第七章 御名

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:創世記一一・一~九、使徒三・一~一六、一九~二四、ヨハネ一七・六、一一~一二、一六~一七

私たちは預言の機能、預言の務めの機能の問題に大いに専念してきました。私たちは次のことを見てきました。すなわち、預言の務めの機能は、特に潮流が神の全き御思いと御旨から離れている時に、諸事を神のこの全き御思いと御旨との関係の中に保つことである、ということです。これは職務というよりはむしろ機能です。何らかの手段で絶えず自らを表す機能です。つまり、神は御心の豊かさを再び見せるために、この特別な務め・機能を養成されるのです。それは、彼の民がその豊かさのいくらかを失ったり、それから逸れたりしかねないおそれの中にある時にです。預言の務めはすべて主イエスと関係しています。なぜなら、神の御思いと御旨は彼を中心としており、彼以外に何もなく、彼の他に何もないからです。ですから、神の御旨の豊かさは御子、主イエスと密接な関係にあります。そして、これに聖霊はどの時代でも配慮されますし、真に油塗られている道具はみな、何らかの方法で、主イエスを目の前に示します。

さて、この冒頭で私が述べたいのは次のことです:すなわち、この預言の機能は教会の真の課題なのです。私たちは今しがた、使徒三・二二のモーセに関するあの節を再び読みました。「モーセは確かに言いました、『主なる神は、私のような(私を興されたように、改訂欽定訳欄外)ひとりの預言者を、あなたたちの兄弟たちの中から、あなたたちに興されるであろう』」。モーセは他の諸々の機能と共に預言の機能を果たしました。しかも、最も偉大な方法で果たしました。つまり、ある巨大な体系を開始・設立したのです。その体系は、主イエスを指し示すという点で、それ自体預言的なものでした。幕屋は、すべての民の化身であり、神の住まいへと集められた神の民を表していました。この幕屋は偉大な預言でした。その中にあるものはみな預言でした。それは指し示し、予示し、予知しました。この素晴らしい体系全体は一つの偉大な預言であり、預言の務めを果たしました。それは予め主イエスを宣言しました。このような方法でモーセは預言の務めを果たしました。彼は、象徴的な方法で、主イエスを導入しました。彼は彼を神の全き御思いに関して包括的に目の前に示しました。幕屋に見られる神の御思いは何と豊かでしょう――何と多面的で、包括的で、徹底的でしょう!この体系全体の中にある一つの小さな点に触れる時、主イエスに属する何かを意味するものに触れずにはいられません。すべての寸法、大きさ、棒、輪、房、幕――すべてが隅々までも――何らかの方法で主イエスを物語ります。それらはみな彼について告げ続けます。それは偉大な預言です。

しかし、それはその霊的本体をも指し示しました。その霊的本体とは教会です。私たちはへブル人への手紙から、これがそうであることを知っています。それは天的なものの模型でした。そして、私たちはこの天的なものに来ているのです。型としてそこにあったすべてのものの中に、教会によって、今や霊的な方法で、そして大いに生き生きとした方法で、入っているのです。教会はそれをすべて霊的な方法で引き継いでいます。それは霊的な神の住まいです。それは大いなる霊の体系です――まさしく、霊のものです――偉大な天的秩序です。キリストは大祭司です。私たちは、子たる身分の観点から、神の家の中で祭司として奉仕します。私が言いたいのはただ、それは霊的本体を預言するものだった、ということです。この霊的本体は預言の機能を引き継ぎます。教会が霊的な方法で現れて、この世界のここで、そしてこの宇宙で、神の全き御思いを掲げ、神の包括的御思い全体を代表・表明します。教会はこの地位と機能を引き受けます。

さて、この点を離れて別の特別な点に移りたいと思います。その特別な点は預言の務めに関して包括的なものです。見直してみると、預言の機能は主の御名と独特・特別な関係にあったことがわかるでしょう。主の御名が預言の務めにおいて主要なものだった、という感覚があります。重要なのは御名の誉れ、栄光、特異性でした。御名のあらゆる意義、純粋さ、威光、栄光、特異性を、悪の勢力は絶えず攻撃しました。預言者たちはこの御名と、この御名の誉れに関連して登場しました。それは、この御名の誉れと栄光を主の民の間で回復し、この御名を再び高く上げ、この御名をしかるべき地位に置き、御名によって示される神の全き御思いを掲げるためでした。使徒行伝三・一六「彼の御名を信じる信仰のゆえに、その御名がこの人を強くしたのです」。これは次の御言葉に導きます――「ひとりの預言者を、主なる神は私を興されたように、あなたたちの兄弟たちの中から、あなたたちに興されるであろう」(使徒三・二二)。こうモーセは述べました。

主イエスの御名についてのこの問題は、次のことに帰着します。モーセは、預言者として、キリストとその全生涯とそのすべての御業を指し示したのです。そして、今やキリストはここにおられるのであり、しかも、御名の栄光と力の中でここにおられるのです。預言の務めの真の意義・価値はどうすればわかるのでしょう?主イエスの御名の効力によってわかります。私たちが前の黙想で述べたことをあなたは覚えておられるでしょう――イエスは神の御子であることはどうすればわかるのでしょう?まず、御霊の証しによってわかります。「証しするものが三つあります。御霊と水と血です」。主イエスの子たる身分が、生き生きとした方法で、御霊・水・血の三重の内的意義――これらの作用の強力な効力――によって、どのように証しされるのか、わたしたちは見ました。

御名の普遍性

さて次に、これに加えて主イエスの御名です。この一連のメッセージで私たちが主に考えているのは、イエスの証しの基本事項の回復です。私たちは血と共に始め、十字架と共に進み、今や御名に至りました。そして、すべてはこの御名の中に集約されます。私はあなたたちに状況を見てほしいと思います。日中のあいだ、神が必要としておられるのは預言の務めの器、つまり、諸事を神の全き御思いとの関係の中に保つ道具であることを私たちは見てきました。神の全き御思いとは――第一に、血における神の御思いであり、主イエスの血の全き意義との関係の中に諸事を保つことです。次に、主イエスの十字架の全き意義との関係の中に諸事を保つことです。今は、主イエスの御名の全き意義との関連の中に諸事を保つことについてです。これが必要とされている務めです。これが今日要求されている預言の機能です――つまり、御子に関するこれらの事柄、すなわち、血と十字架と御名における神の全き御思いの回復です。

私たちは創世記一一章を読みました。もちろん、私たちは一つの節を強調します。「私たちは名をあげよう、私たちが全地の面に散らされないために」。彼らの意図はただ、自分たちがしようとしている何らかのことで名声を得ることだった、とは私は思いません。彼らの意図は単一の名を得ること、単一の名を作成・制定することでした。彼らの一致、彼らの一体性を示す名であり、したがって、全地における彼らの力、権威、主権を示す名です。一つの名によって、普遍性、一致、主権を獲得できるだろう、と彼らは考えました。彼らの行いの中には、また、この問題に関する彼らの思いの中には、明らかにこれらの狙いがありました――「散らされないために」は一致を示しています。神は言われました、「彼らから何事もとどめることはできない」。彼らは普遍的権力の地位に着いて、行うと決めたことを何でも行うでしょう。彼らは普遍的主権、普遍性と主権を得るでしょう。

彼らが作成・上げようとしたこの名によって示されている、この立場の実体の一体性は、ある人々に関するものでした。すなわち、神から離れている人々、彼との関係の外にある人々、心に思い図ることが邪悪である人々です。そして、神はこれに関して普遍性、一致、主権を得ておられませんでした。そこで、彼は下って来て調査し、彼らが上げようとしていたこの事柄とこの名の意義・意味を理解し、それはご自身の永遠の御思いに真っ向から矛盾・違反・逆らうものであると判断されました。「普遍的な名を持つことができるのはただひとりだけです――それは私の子です!万物が堅固な一つの中に集約されうるのはただひとりによってであり、それは私の子です!この名を保持するよう彼は永遠に定められています。彼はそれを私自身との関係の中で保持します。無関係に、独立・分離して保持するのではありません。そうではなく、私自身との聖なる関係の中で保持するのです」。そして、これがまさにヨハネ一七章の本質です。

そこで、私たちは直ちにイエスの御名の意義に至ります。それが意味するのは第一に普遍性です。万物がこの御名の下に来なければなりません。「神は(中略)彼にあらゆる名にまさる名をお与えになりました。それは、天にあるもの、地上にあるもの、地下にあるものが、イエスの御名の中で、すべて膝をかがめるためです」(ピリピ二・一〇)――これは主イエスの御名の普遍性、万有網羅性を示しています。この普遍性を神は御子のために用意されました。そのため、離れている人々による普遍的名を求めるこの奮闘を、彼は許容できなかったのです。それは主イエスに対する、別種の人類による悪魔の反撃だったのです。

御名の一体性

主イエスの御名は一体性を表します。このヨハネ一七章では、それがこれと密接に関係していることがわかります。「父よ、彼らをあなたの御名の中に保ってください」。「私は彼らにあなたの御名を知らせました」。「それは、彼らがすべて一つとなるためです。父よ、あなたが私の中におられ、私があなたの中にいるように」。主イエスの御名が物語るこの一体性こそ、このように途方もない力、可能性、効力なのです。

常にこれ――主の御名の誉れと栄光――をあなたの心にとどめてください。そして、この誉れと栄光は、天と地と地獄でこの御名を絶対的なものとすることによって守られます。御名の普遍性は絶対的です。それはたんなる一地域のものではなく、どこかの限られた場所には属しません。この御名は絶対的です。主イエスの御名の外側の領域はありません。彼はすべての領域で主です。そして、この預言の機能は、主イエスの絶対的・普遍的至高性との関係の中に諸事を保つことです。

彼の御名が天であがめられていることを、私たちは知っています。彼の御名の証しが地に確立されなければなりません。そして、使徒行伝三章の意味は、御名をもたらしてそれを地上における証しとして確立することです。使徒行伝四章からわかるように、地獄が直ちに立ち上がって楯突きます。御名のこの証しに対する途方もない反応があります。地獄はそれを追放しようとしますし、御名の証しに関して立つ者たちを追放しようとします。しかし、それは普遍的であり、主の誉れはイエスの御名の普遍的価値に対する証しと密接に結びついています。

しかし、この御名の誉れは、この御名が示す一つとも密接に結びついています。地獄が何ものにもまして反対するものが一つあるとするなら、それは主の民の一つです。なぜなら、この一つは御名に対する途方もない証しだからです。この御名は主の民の一つ、一体性によって誉れを受けます。この御名は主の民の間の分離、分裂、不一致によって不名誉を被ります。ですから、御名に関するこの偉大な祈り――絶えず御名を伴っています――は、一つ、一体性に関する問題なのです。悪魔は創世記一一章にあるような自分自身の一体性を欲しています。なぜなら、一体性は力であることを十分に知っているからです。これをイエスの御名の中に集結させること、この御名の中へとバプテスマされたすべての人の一体性において自らを示すのをイエスの御名に許すことは、途方もない証しです。邪悪な影響が働いている領域において、それは途方もない反動です。私たちは覚えておかなければなりません。サタンが主の民を分裂させて優位に立つ時は常に、この御名はその栄光とその誉れを奪われるのです。なぜなら、この御名は一つを物語っているからです。この御名を呼ぶことが意味するのは、私たちは一つであるということにほかなりません。それは一つの御名、一つの民であり、この一つが御名の力なのです。

もし私たちが分裂しているなら、私たちは決して切り抜けられませんし、敵の優位にも立てません。あなたは決して敵がしている働きを滅ぼせません。あなたたちの二人が共に祈るとき、それに対抗して祈っている邪悪な事柄を征服するには、調和しなければなりません。これは、大勢の人々が集まってある形式で――「イエスの御名の中で」――祈る問題ではありません。そこに霊的一つが示されなければならないのです。なぜなら、御名はそれを意味するからです。もしその集まりの中に分裂、緊張関係があるなら、御名の中での祈りは無効化されます。イエスの御名の中に共に集まることは、「御名の中で」という句を唱える以上のことを意味します。それは霊的一つの状態の中にあることです。他のクリスチャンたち、他の神の子供たちと分裂していることは、私たちが担っている主イエスの御名に反しますし、敵を利します。おそらく、これが私たちの祈りが妨げられている理由です。おそらく、こういうわけで団体的な祈りの時に大きな弱さがあるのです。なぜなら、同意しておらず、相互の交わりの中にない神の子供たちが、密かに、知られずに、背後にいるからです。聖霊はこれをすべて知っておられ、悪魔もこれをすべて知っています。そして、それはまったく停滞させられてしまいます。そのため、主の御名は栄光を受けず、真の働きもなされません。

次のことをよく覚えておいてください。クリスチャンたちの間の緊張関係は、私たちの社会的関係、私たちの個人的問題における、ちょっとしたもめ事や、ちょっとした混乱よりも、遥かに広範な影響を及ぼすものなのです。それはまさに主イエスの御名にまで至って、その状態が存在する限り、すべてが停滞させられてしまいます。御名はその誉れ、その意義、その力を奪われてしまいます。ああ、ですから、イエスの御名に対する私たちの敬意と愛のゆえに、私たちの兄弟たちと大いに速やかに和解しようではありませんか。もし私たちがイエスの御名を真にあがめているなら、私たちの間に入り込んだものを正すことを一分たりとも遅らせないでしょう。そして、心の限りを尽くして、交わりと愛を保つよう懸命に努めるでしょう。それは、私たちが不愉快な思いをしたくないからではなく、私たちが悪魔の狙いを理解しているからです。彼はこの御名の誉れを狙っています。バビロンがその偉大な絵図です。ああ、思い出そうではありませんか。もし私たちが広く散らされるなら、それは弱さであり、私たちを無力にし、バラバラにします。一つの御名が私たちを共に保ちます。一つの御名によって保たれます!悪魔の霊感を受けたあの人々がこれを見たからには、私たちも聖霊の霊感によってこれを見るべきです。すなわち、途方もない力である一つを物語る一つの御名があるのです。そして、霊的に一つでないものはみな、その力の破棄を意味するのです。なぜなら、それはこの御名を辱めるからです。

私はペテロとヨハネが互いに密着している様子が好きです。これらの初めの節で、彼らがどれほど一緒にいるのかに注意してください――ペテロとヨハネは分離不能です。「ペテロはヨハネと共に彼を見つめて……」。互いに排斥しあっていません。ペテロがそれをしているのでも、ヨハネが引き下がっているのでもありません。彼らは一緒に行動しています。彼らは一つです。そしてこの一つの中で、御霊の中を、このように完全な麗しい交わりの中、共に行動して、御名をこのような問題にもたらします。御名を効果あるものとするには、この一つが必要です。さもないと、それはたんなる決まり文句にすぎません。何と途方もない効力を伴って、御名が登場したことでしょう!

しばらく前に、私たちはイスラエルに関するこの章のさらに重大な意義について述べました。それがここで示しているのは、遥かに重大な何かに関する途方もない暗示です――それは、この人によって示されている、とても長い間、手足が不自由で、麻痺している、無力な国家です。このイスラエル国家は不能であり、足萎えであり、無力です。なぜでしょう?主の御名があがめられていなかったからです。次に、主イエスが御名と共に登場して、主の御名を担われます。そして、手足が不自由で、不能で、無力な国家を示すこの人が、主イエスの御名の効力にあずかって、起き上がらされます。これはイスラエルに対する証しです。それは大いに明確にこう告げます、「ああ、イスラエルよ、あなたはこの年月の間ずっと無力で、足萎えで、不能で、常に担ってもらい、運んでもらってきました。あなたが命の君である彼を見て、受け入れ、その御名を信じさえすれば、あなたも不能という寝床から起き上がらせてもらえるのです。自分の足で飛び跳ねて神を賛美できるようにしてもらえるのです」。これは、まさにそのような状態にあるイスラエルに対する証しです。

証しに関する御名の意味が、ここでの御名の意義を見いだすとき分かります:それは主の民の間の真の一つです。ペテロとヨハネのこの二人の中に、キリスト教会が集約されています。教会を彼らは完全に代表しています。彼らは御名による霊的一つというこの立場にあります。そして、諸々の出来事が起きます。主がこのような状態を獲得されるとき、御名は機能するものとなり、強力なものとなります。あなたはわかっておられるでしょうか。主が願っておられるのは、この表れを再現することであり、主イエスの御名の強力な力と、この御名の意義と、それがもたらしうる帰結とに対する証しを再現することなのです。しかし、彼はこれを得るにあたって、それがその意義、すなわち、霊的一つ、強力な霊的一つと一致するようにしなければなりません。なぜなら、御名は一体性を意味するからです。私たちはみなこの御名の中で一つとされました。私たちが真にこの御名の中にあるとき、輝かしい一つがあります。これは、主がバビロンの人々にする必要があったこととは正反対の結果になります。彼は「彼らは一つの民であり、みな一つの言語である」と仰せられました。そして、彼らの言語を混乱させて、彼らを広く散らされました。彼らの働きはやみました。理解しあえなかったからです。これが、名を得ようとする彼らの試みの結果でした。しかし、あなたが真に御名を得る時、神が許し、受け入れ、認めておられる御名を、彼が普遍的な名として認めておられる唯一の御名を得る時、あなたは一つの言語、一つの話し言葉を得ます。あなたがどこから来たのかは関係ありません。あなたは口を開かなくても御霊の中でわかりあえます。真に御名の中にあるすべての人々の間に、御霊の中で、一つの共通の交流が生じます。それは天の言語であり、主に属する人々だけが理解できますが、彼らは確かに理解します。時として、それは一瞥によって伝達される言語です。理解できない言語の国々から来た人々と会ったことのある人も、私たちの中にはいます。それでも、彼らと会うやいなや、私たちは語り合ったのです。まなざしや霊の何らかの交流によって、直ちに交流を持ったのです。私たちはキリストの中にあります。御名は深い内なる一つを意味します。

御名の権威

御名は普遍性、一つ、権威を意味します。使徒三章にそれが示されています。御名には権威がありました。それはキリストが権力と権威の地位にあることを物語ります。駆け集まってきた人々に対するペテロとヨハネの証しはまったく、主イエスが権威の地位に昇られたことに関してでした。これがすべて御名の中に集約されています。この御名という真の土台・基礎が据えられるとき、つまり、まさにこの御名が意味する立場に私たちが立つとき、途方もない権威が生じます。途方もない力が生じます。

御名の力、権威が機能するには、まず私たちがある霊的立場に至らなければなりません。しかし、そこに至るとき、この御名は悪しき者に対する、あらゆる状況に対する権威を意味します。御名と調和し、御名と一致し、この御名の聖さ、この御名の一つ、この御名の誉れと栄光の立場に立つとき、血を通して御名の意義にあずかるとき、つまり、聖くないことやサタンの分裂の働きといったこの御名の意義自体に反するものを血がすべて対処するとき、そして、私たちが御名の立場の上に実際に真に立つとき、ああ、何と途方もないことが起きうることでしょう、また実際に起きたことでしょう!ペテロとヨハネは言いました、「銀や金は私にはありません。しかし、私が持っているものをあなたにあげましょう」。彼らは何を持っていたのでしょう?「イエスの御名の中で……」。私はイエスの御名を持っています!私たちはイエスの御名を持っています。そして、これはこの世のあらゆる富にまさる益をあなたに与えます。もしこの人に後で、「あなたはすぐに自分の足で五ポンドや百ポンド稼ぎましたか?」と尋ねたなら、きっと彼はこう答えたでしょう、「イエスの御名は、この世のあらゆる富が私に与えられるものよりも、遥かに多くのものを私に与えてくれたのです」。イエスの御名には途方もない価値、途方もない豊かさがあります。それは歩き、飛び跳ね、神をほめたたえる力です。これが御名の証しです。

私は開始した点で終えることにします。開始したとき、私はこう言いました。主が必要とされているのは、地上のご自身の民の間で、御子に関する次の三つの偉大なものに関する御思いを主のために保つ器なのです――その三つの偉大なものとは血の証し、十字架の証し、御名の証しです。私はあなたたちにはっきりと、大いに祈るようお願いします。どうか主が――もしこれが回復、復興、再構成、まったく新たな器の導入の問題であるなら――大いに力強く行動して、ご自身のために生き生きとした務めを獲得されますように。その務めは生き生きとした方法でこの三つの証しを彼の民の前に保つものです――すなわち、イエスの血の途方もない意義、主イエスの十字架の偉大な意味・意義、そして御名です。御名があがめられ、その誉れ、栄光、威光、比類なさが私たちの間で感知されますように。イエスの御名によってさらに多くのことがなされ、彼が栄光を受けられますように。主はこれをかなえてくださいます!