第一章 私たちの相続財産

T. オースチン-スパークス

今回の私たちの黙想の鍵となる句は、へブル人への手紙の十二章の中の二二節です。「しかし、あなたたちが来ているのは、シオンの山に、生ける神の都である天のエルサレムに、無数の御使いたちの集会に、全体の集会及び天に登録されている長子の教会に、すべての人の裁き主である神に、全うされた義人たちの霊に、新しい契約の仲保者イエスに、アベルの血にまさって語る注ぎの血にです」。

この文章の最初の句だけを、私たちの話の表題に取りました。おそらく後で、この文章全体の他の部分に進むかもしれませんが、御言葉は「あなたたちは来ているのです」と述べています。私たちが共に集まる時間のいくらかを費やして、信仰の相続財産に専念することが主のみこころだと私は信じています。

「へブル人への手紙」と称されているこの文書を読んで熟考した人はみな、これは神の御計画の歴史の中で最も重要な文書であると理解しています。なぜなら、この文書は旧約聖書に(特にイスラエルに関して)記されていることをすべて取り上げて、その全き決定的意義をキリストの中に、そして教会の中に見いだしているからです。この手紙(もしくは文書)は多くの基礎を網羅します。それは旧約聖書の三つの大きな区分を網羅します。創世記から出エジプト記までが聖書の最初の大きな区分を形成します。出エジプト記から士師記までが二番目の大きな区分であり、それから、士師記から旧約聖書最後のマラキ書までです。これらすべての区分を、この比較的短い文書は取り上げて網羅しています。そして、各区分の中に、また、区分全体を一緒にしたものの中に見いだされるものはみな、キリストのパースンと御業によって集約・成就・完成されて、彼の教会に伝達されたことを示しています。ですから、キリストにあって、そしてキリストによって、私たちはこの莫大な相続財産を持っています――すべてを相続しています。「あなたたちは来ているのです」というこれほど短い一節の中に、これ以上豊かで壮大な内容を込めるのはほとんど不可能です。

この手紙(私はこれを文書と呼ぶのを好みます。なぜなら、これは実際そうだからです。教会の嗣業のための文書であって、この経綸における信者たちの相続財産を含んでいるのです)この文書は私たちを神と共なる神聖な道の上に置きます――神は永遠の過去から動いておられ、目的をもって前進しておられます。次に、この路上を行く旅人の一つの旅団を私たちに示します。アベル、エノク、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、メルキゼデク、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ギデオン、バラク、サムエル、ダビデ――祭司たち、王たち、預言者たち――を示します。彼らはみな、ここでは、神の道を行く旅団の中にいます。

この文書は、この旅で私たちが見いだすいくつかの事柄に触れます。例えば、幕屋とその規定です――みな先を指し示しています。それはこう告げます。これらの人々はみな――彼らは永遠から永遠まで神の道を行くこの偉大で神聖な旅団に属しています――嗣業を探し求めているのである、と。彼らは注視しました。注視しただけでなく、探しました。彼らはすべてを後ろに残して、嗣業を探す道を行きました。こうした諸々の時代は「前へ」という様相をまったく帯びていました。神と共に旅する追求者、探究者だったのです。

そして次にこの手紙は、これらすべての時代にわたって彼らが探究してきたものに私たちは来ていることを、私たちに告げます。彼らが求めた相続財産を私たちは持っています。彼らは受けませんでした。なぜなら、神は私たちのためにさらに優ったものを用意しておられ、彼らが私たち抜きで、私たちとは別に全うされることがあってはならないからです。そういったすべてのことに対してこの手紙が述べているのは、すべて、それはすべて、もはや将来のことではなく、現在のことである、ということです。その中に入ることに関する限り、それは現在のことです。それを今、私たちは得ています。「あなたたちは来ているのです」――彼らは探し、求め、来ようとしていました!「あなたたちは来ているのです」。

神はご自身の道を進み始め、これらの人々は彼に加わりました。神はご自身の道の最後に到達され、私たちは彼と共にこの道の最後にいます。この文書のここに記されているのは途方もないことです。「あなたたちは来ているのです」。私たちは到着しているのです!この旅団は到着しました。「あなたたちは来ているのです」。信仰のこの相続財産全体――なぜならこの人々はみな信仰の男女だったからです――信仰のこの相続財産全体は今や、私たちがその中に入るために現存しているのです。「あなたたちは来ているのです」。

今、これをかみ砕く必要があります。その最初の句を取り上げることにします。なぜなら第一に、この文書は創世記の最初の二つの章に呼応しているからです。これは大いに明らかです。創世記はどのように始まるのでしょう?「初めに神は……」。へブル書はどのように始まるのでしょう?「神は、さまざまな時に多くの方法で語られた神は……」。「初めに神は」。神です。特にこの点でそれは創世記に呼応しています。次に、創世記の中で神は偉大な設計者、偉大な計画者、ご自身が計画した設計に基づいて働く偉大な労働者、ご自身の働きの偉大な完成者として啓示されています――「神はご自身が造ったすべてのものを見て、『良い』と言われた」。へブル人への手紙はあらゆる点でこれに呼応しています。それは神と共に始まります。神を偉大な設計者、偉大な計画者、偉大な労働者、偉大な完成者として示します。先に進むにつれてこれを私たちは見ることになりますが、大事な点は次の通りです。すなわち、神は創造を完成されたのです。神はその時、創造を完成されたのであり、創造を完成して園を設けられたのです。これが創造全体に続きました。そして園を設けて、彼は人をそこに置かれました。

さて、神は人をその園の中で創造された、とはそれは述べていません。神は人をそこに置かれた、と述べています。人はひとまとまりとしての創造の一部でした――園は創造全体と人に続くものでした。園の中の人は全体の一部です。さしあたってこれに何の価値も見あたらないかもしれませんが、これはたんなる所見ではないことが間もなくわかるようになるでしょう。人は、まず、完成された御業の中に置かれました。完成された世界の中に置かれました。すべてがなされ、すべてが用意された時、次に、完成されたものとして、それは人の相続財産、人の嗣業として人に与えられました。

繰り返しましょう。人は完成された世界の中に置かれました。それは、それを所有し、開拓し、発達させ、次に、自分が置かれたような世界にふさわしい家族を建て上げるためでした。それは神によって人に与えられた相続財産でした。人はそれを神を信じる信仰により、恩恵を施してくださる神聖な方を信じる信仰により、保持して享受するべきでした。なぜなら、人は神の相続人だったからです――それは彼自身の権利によるものではなく、神の恩恵によるものでした。

神はすべてを人に焦点づけられました。人は子たる身分を得る可能性という基礎の上に置かれました。人は栄光に定められていました。もしこれをすべて受け入れて、これをみな心に留めて、それをへブル人への手紙の中に持ち込むなら、あなたは次のことを見いだします。すなわち、創世記では物質的・一時的だったものが、あらゆる点で、この文書では霊的なかたちで現存しているのです。創造における神の活動に呼応するこの霊的対応物について黙想することから得られるメッセージよりも、輝かしいメッセージ、心をうっとりさせるメッセージはありえません。それをもう一度見ることにしましょう。

人の輝かしい将来のために必要なものはすべて、まず神ご自身によって成就されました。そうです、キリストにあって神によって成就されました。それは成就されたものであり、完成された御業でした。私たちは「キリストの成就された御業」という句をあまりにも軽々しく使っています。成就された御業と完成された人なる方……人が見る前にすべてが、すべてが確立されたのです!人には何の立場もありません。神が「はなはだ良い」と言われる時が来るまでは、人は神がしておられた御業の中に全く何の立場も持っていませんでした。人はその中に何の立場も、何の役割も持っていませんでした。決して持っていませんでしたし、決して持つことはないでしょう!神は単独でこの問題全体を御手の中に握って、自らそれを行われました。そして、これが成就された事実となって、被造物が美と栄光と完全性の中に存在するようになった時、彼はそれを嗣業として人に与えられました。彼は人をその中に置かれました。これが、親愛なる友よ、この手紙の偉大なメッセージです。たしかに、これは新約聖書の偉大なメッセージですが、それがここでは大いに明確に、大いに輝かしく示されています。キリストにあって、神はまったく完全に贖い、新創造を完成されました。あなたも私もそれを造り出すのに何の役割も果たしませんでしたが、あなたも私もそれを嗣ぐよう召されています。「あなたたちは来ているのです」!

この嗣業が丸ごと信仰に対して差し出されています。神に対して、主の民である私たちがもっと徹底的にこれを理解するようになりますように。それに加えるべきものは何もありません。加えるべきものは何もありません。神がそれをなさいました。(繰り返しましょう)人の輝かしい将来――それは人が造られる前に決まっていました――に必要なものはすべて、人が舞台に登場する前に、キリストにあって神によって成就されたのです。神は人のためにこの――輝かしい、完全な、潜在的――嗣業を完成されました。それは、言語を絶する素晴らしい偉大な可能性を秘めており、永遠のものであって、光、命、安息、平安、力、勝利の嗣業です。これらはみな最初の創造では潜在的でしたが、その後、霊的なかたちで受け継がれて、私たちに対して、私たちの信仰に対して差し出されています――依然としてなされるべきものとしてではなく、すでになされたものとして差し出されています。神は「光あれ」と言われました。神は光を与えてくださいました。そして、これに言えることは、他のあらゆることにも言えます。あなたにこれを把握してもらいたいと思います。

この問題の重要性を強調するために、ここで挿話を入れるとしたら、もう一度、こう述べなければならないでしょう。すなわち、私たちがこの経綸の最後に近づくにつれて――私たちはきわめて確実に、きわめて速やかに近づきつつあります――神は人々に関する全き御思いに立ち返ろうとされますし、人々をご自身の全き御思い――それはこの経綸を究極的に成就することです――に立ち返らせようとされるのです。もしこれが真実なら、こう述べることは時期に適っています。すなわち、まずあなたや私が、そして、主の民――彼らがどこにいたとしても、また、誰であろうと――が、この素晴らしい安息、平安、確信、力、勝利にあずかるのです――光、命、自由、この輝かしい事実の中に、この単純で、基本的な、包括的事実にあずかるのです。それは、神はキリストにあって人の輝かしい将来に関わるものをすべて成就して、それを信仰に対して差し出された、という事実です――神がなさったものに何かを加えようとする試み、神が有効化されたものを有効化しようとする試み、何とかしてこれを行い、それを良くしようとする試み、こうしたクリスチャンたちの力みをすっかり断ち切ったのです。私たちはこの問題に適応しなければなりません。私たちの責任の問題についてはやがて明らかになりますが、これによって一瞬たりとも次のことの価値は減りません。すなわち、この世界を創造したとき、神はそれをすべて単独でご自身の御手によって行われましたし、それにはご自身だけで十分だったのです。そして次に、それを相続財産として人に与えてくださったのです。それは、大いなる恩恵を施す方である彼を信じる信仰という根拠のみに基づいていました。この世界の創造に言えること、これに関して言えることは、物質的なものや一時的なものよりもずっと高度な領域、霊的なものや永遠のものの領域でも、まったく言えることを、この御言葉は示しています。神がそれをされました。これはみな次の、この(それを「ささやかな」と言おうとは思いません)句、「あなたたちは来ているのです」に集約されます。

「しかし」というささやかな言葉ですべてが反転するのに気付いたでしょう。しかし!ああ、その点に至るまでは、すべてが追求であり、すべてが探索であり、すべてが調査であり、すべてが待望、渇望、努力でした。この「しかし」の時から、すべてが逆転して、「それはここにあります!」と言います。主イエスのパースンと御業によりここに在るものがみな、完成されたものとして、あなたに差し出されています。これがみな、あらゆる意味と可能性を帯びている物のように、完成されてあなたに差し出されています。それは信仰を通して私たちに差し出されています。

人は神の御業をすべて受け継ぐ相続人でした。この手紙は「相続人……神の相続人」と述べています。

相続人

次に、当時人に言えたことは、霊的に今の信者にも言えます。キリストにある新創造の人としての信者は、この相続財産の中に置かれています、置かれているのです。「あなたたちが私を選んだのではなく、私があなたたちを選んだのです」。今はこの御言葉の内容全体の中に飛び込んで、それは私たちの選択、私たちの活動、私たちの決意から発したのでは全くないこと、私たちがキリストとその御業に関してかつて下した決断は私たち自身から発したものではないことを、示そうとは思いません。それは神に由来したのです。信仰自体、神の賜物です。私たちが主のものであるとするなら、私たちが主のものであるとするなら、それはある時に、いわゆる「キリストのための決意」によって事が始まったからではありません。その決意はどこから来たのでしょう?それが始まりではありませんでした。この決意の背後に何かがありました。私たちはそれをよく知っています。相続財産の中に置かれて、私たちはさまざまな道やさまざまな手段で来たかもしれません。しかし、それらすべての背後には、主権的恵みの御業があったのです。そして私たちは今日こう言わないわけにはいきません、「私たちが今いるところにいるのは、そうするよう決意したからでも、選んだからでもありません。神の側で行動してくださったからです。その主導権は彼にありました。彼は私たちを追い求め、捕らえ、御子の中に置いてくださったのです」。神が私たちをキリストの中に置いてくださったことを知るのは素晴らしいことです。「キリスト・イエスにあって創造された」が、その句です。「キリスト・イエスにあって創造された」。人はこの相続財産の中に置かれました。

その後、この園はいくつかのことを意味するようになりました。この園は第一に、人の存在を規定します。

人の存在の規定

これには説明が必要です。私が言わんとしているのは(そしてこれは、私が少し前に、この園が創造全体に続く、と述べたことに遡るものです)この園はすべてを人の個人的な生活や責任にまで狭めることを表示・意味する、ということです。つまり、人は世界を歩き回るたんなる一般人のような者ではなかったのです。それはたんなる一般的観念ではありませんでした。人は自由契約者のような者ではありませんでした。いいえ、神はいわゆる園を明確に規定されました。全被造物の真ん中で、彼はその境界を定め、その周囲に垣根を設け、その垣根の内側に、それらの門の内側に人を置かれました。そしてこうして人の生活を規定し、人の生活という問題全体をとても具体的で、とても明確なものに狭めて、漠然としたものをそれから取り除いて、それをまさに中心に置かれました。こうして人が関係しているところでは、すべてが直接的・個人的なものになったのです。

見てください。神がなさったこのすべてのこと、この素晴らしい御業のすべて――それは神によって完成されて、神の祝福と是認を帯びていました――は、人が関係しているところでは、とても具体的なものにならなければなりませんでした。人をその素晴らしい世界の中に置いて、歩き回らせ、何らかの不明確な方法で、ある種の一般的な道に沿って生活を送らせても、まったくかまわなかったでしょう。しかし、そうではありませんでした。神は言われます、「これはみな焦点づけられなければなりません。そして、私がなしたことに対して、人が個人的かつ明確に直接的責任を負わなければなりません」。そしてこの園は、この相続財産と人との関係という、とても直接的・具体的なことを示しているのです。

おそらく、これを追跡して霊的に適用するなら、これはさらに明らかになるでしょう。ご存じの通り、神が人を被造物のまさに中央・中心に置かれた時、神が実際に言われたのは、「これはあなたの個人的な問題です。これはあなたの個人的な問題であり、これはみなあなたと関係していて、あなたはこの問題全体に個人的に関わらなければなりません」ということでした。ご存じのように、キリストとその御業についても同じです。キリストにあって自ら、そして、キリストによって、神は新創造を完成する使命・職務を果たされました。神はすべてを完成させて、ご自身の安息に入られました。そして、御子に関して、「はなはだ良い」という判断を下されたことを、私たちは知っています。「私の喜ぶ(中略)私の愛する者」。神はご自身の御旨、ご自身の安息に達しました。それはすべて成就されています。しかし今、神は言われます、「ここを見てください、これは一般的な教理や教えではありません。これは直接的な方法であなたに個人的・個別に関係していることです。これはあなたの個人的な相続財産としてあなたが握るべきものなのです」。

責任問題がここですべて現れることがわかります。それは次のような問題を突き付けます。「これをすべて神は行われました。私はそれに関して何をしたでしょう?それに対して私はどんな態度を取ったでしょう?」。さて、親愛なる友よ、これはあなたが理解している以上に、おそらく意義深くて重要です。さしあたっての論点はこうです。あなたはいわゆる「キリストの成就された御業」を信じています――これはあなたのクリスチャン信仰のまさに根幹・土台にある句です。キリストの成就された御業です。神は単独でこれを自ら行われた、と私が述べたことについて、あなたは全く同意しています。キリストにある新創造を神自らが是認しておられることに、あなたは同意しています。彼は全く満足しておられます。それなら、どうしてそんなに惨めな様子なのでしょう?どうして自分の救いについて(この句を使うのを許してください)「卑屈」な言い方ばかりしているのでしょう?……自分はそもそも栄光に至り、切り抜け、到達するのだろうか、というように。

私が言わんとしているのは次の通りです。アダムが園の中に置かれて周りを見渡し、「これがすべて私のためなのでしょうか?これがすべて私に属しているのでしょうか、これは私のものなのでしょうか」と言った時、彼は驚きに満ち、感嘆に満ち、感謝に満ち、礼拝に満ちていたのです!そしておそらく、毎日発する言葉は、「これは素晴らしくないでしょうか?これは素晴らしくないでしょうか?見てください!これを見てください!」だったでしょう。キリストがこれに劣ることがあるでしょうか?新創造がこれに劣ることがあるでしょうか?霊的なものが一時的なものに劣ることがあるでしょうか?私たちの理解、私たちの信仰、私たちの信仰には何かが欠けています。見てください、この文書は最初から最後まで信仰の文書です。この事柄全体に関する私たちの信仰理解には何か欠陥があります。

たしかに、私たちは自分の心を責めますし、恥じ入ります。そうするのももっともです。親愛なる友よ、この事柄全体にもっと驚き、もっと礼拝してしかるべきです。私たちは信仰の安息についてもっとよく知っている民でなければなりません。それで神はこの事柄を一般的な項目のままにせずに、それを、新創造全体を縮約されました。大いに実際的な問題に縮約されたのです。それは園を造り、あるいは、園を植え付けて、人をその中に置き、「さあ、ここを見てください。これはみなあなたと関係しています!これはみなあなたと関係があり、あなたがこれをすべて行わなければなりません」と言うことによってでした。素晴らしいです!キリストとその御業についても同じです。

これが園としてのこの園の第一の意義です。こういうわけで、創造の、神は先に進んで園を植えられたのです。そして次に人を置かれました。一般的状況の中にではありません。それを具体的・実際的項目に縮約して、「ここを見てください。これは抽象的な無辺の世界、よそよそしいものではなく、あなたにとってとても身近なものなのです」と言われました。

この園の二番目の意義は、それは人のホームとなるべきだった、ということでした。

人のホーム

人がそれを自分のホームとしていたら、それは何というホームだったことでしょう。人は追放されなければなりませんでした。人は自分のホームを失いました。「ホーム」とは何でしょう?ホームとは何でしょう?まあ、ホームとは、その名にふさわしくあるには、その真の意味に適うものであるには、まず初めに、安息の場所であることを意味します。安息の場所です。キリストは私たちのパラダイスであることがわかります!キリストは、この偉大な宇宙を贖い、明確化・実際化して、私たちに与える、神の道です。そして、キリストは私たちのホームです。

私たちはこの手紙の御言葉に忠実にしたがっています。安息の中に入るというこの問題全体を、著者はとても積極的に、とてもよく考えています。安息の中に入ることについてです。神はご自身の安息の中に入られました。神はご自身の安息の中に入って、ご自身の安息であるものの中心に人を置き、それを人のホームとされました。もしくは、それ――安息――の中心に人のホームを造られました。「重荷を負って労苦している人はみな、私のもとに来なさい……」私のもとに!「……私はあなたたちに安息を与えましょう。私のくびきを負って、私に学びなさい……そうすれば、あなたたちの魂に安息を見いだします」。これは次のことを言い換えたものにすぎません。すなわち、彼は私たちのホームであり、私たちはホームに来ている、ということです。私たちは放浪、さすらいを免れます――人はこの大きな世界で放浪者だったかもしれませんが、ホームを与えられました――放浪者になる代わりにホームを与えられました。そうです、神は偉大なことをされましたが、私たちがその偉大なものの中をただうろつくだけにはされませんでした。神は私たちを御子へともたらされました。それは御子が、安息という点で、私たちのホームとなるためです。御子は私たちの安息です。なぜなら、御子は神の安息だからです。

ホームは、それが意味通りのものであって、その言葉に適うものである場合、人の喜びの場所です。人は喜びを得ます、そこに喜びを得ます。人が楽しく思うものはことごとく、自分の喜びである自分のホームと関係しています。まあ、これらのことを霊的に適用するために、あまり時間をかける必要はないでしょう。キリストが、安息という点で、真に私たちのホームとなっているなら、彼は私たちの喜び、私たちの楽しみのまさに中心になられたのではないでしょうか?新しいホームが設けられる時、これが天然の領域でいかにそのとおりか、あなたはご存じでしょう。このホームを得るためなら、このホームを造るためなら、他のことはなんでも耐えられますし、可能な限り速やかに切り抜けられます。思いと喜びを支配する唯一のものはそのホームです。キリストご自身とキリストの御業に対する私たちの姿勢は、そうでなければなりません。そうでなければなりません。私たちの喜び、私たちの楽しみでなければなりません。ホームは宿屋ではなく、住まいなのです。

主イエスは、肉身を取っておられた頃、もちろん、たとえ話で多くのことを話されました。私には彼が話された、「私の父の家には多くの住まいがあります」という御言葉しか思いつきません。この「住まい」は昔の訳では「豪邸」となっています。彼は霊的言語を話しておられたのです。文字通りの豪邸なら、私たちの中には少しも興味を持たない人もいるでしょう。しかし、永遠に住んで、もはや外に出ることなく、永遠の満足と安息を見いだせる所に行く話になると、それは確かに私たちの興味をそそります。神の全宇宙の中で、キリストの中以外のどこに、そのような所があるでしょう?彼は私たちの住まいです。ですから著者は、これらのユダヤ人信者たちの不安定さに対して、彼らの変わりやすさに対して、こう述べています。「イエス・キリストは昨日も今日も、永遠に同じです」。これは対照的な声明であることがわかります。なぜなら、彼らは、彼らは同じではなかったからです。彼らは信仰を告白しましたが、自分の告白した信仰から離れてしまいました。ある立場を取りましたが、それを手放してしまいました。彼らは引き離され、説得され、説き伏せられて離れました。彼らは定住しませんでした。しかし、「イエス・キリストは」と使徒は言います、「同じです……」と。同じなのです。彼は変わりません、ご自分の立場を変えません、変わりません、これは喜ぶべきことではないでしょうか?彼には、移り変わりや「回転によって投じられる影」のない方である神の特性があります。何と含蓄のある句でしょう。人々の移り変わりによって何と多くの影が生活の中に臨むことでしょう……決して彼らを当てにできません。「回転によって投じられる影もありません」。これが住まいです。これについては先に進むにつれてさらに明らかになります。

ですから、キリストは私たちにとってこのすべてでなければなりません。なぜなら、彼は神にとってこのすべてだからです。神は安息に至りました。神は御子のパースンと御業により、解決に、確かなものに至りました。神の喜びはまったく御子にあります。神の関心はまったく御子にあります。まったくです。そして神は彼を、こうしたあらゆる点、あらゆる意味で、私たちに与えてくださいました。これは信仰を奮い立たせないでしょうか?キリストは私たちにとって安息、私たちの喜びと楽しみ、私たちの住まい、私たちが夢中になる唯一の関心事でしょうか?そもそもこの園はアダムにとってそのようなものだったのであり、それはキリストを予表していたのです。彼は私たちのパラダイスです。

この園は次に人への使命を意味しました。

人への使命

神はそれを人に相続財産として与えられました。そして、その世話をするように、その諸々の可能性を開拓するように、その諸々の可能性を実現させるように、人に命じられました――それを人の一生の仕事とされました。最初の人(さて、あなたたちの何人かに言いますが、得意にならないでください)最初の人は園芸家でした。この世界で最初の使命は園芸でした。それが人の一生の仕事でした。それが人の自己表現の手段でした。人が堕落する前の当時の状況については、自己表現というこの句を使っても全く大丈夫でした。なぜなら、神だけが人の唯一の関心事だったからです。主だけが内側で表現されるものの場合、自己を表現しても全く大丈夫です。人の自己表現の方法、人自身の成長方法は……というのは、事物は性質上完全でしたが、他方において、人についても、被造物についても、可能性に関しては完全ではなかったからです。完全だったのですが、それでも全き身の丈に至るという意味では完成されていなかったのです。そして園が、人が自分自身を成熟させて、神の御業の可能性をすべて実現させる、領域であり手段だったのです。

何という領域が、親愛なる友よ、私たちとキリストが関係している所では開かれることでしょう。キリストこそ私たちの使命です!キリストこそ私たちの内にあるものをすべて表現する根拠です!キリストこそ私たちが拡大し、成長する手段です。それはキリストに取り組むことによってです。諸々の原則がすべてそこにあることがわかります。これがこの手紙の中で、別の言葉で、別の方法・形式で述べられていることです。しかし、その本質、意義、原則がすべてここにあります。これが、私たちがキリストの中にあることの意義です。彼は私たちの使命です。私たちの使命、私たちの一生の働き、私たちの最高の関心事、自分自身を霊的に発達・拡大させるための私たちの手段です。

さしあたって、この一つのことを述べて終えなければなりません。この園は人を試験するものでした。

人への試験

人を試験して実証する舞台、領域、機会です……ここで責任が課されます。しかし、責任の焦点に注意してください。この責任は自分自身の救いのために何かを行うこと、自分の素晴らしい相続財産を造り上げるために何かを準備することではありませんでした。それはすべて完全でした。人は完成・成就されたものであるその中に置かれました。そして次に、人に責任が課されました。しかし、その責任の焦点は何だったのでしょう?この責任問題全体は何に帰着したのでしょう?たった一つのことです。すなわち信仰です。信仰です。恩恵を施す偉大な方に対する人の信仰の姿勢によって、すべては立ちもし倒れもしました――人は神を信じるのでしょうか、神に信頼するのでしょうか――他の声はまったく、他の声はまったく人を逸らせないほど、人は徹底的に神に信頼し、神を信じるのでしょうか。これが、自分にこの相続財産を与えてくださった方を信じる信仰に課された試験でした。

責任はすべてそれに帰着します。これが最初から最後までへブル人への手紙の論旨ではないでしょうか?この手紙で大事な言葉は「信仰」ではないでしょうか?偉大な終幕、最後にすべてを総括するものは、信仰、信仰、信仰です。しかし、最初からずっと、この偉大な信仰の手紙では信仰を重じていたのです。この手紙では責任に関して途方もないことが述べられています。この責任問題全体に焦点をあててこう言ったとしましょう、「では、それはどういうことになるのでしょう?神を信じることでしょうか?神を信じることでしょうか?神に信仰を置くことでしょうか?」。その類の信仰、その類の信仰は、あなたを神の中に閉じ込めます。この手紙が述べている信仰は、とても活発ではないでしょうか?それは全世界を拒否する信仰、全世界を放棄する信仰、全世界から退く信仰です。

この道を行くこれらの人々の信仰についてそれが述べていることを見てください。モーセだけを例として取り上げましょう。モーセの偉大な信仰……それは彼にどう働いたでしょう?「信仰によって彼は放棄しました……」。彼は放棄したのです。どうして彼はエジプトを放棄したのでしょう?神の御旨がそこになかったからに尽きます。信仰は神の御旨の方に彼を引き寄せました。それで彼は放棄したのです。信仰によって、信仰によってです……それ以上です。途方もないものなのです、この信仰は。しかし、すべてがそれにかかっています。すべてがそれにかかっています。

責任を負うのは、親愛なる友よ、どうにかして自分の救いを成し遂げるためや、自分自身を救うためや、自分自身を成就するためではありません。まったく違います。神は信仰の創始者であり完成者である、と御言葉はここで述べています。しかし、それはどのようになされるのでしょう?神を信じなさい!それが帰着するのは、結局のところ、これです。これは、これは本当にそうなのでしょうか?これは本当でしょうか?神に関する限り、このことはみな、栄化に至るまで、成就された事実である、というのは本当でしょうか?今やそれは完了時制で述べられています。「彼らを義とし、また栄化してくださいました」――完了時制ではないでしょうか?これはみな、神に関する限り、成就されており、成就されたものとして彼にささげられている、というのは本当でしょうか?ああ、これを理解できさえすれば、何と安心でしょう!何という慰めでしょう!何と緊張や葛藤が和らぐことでしょう!何という安息、何という喜びでしょう!出て行くための何という力でしょう。というのは、これに続くのは、「彼の誹りを負って、彼と共に宿営から出て行く」ことだからです。次のような確かな確信に至らない限り、あなたは決してそうすることも、この手紙で行うよう命じられているいかなることもできません。「まったく大丈夫です!これに問題、危うさ、危険は全くありません。これは決着・成就されています!あと残っているのはただ、私が信仰によってそれを取り、信じ、把握し、保持し、それと共に進み続けることだけです」。「進み続けようではありませんか……」。