第三章 神が住まわれる所

T. オースチン-スパークス

へブル人への手紙の十二章二二節、「あなたたちはシオンの山に来ているのです」。昨日、私たちは信仰の相続財産というこの面に主に専念しました。この信仰の相続財産は、神が創造において人に与えられたものに霊的に対応するものの中に見いだされます。神ご自身が手ずから、ご自身の満足と喜びのために、世界を造られたことを、私たちは見ました。これに関して、彼は何の躊躇もなく「はなはだ良い」と言うことができました。そしてそれを完成させて、人をその中に置き、それを人の嗣業とされました。それに対応するものが、へブル人への手紙の最初の二つの章に見いだされます。この手紙は創世記と同じように「神は……」で始まります。次に、贖いと新創造の構想・計画全体がキリストにあって、また、キリストを通して成し遂げられた後、この手紙の二章で、創世記の二章と同じように、人が舞台に登場します。「人は何者なので、あなたは彼を立てて、あなたの御手のわざを管理させられるのですか(中略)あなたは、あなたの御手のわざに対する主権を持たせるために、彼を造られました」。ですから、神が御子にあって包括的に完成されたものの中に、信者はもたらされています。それは信仰の相続財産です。さて、この面に時間を費やさないことにします。

昨晩、私たちは二番目の面に移りました。この二番目の面ではイスラエルが舞台に登場します。そしてまたもや、相続財産というこの問題全体が示されて、信仰に提示されます。この段階・面には、次の句の追加の言葉と共に到達します。第一に、「あなたたちは来ているのです」であり、これは神がキリストにあって私たちに提示してくださったものにあてはまります。これは驚くべき新しい立場であり、神の相続人そしてイエス・キリストとの共同相続人としての驚くべき新しい嗣業を伴います。「あなたたちはシオンに来ているのです……」。そして、私たちが述べたように、シオンは包括的・総括的な観念です。シオンが真に包括的に意味するのは、その中に神の全き満足と御旨が見いだされるということです――つまり、キリストとその民です。この民は彼に結合されて、彼がどのような方かということと彼がなさったこととの意義にあずかっている民です。

シオンは、霊的に解釈すると、キリストと、神が完成された贖いと備えのすべての益に浴している彼の民です。シオンの包括的意義を分解して、私たちはさらに続けて、地上のシオンの歴史から、それが私たちが来ている霊的シオンに投じる光から、次のことを見ました。すなわち、昔のシオンが偉大な王、イスラエルで最も偉大な王の偉大な勝利を表していたように、それはキリストの卓越した勝利の象徴なのです。シオンの要塞がこの王に立ち向かい、他の何ものにもまして、彼の信仰、彼の真の力を試しました。その後、彼はそれを取って、それを自分の座、自分の住まい、自分の宮殿の場所としました。ですから、それは旧経綸で最も偉大な王の卓越した勝利を象徴しました。そして、私たちが来ているシオンはこれを霊的に受け継いでいます。このへブル人への手紙は、第一に、主に立ち向かうもの――罪、人自身の性質、死、そして、「死の力を持つ者」すなわち悪魔――の強さを示します。そして、このへブル人への手紙では、たった数語で、それまで見てきたものがすべて無効化されます。「彼は死の力を持つ者すなわち悪魔を滅ぼし、また死の恐怖のゆえに一生涯、束縛されていた者たちを全員解放されました」――なんという勝利でしょう!これがシオンです!あなたたちはこれに来ているのです。

さて、私たちが来ているこのものの一つか二つの特徴に、神の恵みによって進むことにします。これは、信仰によって把握するよう、私たちに提示されているものです。シオンは、旧約聖書の多くの御言葉からとてもよくご存じのように、神が住まわれる場所となりました。もしくは、常に神の住まいの場所として示されています。主はシオンに住まわれました。シオンに住んでおられることが示されています。主はシオンから語られます。それは彼の住まいです。

彼の住まい

さて、親愛なる友よ、この問題のすべての面に大いに迫らなければなりません。それを麗しい見解、真理、聖書に記されていることの組として黙想するだけではいけません。これらは壮大な輝かしい真理、教理、教えであるだけでなく、そのどれもが私たちに対する途方もない課題なのです。それらは私たちを探り出すために示されています。私たちは実際に子供たち、シオンの市民なのかどうかどうか、つまり、これらのことが私たちに言えるのかどうかを、探り出すために示されているのです。

そしてシオンについて述べる時(これはキリストと彼ご自身の民であることを、常に覚えていてください。私たちは、少なくとも、この民であると見なされています)主の住まわれる場所であるシオンについて述べる時、私たちは途方もなく実際的な重要性と意義を持つ事柄に触れるのです。なぜなら、あなたも私もよく知っているように、おそらく何ものにもまして私たちの関心を支配しており、私たちの生活を支配している一つの問題は、主はどこに見いだされるのかということだからです。主はどこに、どうすれば見いだされるのでしょう?それは私たちにとって重要な問題であることに、あなたは同意されるでしょう。主に触れること、どこで確実に彼を見いだせるのかということ。これは実に、とても重要な問題です。もしそれがわからなければ、途方に暮れてしまいます。私たちが実際に主に触れていなければ、生活はまったく間違ったものになって混乱し、弱くなって敗北します。主はどこにおられるのでしょう?

さて、シオンは団体的概念であることを思い出してください。それは多くの無縁な離れ離れの群れや個人ではありません。むしろ、シオンは神の御言葉においては常に団体的な概念です――それは主と一緒にいる主の民です――これがシオンです。主にある命の相互関係がある所、そこにあなたは主を見いだします。私が言わんとしているのは、個人は一人では主を見いだせないということではありません。それは可能です。また私が言わんとしているのは、主の民の間で主と交わるための施設をどうしてもあなたが得られない場合、主は何らかの特別な備えをしてくださらないし、何らかの特別な方法であなたと会ってもくださらない、ということではありません。そうではなく、私が言わんとしているのは、神の通常の道――神の民にとってすべてを意味するほどのさらに優った豊かさで神が見いだされる道――通常の道はシオンの道、つまり、キリストとの霊的交わりの道である、ということです。

神の民と何らかの関係を持つことが、私たちの命には絶対的に不可欠です。これによって私たちは主との接触にもたらされます。これは私たちが個別に持てるものよりも優っています。私たちのまさに命にとって、何らかの方法で、特定の場所にせよそうでないにせよ、何らかの方法で、神の民との生き生きとした関係、力強い積極的な合一を持つことが、必要であり、不可欠です。その合一は、キリストであるところの基礎に基づく霊的な類のものでなければなりません――教えや実行に関する合意に基づいて存在する団体にならなければならないということではなく、私たちの唯一の関心事であるキリストに基づく民でなければならないということです。それは制度や特定の枠組みとは少しも関係ありません。実は私たちはキリストを基礎としており、キリストに基づく民なのです。キリストが全く完全に理解され、あがめられ、高くされ、神の家の上に建てられた御子として認識・感謝されている所――そこに私たちは主を見いだします。しかも、とても特別なかたちで主を見いだすのです。いつでも、いつでも私がこの交わりを享受できるなら、どうにかして私が主に会い、主が私と会ってくださって、以前よりも主からのものが多くあるようになるなら、私たちについてそう言えるなら、これは私たちの証しになるでしょう。そして、よく聞いてください、これを阻止するために地上や地獄でできることはなんでも、悪魔は行います。策略、狡猾さ、方策や憤怒のかぎりを尽くして、あなたがこの交わりにあずかるのを阻もうとします。あなたをそれから遠ざけようとします。できるものなら、あなたがそこに達しないように、あなたがそこに達しないように、何とかして取り図ろうとします。親愛なる友よ、この問題全体に関して、大いに用心する必要があります。

ああ、次のような人々に関して、私たちの心はしばしばどれほど痛んできたことでしょう。彼らは交わりの時を大いに必要としており、絶対的に必要としています。彼らの霊の命はそれを求めて叫んでいます。そこで、彼らは自分たちの心の中の主の促しの下で、その機会を活用する決意をします。しかし、十分な積極性と用心深さに欠けているせいで、何らかの小さな問題が生じると、何らかの環境、何らかのたくらみ、何らかのことが起きると、それを受け入れて、結局のところそこに行かないのです。ああ、この問題に関して戦わなければなりません。これは易々とは手に入りません。シオンは大いに貴いものとして常に示されています。

これについては別の時に別の文脈で、とても貴いものとして述べなければなりません。しかし、貴いものは易々とは得られません。何もしていないのにそれらがあなたに舞い降りることはありません。貴いものを求めて代価を払う覚悟をしなければなりません。いま述べているのは救いについてではなく、信仰のこの相続財産についてです。このへブル人への手紙が明らかにしており、強調していることが一つあるとするなら、それは次のことです。すなわち、アベル以降、この嗣業に向かって前進するこの一大旅団の中にいたこの人々に関して、彼らを特徴づけていた一つの点は、彼らの粘り強さ、この嗣業を奪われまいという彼らの決意だったのです。だれであれそうでした。アベルは自分の血を流し、アブラムはカルデヤのウルを離れ、モーセはエジプトとそのすべての財宝と学問を後にしました――これらの人はキリストのそしりをエジプトの財宝にまさる富と見なしました。彼らは原則としてシオンの途方もない重要性を認識し、それゆえ、そのために戦い、他のすべてをそのために放棄しました。そして、このような道で主を見いだすために、つながりと交わりというこの問題に対して、私たちはとても、とても積極的な姿勢を持たなければなりません。これについていかなる思い違いをしてもいけません、親愛なる友よ、悪魔はいかなる手段を用いても、なにがなんでも、キリストにあってつながっている生活の価値を損なえるなら、そうするでしょう。自分が何を狙っているのか彼は知っています。彼は、もし可能なら、シオンの栄光を損なおうとします。これが常に彼の狙いでした。

では、私たちは主をどこに見いだすのでしょう?そうです、私たちは一人で自分の部屋にいるとき彼を見いだします、神を賛美します。そうです、遥か遠くの、クリスチャンがいない離れた所で、私たちは彼を見いだしますし、主は私たちに会ってくださいます。しかし、そうであっても、そうであっても、個人でいるときや離れた場所にいるときでも、自分たちは関係がない、自分たちはたんなる個人にすぎない、と思ってはなりません。シオンは一つであること、私たちはシオンに属していること、自分たちだけがシオンではないこと、個人であれ、地元の団体であれ、自分たちだけがシオンではないことを、覚えておこうではありませんか。シオンはそれよりも遥かに大きなものなのです。

次に、シオンに関するさらなる点は、昔も今も、昔の文字通りの意味によると、シオンは統治の座、御座のある所だった、ということです。

御座のある所

このへブル人への手紙では、たった一つの句であの途方もない移行をします。すなわち、すべての人のために死を味わってから、彼は天に移って、威光ある方の右に座り、待っておられます……そして、あなたたちは来ています、この御座に、この統治に来ています。キリストと天的な民(これに注意してください)は統治の座、主の道具となります。シオンは統治上の概念です。

彼の御座はシオンです。彼はシオンから統治されます。彼の主権はシオンに関して働きます。これは次のことを比喩的に述べたものにすぎません。すなわち、主が御子イエス・キリストにしたがって御心を満足させるこのようなものに適う何かを得る時、それを得る時、神はそれに関して妬むほどに大いに慕い、そして、彼の主権を、彼の主権をそれに関して行使されるのです。そこに彼の御座があります。主権や統治に関する私たちの人間的考えによると、常にそのように見えるわけではないかもしれません。時として、敵が王座についているように思われるかもしれません。時として、主は本当に御座を空席にして状況を顧みておられないように見えるかもしれません。しかし、ああ、これに関していかなる勘違いもしないでください。教会史では何度もそのようなことがあったのです。そのような時、悪魔とその王国が反乱を起こして、主に属するものをすべて飲み尽くしたように思われます。それで、キリストに属するものはいわゆる「暗黒時代」に消え去ったように思われます。しかし、しかし、それは一つの局面にすぎません。それは過ぎ去ります。主が戻って来られる時、彼は前に持っていたものよりも大きな豊かさに戻って来られます。

主は決して御座を空席にされません。主は決してシオンを放棄されません。旧経綸におけるシオンの物語は、神はそれを放棄することを拒まれるということを示す素晴らしい物語ではないでしょうか。確かに、それは悪しき時代に没落し、敵はその国土を蹂躙するかもしれません――しかし、神は諦めません。暗く、長い七十年の期間の間、まるで何も起きていないように見えます。しかし、神はシオンのために戻って来て、再び行動されます。彼は諦めません。そして、彼の主権がシオンに関して働きます。そして、これは本質的に私たちの時間をすべて占有することのできる事柄です。それは、いかに神が主権的に秘密裏にシオンに関して主権によって働いておられるのかを見ることです。

実際に、究極的に、極度に、主に味方になってもらうことを、私たちは望んでいるでしょうか?主の御座、主権、統治に関わることを、主が求めておられる御旨に関する、主の力強い、摂理的支配に関わることを、私たちは望んでいるでしょうか?望んでいるでしょうか?御座はどこにあるのでしょう?シオンの中心です。それは焦点にあります。それは主の現実的関心事と、御心を定めているものを得ようという神の現実的決意との焦点です。あなたはおそらく、シオンが衰退したように思われる時に、この問題に関して預言者たちが発した言葉をいくつか思い出しているかもしれません。しかし、ああ、主は戻って来られます……主は戻って来られます。

イザヤの預言の六二章では(これについてはいつかもっと詳しく考察するかもしれません)語り手はメシヤであることをあなたはご存じでしょう。語っておられるのはメシヤです。メシヤは言われます、「シオンのために私は黙っていない……シオンのために休まない、ついには、ついには、ついには……」。主はこう述べておられます、「私は休まず、やめない」と。彼はシオンに戻って来られます。

御旨に向かって進む神の密かな、しかしとても積極的な動き――統治と支配――と一致すること、そして、生活上の諸問題をすべてこの主権的・摂理的統治の下にもたらすことを真に望むなら――あなたの心をシオンに据えなさい。そうすれば、それはそのような結果になることを見いだすでしょう。それはそのような結果になるでしょう。おそらく、途中の段階では、これはわからないかもしれません。しかし、長期的に見ると、長い期間の終わりに達して見返すとき、あなたはこう言わざるをえないでしょう、「主が私たちの味方でなければ、人々が私たちに反対して立ち上がった時、彼らは私たちを全く飲み尽くしていたでしょう、もし主がおられなければ……」。これはたいしたことです。これはたいしたことであり、ただ神のおかげです。そうです、主は主権をもってシオンを妬むほどに慕っておられます――彼の御座がそこにあります。一言で言うと、キリスト、キリストの正しさが証明されます。彼の正しさが証明されてきた、と私たちは言うことができます。しかし、彼の正しさが完全かつ最終的に証明されることになります。彼の生涯、彼の死の正しさが、最後には、徹底的に証明されることになります。ああ、そうです、これは素晴らしくないでしょうか?素晴らしいです!

昨日指摘したように、御言葉の中にシオンの二つの境界が見られます。シオンに対する最初の言及は、紅海のあの勝利の岸辺でなされました。そうです、勝利です!パロと、その軍勢と、エジプトに対する勝利です。力強い勝利です、その後、彼らは歌を歌います。その歌の中で、彼らはシオンについて述べます。旅の始まりにもかかわらず、シオンが最初からまさにそこにあって、勝利の調べ、主の絶対的主権の調べを開始します――エジプトが全力を出し尽くして、パロが最後の手段に訴えたとしても、紅海の中に主はそれを葬られます。これこそ勝利です!そしてこの勝利の中から、シオンが視野に入ってきます。わかるでしょうか?シオンが視野に入ってきます。これはとても素晴らしいと思います!

シオンに関して最後にどう述べられているでしょう?黙示録十四章「そして私はシオンの山の上に小羊を見た……」。シオン山上の小羊!さて、あの紅海の勝利は過越の小羊に基づいていました。それは小羊の勝利の成就でした。全聖書と物語全体の最後のこの箇所では、シオン山上の小羊です。勝利です、彼の血による完全な勝利です。これが主権です!

最後のビジョン、最後の光景、最後の描写を取り上げるのは良いことです――それは最後にはどうなるのでしょう?実際のところ、最後はどうなるのでしょう?今日はどうかということではなく、それは一体どういう結果になるのか?ということです。この問題全体に対する最終的・究極的結果はどうなるのでしょう?シオン山上の小羊です。これが、これがその光景です。たとえ今日、そうではないように私たちが感じていたとしても、そうなります。最後にはそうなります。しかし、これは信仰に対して示されています。「あなたたちは来ているのです、あなたたちは来ているのです、シオン山上の小羊のあの絶対的主権に」――「あなたたちは来ているのです」。

次に、すでに述べたもう一つの点についてです。それは、シオンは焦点であること、交わりの焦点であることです。

キリストという基礎に基づく交わり

しかし、シオンを基礎・中心とするあの経綸の交わりの性質はいかなるものだったのでしょう?それは一つのささやかな句で与えられます。すなわち、「シオン、私たちの定められた祭りの都」です。では、定められた祭りとは何だったのでしょう?数々の祝祭です。これを「私たちの祝祭の都」と適切に訳すことができるでしょう――共に集まって素晴らしい時を過ごす場所です。ああ、なんと彼らはシオンに上って行くことを願ったことでしょう、なんと彼らはシオンに上って行く時を待ち望んで一年中すごしたことでしょう。なんとシオンは、人々がそれについて考えて思い出す時は常に、たとえ遠いバビロンでも、心を高揚させたことでしょう。「異国の地でどうしてシオンの歌を歌えよう?」。シオンの歌です。そして、シオンについて思う時、心は遥か遠くに上げられました。祝祭気分になったのです。祝祭です。そして親愛なる友よ、これには、これには、私たちに関して、少しばかり優った点が確かにあってしかるべきです。そう思わないでしょうか?つまり、私たちは主イエスのもとに、そして、彼が私たちのために行って私たちに提供してくださるあらゆるものに、そして、その中に彼が私たちをもたらして置いてくださったあらゆるものに来ている、という点です。私たちに対する霊的嗣業としてのこのシオンはこうしたことをすべて意味するのですから、私たちはもっと祝祭的な特徴を帯びた民であるべきです――皮相的・感情的に興奮して騒々しいといったことではなく、真に主にあって共に喜ぶ民であるべきである、ということです。このような時に共に集まる際、私たちは確かにこのような味わいをほんの少しは持っていると思います。そうではないでしょうか?遠方や近所から集まって一日か二日共に過ごす時、そこに何か良いものが生じます。多くの人は次の時を待ち望んでいると思います。このような交わりを持つのは良いことです、良いことです。これこそ真にシオンです。実際的な、実際的な経験であり成就です。しかし、私たちはもっと継続的にシオンの益に浴して生きるべきです。「私たちは来ているのです」。私たちは来ているのです。私たちにとって、シオンは遠い可能性や、それに向かって私たちが進んでいるものや、時々私たちが行くものではありません。シオンは常に現存するのです。

主イエスがいかなる方か、そして、彼がなさったことのすべての益に、もし私たちが共に、共に、実際に浴していたなら、私たちはもっと幸いな民になっていたでしょう。祝祭の民になっていたでしょう!「私たちの定められた祭りの都……」。「私たちの祝祭の都」と言ってもいいでしょう。これがシオンです。そして、シオンはさらにそれ以上のものです。そして私はとても心配しているのですが、私がこうしたことを述べている時、それらがたんなる良い、楽しい、真実な観念や概念、教えの一部にとどまるようなことがあってはなりません。親愛なる友よ、もし共に集まるこれらの時の背景を知っていたなら、人々はたんに講演のための何らかの主題を求めていたのではなかったことがわかるでしょう。主の御前で、心の底からしばらくの間、真に、真に、求めるのです。何を求めるのでしょう。重大な事が話されることです。共に集まる度に、現在に関係するものを得ることです――現在に関係あるものと、その時のための神の御思いとに関する、あの重大な性格を帯びたものを得ることです。それ以外の何ものにも私たちは興味ありません。神の御心に適う、日の神の民のためのもの以外の何ものにも、私たちは興味ありません。そして、次のことは確かであると私は感じています。すなわち、私自身の魂が確信しているこの言葉は、たんに集会を――良いものであれ、悪いものであれ、あるいは、そのどちらでもない――メッセージや教えで満たすだけのものではなく――私たちへの神からのメッセージなのです。それは、神は民の中にシオンの観念・概念を回復しようとしておられることを、私たちに示すためです。なぜなら、彼の御心は常にシオンと深く結びついていたからです。そうです、彼の御心はシオンと深く結びついています。彼はシオンを得なければなりません。言い換えると、ご自分が御子にあって行って与えたものの、さいわいな、団体的・集団的表現を得なければならないのです。それを見いだす時、彼は満足されます。

ですから彼は、ご自身が専念しているものに私たちを専念させようとされます。それは、彼の願っているものが私たちの願いとならなければならないからです。そして、よく聞いてください、それらは私たちの命にとって必要不可欠なのです。それらは私たちの命にとって必要不可欠です。これらのことを生きるか死ぬかの問題として受け止めなさい。それらは生きるか死ぬかの問題です。それに疑いはありません。真に主に心を注いでいるなら、あなたは示されているこれらの詳細に注意するでしょう。確かに、象徴的言葉で述べられています。私たちはいつでも象徴的言語を恐れます。なぜなら、それは、どういうわけか、人々を神秘的雰囲気・領域の中にもたらすからです。否、それはとても、とても、全く実際的なのです。

今朝私が述べたことは、途方もない数々の問題を含んでいます。つながりと交わりというこの問題を含んでいます。これについていかなる思い違いもしないでください。あなたの命がそれにかかっています、あなたの霊の命がそれにかかっています。悪魔もそれを知っており、もし可能なら、何らかの方法で、それをすっかり損なうでしょう。ああ、そうです、彼は苦い憎しみをもってシオンを憎んでいます。そして、地上のシオンもしくはエルサレムが、その発端の時から、諸国民や諸時代の焦点だったからには、それは、霊的なもの、天的なものに遥かに言えることを、一時的・物質的なものによって描写したものにほかなりません。つまり、これは反対を受けているのです。憎まれているのです。そして、戦場になるでしょう。これは後の時のために残しておくことにします。しかし、私たちは来ている、と述べられていることを思い出してください。これは信仰にとっては現存するものなのです――今できたものとしてではなく、キリストにあって完成されて私たちに与えられたものとして、受け取るべきものなのです。

ですから、立ち去るとき、物としてのシオンについて考えないでください。シオンを物や物体だとは思わないでください。そうではなく、思い出してください。シオンは、ご自身の民の中におられる、すべての御業の意義を帯びたキリストご自身なのです。これがシオンであり、これは大いに私たちに迫ります。これはあなたの隣の人のことではありません、それはあなたのことです!その後、それはあなたの隣の人のことになり、他のすべての人のことになります。それはとても、とても実際的です。ああ、シオンが、昔の人々の心の中にあったように、私たちの心の中にもありますように……一時的なもの、しかもきわめて過渡的なものだったにもかかわらず、それが彼らにとってとても大事なものだったからには、現実であるもの、地上のものは結局のところその貧弱な絵図にすぎないものは、この現実のものは(私たちにとって遥かに現実です、なぜならそれよりも遥かに生きるか死ぬかの問題だからです)私たちにとって大事にすべき遥かに大きな蔵となってしかるべきではないでしょうか?それを大事にし、見守り、世話し、その素晴らしい可能性をすべて開拓しなければなりません。「あなたたちはシオンに来ているのです」。