第二章 私たちの嗣業

T. オースチン-スパークス

へブル人への手紙十二章二二節の私たちの鍵となる聖書の句に戻ることにします。もう少しの間、文章全体の単純な断片的句である「あなたたちは来ているのです」について続けることにします。その先に辿り着くかどうかは後でわかるでしょう!

「あなたたちは来ているのです……」。これまで見てきたように、これはとても包括的な句であり、人の輝かしい運命を実現するために神がなさった備えの意図を言い尽くしています。始めるにあたって指摘しましたが、この素晴らしい文書、へブル人への手紙は、旧約聖書の三つの大きな段階を取り上げています。第一の段階は創造と関係しています。第二の段階は創世記から出エジプト記までであり、イスラエルの国が神のご計画の中に登場します。第三の大きな区分は、預言書を網羅する区分です。そして、この手紙では、これらの神の動きの段階をすべてまとめて、霊的な形でキリストとその教会に移します。

これまで私たちは最初の区分に専念して、創世記が「初めに神が……」で始まるように、このへブル人への手紙も「神は(中略)昔(中略)語られました……」で始まることに注目してきました――すべては神と共に始まり、神から発しました。神だけが――活動し、設計し、計画し、働かれました――そしてついにすべてを完成させて満足されました。そして次に創世記第二章とへブル人への手紙の第二章で、人がその舞台に登場します。創世記第二章ではそうだったことをあなたは思い出すでしょう。また、次のこともあなたは思い出すでしょう。すなわち、へブル人への手紙の第二章では、人の立場と人に対する神のご計画という問題が導入されているのです。「人は何者なので、あなたはみこころにとめられるのですか……あなたはあなたの御手のわざに対する統治権を人に与えられました」。

神は、人を登場させる前に、人のためにすべてを完成された、という、このあらゆる真理や事実の中で最も輝かしいことに、私たちはほとんどの時間を費やしました。つまり、この人は神が完成されたものを受け継いだのです。私たちは自分の救い、自分の完成、自分の栄化のために何もする必要はありません。神がそれをすべて成し遂げてくださいました。そして次に、ご自身が成し遂げたことの中に私たちを導き入れてくださいます。それは恩恵を施す偉大な神たる方に対する信仰の相続財産です。

私たちはさらに続けて、人は彼の相続財産の中に置かれたこと、そして、園の中に置くことが霊的に何を表し予表するのかを見ました。詳細をおさらいするつもりはありません。私はただあなたに思い起こさせたいのです。なぜなら、考慮すべき追加の点が一つ、二つあるからです。しかし、第一に、それは人の存在を規定しました。それは被造物全体を、人にとって、とても実際的で身近なものにしました。そして、この園は神を満足させる全被造物の小宇宙であり、人に与えられました。事実上、神はこの園に関して言われました、「これはあなたの問題です。これはあなたに属しています。これはあなたと、あなたはこれと、大いに実際的な関係にあります。あなたはただ地上に放たれたわけではありません。あなたは理解しなければなりませんし、それを信仰によって実際に握って有効化しなければなりません。これにすべてがかかっているのです」。ですから、この園は最初これを意味したのです。また、新約聖書と特にへブル人への手紙に来ると全く明らかなように、キリストの贖いによる神の素晴らしい新創造の御業が、実際的な命題として信仰に対して提示されています――それを一般的な教え、教理、信条としてはなりません。むしろ、あなたも私もそれを真に理解して把握しなければなりません。神の「これはすべてあなたのためのものです!これはすべてあなたのものです!さて、あなたはそれをどうするつもりでしょう?」という仰せを真に信じなければなりません。ですから、神がキリストにあって、またキリストを通して完成された偉大な御業は、成就・完成された御業であって神を全く満足させるものであるだけでなく、私たちが受け入れて自分のものにするべきものでもあります。これはとても実際的なことです。

次に私たちは、この園の目的は人のホームとなることだったことを見ました。つまり、この園は人の安息の場所であり、喜びの場所であり、関心を寄せる場所であり、人の住みかだったのです。これらのものの中に私たちは、神の新創造の領域であるキリスト・イエスにあって移されます。信仰によってキリストを正しく理解することは、あなたや私が心の安息の中に入ることを意味しますし、意味することになります。心の安息です!安息は無為、何もしないことではありません。安息はひじ掛け椅子にただ座っていること(もしこれがホームに関するあなたの考えなら、まあ、時にはそれもありかもしれませんが、ひじ掛け椅子の中にホームの概念が丸ごと詰まっているわけではありませんよね?)ではありません。あなたたちの中には、私たちの中の数人のように、何もしないでいるよりは、満足のいく仕事の方に安息を見いだす人もいるでしょう。何もしないでいると、私たちはとてもそわそわしてしまいます。真の満足を与えてくれるのは、何か創造的なこと、何か価値あることを手がけることです。キリストの中に私たちはそのような安息を見いだします。

興味深く意義深いことに、主イエスは「わたしのもとに来なさい、そうすれば安息を見いだします」と言われた時、これを「わたしのくびきを負いなさい……わたしのくびきを負いなさい」という御言葉と組み合わされました。「くびき」は奉仕の象徴です。奉仕の中に安息を見いだすには、その奉仕は心を大いに満足させるものでなければなりません。さて、これがホームです。それは安息の場所、住まいです。これらのものが、「ホーム」が意味する他の多くの特徴と共に、私たちがキリストの中に見いだすべきものです。私たちは大いに「家庭的な」民であるべきです。あなたたちの中にはその意味を知らない人もいます!

さて、人の使命をこの園は示し、表しました。そして、それが人の一生の仕事になりました。もしくは、人の一生の仕事となるはずでした。この園は人自身の奥底にあるものを表現する領域、人が積極的に関心を寄せる場所、人自身の命を発達させる方法でした。それがこの園でした。これらの事はキリストにあって真実です。キリストがまさに信者の一生の仕事になるのです。

私たちはキリストによって、そしてキリストにあって、偉大な使命の中に導かれます。偉大な使命の中に、自分の存在の最も内なる部分が神の恵みによって表現される領域の中に導かれます。神に対する愛、神の優しさに対する自分自身の心の応答――それが表出し、表れ、流れ出ます――使命によって、奉仕によってです。しかし、「奉仕」という言葉を使う時、その意味についてよくよく注意しましょう。主に「仕える」と述べる方が遥かに優っています。この言葉はあらゆる形の奉仕を網羅します。私たちのしていることが主に仕えることではない時、それは主への奉仕ではありません。そしてキリストにあって働くことにより、働くことによりキリストにあって、園の中のアダムと同じように、私たち自身の命も発達します――これが増し加わりです。私たちは彼にあってあらゆるものの中へと成長し込むのです。

最後に、この午後に関するかぎり、私たちは人を試す場所としてのこの園を見ました。この園で人は試され、是認もしくは否認されます。神が私たちのために行って、キリストにあって私たちに与えてくださったすべての事に関して、責任の要素が登場します。しかし、責任は一語で要約できます。すなわち、信仰です。「信仰がなければ神を喜ばせることはできません」。信仰が私たちの応答であり、すべてを網羅します。すべてを網羅します。

これを後にして、解釈の最初の段階に関する一、二の点に進むことにします。

すでに述べたように、人は神が自分に与えてくださったものをすべて所有し、活用し、実現しなければなりませんでした。このへブル人への手紙はこれをとても強く強調しています。それは最初に、私たちのために彼によって、彼にあって、彼を通してなされたことについて告げ、次に、応じるよう私たちに要求します。第一が、とらえること、つまり所有することです。神が提供してくださったものを自分のものにすることです。溝があるおそれのあることがわかります。溝があるおそれがあります、あるいは、溝が生じるおそれがあります。神が提示された諸々の事実や豊かさと、私たちがそれらを慎重かつ積極的に信仰によって理解することとの間にです。この手紙の多くの警告や勧めはそれと関係しています。

この手紙が書かれたきっかけや理由を思い出していただくために、横道に逸れるつもりはありません。しかし、著者がこの種の勧めや警告を何度も繰り返すのを目にします。「ここに所与の事実があります。ここに提供された一切のものがあります。ここにあなたが来ているものがあります……」。さて、一つのささやかな句が絶えず繰り返されます。それは「……しようではありませんか」という句です。しようではありませんか、しようではありませんか、「畏れようではありませんか(中略)約束が残されているのに、あなたたちのうちに、それに達しないと思われる者がだれもいないようにしようではありませんか。それらから漂い去らないように畏れようではありませんか」。この切迫感には多くの内容が込められています、まさにあの溝が込められています。すなわち、キリストにあって私たちの相続財産である一切のものについての神の偉大な示しと、私たちがそれを握って、それをすべて明確かつ積極的に所有することとの間の溝です。

キリストを所有すること

さて、新約聖書には、信仰によってキリストを実際に所有すること、キリストを実際に捕らえることというこの問題について、多くのことが述べられています。それが園の中にいた人に対する課題でした。人はこれを手に入れなければなりませんでした。主がこう言っておられたらとても素晴らしかったでしょう、「さあ、このすべてを見なさい。これはとても素敵で、とても美しく、とても素晴らしいです。これには諸々の大きな可能性があります。さあ、あなたはただ座って、眺め、考え、喜んでいなさい」。しかし、そうではありません、主は言われます、「行動を起こしなさい、この状況全体を掌握しなさい、所有し、手中に収め、自分のものにして、実在勘定としなさい」。親愛なる友よ、私は危惧しているのですが、次の点に多くの、多くのクリスチャンの弱さがあるのではないでしょうか。すなわち、彼らはこの真理や数々の真理、すべての約束、すべての賜物、神がキリストにあってなさったすべての素晴らしい言動を知っているのですが、これに取り組んで、信仰によって捕らえ、手に入れて、「これは自分のためのものです。私はそれを自分のものにします」と言わないのです。そして、神に対してこのように応答しないせいで、私たちは失い、漂い去り、達しないのです。この手紙が述べているのはこういうことです。すなわち、第一にそれを所有すること、活用することです、つまり、それを取り上げて、その固有の内在的意義を発動させることです。これは一般的な言葉ですが、ここに命があることがわかります。例えば、この園のまさに中心に命があります、命があります……そして、この園の中にあるものはみな生きています。

さて次に、このへブル人への手紙によると、私たちのために主イエスは死を味わい、死の力を持つ者すなわち悪魔を征服して滅ぼされました。この手紙は命で脈打っていないでしょうか?多くの文脈の中で、命というこの問題全般が現れます。メルキゼデク等々のようにです。命がここにあります。まあ、もちろん、あなたや私がみな信じており、私たち全員が信じているように、イエスは命であり、命と不朽は福音を通して明らかにされたのであり、私たちの相続財産は永遠の命――それは神の賜物です――です。私たちはこれをみな信じていますが、ご存じのように、とても多くの場合、とても多くの場合、それはとても実際的な問題になりえるのに、たんなる教理、たんなる目標にすぎないのです。私たちは、結局のところ、今や死の領域の中にいます。

死が至る所にあり、実際に命を握ることが必要になります。このように死で覆われる感覚がある日、そのような日、それについてどうすればいいのでしょう?それはどこにでも入り込みます。祈りのために共に集まる祈りの集会の中にも入り込みます。そして私たちはおそらくもがき通し、出口から出てきて、家に帰り、「死です、全くの死です」と言うかもしれません。そうなのですが、私たちはそれについて何かしたでしょうか?それを感じたら直ちに、集団的・団体的に反応するべきです、「私たちはこれを容赦しません!これは私たちの相続財産ではありません。命、命こそが神の賜物です。どうしてこれを耐え忍ぶ必要があるでしょう?」。個人生活に関しても身体的にそうすることができます。身体的に、霊的死が体を侵害することに抵抗しなければ、私たちは死にます。生ける死を生きることになります。これが矛盾しているのはわかりますが、まさにそうなのです、そうなのです、包まれているのです。

とても多くの形で、個人的、肉体的、精神的、霊的、団体的に、この世界でこの戦いがなされていることがわかります。私たちは握らなければなりません――これはパウロの言葉ではないでしょうか、「永遠の命を握りなさい」――さてそこで、彼があなたに賜ったものを活用しなさい、活用しなさい。ああ、神がこれをわからせてくださいますように!もし私たちが十分に敏感であって、死の侵入を察知して、次に今こそ何かを行うべき時であること――それを受け入れてはならず、むしろ何かを行うべきであること、命を活用するべきであること――を理解するなら、自分たちの集まりに変化が生じるのを私たちは見るでしょう。

命に言えることは、キリストにあるこの嗣業を構成する他のすべてにも言えます。それはすでに与えられていますが、私たちがそれに関して何かをしないかぎり、有効になりませんし、実を結びません。神が私たちに与えてくださった卓越したもの、これはみな完全なのですが、それでも、私たちが活用しないかぎり、それは私たちの中で、私たちの経験の中で、実を結びません。そしてそれは、とても奇妙なことに、私たちがそれに関して信仰を行使するときはじめて実現されます。それは大いなる相続財産ですが、どういうわけか、私たちがそれに関して何か――信仰の働き――をしないかぎり、その意義をすべて理解することは全くできません。信仰の働きです!働きが義とするわけではありませんが、義とされた人は働きます。自分の信仰を行動に移して、それに関して何かを行うことによって、自分の信仰を証明するのです。まあ、これを掘り下げる必要はありません。

この話から、この実際上追加の話から、この午後述べてきたこと――キリストを所有し、活用し、理解すべきであること――を追加で強調する話から、先に進むことにします。キリストのパースンと御業のすべてが、私たちに包括的に把握させるために、信仰に対して示されています。

注目すべき句が、注目すべき句がここに示されています、「あなたたちの信仰の結果である、あなたたちの魂の救いを受けているからです」。「あなたたちは来ているのです(中略)結果を受けています……」。信仰は時間を飛び越えて、究極的なもの、結果を握ります。信仰は今やそこに達します、「あなたたちの信仰の結果である、あなたたちの魂の救いを受けているからです」。信仰によって包括的に把握するのです。ああ、これを明らかにすることができていれば、きっとあなたはこれを把握していたでしょう。親愛なる友よ、それはまさに次のような結果になります。すなわち、あなたと私は何度も、圧迫の下で、試みの中で、霊的困難の中で、立ち上がって言わなければならないのです、「たしかに、これはまずいことであり、困難な局面です。今日はすべてが暗黒で、絶望的に見えます。しかし、最後は大丈夫になります。最後にこうなるわけではありません。最後には抜け出し、乗り越え、切り抜けます。克服して、勝利します」。この結果を受け入れて、信仰によってそれを今日握りなさい。現状のゆえにすべてを放棄してはなりません。むしろ、神の結果を握りなさい。

これはとても実際的です。これを試してみなさい!これとは、あなたの包括的嗣業を活用することです――少しだけではなく、丸ごとです――この嗣業は信仰に対して提示されており、それは徐々に開拓するためです。キリストにあって私たちに与えられているものを徐々に開拓するためです。これは、それをさらに増やすことを意味しません。なぜなら、それを増やすことはできないからです。そうではなく、それが意味するのは、その中にあるものを引き出すことです。この園の中には、見た目以上に、遥かに大きな可能性、潜在性、価値があります。キリストの中には、私たちがこれまで見てきた以上に、遥かに多くのものがあります。彼は無限に豊かな御方ですが、これは、私たちが信仰によって彼に取り組み、彼にあって与えられているものに取り組む時、はじめてわかります。この意味で開拓するのです。人が地所を開拓すること、相続した地所や購入した地所を開拓することについて、私たちが述べる時、言わんとしているのは、それを広げることではなく、そこにあるものをすべて探り出すことです。これが、キリストを開拓することについて述べる時、私が言わんとしていることです。彼の中にあるものを探り出すことです。

さて、まだ述べていない次の点に進むことができます。それはこの手紙と創世記冒頭との間の対応関係です。

あの園で人はある委託物を与えられました。そして、この委託物には、ある命令が関係していました。その委託物とは命でした。そして、その命令とは「生めよ、増えよ」でした。

「生めよ、増えよ」

こういうわけで、この園が家族を設けて育む場所・舞台となるよう、神は意図されました。その家族はこの園にふさわしいもの、この園に適うものでなければなりません。これはとても重要な点です。すなわち、ふさわしくなければならないのです。もはやこの園にふさわしくなくなった時、人はそれから追放されました。そして神は、この園の中に、それにふさわしくない、それに適さない家族を持とうとはされませんでした。そうすることは本質的に不条理なことだったでしょう。これは容易に説明できます。様々な種類の人々を様々な種類の環境の中に置くことで容易に説明できます。彼らがその環境に向いていない場合、その環境は彼らに合いません。彼らは馴染めずに惨めになります。すべてに違和感を覚えます。違和感です。彼らには自分に似つかわしい状況が必要です。自分に似つかわしい状況です……これこそスラム生活の秘密ではないでしょうか?人々をそうした環境から連れ出して、素敵な場所に置いてみなさい。彼らは惨めで不幸になり、たちまちそれをスラムに変えてしまいます。それが彼らには合っているのです!彼らはその中で大いに満足します。そう思わないことが時々あるかもしれませんが、そうなのです。同じことが逆のことにも言えます。ある人を全く劣悪な状況の中に置いてみなさい。彼らはその中で幸いではありません。それを自分の基準に合うように変えようとするのではないでしょうか?それは彼らにふさわしくなければなりません。これが神の原則です。その中にあるすべてのもの、そして、あの園の中に置かれるすべての人は、この園と完全に共鳴・調和していなければなりませんでした。

さて、これをキリストに置き換えて、キリストをこの園、私たちのパラダイスに見立てると、よりよく理解できます。よくご存じのように、救われていない人々は、クリスチャンたちの間にいるとき、惨めに感じます。そうならざるをえないのです。そうでなければ、そのキリスト教は何かが間違っています。また、クリスチャンがこの世の中にいるときなんと惨めかはご存じでしょう。違和感があるのではないでしょうか?さて、この園にいるのは、その状況に全くふさわしい家族でなければなりませんでした。このへブル人への手紙はこの問題をキリストに当てはめて、とても際立たせています。おそらく、あなたはそれをこのようには見ていなかったでしょう。これは一体何についてなのでしょう?「こういうわけで、聖なる兄弟たちよ(中略)彼は彼らを兄弟と呼ぶことを恥とされないで、『わたしと子供たちは……』と言われます(中略)多くの子らを栄光へと導き(中略)全体の集会に長子たちの教会に来ているのです」。この言葉を見ると、これは家族を表す言葉ではないでしょうか?これがこの手紙中、最初から最後まで散りばめられています。これは何を意味するのでしょう?この家族が神の御旨なのです。御子のかたちに同形化された人々から成る家族、キリストから自分の特徴を得ている人々から成る家族、神がキリストにあって賜った大いなる相続財産にふさわしい人々から成る家族です。わかるでしょうか?キリストにあって神は安息という偉大な相続財産を与えてくださった以上、家族は安息であれ何であれ享受してしかるべきです。家族はこうした特徴を帯びていてしかるべきです。キリストの特徴、神がキリストにあって成就された御業の特徴を帯びていてしかるべきです――このような家族を持つことが神の御旨なのです。

さて、人がこの園の中に置かれたとき、まず第一に、命に関する責任を負いました。あなたと私は、キリストとその御業により、またそれを通して、この神聖な命を与えられています。ご存じのように、私たちがキリストにあって、またキリストを通して持っているこの命は、別次元の命であり、全く別種類の命です。それは別の命ですが、途方もない責任です。それを持っていて自分にとどめておくだけ、というわけにはいきません。「生めよ、増えよ(中略)地を満たせ」という命令がこれと同行します。命の正当性は、私たちを通して他の人々に供給されるキリストの度量によります。私たちがクリスチャンと呼ばれることの正当性、キリストの成就された御業の上に立つ正当性、新創造の民としてのまさに自分の存在の正当性は、自分が命を持っていて救われていることだけでなく、自分を通して他の人々の中に供給されたキリストの度量にもよります。これこそ私たちの存在を正当化するものであり、命を与える神の正しさを証明するものです。命……ああ、これは難問ではないでしょうか?それは試金石です。しかし、これはそれを示しています。この家族を見せています。

パウロは、福音を通してコリント人たちを生んだと述べています。福音を通して彼らを生んだと彼は言いました。オネシモについて、「私が捕らわれの身で生んだ者」と彼は言いました。要点がわかるでしょうか?そうです、主イエスの受難と十字架に関する偉大な預言は、「彼は自分の子孫を見る」でした。しかし、どうやってでしょう?教会を通してです。教会を通してです。そしてここでパウロは、この教会の一構成員として、「私が福音を通して生んだ者、私が捕らわれの身で生んだ者」と述べています。

要点がわかるでしょう。一構成員から他の人々への命の伝達によって生じる霊的誕生です。魂を適切に救うには生ける教会が必要です。他の人を命の中に導くには教会の生ける構成員が必要です。これが常に道です。常に道です。これはあの預言者に起きたことの繰り返しです。子供が死んだ時、彼はその子供の上に身を伸ばし、両手を子供の両手の上に、両足を子供の両足の上に、口を子供の口の上に置き、神からの命をその死体に伝えて、それを死の中から引き出しました。これが命の責任です。

なんと、なんと、なんと、この問題に関して聖書は厳粛かつ深刻なのでしょう。死んでおしまいになっていい人は一人もいないのです。不注意のせいで、あるいは意図的に、死んでおしまいになるなら、主からきわめて深刻な叱責を受けます。これを自然に受けるおそれがあります。自分の好き嫌い、幻想や気まぐれ、願望、好み、意欲によって、もし私たちが命を自分にとどめておくなら、当然の報いを受けます。私がいま述べているのは、意志の領域――これに対する意欲を持つかどうか――についてです。その時、私たちは遅かれ早かれ天然の領域で当然の報いを受けるでしょう。私たちがそこで蒔くものを、私たちは霊の領域で刈り取ります。霊の領域に、余剰の命、授与可能な命、自分自身が必要とする以上の命がないなら、伝達可能なそのような命がないなら、その事やその個人は自己目的化して、自らの義務や責任を果たせません。そして、自己目的化するとき、彼らは自らの上に不興を招きます。「生めよ、増えよ」という句は次の事実を前提としています。すなわち、あなたは何かを、これを可能にする何らかの預かり物を持っているのです。

ですから、この手紙では、この家族が非常に重視されています。この家族は証明します、神がキリストにあってこれをすべて行い、与えてくださったのであることを。また、私たちが信仰によって中に入ったのは、神が行われたことを実際にすべて捕らえるためであることを。これを証明するのは、どれだけの人が私たちを通して命を得ているのかということです。ああ、親愛なる友よ、自己目的化しないように、むしろ多くの人々が、神の恵みにより、霊の命を経路としてのあなたを通して得られるよう、何よりも切望しなさい。多くの人があなたを通して命を受けるよう取り計らうことを、あなたの人生の本分としなさい。これにより私たちの存在は正当化されます。これにより、そもそも神が私たちに命を賜ったことの正しさが証明されます。確かに、これにより、キリストの十字架の正しさが証明されます。「彼は自分の魂の苦しみを見る(中略)彼は自分の子孫を見る(中略)主の喜ばれることが彼の手により栄える(中略)あなたたちは来ているのです……」。あなたたちは来ているのです……このような生活、このような使命、このような増し加わりのためのあらゆる備えに、あなたたちは来ているのです。それはみなそこにあります、それはみなそこにあります。神はすでに完全に備えてくださったので、そうなのです。今日、これはほとんど私たちの実行の問題です。

さて、もし許してもらえるなら、少しのあいだ次の言葉に進みたいと思います。申し上げたいのですが、へブル十二章のこの偉大な記述の中の次の言葉を超えて進む気は、主がそう導かれないかぎり、私にはありません。しかし、「あなたたちはシオンに来ているのです」という句が、私はとても気になっています。

シオンに

「しかし」というこのささやかな言葉によって、論調が変わっていることに気づきます。それまではシナイ、火で燃えている、触ることのできる、目に見える山、地震、稲妻、引き裂く炎、声、恐怖でした……「あなたたちが来ているのはそれではありません」と著者はここで述べています。「そうではなく、あなたたちはシオンに来ているのです」。私が指摘したいのは次のことです、すなわち、確かにシオンはシナイのアンチテーゼであり、ここではシナイと対比的に「あれではなくこれである」と述べられている一方で、その意味はこれにとどまらないのです。この箇所が言わんとしているのは、この手紙全体と一致しています。すなわち、あなたたちは道の終わりに達していること、シナイがその始まりだったことです。シナイがこの道の始まりでした。あなたたちはシナイに来ていないだけでなく、それを遥か後ろに残してきたのです。それはこの行程の道のりのずっと後ろにあります。それには固有の意義や意味がありますが、後ろにあって、あなたたちはシナイから長い道のりを旅してきました。そしてあなたたちは今や来ています。この旅の先の地点にではなく、この旅の終点にです。

あなたは覚えているでしょうか。(ご覧のように私たちは創世記から今やイスラエルに進みました。)人々が紅海の救いと命の側に着いた時、賛美が湧き起こった時のことを。この賛美、この歌ではこう述べられています、「あなたは彼らを導き入れて、あなたの嗣業の山に植えられます。これは、ああ主よ、あなたが住むために彼らのために造られた場所、ああ主よ、あなたの御手が確立された聖所です」。まさに旅の出発点で、終点が完全に示されます。そして、その終点は「彼らの嗣業の」と述べられています。旧約聖書を通してみると、これがどの山かよくわかります。それは常にシオンです、常にシオンです。「あなたの嗣業の山、ああ主よ、あなたが住むために彼らのために造られた場所、ああ主よ、あなたの御手が確立された聖所です」。これがシオンです!

その旅の初めから、終点は定まっていました。その終点とはシオンです。「あなたたちは来ているのです…」シナイとは対照的なものに来ているだけではなく、この道の終点――シナイはその道の始まりにすぎませんでした――に来ているのです。この手紙は後に残されたものについての手紙ではないでしょうか?ああ、なんと多くのものがここでは後ろに残されていることか!それらは後ろにあります。しかし、私たちは来ています、ここに示されているものに来ています。後ろにあるものはみな部分的で不完全です。今、私たちは完全で決定的なものに来ています。シオンがそれです。ですから、シオンは包括的・総括的な言葉です。紅海の海岸で旅が始まったときにシオンが終点として示された以上、旅の終点であるシオンは次のことを意味します。すなわち、この旅が表していたものはすべてシオンに集約されるのであり、すべてはシオンの中に包含されているのであり、それはみなシオンによって網羅されているのであり、それはみなシオンの中に含まれているのです。その後には何もありません。

「シオン」というこの言葉はとても包括的・総括的です。それは総計です(つまり象徴的に)キリストにあって神が行われたすべての御業の総計です。さて、シナイからキリストまでの聖書の区分全体を見さえすれば、すべては、すべてはキリストを物語っており、キリストを指し示しており、キリストに向かって進んでいることがわかるのではないでしょうか?シナイから、すべては全くキリストを目的としています。さて、それをすべてキリストに集約して、それを「シオン」と呼ぶなら、シオンは神がキリストにあって行われたすべての御業の総計となります。「あなたたちはシオンに来ているのです。あなたたちは、神がキリストにあって行われた完璧で包括的なすべてを含む御業に来ているのです」。あなたたちはそれに来ているのです!それは包括的なものであり、他の多くの意味がその中に込められています。旧約聖書と、それがシオンに関して述べているすべての点に照らして見ると、シオンは一つの民に帰着することがわかります。一つの民です。シオンの民です。それは事柄や事物から移って、一つの民を意味するようになります。「シオンの子らは自分の王にあって喜ぶ(中略)乙女」とあるように、これは一つの民のことです。シオンは、ですから、神がキリストにあって成就された一切のことや、神に関してキリストご自身が持つ一切の意味であるだけではありません。シオンは次に、その益に浴している民をも意味するのです。

「あなたたちはシオンに来ているのです」。これが意味するのは、私たちは神が御子にあって備えて成就された一切のものの益に浴する民になった、ということです。それは、一つの民によって享受される神の救いの総計です。

「あなたたちは来ているのです」

詩篇でシオンに関して読むとき、それに関する支配的調べは常に、崇敬、喜び、賛美の調べです。そうです、歌の調べ、喜びの調べです。「シオンを巡り歩いて、その石を数えよ(中略)その城壁を調べよ(中略)全地の喜びなるシオン」云々。預言書に入ると、別の物語があります――別の物語があります。栄光ではなく、悲しみです。歌ではなく、すすり泣きです……嗣業と相続財産を失った民です。しかし、少しの間、明るい面にとどまることにします。

シオンは、次に、実際にキリストを享受して崇めている民を意味します――実際に、実際に素晴らしい時をすごしているのです。主のすべての御業のゆえに素晴らしい時を過ごすこと、これをシオンは意味します。ああ、シオンのこの絵図に対応するこの明るい面に基づいて私たちがもっと生きていれば。これが私たちにもっと言えていれば。たしかに私たちは素晴らしい時を過ごしていますが、常にその享受と益に浴しているわけではありません……キリストの御業のゆえに、また、キリストが自分にとって何であられるのかのゆえに、真に素晴らしい時をすごしているわけではありません。私が言わんとしているのは……全く順調にいっているからではなく、ただ主が持っておられるものと主がどのような方なのかということ、そして主が私たちに与えてくださったもののゆえに、素晴らしい時を過ごすことについてです。私たちは素晴らしい時をもっと過ごしてしかるべきだと、感じないでしょうか?この意味で、確かに、そうです、詩篇では、人々は素晴らしい時を過ごしており、それはすべてシオンと関係しています。そしてこれは、その理由は主の御業と主がどのような方なのかによることを意味します。とても単純ですが、これがシオンの意味です。「あなたたちは来ているのです……」。では、あなたたちはどうでしょう?私たちは来たことになっています。私たちが来るために、神はすべての備えをしてくださいました。

次に、シオンは彼の包括的な卓越した勝利の象徴であることがわかります。シオンの始まりを思い出さないでしょうか?エブス人の手中にあったこの要塞は、とても手ごわく、とても堅固であると考えられていました。そのため、ダビデがやって来た時、エブス人はそれを盲人や不具者に守らせただけでした。それを征服するのはだれにも不可能でした。しかし、ダビデがそれを征服して、それを自分の座、自分の要塞にしました。要点はこうです。シオンは卓越した勝利を象徴するのです――卓越した勝利です――神のすべての敵に対する、キリストのすべての敵に対する、そして、人のすべての敵に対する勝利です。神の民、それがシオンです。さて、それに関して聖書の多くの箇所をそれに集約すること、多くの引用をすることができるのではないでしょうか。それは勝利の歌であり、シオンの歌です。

あなたのへブル人への手紙を見ると、何が記されているでしょう?罪です。罪は敵でしょうか?サタンです、彼はここでは、「死の権を持つ者、すなわち悪魔」と述べられています――罪、悪魔、死です。これらは敵でしょうか?これらは難攻不落な要塞のようではないでしょうか?そして、次の「人」はどうでしょう?つまり、熟慮して意識的に神に反対する人ではなく、ありのままの状態にある人です。ありのままの状態にある人がここに示されています。これらのものがみな、このへブル人への手紙の中に記されています。そして、神がキリストにあって行われたことはみな、これらの敵と関係しています。罪――これは血や贖いと一体どう関係しているのでしょう?人――神から遠く離れている人……は、神と人との間の仲保者、この偉大な仲保者、この大祭司と、一体どう関係しているのでしょう。死――これはアロンの祭司職のすべてを終わらせる死(彼らは死んだので祭司職を続けられませんでした)と一体どう関係しているのでしょう?死とは一体何でしょう?これらすべての背後にいるサタン、罪、人、そして死、これは一体何でしょう?文脈全体によると、神がキリストにあって行われたことは、これをすべて滅ぼすものだったのです。それを退廷させるものだったのです。私たちを神から引き離し続ける罪は対処されました。「大胆に恵みの御座に進み出ようではありませんか」。すべてを終わらせるために悪魔が用いる死は無効化されました――死は滅ぼされました。

なんと力強い勝利を神はキリストにあって成し遂げられたことでしょう。そしてこれはみな、この手紙の最後で、シオンに集約されます。「あなたたちはシオンに来ているのです」。これは何を意味するのでしょう?なんと、サタンと罪という要塞、堕落した人の状態と死という難攻不落の要塞に思われたものを、キリストはその十字架を通して征服して獲得されたのです。この勝利があなたに与えられています。シオンはすべての領域における包括的勝利の象徴であり、あなたたちはそれに来ているのです

なんという相続財産が私たちのものなのでしょう!これは作り話ではありません。理論ではありません。すでに述べたように、証明されるべきものです。「あなたたちはシオンに来ているのです」。どこかで終えた方が良かったように思います。おそらく、この注釈で終えるのがいいでしょう。シオンについては、途方もない価値のあるものが他にもあります。しかし、それらは後の考察に回してもいいでしょう。

これは完了時制で述べられている、と述べて終えることにします。なぜなら、「あなたたちは来ているのです」というこの箇所は完了時制で書かれているからです。これは「あなたたちは来ようとしている、あなたたちは来ることになる、あなたたちは来ることができる、あなたたちはいつの日か来るでしょう……」と言っているのではなく、「あなたたちは来ているのです」と述べています。どうしてそのようなことが可能なのでしょう?その答えはまた次のようなものです。すなわち、神がそれをすべて成して、私たちに手渡し、こう言われたからです、「ここにあなたたちはいます!それはあなたたちのものです。ただし、あなたたちはそれを信じなければなりません。信仰によってそれを受け入れなければなりません。そうすれば、それはみなあなたたちのものです!ですから今、それを取って、働かせ、その益に浴して進み続けなさい」。「~しようではありませんか」が鳴り響きます。~しようではありませんか……「成熟に向かって進み続けようではありませんか」。