください。このようにしてすべての義を成就することは、私たちにふさわしいことです」(マタイ三・一五)――すべての義が成就され、神の義なる裁きが満たされます。なぜなら、その水は葬り、墓であり、神に受け入れてもらえないもの、神がその上に裁きを宣告されたものを、視界から除き去ることだからです。それは罪深く、呪いの下にあります。それゆえ、それは死ななければなりません。「罪の報酬は死です」。そして、主イエスの葬りにより義なる要求は完全に満たされた、という証しがなされます。罪の報酬は完済され、律法の要求は厳格に満たされました。罪は完全に対処され、罪人は死にました。それゆえ、罪は赦されます。

この水によるこの証しは、キリストの死と葬りにおける私たちのキリストとの合一・一体化の証しです。罪はもはや私たちの負債ではなく、私たちに課せられることもありません。神は完全に満足しておられます。私たちは私たちの主イエス・キリストを通して神との平和を持ちます。彼は彼の十字架の血によって平和を造られました。この水の証しは、神はもはや何も要求されないという証しです。彼はご自身が要求しているものをすべて受け取って、主イエスの死に満足しておられます。すべての義が成就されたことに満足しておられます。神の要求が満たされたことに満足しておられます。その証しとは次の通りです――主イエスは彼の死と葬りにおいて、私たちの立場を取られたのです。私たちはこれを知っていますが、これは私たちに命に関して確信を与えます。それは生き生きとしたものです。それはまた、新約聖書のたんなる教えではなく、私たち自身の心の中にあるものです。私たちは自分の心の中で知ります。神の証しは次のものであることを私たちの心の中で知ります。すなわち、御子の死と葬りにより、彼の義は完全に満たされたのであり、私たちは罪定めから離れたのです。罪定めはもはや私たちの上にありません。

これはとても馴染み深い教理である一方で、この一連の黙想で強調してきたように、これは主の民がますます実際的に理解すべきことです。最近、これを私の心は新たな方法、とても素晴らしい方法で理解しました。そのため、それが私にとって何を意味したのか、あなたたちに言えないほどです。キリストの死による義認の意味について幾らか知っている、と私は思っていました。しかし、ごく最近、恐ろしい戦いの暗闇の中、昼も夜も敵は死の力と共にやって来て、私を試みて死の中に無理矢理もたらし、死を受け入れさせようとしました。約一週間続いたこの真っ暗闇の時――昼も夜も戦いであり、死との取っ組み合いです――その時の終わり頃、もしくはその時の終わりに向かいつつある頃、私はマルチン・ルターの生涯に向かわせられました。この人の魂の中に生じた恐ろしい戦いの中を彼と共に少しずつ進んでいた時――ああ!この魂の中で、彼がその中にあった義の体系と行いによる義との間に、何という戦いが荒れ狂っていたことでしょう。彼の魂全体がその下で悶えていたのです。免罪符を得るために彼がローマを訪問した、あの記念すべき日をあなたは覚えているでしょう。彼は腕と膝であの階段を上って行きました。その階段は、一段ごとに赦免、安心、罪定めから義認への解放をもたらすとされていました。彼がこの行程をかなり進んだ時のことです。明瞭なはっきりした声が彼の耳に語りかけました――「義人は信仰によって生きる」(ローマ一・一七)と。彼は自分の腕と膝でそれ以上のぼりませんでした。彼は向きを変えて駆け下りながら、「義人は信仰によって生きる」と叫びました。そして、これが偉大な転換点だったのです。次に、この恐ろしい霊的戦いが始まりました。その時までは、一つの体系との戦いであり、ローマ主義体系との知的戦いの類でした。しかし今や、それは霊的形体を帯び、まさに悪魔自身が、ルターを罪定めの下にもたらして、あらゆる種類の罪を彼に科すためにやって来ました。

そして次に、私は次の偉大な記述に出会いました。今まで把握できなかった極めて徹底的な記述です。この戦いの真っただ中で、ある日、ルターは叫びました、「ああ、キリストよ、私はあなたの罪、あなたの呪い、あなたの神の怒り、あなたの地獄です。私はそれです」――これを聞いてください!「私はあなたの罪です」。これはこう述べているにほかなりません、「ああ、キリストよ、あなたに科せられている罪、そのために今あなたが有罪と見なされている罪は、私の罪であり、私なのです。私はあなたの罪です」。これがこのように何と徹底的に述べられていることでしょう。「私はあなたの罪であり、あなたの呪いです。その下にあなたがおられる呪いです。ああ、キリストよ、それは私です。私なのです!」。「私の呪いはあなたの呪いです」ではなく、こう述べています、「私はあなたの呪いであり、あなたの神の怒りです。あなたの上にある神の怒りは私です。私はそれであり、その原因であり、それなのです。あなたの地獄です。死をあのように味わうこと、神からあのように見捨てられることが地獄です。私はそれです。ああ、キリストよ、私はあなたの罪、あなたの呪い、あなたの神の怒り、あなたの地獄です」。そして逆に、「あなたは私の義、私の祝福、私の命、私の神の恵み、私の天です!」。

これが戦いのあの暗闇の時に、まさに天からのものとして私に臨みました。すでに述べたように、この新しい啓示、私自身の心が抱えていた必要に対する神のこの新しい証しがいかなるものだったのか、また私に対するその意義を、あなたたちに述べることはできません――それはまったく新しいものであり、私の生活の中にそれまでなかったものでした。それは、強め、引き上げ、あの恐ろしい戦いから連れ出してくれるものであり、キリストの死と葬りにおける彼との一体化の意義についてです。それは内的なものです。

神の証しとはこれです。すなわち、水は命の道であるということです。死のこの道は命であり、それはあの死による命の道です。彼のバプテスマは神へと通じる彼の道でした。しかし、それは死による道であり、私たちに他の道はありません。

要点はこうです。すなわち、私たちはイエス・キリストが神の御子であることを内なる証しによって知るのです。その内なる証しとは、彼にあって罪は対処されたこと、裁きを彼は担われたこと、義を彼はご自身の死により満足されたということです。ああ、この内なる保証の力によって私たちは真に生きているでしょうか?私たちに関する限り、私たちはキリストの中にあるので、神は義の問題に関してすっかり満足しておられるのです。

私たちはこれについてさらに学び、理解しなければなりません。しかし、ああ、それは途方もない解放、途方もない力を与えてくれます。大部分の神の子供たちの問題の大半は、彼ら自身と主との間に存在する何らかの影によって生じますし、また、彼らに対する主の姿勢がいかなるものか、主に対する彼らの立場がいかなるものかに関する疑念や疑問によって生じます。真に幸いな人々、真に満足している人々、安息していて生ける証しを真に持っている人々は、自分たちはキリストにあって神の裁きに対して死んだというこのことの益に浴して生きている人々です。神の裁きは、彼らに関する限り、注ぎ尽くされて終わりました。罪定めはすべて終わりました。

律法からの解放、ああ!さいわいな状態、
イエスは血を流された、それゆえ赦しがあります。
律法によって呪われ、堕落によって砕かれて、
キリストは私たちを一度限り永遠に贖ってくださいました。

どのようにでしょう?私たちとして死ぬことによってであり、罪・呪い・死・地獄である私たちとなって、ご自身の死により私たちを私たちの分から解放することによってです。これを内側で享受して生きることが命であり、この命は神の御子に対する証しです。

血の証し

最後に血です。「御霊と水と血」。ご自身の子である御子に対する神の証しは血によります。ここでは、この一連のメッセージですでに述べたことを、あなたたちに思い出してもらうだけでいいでしょう。すなわち、この血は命を、神の御子の命を物語っている、ということです。また、それは性質と同義であると私たちは述べました。彼の血は彼の命であり、彼の命は彼の性質です。彼は言われました、「あなたたちはみなこれから飲みなさい」「人の子の血を飲むのでなければ、あなたたちに命はありません。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を持ちます」(ヨハネ六・五三~五四)。血は命であり、血は性質です。そして、神の御子に対するこの証しとは次のことです。すなわち、別の性質の力とエネルギーが私たちに与えられていることを私たちは知っている、ということにほかなりません。私たちは自分自身の古い性質を大いに自覚しているかもしれませんが、今や別の性質が内側にあるのです。私たちはこれを知っています。この別の性質が私たちの古い性質に凄まじい反撃をしているのです。私たち自身の古い性質が現れて自己主張するとき、私たちは極めて恐ろしい反撃を受けます。そして、この古い性質の現れを拒絶する地点に戻り、それに反撃している別の性質の側に付かないかぎり、私たちは安らかではありません。良心以上のものであるこれらの内なる神聖な反撃、私たちの内にある別の命の力強い動きにより、私たちは自分自身と自分自身の有様から絶えず遠ざかっていくよう導かれ、キリストに引き寄せられていきます。私たちはますますこの別の性質を拒絶してキリストの側に付きます。こうして私たちは成長します。

この霊的成長、この神の御子のかたちへの同形化は、たんなる教えや教理ではありません。それはとても実際的なものであり、往々にして凄まじい葛藤を通して実現します。この葛藤の中で、私たちは自分自身に断固として反対するよう求められます。何かが律法や法律にしたがって私たちに示されるわけではなく、何かが私たちの内に生じて別の道を要求するのです。この何かとは新しい性質、新しい命、私たちの内にあるキリストの性質の力強い働きです。そして、これが御子に対する神の証しです。

イエス・キリストが神の御子であることを、どのように知るのでしょう?「彼は私たちに永遠の命を与えてくださったからです」。私たちは猛烈に働いている別の性質を受けていることをこの血は意味するからです。そして、これは私たち自身にとっても他の人々にとっても、真の確信の基礎です。永遠の命を受けていることを私たちが知ってさえいれば。イエス・キリストの尊い血の意義にあずかり、それを私たちの中に受け入れ、言わばその血からこの命を飲み、信仰によってキリストのあの性質を取り入れたことを、私たちが知ってさえいれば。私たちが気遣っている人々はこの危機と経験を実際にくぐり抜けて、それによって血の効力にあずかり、永遠の命を確かに持っているということを、私たちが知ってさえいれば。これが真の確信の基礎です。彼らが辛い時を過ごすだろうこと、自分自身の内で何かに出くわさずに悪を行えないことを、私たちはとてもよく知っています。神はこの方法により常に証しをしておられます。神はこの方法で証しすることにより、私たちの内に、言わば御子を生かし続けておられるのです。

これが血の証しのすべてではないことを、私は承知しています。私は一点だけ選んでいます。神が私たちの内で御子を証しされるのは、新しい性質、新しい性質のエネルギーという手段によります。新しい性質による神の御子に対する内なる証しと、イエス・キリストは神の御子であることに関するたんなる正統的信条との間には、とても大きな違いがあります。正統的な信条を保持していて、イエス・キリストは神の御子であると信じている人は大勢いますが、彼らの生活はそれとあまり一致しておらず、自分たちの信条と始終大いに矛盾しています。神の真の証しは私たちを失敗から解放しませんが、絶えず私たちを自分の失敗から主へともたらします。反撃を受けずに長いあいだ彼から離れることはできません。真に主を知っていた後退者たちの誰かに、幸せかどうか尋ねてみなさい。彼らがどう言い訳をしたとしても、奥底では、あなたが忍耐強く見いだそうとするなら、彼らは立ち返るためなら何も惜しまないことがわかるでしょう。ほんの少しでも逸れることは、脱臼や恐ろしい歯痛のようなものです。これから自由になって、立ち返ろうではありませんか!これが御子に対する神の証しです。イエスは生ける現実です。これは理論、信条ではありません。彼は生ける現実です。そして、神はこの手段によって証しされます。ですから、イエスの証しは命に関して次の三重の方法によって維持されます――すなわち、私たちを対処してキリストを私たちの命とされる御霊と、今や罪定めはなく律法から解放されていることを証しする水と、新しい性質という手段によって証しする血です。さて、これは単純ですが、とても実際的であり効果的です。これが「神が御子に関してされた証し」であり、「それは、神は私たちに永遠の命を与えてくださったこと、そして、この命が御子にあること」です。そして、あの命が表されるこの三重の方法は御霊と水と血によります。