第四章 火の試練

T. オースチン-スパークス

再び私たちの基本的な聖書の節に戻ることにします。

「私が来たのは、地上に火を投じるためです。それがすでに燃え上がっていれば!しかし、私にはバプテスマされるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、私はどれほど圧迫されることでしょう!あなたたちは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのですか?あなたたちに言いますが、違います、むしろ、分裂です。なぜなら今から後、一家に五人いたなら分裂して、三人は二人に逆らい、二人は三人に逆らうからです。彼らは分裂します。父は息子に逆らい、息子は父に逆らいます。母は娘に逆らい、娘は母に逆らいます。しゅうとめは嫁に逆らい、嫁はしゅうとめに逆らいます」(ルカ一二・四九~五三)。

白状すると、これは私がちっとも好きではなくて、それについて話すのを極めて悲しく感じる、私たちの主の言葉の一つです。もし主以外の誰かがこう言ったなら、おそらく、私たちはそっぱを向いていたでしょう。私は確信していますが、もしそれが私に由来するものだったり、あるいは、私の兄弟たちのだれかに由来するものだったなら、とても大きなつまずきを引き起こしていたでしょう。しかし、主がそう仰せられたのです。それはこの声明の冒頭とすべて一つながりであるように、私には思われます。

おそらく、あなたは気づいているかもしれませんが、ここでこの物語全体の流れが、きわめて唐突に変わります。四八節の終わりまでは、一つのことについてです。その後、きわめて唐突に、この変化が生じます。彼の側にためらいがあったとしか私には考えられません。彼がこう言われた後、彼は少しのあいだ静まって、将来に思いを馳せられました――この世に及ぼす彼自身の影響と効力に関する将来です。そしてそれから、彼はご自身の発言のこの部分を、すっかり異なる奇妙な雰囲気の中で開始されました。

「私が来たのは、地上に火を投じるためです……」。「これが私が来た理由です。これは私が来た意義の要約です。なぜ私は来たのでしょう?何のために来たのでしょう?その成果・結果は何でしょう?私が来たのは、地上に火を投じるためです……何と私は閉じ込められ、圧迫され、制限されていることでしょう!何を私は望んでいるのでしょう?必要なものは何でしょう?私にはバプテスマされるべきバプテスマがあります。それが済んでいたなら!それが成し遂げられることを私は願います。その時、私はこの圧迫、この制約から解放されます。私が来た目的が実現されます。ああ、それ――受難のこのバプテスマ、十字架のこのバプテスマ――がすでに成し遂げられていたなら!」。こう彼は思っておられ、こう彼は話しておられます。すでに述べたように、四九から五三節までのこの段落はすべて一つながりのように思われます。私たちはここでこの火の効力を目にします。それはとても恐ろしいです。それは裁きの要素を導入します。聖書の中の火は、多くの場合、この箇所のように、裁きの象徴です。聖書について少しでも知っている人なら、これについて説得する必要はまったくありません。

裁き

しかし、この「裁き」という言葉の意味を私たちは理解しなければなりません。多くの時、私たちはそれをその諸々の面の一つに、特に最終的な面に限定してしまいます。私たちは「裁きに渡すこと」について話しますが――それによって言わんとしているのは、刑罰に渡すことです――裁きの最終的効力のことです。しかし、裁きという言葉は聖書ではもっと包括的な言葉です。それはまず――火つまり裁きに関する火の観点から明確にわかります――物事を試すこと、物事を検査することです。今、それを証明する聖書の御言葉があなたの心の中に思い浮かんでいるのではないでしょうか?火は検査します。火は試します。火は探り出します。そうではないでしょうか?これが火の第一の効力です。そして、これが裁きの第一の意味です。つまり、すべてを検査すること、試すことです。

それが済むと、それは区別します。つまり、分けます。それは物事がどの範疇に属するのかを示して、それらをそこに置きます。火にはその効力があります。それは言います、「あれはあの種類に属しており、それはあの種類に属しています。それはあの範疇に、もしくはあの領域に、もしくはあの王国からのものです。これは別のものに属しています」。火は見つけだします。区別して分けます。

その後、それは最終的に移管します。それは言います、「それはある特定の領域に属することがわかりました。それは指定済みであり、区別済みです。それはあそこに属します。私たちはそれをあそこに置きます」。これが火の最終的効力です。

これが「裁き」という言葉の内容です。この言葉を用いる時、私たちはこの意味を常に心に留めておく必要があります。今は、そのさらに詳細な適用については考えないことにします。

神の御言葉が私たちに告げているように、この裁き――それは聖霊来臨と共に臨むことに気をつけてください――十字架によるキリストの解放の効力は、聖霊来臨によって火をまき散らすことだったのです。言い換えると、キリストの解放の効力は、御霊が火の御霊として来臨されることだったのです。そして、火の御霊である彼の臨在は常に、この三つの意味を持つ裁きと関係しています。聖霊の臨在はこのようなものであり、この効力があります。さて、御言葉を見て、それが働く領域について見ることにしましょう。

人間関係

ルカによる福音書のこの一二章では、それが一つの領域で働いています。次のような恐ろしい御言葉が記されています、「あなたたちは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのですか?あなたたちに言いますが、違います、むしろ、分裂です」。この言葉は昔の欽定訳では「剣」となっています。分裂!これは恐ろしく聞こえます。これには細心の注意が必要であり、私たちはとても注意深くなければなりません。しかし、彼はさらに進んで、分裂という言葉で何を言わんとしているのかを説明されます。「今から後、一家に五人いたなら分裂して、三人は二人に逆らい、二人は三人に逆らいます」。そして次に、家庭内の分裂の例を挙げられます。ここでは、火は人間関係の領域で働きます。

さて、ちなみに、ここで直ちに、かつかなり強調して言わせてください。これは、教会内の外面的分裂、キリストにある人々の間の分裂とは、まったく関係ありません。そのようなことを主は述べておられるのでも、指摘しておられるのでもありません。彼はまったく別の領域で、霊の領域で、考えておられます。この分裂はもっぱら霊的基礎に基づいて生じます。コリント人への第一の手紙にある分裂は、霊的でない信者たちの間にあった別のもののせいでした。しかし、これは本質的・基本的に、霊的な分裂です。

おそらく、これに関する古典的な絵図・例は、旧約聖書のはじめの部分、レビ人の事例に見られるものです。彼らが荒野に着いた時、どのようにモーセが山に召されたのか、あなたは思い出すでしょう。彼はそこにとても長い間いたので、人々は――これは神の周到な案配だったと思います――彼らの心が実際にはどこにあるのかに関して厳しく検査されました。彼ら自身の権益と神の権益、彼ら自身の目的と神の目的の、どちらを追い求めているのでしょう。彼らの心は主に関するこの問題を思っているのでしょうか、それとも、彼ら自身の満足と喜びに心を注いでいるのでしょうか。モーセが山にいた四十日四十夜のあの試験期間という厳しい検査を彼らは受けました。そして、この検査に打ち負かされました。モーセが降りて来て、宿営での騒ぎを耳にした時、何が起きていたのかはご存じでしょう――子牛があって人々は踊っていたのです。「ああ、イスラエルよ、これがあなたたちをエジプトから連れ出したあなたたちの神である」。

モーセは宿営の門の所に立って叫びました、「主の側につく者はだれか?」「主の側につく者はだれでも、私の所に来なさい」「すると、レビの子らがみな彼の所に来た。彼は言った、『それぞれ腰に剣を帯びて、行き巡り、それぞれ自分の兄弟、自分の友を殺せ』」。剣、炎のような剣が、人間関係の領域に臨みました。それは心がどこにあるのかを探り出し、心を試します。諸々の動機を識別します。「心の思いと意図」(へブル四・一二)。そして、この人々を彼らが属している区分に置きます。ここではレビ人たちが試験されて勝利のうちにくぐり抜け、永久にご自身の民に関する神の全き純粋な御思いを代表して立ちます。要点はこうです。裁きの、火の、剣の、この働きが、心の動機を探り出すために、人間関係の領域に臨んだのです。

これはルカ一二章の参考になります。これがまさにそれが意味するところです。家庭、家、家族の中にまで生じる分裂が、心の関係というこの問題に関して、聖霊によって引き起こされます。荒野でのイスラエルの物語を読んで分かるように、この国、この世代の心は、詩篇作者が述べているように、「神に堅く定まっていなかった」(詩篇七八・八b)のです。心の中で彼らはエジプト――エジプトの肉鍋――を慕い求めました。荒野にいる間でさえ、彼らの心はそこに逆戻りしました。そして、その世代は決して良き地に入ることがありませんでした。その心が主と共になかったからです。これは内なる分裂、心の中の分裂の問題です。

さて、聖霊は常にこのような方法で分裂させる御方です。そうするのが聖霊の御業です。ある意味で――悪い意味ではありません、私の言葉をどう受け止めるのかに注意してください――ある意味で聖霊は分裂の原因です。彼が分裂させる方である領域があります。

自分の聖書を手に取って、初めに遡ることにしましょう。神の霊が混沌、暗闇、虚空の上を覆われました。聖霊によって、聖霊を通してなされた、最初のことは何だったでしょう?物事を分けること、光と暗闇を分ける過程です。「そして、神は光を暗闇から分けられた。そして、神は光を日、暗闇を夜と呼ばれた」(創世記一・四~五)。そして次に、神は天と地を分けられました。彼は大空の下にある水から大空に上にある水を分けられました(一・七)。両者はあまりにも近すぎたのです。一方は他方の頂の直上にあって、天の雲と地上の水とを判別・識別できませんでした。彼は間に大空――広がり、空間――を設けられました。そしてそれを天と呼ばれました。同じように、彼は乾いた地を水から分離して、「乾いた土地を地と(中略)水を海と呼ばれた」(一・一〇)。そして、彼が「ご覧になると、それは良かった」。

さて、旧約聖書の物事には、ご存じのように、新約聖書的な意味があります。これらに対応するものが新創造の中に見いだされます。使徒行伝の書、新創造に関する聖霊の働きの書を見ると、聖霊の活動の結果、始終この分裂が生じていることを見いだします。確かに、これは新約聖書を貫く御霊の御業の特徴だと言えます。光と闇を分けられるのです。裁いて、宣告されるのです。「これは暗闇です――それは一方の領域です。そして、これは光です――これは別の領域です。この両者は決して、正当かつ適切な仕方で、両立することはありえません、共存することもありえません。これらは別のものであり、二つの全く異なる区分に属しています」。神の霊がそうなさったのです。

これを霊的に解釈すると、その意味が分かります。霊的生活で何と途方もなく多くのことがこれにかかっていることでしょう!これは次のような方法で働きます。すなわち、だれでも――これは試金石です――真に御霊を持っている人は、光に対してとても敏感であり、暗闇に対してとても敏感なのです。彼らは神が設けられたこの大きな分裂をとてもよく承知しています。そして、暗闇に属する何かに触れると、自分が暗闇に触れたことが分かります。自分が別の領域に来たことが分かります。これは御霊の御業であり、実にとても重要な御業です。

他方、御霊を持っている人は、同じように光に対して敏感です。真の光――これについてはすぐに定義することにします――がある時、霊的な男女は直ちにそれに飛びつきます。なぜでしょう?この種の光は冷たい光ではないからです。それは火の光です――生ける光であって、その中にエネルギーがあります。光があっても、それは冷たいかもしれません。偽物の火を手に入れられたとしても、それは冷たいです――電源を入れると、石炭の輝きの偽物が燈るのですが、心理的影響以外に何の違いも生じさせないもののようです!それを見て、おそらくは何かを思い浮かべるかもしれませんが、実際のところ、みな幻想なのです。そのような類の光を手に入れられたとしても、それは偽物であり、人工的であり、偽りです。電源を入れるのと同じくらい速く、電源を切ることができます。しかし、力があるのは火の光ではありません。御霊の光、神の光、キリストの光は、常に生き生きとしていて、力ある光です。御霊を持っているあなたや私が光に触れる時、私たちは心理的・知的に興味を持ち、魅了され、うっとりして、捕らえられるわけではありません。私たちの内側の何かが飛びついて反応するのです。エネルギーに出会ったからです。

御霊の特徴は、これはこれそれはそれと裁くこと、何がこの領域に属し何があの領域に属するのか裁くこと、そして、それらを隔てることです。ですから、もし暗闇が日や光に臨んだり、光が夜に臨んだりするなら、それはとても異常なことです。それは、まったく通常の成り行きではありません。要点がわかったでしょうか?あなた自身の家庭、あなた自身の一家の中に、これらの異なる王国や領域が生じる可能性があるのです。そのような所では交わりは全く不可能です。聖霊ご自身によって生じた分裂がそこにあるからです。多くの人が自分自身の経験からこれを確証・証しすることができます。また、そのために苦しんでいる人もいます。しかし、要点はこうです。聖霊が介入されるとそうなるのであり、主イエスはとても信実で誠実な方なので、そうなることを知らせてくださったのです。それを避けることはできません。それを克服することはできません。それを橋渡しすることはできません。それは痛ましいことですが、それは御霊が何かを行われた印です。私たちが主の民として、神の霊によって隔てられたこれらの異なる領域に、もっと敏感になれたら!御霊の光の中で成長した印は、此処に属するものと彼処に属するものにますます敏感になることです。

二つの箇所でパウロは「異なる事柄」(ローマ二・一八、ピリピ一・一〇)をという句を使ったことを、あなたは思い出すかもしれません。彼はこれを信者たちに対して話しました。彼はクリスチャンである彼らに、異なる事柄について知らせようとしました。それはコリントに存在していてしかるべき類の真の分裂でした。他方の分裂は偽りの間違った分裂でした。しかし、ここで物事がごちゃ混ぜになってしまったのです。日と夜がまったくごちゃ混ぜにされていました。夜に属する物事が「昼の子ら」(一テサロニケ五・五)の間にありました。それなのに、彼らはそれに気づいていませんでした。それでコリント人への第一の手紙は聖霊について――聖霊の真の効力と御業について――これほど多く述べているのです。御霊の生活は霊的に分ける生活であることを、私たちは認識しなければなりません。御霊に支配された生活の行程は、異なる事柄に対して敏感な、識別する行程なのです。

クリスチャンの働き

これの次の適用先は、クリスチャンの働きの問題全体です。パウロはこれについてコリント人への第一の手紙の三章で述べています。

「私に与えられた神の恵みにしたがって、私は賢い建築家のように土台を据えました。そして他の人がその上に建てます。しかし、どのようにその上に建てるのか、各自は注意しなさい。なぜなら、据えられている土台の他に、誰も他の土台を据えることはできないからです。この土台は、イエス・キリストです。しかし、もしだれかがその土台の上に、金、銀、宝石、木、草、刈り株をもって建てるなら、それぞれの人の働きはあらわになります。なぜなら、かの日がそれを明らかにするからです。それは火によって現され、その火自身が、それぞれの人の働きがどんなものであるかを証明するのです。もし、その土台の上に建てた人の働きが残るなら、その人は褒賞を受けます。もし、その人の働きが焼き尽くされるなら、その人は損失を受けます。しかしその人自身は、火をくぐってきたようにではあっても救われます」(一コリント三・一〇~一五)。

これと並んでへブル人への手紙からの一節を挙げることにします。

「その当時、彼の声は地を揺り動かしましたが、今や彼は約束して言われました、『私はもう一度、地だけではなく天をも揺り動かす』。『もう一度』というこの言葉は、造られたもの、すなわち揺り動かされるものが取り除かれて、揺り動かされないものが残ることを意味します。こういうわけで、揺り動かされない王国を受けているのですから……」(へブル一二・二六~二八)。

ここで私たちは生涯の価値――生涯の働き――という領域に入ります。その判別は火によってなされます。この火は「それがどんなものであるか」を試します。思い出してください、これはクリスチャンに宛てたものなのです。世の人々のように、自分の職業にしたがって、自分の働きをしている人々に宛てられているのではありません。これはクリスチャンに宛てられており、クリスチャンの働きについて述べているのです。キリストは土台であり、この土台の上であなたがなす働きについて述べているのです。パウロはクリスチャンの働きについて、火に耐える領域もあれば――クリスチャンの働きには――煙になって上って行く別の領域もある、と述べています。後者の場合、すべては無駄だったことが証明されます。その働き人はかろうじて天に辿り着きますが、それだけです!確かに救われるのですが、「火をくぐってきたように」救われるのです。

これは聖霊がクリスチャンの働きの領域で生じさせられる分裂です。これをすべて要約して、その核心に真に至りたければ、それは結局こういうことです。すなわち、聖霊ご自身によって、聖霊ご自身を通してなされることだけが残り、検査に耐え、「イエス・キリストの出現の時に、賛美と栄光と誉れとなって現れるのです」(一ペテロ一・七)。途方もない量の活動やエネルギー、単一の働きや複数の働きが、クリスチャンたちによってキリストに関連して――少なくとも彼らはそのつもりです――なされたとしても、火に渡されて、煙になって消えていき、さんざん労苦したのに働き人には何も残らないおそれがあるのです。

これが使徒行伝の中で起きていたことです。この書に目を通して、なされている区別を見てください。確かに、実際に区別がなされています。ああ、何とこれらのユダヤ主義者たちは労苦したことか!どれほど彼らは苦しんで、海と陸を渡ったことか!このような長旅をするには、かなり大きな代価が必要だったにちがいありません。彼らの活動は遠く広範に及びました。彼らは真剣な人々であるだけでなく、自分と自分の地位について彼らが理解する限りにおいては、彼らはいわゆる誠実な人々だった、と結論せざるをえません。これらのユダヤ主義者たち――彼らはパウロが行く所はどこでも追いかけて行き、こうした類のことにまさに自分の命をささげました――とタルソのサウロとの間に、私が見るところ、あまり大きな違いはありません。こういうことを彼はまさに行っていたのであり、彼は彼らの一人だったのです。

「私は本当に思っていました……」「私は心から思っていました」。「私は率直に思っていました」と言い換えてもかまいません――「ナザレ人のイエスの御名に敵対して、多くの事を行わなければならないと、自ら思っていました」(使徒二六・九)。これは正直な人、誠実な人の言葉です。「私は……しなければならないと、本当に思っていました。私はこれについて熟慮しました。これはたんなる衝動ではありませんでしたし、たんなる狂信でもありませんでした。私は熟考したのです」――パウロは熟考した人でした――「私は……しなければならないと思いました。これは私のなすべきことであること、これをするのは正しいこと、自分はこれをするよう召されたことを、私の良心は確信していました。それは私にとって良心の問題でした。私は……しなければならないと、本当に自分の内で思っていたのです」。

たしかに、これほど徹底的に誠実だったとしても、徹底的に間違っているおそれがどれほどあることか!ユダヤ主義者たちがそうでした。しかし、彼らの働きは長続きしませんでした。ここでは御霊の働きが進行しています。進行してきたのであり、依然として進行しています。それは試験、試みにすべて耐えました。それは火を乗り切ります――裁きの火、試験の火を乗り切ります。それは御霊の働きであることを自ら証明しました。それはこの事柄全体に対する鍵であって、きわめて重要であることがわかります――誠実さや、情熱や、良心の確信に基づく行動から発したのではなく――聖霊による統治から発したのです。これが大事なことです!それだけが永続します。

これはみなクリスチャンの働きの領域にも言えます。おそらく、あなたはさしあたって、ユダヤ主義者たちにあまり問題を感じてこなかったかもしれません。しかし、ご存じの通り、あなたは彼らに大いに譲歩せざるをえませんでした。これらのユダヤ主義者たちは反キリスト教ではありませんでした。彼らが真に欲していたのはユダヤ的キリスト教でした――ユダヤ的複合体を伴うキリスト教でした。キリスト教がユダヤの体制、ユダヤの模範に同化しさえすれば、彼らにはキリスト教を受け入れる用意がありました。今はそれについて議論するつもりはありませんが、そうであることを示す多くの証拠を示すこともできます。それは御霊の働きではないことを、パウロはコリント人への彼の手紙で示しています。それは大いに異なっています。

クリスチャンの証し

次なる思索は私たちをクリスチャンの証しの領域に導きます。クリスチャンの証しの領域に働く火に導きます。とても有名な節に向かうことにします。

「しかし神に感謝します。この方はいつも私たちを、キリストにあって勝利の中で導き、彼を知る知識の香りを、至る所で私たちを通して現わされます。というのは、私たちは救われつつある者の中でも、滅びつつある者の中でも、神に対するキリストの香ばしいかおりだからです。ある者には死から死へと至らせる香りであり、ある者には命から命へと至らせる香りです」(二コリント二・一四~一六)。

ここに火の分ける効力が示されています。この絵図、この背景はご存じでしょう。パウロの念頭にあるのはローマの行進に関してです。凱旋将軍が自分の行列で捕虜たちを率いて、あちこちで戦勝を祝います。そのような場所ではどこでも、祭壇が設けられ、火が燈され、炎が燃え上がり、香が大気を満たし、そしてこれにより効果が倍増しました。そこには殺されようとしている者たちがいて、その場所で殺されることになっていました。そこでいけにえにされることになっていました。殺されない者たちもいました。彼らはその火をやり過ごして進み続けます。彼らは救われます。この背景は、ご覧のように、とても鮮明です。この火が区別・決定します。

しかし、パウロは言います。これは、私たちが方々に動く時、私たちの生活や務めにより聖霊が及ぼされる二重の効力である、と。どこでも毎回、何かが起きます。二つのことの一方もしくは両方が、どの場所でも起きます。一方において、光を拒む人たち、勝利の主に対して執拗に戦う人たち、聖霊に抵抗する人たちは、罪に定められます。彼らは自分たちが属する区分――罪に定められた者――の中に入れられます。他方において、信じる人たち、受け入れる人たちは、この同じ聖霊によって、自由の中にもたらされます。彼らは試練の火に合格して、命の中で進み続けます。「ある者には死から死へと至らせる香りであり、ある者には命から命へと至らせる香りです」。

さて、要点はこうです。これが私たちの務めや私たちの証しによる聖霊の効力である、とパウロは述べているのです。言い換えると、聖霊は決して物事をそのまま放置されないのです。聖霊の臨在は常に、何らかの転機や判決をもたらします。聖霊が臨在して語られるとき、私たちはその後、前と同じままではいられません。何かが起きました。私たちはますます頑なになるか、ますます柔軟になるかのいずれかです。ますます罪に定められるか、ますます救われるかのいずれかです。聖霊の臨在の中で、何かが起きます。火が裁きのこの働きをなすのです。

これが、主イエスが「地上に火を投じる」ことについて話された時に、言わんとされたことです。この火は何をするのでしょう?この分裂を生じさせるのです。この裁きをもたらすのです。物事や人々や彼らの運命を決めるのです。これが歴史上いかに真実であるのか、私たちは知っています。これが聖霊の効力です。しかし、この特別な文脈で私が強調したいのは次のことです。もしあなたや私が真に御霊によって統治されていて、御霊によって満たされている男女なら、私たちの存在と私たちがこの道を通ることにより、物事を以前とは違うものにする効力を及ぼすのです。これが、もちろん、務めの目的です。「神に感謝します。この方は私を、ご自身の勝利を祝うために、方々に導いてくださいます」。その効力は一方か他方かのいずれかです。それ以降、物事は以前と同じままではありません。聖霊の務めはそうでなければなりません。何かを生み出さなければなりません。何らかの効力を及ぼさなければなりません。違いを生じさせなければなりません。そして、事実そうなのです!こうするのです!

区別する火

火が地に投じられます。この使徒行伝を読む進んでいくと、こうしたことがすべて起きるのを見ます。こうしたことが常に起きています。この火がそれをなしています。この火が探り出し、試し、区別し、追いやっています。この物語の結末として、二つの領域が分けられ、それらが何であって何に属しているのかが示されます。

この霊的区別の問題に関して、もちろん、もっとたくさん述べることもできます。異なる区分に属する物事について、この本質的な霊的相違について、もっとたくさん述べることもできます。しかし、次のように述べればすべて要約できると思います。すなわち、私たちが聖霊によって真に治められるとき、私たちはみな一つの区分に属することになるのです。これが要点です。私たちが生きる、多くの異なる区分や領域が生じるわけではありません。二つはないでしょう――ただ一つだけでしょう。聖霊は一つの区分に属する民を得ようとしておられます。それは彼ご自身によってまったく治められ、導かれている民です。もし何かのことで「私は根本的にあなたに反対します」と言うなら、私たちの内の一人は御霊の中にいないことになります。どこが間違っているのかを見つけ出すのは、私たち次第です。なぜなら、聖霊は根本的に二心ではないからです。彼には決してそんなことはありえません。御霊の中に真にあることは、繰り返すと、一つの区分、一つの種類に属することを意味します。

ですから使徒は、精神の一つ、心の一つ、霊の一つ、「みなが一つのことを語る」(一コリント一・一〇)このことについて、これらの教会に多く書き送ったのです。彼はこれを再度述べ、これを再度求め、このために嘆願しました(ピリピ一・二七、四・二参照)。ですから、これは可能です。これらすべての問題や困難の解決策は、御霊にある生活です。そしてこれは、もちろん、十字架に基づきます。そこで私たちはすべてを主に明け渡す無限の能力を見いだします。他のことはみな忘れたとしても、このことは覚えておこうではありませんか。