聖書朗読:使徒十二章
わたしが来たのは、地上に火を投じるためです。それがすでに燃え上がっていれば!しかし、わたしにはバプテスマされるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど圧迫されることでしょう!(ルカ十二・四九、五〇)。
私たちの最初のメッセージでは、主に杯と、火をまき散らすその結果とに専念しました。その目的は、これら二つの間の関係を新たに考察することでした。この杯の意義が、神の民の生活のまさに中心に、すべての基礎として確立されないかぎり、火がまき散らされることはありませんし、福音の前進と教会の成長が意味するところがことごとく実現することもありません。
私たちは今、先に進んで使徒行伝の十二章を見ることにします。なぜなら、この章は、この杯と火の歴史の縮図だからです。これは、もちろん、この書全体に言えます。疑いなく、これは杯です――教会は主と共に苦しむ関係にあります。しかし、それはまた、まき散らされた火についての書でもあります。この章は、すでに述べたように、あの偉大な真理全体の縮図です。実にそれは、悪の勢力と、最終的に勝利することになる無敵の霊の勢力との間の、世々にわたる戦いの縮図です。この章に詰め込まれているおびただしい歴史と真理は、それを読む時、私たちを感動させて奮起させずにはおきません。次々と積み上げられる語句や節――そのどれもが私たちの集会全体を満たせると言っても過言ではありません――でこれほど満ちている章が聖書にあるのだろうかと、私は疑問に思います。
たくさんある中から、そうした語句を二、三あげることにします。「さて、その頃」。これはなんという鍵でしょう、それについて熟考するとき、この鍵はなんと多くのことを開いてくれることでしょう!おそらく、私たちは間もなくこの鍵を使うことになるでしょう。「ヘロデ王は……」。これにはあなたが理解するよりも遥かに多くの内容があります。「教会のうちの何人かを苦しめるために……」。教会を苦しめたのです。あるいは、教会を苦しめようとしたのです。「ヤコブを殺した……」。前に指摘しましたが、栄えある右の座と左の座を求めて主の所にやって来たのは、このヤコブとヨハネでした。彼らに向かって主は直ちに次のような要求を発せられました、「あなたたちは、わたしが飲むその杯を飲み、わたしがバプテスマされるそのバプテスマで、バプテスマされることができますか?」。そこで彼らは「できます」と答えました。「あなたたちはそうすることになります……」。「また、彼はヤコブを剣で殺した……」。「それがユダヤ人を喜ばせたのを見た時……」。「それがユダヤ人を喜ばせた!」。これには多くの内容が込められています。「彼はさらに進んで……」。このように読み進むことができます。この章はすべて、多くの意味が詰まったこのような語句や節でいっぱいです。
この章の使信を見ることにしましょう。「さて、その頃」。いつの頃でしょう?これについて指摘して、その時に言及するのは、意義深いことです。その答えはとても長いものです。が、二つの主な特徴があります。ヘロデ本人のうちに答えがあります。そして、ヘロデの背後に、ずっと深くに、その答えがあります――その答えとはサタンです。ヘロデのうちにあるこの答えについて考えることにしましょう。
「ヘロデ王」(一節)。聖書の中には六人のヘロデが出てきます。彼ら全員の起源はイドマヤ人です。彼らは「エドム」という象徴的名称によってくくられています。つまり、彼らはイスラエルではなく、エサウの子孫です。これは全くもって実に意義深いです。私たちが前にしているこの人は、彼らのうちで、「王」というこの称号を正当に保持した、最初にして最後の人だったのです。彼らのうちのだれも、彼になるまで、この称号を正式に保持した人はいませんでした。また、彼の死後、「王」という称号は取り去られたのです。
ここで私たちは長い歴史の台頭を目撃します。この本質――肉と御霊との間の、天と地獄との間の、エサウとイスラエルとの間の、この歴史的敵意――を真に理解するには、オバデヤの預言を読まなければなりません。ここには長い歴史があり、今や「王」の称号を持つこの人がその長い歴史の先頭に立ちます。ユダヤ人がイスラエルではなくエサウの子孫に支配されることになろうとは、しかも、その支配者が異教のローマ帝国によって任命されようとは、なんという皮肉でしょう!これは考慮すべきことです。私たちはここで、きわめて魅力的な途方もない出来事を前にします――しかし、ああ、それはなんと大いに教訓的なことか!
「その頃ヘロデ王は、教会のうちの何人かを苦しめるために手を伸ばした(中略)それがユダヤ人を喜ばせるのを見た時……」(一、三節)。さて、その当時、ユダヤ人を喜ばせるこのようなことを、なぜヘロデは行う必要があったのでしょう?これは人の物語のように見えるかもしれませんし、とても単純なことに思われるかもしれませんが、私たちはこの大いに深遠なものが明らかになるさなかにあります。サタンは、ご存じのように、とても深遠ですが、神はさらに深遠であり、それがここで起きているのです。この前の章に戻って見てみると、大飢饉が起きていたことがわかります。「さて、その頃、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。そして、彼らのうちの一人で、アガポという名の者が立ち上がり、全世界に大飢饉が起ころうとしていると、御霊によって言い表したところ、それがクラウデオ帝の時に起こった(中略)さて、その頃……」(使徒十一・二七、二八、十二・一)
単純な答えはこうです。すなわち、ユダヤ人は治めるのがとても困難な民だったのです。もちろん、これは全く明らかです。私たちはこれを知っています。しかし、この普通で、通常の、ありふれた困難に、飢饉が加わったのです。飢饉と飢餓以上に速やかに革命へと至るものは何もないことはご存じでしょう。後でこの物語が私たちに告げるところによると、フェニキヤのツロとシドンの人々はヘロデ王の国から食物を得ていました(二〇節)。それは食料問題であり、とても深刻になりました。騒乱、動揺、暴動があり、この人々の気を彼らの問題から逸らすために、彼らの心を奪うために、ヘロデは何かを行わなければなりませんでした。彼らのために何かがなされなければなりませんでした。何かで気を逸らさなければなりませんでした。食料を備えて飢饉を避けることはできません。飢饉がやって来ました、これは事実です。ですから、自分の地位を維持し、これらの民を支配して抑え続けるには、彼は彼らを喜ばせることをしなければなりませんでした。これがあなたの答えです!
これは人の物語、些細な策略、政治問題のように聞こえます。あるいは、それを好きなように呼んでもらってかまいません。しかし、それは答えの一部にすぎません。「さて、その頃……」。どうして彼はユダヤ人を喜ばせなければならないのでしょう?まあ、これが答えです。どうやって彼はユダヤ人を喜ばせるのでしょう?彼はクリスチャンたちに対する彼らの憎しみ――これも長い物語です――を知っています。そこで、彼は「教会のうちの何人かを苦しめるために手を伸ばし」ます。クリスチャンたちは、ヘロデのこの揺れ動く、偽りの王国を強めるために、彼の王座を無傷に保つために、利用されていたのです。彼は自分自身の狙いのために彼らを利用します。まあ、これは答えの一部――ヘロデの立場――にすぎません。これはとても単純な答えです。
しかし、ヘロデの背後に回り込むことにしましょう。ヘロデは一人で行動しているわけではないからです。何かそれ以上のもの、何かさらに深いものがあります。この問いに対する、さらに深く、さらに現実的な答えは、この人の背後にあるサタンの領域の中に見いだされます。もう一度十一章十九節を見ることにしましょう。「そのため、ステパノのゆえに起こった艱難によって散らされた人たちは、ピニケ、クプロ、アンテオケにまでも旅して行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言葉を語らなかった」。
「ステパノのゆえに起こった艱難によって散らされた人たち……」。これはきわめて含蓄のある言葉です。そこで何かが起きています。ああ、なんと多くのことが起きたことでしょう!これは私たちを七章――ステパノの殉教――に連れ戻します。ステパノは石打ちにされます。これは杯です。これは悪魔の途方もない勝利に見えます。ステパノは御霊の強者でした。この若者の命に、教会の途方もない希望が関わっていました。彼の話を読んで研究した後で、「この人は少なくともタルソのサウロに匹敵する」と述べた人もいます。それなのに、ここで彼は殺されてしまいます。まるでサタンが実際に勝利したように見えます。
しかし、その後どうなったでしょう?まさにその時から、信者たちは遠くまで広範囲にわたって散らされて、証しをしながら至る所に行ったのです。タルソのサウロが回心します。これはなんと途方もないことでしょう!ペテロは、遥か北方の、コルネリオの家に導かれます。そこで何が起きたか、私たちは知っています――異邦人に扉が開かれます。この杯からきわめて意義深い事が生じます。主の杯から生じます。その中に教会がバプテスマされたバプテスマと受難から生じます。信者たちが絶えず教会に加えられました(九・三一、四二、十一・二一、三四)。この状況が拡大しつつあります。火が広がりつつあります。サタンの王国は揺り動かされています。サタンの王国は根底まで揺れ動いています。それに関して何かがなされなければなりません。
ある人は簡潔にこう述べました、「世界をひっくり返してきた者たちが、ここにも来ました」(十七・六)。「さて、その頃、ヘロデ王は……」。おわかりになったでしょうか?これがその解き明かしです。教会がその中に導かれた、主の受難のこのバプテスマから、火が広がりつつあります。しかし、敵は動揺しています――ひどく動揺しています。ヘロデは「手を伸ばし」ました――その手の背後には、もう一つの手があります――「教会のうちの何人かを苦しめるためであった。また、彼はヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人を喜ばせたのを見た時……」彼はさらに先に進みました。私はこれらの節のすべてにじっくりと取り組みたいと思っています。なぜなら、そのどれにもあるメッセージが込められているからです。ヘロデは自分自身の勢いに駆られています。彼が少しばかり成功を収めると、それがあなたにどんな益を及ぼすのかを見てください。
しかし、しばしの間、それから少し転じて、別の面に移ることにします――すなわち、劇的とも言えるこの面、主の至高の王権の面です。これはみな三つの点に要約されます。「ヘロデは(中略)苦しめるために手を伸ばした(中略)主の御使いが彼を打った(中略)しかし、神の御言葉は成長して増殖した」(十二・一、二三、二四)。これは途方もないことではないでしょうか?この物語は、ヘロデが手を伸ばす場面から始まり、ヘロデが虫に食われて息絶える場面で終わります。教会に犠牲者、殉教者が出る場面で始まり、神の御言葉が成長して増殖する場面で終わります。これは別の王の物語です。これは相克する二人の王の物語です。それは、最初に述べたように、悪の勢力と御霊の無敵の勢力との間の戦いの、この長い歴史の縮図です。長期的には、常に御霊の勢力が勝利します。
しかし、ここで切迫した疑問が生じます。最初――彼はヤコブを剣で殺し、そして、それがユダヤ人を喜ばせるのを見た時、さらに進んでペテロを捕らえました――これについて考える時、答えを要する疑問が生じます。なぜ神はこのようなことが起きるのを許されるのでしょうか?ヤコブが剣で殺される前に、なぜ彼は介入されなかったのでしょうか?ペテロが投獄される前に、なぜ彼はそれを止めなかったのでしょうか?ああ、これは膨大な別の歴史に対する、もう一つの鍵ではないでしょうか?許容された神のみこころという神秘です。神はご自身の僕たち、とても有用な僕たちが殺されたり、投獄されたりするのを許されます。教会がこのように苦しむのを許されます。なぜ神はそれを許されるのでしょう?
その答えは、この杯の内側深くにあります。この杯の中に十分深く入り込むなら、答えが見つかります。別の言い方をしましょう――答えは十字架の内側深くにあるのです。神は、ご自身の奥義的なみこころと道により、イスラエルを用いたのと同じように教会を用いて、悪の勢力を引き出して自滅へと至らせます。「神は奥義的な道を進まれます……」。最終的に滅ぼされるのは教会でしょうか、それとも、それに敵対する勢力でしょうか?歴史の中にその答えが見つかります。この章のこの箇所に示されています。この箇所では、イスラエルはエジプトにいます。パロはなんと遥か遠くまで手を伸ばしていることでしょう――手を伸ばしています、彼自らの力の限界まで手を伸ばして魔術師たちによって応答し、それから、ひたすら遠く、遠くへと進み続け、パロの力はすっかり尽きます。その後、神は彼を打ち砕かれます。パロの全力をすべて合計しても、打ち破られ、滅ぼされます――神は、それをすべて引き出すために、苦しむ民を用いられたのです。
これが、この箇所が示している物語です。神の奥義的な道により、教会は苦しみます。しかし、その苦しみは敵に由来します。神は教会という手段によって敵を引き出しておられます――敵を引き出して、おびき出しておられます。そして、敵の不義の杯が満ちる時、神は敵を回復不能なまでに打ち砕かれます。これがヘロデの件です。この結果を招いたのは教会です。これを成し遂げたのは、ヤコブとペテロと当時の教会です。しかし、これはまさに十字架に見られるのではないでしょうか?十字架を見てください!十字架は地上と地獄の悪の勢力をすべて引き出しつつあるのではないでしょうか?まさにそうです!死んだ彼が十字架上におられるのを見て、それがどのように起きたのか、また、それを引き起こしたいっさいのもの――人と悪魔の悪意・怨恨の一部始終――をあなたが知る時、「彼らにこれ以上のことができるでしょうか?」とあなたは問うでしょう。いいえ!その答えは何でしょう?まき散らされた火です!それが答えです。それはその杯の中に、十字架の中にあります。それがこの問題全体の核心です。キリストの苦しみが私たちに、教会に溢れるとき、サタンの働きは滅ぼされます――そして、私たちにとっては、「ますます卓越した永遠の重い栄光」(二コリント四・十七)という結果になります。
なぜ神はそのようなことを許されるのでしょう?できれば、忍耐と信仰の中で待ってください。「ここに聖徒たちの忍耐がある」(黙示録十三・十、十四・十二)。この御言葉をご存じでしょうか?もし待つことができるなら、あなたは見ることになります。一方において、あなたの苦難、あるいは、あなたの諸々の苦難は、サタンの王国に大損害をもたらし、彼の権力を終わらせるのです。それらは彼を引き出しました。それらは彼の登場の印です。他方において、苦難は私たちのために栄光をもたらしました。そしてその間、霊的に増し加わり、霊的に前進し、火がまき散らされたのです。
神はサタンを滅ぼすためにサタンの働きを用いられます。しかし、そのために用いられる道具は教会であり、聖徒たちです。彼らの魂の中でこの戦いがなされています。「今や天上の主権者たちや権力者たちに(中略)教会を通して神の多種多様な知恵を知らせ」(エペソ三・十)。目に見えない領域で何かが起きています。
神の御言葉の進展には代価が必要です。それには多くの苦難が含まれます――この杯が含まれます。しかし、これが彼の道です。ここでは、ですから、神がサタンの働きを用いておられるのを私たちは見ます――一面において、サタン自身を滅ぼして打ち倒すために、他方において、御言葉の進展のために、教会の前進のために、神の栄光のために用いておられます。そして、これは彼の苦難の苦しみの交わりによって完成されます。
なぜパウロが彼の苦難の交わりを知ることを望んだのか、あなたも私も理解するのはかなり困難です。それは私たちにとって祈るのが最も難しい祈りの一つではないでしょうか?しかし、パウロはこの秘訣を知っていました。それは福音を進展させる道であり、それに逆らい立つものを滅ぼす道なのです。彼の苦難の交わりです。なぜなら、これは主イエスご自身の十字架の核心だからです。
これがすべてこの杯に備わっています。この杯は物体ではなくなります、たんなる物ではなくなります。何か生き生きとしたもの、何か強力なものになります。この杯はこの宇宙の強力な力です。あなたと私が次に主の食卓に来る時、そこにはなんと途方もないものがあって彼の宇宙のあらゆる領域に触れているのかに関するいっそう壮大な観念を、どうか神が私たちに与えてくださいますように。それは何か生き生きとしたものを表しています。この血は語ります。この血は告げます。この血は価値があります。血は命です。それはこの宇宙の恐るべき力です。私たちがこの杯を取り、それによって、このバプテスマ、この受難を受け入れる時、信仰の中で次のことを認識しようではありませんか。すなわち、私たちはそれが示す途方もない勝利をも受け取るのです。それには代価が必要なのです!
さて、これがすべてどこから始まったのかを見ることにしましょう。一方の側にはヘロデがいます――邪悪な、邪悪なヘロデから始まりました。彼はエサウにまで遡る長い歴史に由来する残忍さをことごとく帯びています。この行為を喜んだユダヤ人たちは、イエスに従う者たちに敵対します。内にも外にも、牢獄、鎖、屈強な衛兵――四人組の衛兵――が控えています。これらは大きな勢力、大きな困難――敵対するすべてのもの――を示すものです。それらはたんなる言葉ではありません。天然的な観点から見ると、それらはみな途方もないものです。これが一方の側です。他方の側には「主の御使い」がいます。ヘロデ、ユダヤ人、牢獄、鎖、衛兵は無に等しいです。
どこでこれがなされたのでしょう?言わば、まさにこの二者の間の祈りの集会においてです。地獄の勢力と天の勢力の間で、教会は祈りました。そうでなければ、これは起きていなかったでしょう。あの部屋の中でなされていたことがなければ、地獄の勢力は昇天したキリストの天的権威に、ひとりの御使いを通して服従していなかったでしょう。「しかし」と御言葉は述べています。「教会は祈った……」。しかし……しかし……どんな勢力もものともせずにです!それらの勢力を見積もってみてください。その力と意味をすべて考えてみてください。それから、それらすべての上に「しかし」という言葉を一つ付けてください。「教会は祈った……」。すると、これに応じてこの御使いが遣わされました――そして、他のものはみな無に等しくなったのです。
祈る教会。あなたはこれをどう思われるでしょう?「熱心に祈りがなされた」と述べられていますが、この英語の言葉は、実際のところ、その力を全く伝えていません。そのギリシャ語は文字どおりには「精いっぱい」「身を伸ばして」を意味します。教会は身を伸ばして祈りました。教会は身を伸ばしました。サタンは身を伸ばし、天も身を伸ばしました。そして、これらの二つの勢力は衝突しました。教会が身を伸ばしたからです。他のどんな方法でも、そのようなことは決して起きません。まさにこのとおりです。教会が祈るとき、なんと途方もないことが成し遂げられるのでしょう!
この物語について考える時、この物語にはない多くの、多くの思いが、私の心の中に押し寄せてきます。もし教会が、一緒に集まって、このような一つの中で、祈りの中でこの状況に集中する代わりに、次のように述べていたなら、結果はなんと異なっていたことでしょう。「ああ、ステパノがあんなことを言ってさえいなければ!何某さんがもう少し用心深くしてくれてさえいれば……。……してさえいれば!」。他にも無数のことを非難します。互いに非難しあい、人々にこのことで責任を負わせ、あのことでけなし、そして、引きこもって、ついには、疑問、非難、反論、「問題」に満ちた状況になってしまいます。そして、その件はすっかり妨げられてしまいます!親愛なる兄弟姉妹たち、このようなことが起きる時は常に、私たちはもっと深くまで見なければなりません。そうしたいっさいのことの背後には、この火をまき散らすのを妨げようとするヘロデの戦略があるのです。もし悪魔が私たちを、自分自身や、自分自身の問題や、互いの間違い、弱さ、失敗等々に向かわせることができるなら、彼は主の働き全体を打ち破ったことになります。あなたはひたすら祈るかもしれませんが、もし背後に分裂という矛盾があるなら、祈っても無駄です。主は介入してくださいません。
彼らは教会としてこのように「身を伸ばした」方法で祈りました。心の中に他の思いはありません。彼らは一つ思い・心です。サタン的問題に集中しています。これには教訓が込められています。ああ、私たちの祈りはなんと多くの事柄によって麻痺させられてしまうことでしょう。それらの事柄は、私たちが真理を知ってさえいれば、実際のところ問題にはならないことです――それらはサタンが握ってきたものです。欠点があるかもしれません。使徒たちの中に欠点のない人がだれかいるでしょうか?弱さがあるかもしれません。しかし、あなたが主の働きの側にありさえすれば、主は行動を起こしてくださいます。
ペテロに関して弟子たちがロダとした話について、こう言われてきました。彼らは夜通し祈りに祈り、その後、祈りがかなえられた時、それを信じなかった、と。「彼らは信仰の中で祈れなかったのだ」と言う人々もいます。しかし、別の見方もあります。私たちの中の何人かは、いま牢屋の中にいる一人の愛する兄弟のために力を尽くして祈っています。このような示唆をすることを許してほしいのですが、もしだれかが私たちの所に来て、「兄弟が扉の所にいます!」と言ったらどうでしょう。「ありえない!」と私たちは言うでしょう。多くの証拠をほしがるでしょう。主にはそれを行えることや、そうすることを望んでおられることを、信じていないからではありません。そうではなく、何らかの方法で、私たちが求めている当のことを主がしてくださる時、私たちは息を呑んで、信じることができないのです。これらの信者たちをあわれんで、不信仰と見なさないでください。実を言うと、彼らはこのように祈ったかもしれませんし、欠点や弱さがあったかもしれませんが、働きに取り組んでいたのであり、それに関して一つだったので、主は介入してくださったのです。
これからなんと多くのことが生じたことでしょう!彼らは問題全体を洞察して、真の問題に至りました。それ以外の思いを捨て去りました。そして、彼らの苦しみの中から、何かが生じました。十二章の後に続く出来事は覚えておられるでしょう。前の章(十一・十九~三〇)でアンテオケが視野に入ってきました。そして今、アンテオケからパウロとバルナバが遣わされ、先へ先へと進みます。火が地の果てまでまき散らされます――教会が祈ったことによってです。
これは素晴らしい物語ですが、これを伝えることに私はかなりの困難を覚えています。これは人生に大いにあてはまります。神の道に関する奥義のための大きな余地が常にあります。なぜ?なぜ?なぜ?もし神の道に関する「なぜ」に固執するなら、あなたは麻痺するでしょう。私たちの最初のメッセージの冒頭で述べたことを思い出してもらいましょう。ここで、ある法則が明示・宣言・確立されています――すなわち、この杯がなければ、火はまき散らされない、という法則です。この杯は常に奥義です。「なぜこんなことが……?」「なぜあんなことが……?」「なぜ彼はこんなことを許されるのでしょう……?」と言えるような形で、この杯は常に自らを表します。この杯は到来してとどまっているという、確立済みの定まった立場に達していなければ、これらの「なぜ」によってあなたは麻痺するでしょう。この杯は最後まで私たちと共にあります。
しかし、神が許された苦難という奥義、そして、十字架につけられた神の御子と十字架につけられた教会に関してこの杯が意味するすべてのこと――これらすべての中に、サタンを滅ぼして天の王国を確立する道があります。どうか神がこれを私たちのうちに定着させてくださり、私たちに恵みを与えてくださいますように!