第四章 神の基準

T. オースチン-スパークス

ペテロ第一の手紙二章六節と七節、「聖書にこう書かれています、『見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い隅のかしら石を据える。彼を信じる者は辱められることがない』。こういうわけで、信じるあなたたちには尊いものですが、信じない者には、『建設者たちが拒絶した石、これが隅のかしらになった』とあり、また、『つまずきの石、妨げの岩』とあります」。

へブル人への手紙十二章二二節、「あなたたちはシオンの山に来ているのです」――「わたしはシオンに隅のかしら石を据える」――「あなたたちはシオンに来ているのです」。このへブル人への手紙(伝統的にそう呼ばれていますが、この経綸で証明されてきたように、これは教会に対するきわめて重大な文書です)はある転機に際して書かれました。それはある転機と関係していましたし、また関係するようになるでしょう。この経綸の転換点だったのです。

私たちの知るかぎり、この手紙がいつ書かれたのかはよくわかっていません。見解は異なりますが、違いはおそらくわずか二、三年です。しかし、それは紀元六九年頃に書かれたと、とても堅く信じられています。紀元七〇年に、ユダヤ教の体系全体――それはエルサレムと宮と祭司職を中心としていました――は一掃されました。それは、あらゆるものが、多くの世紀にわたって存在してきたものから変化した年でした。既成の組織、教えや実行を伴う認知・受容されていた世界的宗教組織が、紀元七〇年に一掃されて、神に敵対する異教世界の激流の渦の中に放り込まれたのです。そしてその日から今日に至るまで、エルサレムには全く宮がありませんでした。国民は散らされて、ユダヤ教組織は実際のところ前と同じく無力でした。

この諸世紀、この経綸におけるこの転換を予期して、聖霊はこの手紙を書くよう導かれました。この文書を作成するよう導かれました。この重大な歴史的出来事の光に照らして読むなら、それを遥かによく理解・評価することができます。その意義をより明確に把握することができます。そうです、とてつもない時代の転機をへブル人への手紙は描写しているのです――それは、一つの体系、一つのエコノミーが過ぎ去った、ということにほかなりません。

一つの体系、一つのエコノミーが過ぎ去ったこと

これをよく調べて、過ぎ去ろうとしているものが何だったのか、それは何を意味したのかについて検証するなら、この手紙から重要な永続的メッセージが得られるでしょう。そして、ここに記されているその真の意義と永続的意味が、別の転機の背後にもあることがわかるでしょう――その転機を今日私たちは見ています。親愛なる友よ、あなたも私もキリスト教の伝統の様相がすっかり変わろうとしている時に実際に生きるようになっている、と言っても決して過言ではありません。

誤解や誤報を招かないよう、私は努めて注意深くなければなりません。私が述べようとしていることは危険を伴うことを私は承知しています。それにもかかわらず、私たちは大いに忠信でなければなりませんし、物事に真面目に向き合わなければなりません。なぜなら、ゆうに一世紀にもわたって、神はある方法で働いてこられたからです。その方法は彼の究極的、根本的、最高の方法ではなく、彼の主権的方法でした――その理由については議論・指摘するまでもありません――彼は組織という手段によって行動して、ご自身の御旨の多くを実現してこられました。神の動きのこの方法がすっかり変わろうとしています、過ぎ去ろうとしています。組織化された外国伝道団の時代、組織化された外国伝道団――私の言葉に注意してください――は終わろうとしています。そのような体制や方法の終わりを私たちは目にしています。外来のものは今や国々の間で終わろうとしています。神は御業を終えようとしている、あるいは、御業を終えられた、という意味ではありません。一つの方法、方法の一つの種類が終わろうとしているのです。

さて、この手紙で転機として描写されている、ここのこの状況に戻ることにします。一つの目的を達成するよう神が意図された一つの体系、一つのエコノミーが過ぎ去ろうとしていました。それはその一つの目的をある点まで確かに達成しましたが、その後、そうするのをやめてしまいました。そしてその時から、その命運は尽きました。それが神のエコノミーの中で達成すべき目的とは、霊的な男女を確保することでした。

この手紙の十一章、もしくは、この文書のこの箇所は、その後、この数字の十一によって区切られてきましたが、さしあたってそれを頭から払いのけて、この文書を一体のものと見なすといいでしょう。しかし、私たちの便宜のために十一という数字が振られているこの箇所は、諸時代に及ぶあるエコノミーによって神はどのように霊的な男女を確保されたのかを示しています。霊的な男女の星雲がこの区分の中に見いだされます――彼らを神はこの世から取り出して天に帰属させ、ご自身に帰属させ、ご自身にとって内在的意義のあるものとされました。このような信仰の男女は、神とその御旨とのこの関係という光に照らして、この世を無と見なし、命を無と見なしました。

そのエコノミがー主権的に起こされて用いられたのは、霊的な男女を確保するというこの目的のためにほかなりませんでした。地上の宗教組織(それは天にある事柄の模型でしたが)の信奉者を確保するためではありませんでした。ある模型の信奉者を確保するためではありませんでした。そうではなく、その模型を通して、その模型の本体――天――の中にある男女を確保するためだったのです。これが旧約聖書の支配的法則・原則です。数々の方法が用いられましたが、それ自体が目的ではありませんでした――祭司職はそれ自体が目的ではありませんでした。そして、これがこの手紙の中で述べられていることです。幕屋はそれ自体が目的ではありませんでした。この体系全体はそれ自体が目的ではありませんでした。それを神は主権的に用いられました。つまり、神の意図は次のような男女を確保することでした。すなわち、その模型を通して霊的実際を見て、それに帰属するようになった男女です――この地上に生きているけれども、天と、現実である物事とに関係している人々です。これがその体系であり、これがそれに対する神の意図でした。そして、それをこれはとても長いあいだ行ったのです。

それが自らを目的としたものになって、自己目的化する時が来ました。それはもはや霊的な男女を生み出していませんでした。その形式、儀式、その体系の諸事を依然としてすべて執り行う宗教的な人々を生み出していましたが、彼らはもはや天と関係している霊的な男女ではありませんでした。それは進み続けていましたが、空虚で、無意味でした。それが果たすべき目的を果たしておらず、神はそれを見限られました。神はそれを終わらせることにされました。

へブル人への手紙では、この判決の執行、この決定の遂行を見越しています。それが六九年に書かれたのだとすると、そのたった一年後に、震われうるものについてここに記されている一切のものが震われることになり、しかも、震われるどころではなかったのです。地に打ち倒されたのです。次に、これがなされたのは、震われえないものが残るためだった、とそれは告げます。この手紙が述べているのは、宗教的な組織や伝統の一部であれということではありません。たとえ、それが神が御旨のために過去に用いられたものでもです。むしろ、神が追い求めておられる究極的なものと、今や媒介的にではなく全面的・直截的・直接的に関係している男女になれということです。つまり、霊的な男女にです。この目的を果たすはずだったあの組織は、その役割を果たさなくなって、たんに存続しているにすぎないものになりました。それはおそらく、自らの勢いや原動力によってであり、その伝統、その古めかしさ、神の御手の下で輝いていた過去のゆえでした。しかし、そうしたものはみな、今や過ぎ去りました。ただ受け継がれていくだけで、神に関するかぎり、その真の霊的意義を剥ぎ取られ、奪われ、空虚にされたのです。これが紀元七〇年に起きました。これがこの手紙の転機です。

あの組織は、神の主権的御旨により用いられましたし、その御旨に至るべきものでしたが、霊的な数々の法則によって厳格に支配されていました。ああ、これはどんなに重く強調しても強調しきれません。その組織全体は霊的な数々の法則によって厳密に支配されていました。それ自体が目的ではありませんでした。昔の祭司やレビ人の行動、彼が用いた器、あの組織の中のどの点も、どれ一つとしてそれ自体が目的ではありませんでした。その背後には霊的意味、霊的意義があり、霊的法則によって支配されていました。その霊的法則を無効化するなら、それはもはや神に対して聖なるものですらありません!

驚くべきことに、それが神に対して正しい関係にあるなら、あなたはそれに触れる時、必ず神に会うことになります。正しい関係にある聖所の器に触れるなら、あなたは神に会い、神はあなたを打たれます。その祭壇に触れるなら、あなたは死にます。実は、正しい関係にある時、それはまさに神の威光・栄光・聖潔を鮮やかに帯びているのです。なぜなら、なぜなら、それはその目的を果たしているからです。しかしそれでも、これらの同じものが、祭壇であれ、どの器であれ、他の何であれ、その真の霊的目的をもはや果たしていないなら、それは神に対して聖なるものではありません。神はそれをみな全く引き渡すことができます。追い払うことができます。

ある時、あの契約の箱がペリシテ人の間に行ったとき、ペリシテ人らはその裏側を見て喜びました。あの契約の箱が処分されて、だれもその衝撃力を少しも感じない時がありました。それはもはや何の神の印も帯びていませんでした。神はそれを顧みられません。当初、金で覆われた木の箱だったものが、天の御座に満ちたものになりました。その後、それは他の箱と同じように、金で覆われた箱にすぎなくなりました。わかるでしょうか?神が起こされた物事でも、その有用性という点に関するかぎり、神はそれにご自身を永遠には委ねられないのです。神が起こされた物事の目的が果たされている時だけ、神はそれにご自身を委ねられます。そして、神の唯一の包括的目的は、霊的な民である男女を確保することです。神に関係していると主張していても、この目的に役立たないものはなんであれ、神に対してなんの立場も、なんの聖さもありません。そして、それを去らせてもかまわなくなる日が来ます。こう述べるのは途方もないことですが、全く真実です。それは歴史に則していますし、今日も真実です。

神が用いてこられた諸々の道具を、私がとても重んじていることがわかるでしょう。このように述べる時、神が主権的に用いられた諸々の道具を私が蔑んだり過小評価している、とは一瞬たりとも思わないでください。なぜなら、神は宣教団、宣教組織、そうした多くのものを用いてこられたからです。彼はそれらを用いて祝福してこられました。そして、それらは、それらの多くは、神に満ちていました。しかし、しかし……時がたつにつれて、様々な要素が、様々な要素が支配的になりました。そしてその一つの要素は外来ということです、「外来」という言葉が表しているものです――外来ということです。ああ、ああ、人々が理解・自覚して、知見、識別力、霊的感受性を持ってさえいれば、彼らはどれほど「外国宣教」という名称を忌み嫌うだけでなく、それを忌避していたことでしょう。それは外来のものであり、輸入されたものであり、それが働いている所にではなく、どこか別の場所に属しています。キリストは決して外国人ではなく、決して異国的ではないことがわかります。キリストには異国的なところが何もありません。そして、真の教会、キリストのからだは、決して異国的ではありません。異国的な要素は除かれなければなりません、完全に除かれなければなりません。私が言わんとしているのは、その土地の習慣や衣服などに適応するよう努めよ、ということではありません。そうではなく、私が言わんとしているのは、霊的な益のために、霊的な関心を持つ人によくよくなれ、ということです。それは外部からではなくからのものであることが全く明らかになるようにせよ!ということです。これは天の刻印を帯びています!これはキリストです。彼はこの地上で国家的でも、そのような何ものでもありません。これは外部のものであり、全く異なっています。外国のものに属するというこの烙印を帯びていません。これには多くの内容があります。親愛なる友よ、私たちが目にしているこの変化は、この言葉のためなのです。

物事の全体的状況と行程に関して、全く新しい方向性が求められています。そして、いわゆる「福音伝道」がこれからも続くとするなら、それはまさに男女によってであり、組織によってではないでしょう。彼らはそれを職務とする専門的な男女でなければならないかもしれませんが、いわゆる専門的な「宣教士」である必要はありません。神の男女である必要がありますし、他所から何らかの組織上の権益ではなくキリストを持ち込む必要があります。これが今日起きようとしています。これが今日の転機と途方もない転換を特徴づけています。

神が用いられるものにはみな、きわめて厳格な諸々の霊的法則が条件として設けられています。そして、その諸々の霊的法則をわきまえて順守しなければ、その命運は尽きます。それは最後を迎えます。その伝統、その歴史、その過去がどうであれ、それは過ぎ去ります。それは自らを目的としたそれ自体のためのものとなりました。それはおしまいになります。多くの時間があれば……明日この問題についてもっと多くの時間を費やせれば、もっと時間があれば、すべては諸々の霊的法則によってこのように全く条件づけられていることについて話したいと思います。しかし、こう述べられています。

過ぎ去ろうとしていたあの組織、へブル人への手紙が書かれた時に差し迫っていたあの経綸の転機、あの組織は、せいぜい時間の問題でした。私たちが過去や未来のイスラエルについてどれほど述べたとしても、それは一時的なものにすぎません。イスラエルに未来があったとしても(これに異議を唱える人もいますが、大半の人はそう信じています。これについては論じないことにします)、それは一時にすぎません。それはみな永遠の時代に取って代わられます。新しい天と新しい地にはユダヤ人の国も他の国々もありません。教会の中にもユダヤ人はいません。それはせいぜい一時のものですし、せいぜい一時のものでした。ある時までだったのです!「ある時まで」が支配的言葉です。よく聞いてください、イスラエルの歴史は、ああ、ある時までです……期限があるのです。よく聞いてください、この期限は永遠の御旨と神の予知によって定まっていました。聖書を読むとき、これから逃れることはできません――状況は時刻表にしたがって動いています、時刻表にしたがって動いています。

マイヤー博士がある時アメリカを旅をしていた時のことを思い出します。彼は列車の客室か普通席に座っていました。片方の膝の上には自分の聖書を開き、もう片方の膝の上には時刻表を載せていました。そばに座っていた人があざ笑うかのように彼を見て、聖書を指さして言いました、「まさか、その擦り切れた、時代遅れの本を信じている、なんて言いやしませんよね?」。マイヤー博士は上を向いて、彼らしく静かに――私たちの中にはそれについてよく知っている人もいます――優しく微笑んで言いました、「親愛なる友よ、私のもう片方の膝の上に時刻表があるのが見えますか?また、私がなぜこの時刻表を膝の上に開いているのかご存じですか?この長旅をしているあいだ、どの地点にいつ着くのか、この時刻表からわかります。さて、次の停車駅はどこそこで何々時です。各駅に予定時刻どおりに着くかどうかを見るために、私は見張っているのです。私がここに開いているこのもう一方の本の中には、神の時刻表があります。そこには特定の事柄が起きる時のしるしが記されています。歴史を振り返ると、神が起きると言われたちょうどその時に諸々の出来事が起きたことがわかります。時が満ちてイエスが来られました……」こう彼は続けました。彼は言いました、「こういうわけで私は聖書を信じているのです。あなただって私にあなたの国の時刻表を捨ててほしくないでしょうし、それらは時代遅れの、擦り切れた、無益で、信用できないものだ、と言ってほしくないでしょう?それらは有用であることが証明されていますし、ここにあって、何々時にどこそこ駅に着くことを教えてくれます。おそらく、二、三分以内に、私たちは着くでしょう。決して私は自分の聖書を捨てることはできません。神が時刻表にしたがって働いておられるのを、私は見ているのです」。マイヤー博士はさらに続けて、時のしるしのいくつかについて扱いましたが、私たちの要点を示すにはこれで十分です。

すべてのことの背後には時刻表があり、それを神は予めご存じです。神が前もって定められた時に、数々の出来事が起きましたし、今もそうです。しかし依然として、もちろん、このような事実に関連した困難・問題の中に次のようなものがあります。すなわち、神の予知により時が定まっている一方で、奇妙なことに、それらの時は特定の状態と一致・同期していたのです。そういった状態は神によって引き起こされたわけではありませんでした。そういった状態が生じました。そして、それらが生じた時、前もって決まっていたことが起きました。

さて、この手紙に注目してください。ああ、イスラエルと未来の出来事に関して、多くのことが前もって告げられていましたし、前もって知らされていました。主イエスは、比喩的な方法で、いちじくの木について述べ、それに対して行動されました。根元から萎れたこのいちじくの木は、イスラエルが脇にやられることの象徴でした。ああ、この問題に関する預言をすべて調べるつもりはありませんが、これがそこにありました。しかし、これはいやおうなく起きたのではなく、とても奇妙なことに、特定の状態のためであり、神は予めご存じだったのです。では、それは何と同時だったのでしょう?組織・枠組みが、自らが起こされた本質的目的の代わりとなったか、あるいは、それ以上のものになったのです。がその存在目的の代わりとなったか、あるいは、その目的以上のものになったのです。ある意味で、真の目的がしぼむか消えてしまい、それでこれが起きたのです。

ある時に起きるよう定められていたこのことは、この状態と同期していました。そして、よく聞いてください、神はこのように働かれます。ある定められた時に、神はキリスト教の中にあるすべてのものをふるい分けられます。それをすべてふるい分けられます。それは、その真の存在目的がどれくらい果たされているのかを見極めるためです。震われうるものは震われるでしょう。男性たちや女性たちの霊性がこれをすべて支配するものであり、この転機を決定づけます。この転機を決定づけます。私たちは遅かれ早かれこの転機に個人的に出くわすでしょう。なぜあなたはクリスチャンという名を帯びているのでしょう?遅かれ早かれ、自分はキリスト者なのかどうか、それはキリストなのかどうか、どれくらいキリストなのかどうか、明らかになるでしょう。

ここで挿話として、最近読んだ話を紹介しようと思います……それはある少女の夢の話でした。彼女は「自分は夢を見た」と言いました。そして、その夢の中で彼女は輝かしい天使が座っているのを見ました……その天使は彼女の家があった村の草地に座っていました。そして天使の手には大きな物差しがあって、その物差しを天使は手に持って自分の横に立てていました。彼女がその物差しを見ると、「キリスト、キリスト」と記されているのが見えました。たくさんキリストと記されており、一インチの所にキリスト、二インチの所にキリスト、それより大きなインチの所にもキリストと記されていて、この大きな物差しの上端までそうなっていました。すると、彼女は天使が呼ぶのを聞きました。その天使は彼女がよく知っている人の名を呼びました。その人はキリスト教の働きを盛んにしていることで大いに有名でした――常に方々駆けまわって、キリスト教の名の下で博愛事業を活発に行っていました――いわゆる「キリスト教活動」で大忙しな人でした。彼女はその人をよく知っていました。皆が「その人はとても素晴らしい人で、大いなる清算の日にもよく耐えられるだろう」と思っていました。名を呼ばれて、その人は大いに自信満々でやって来ました。その物差しに十分耐えられるだろう、と堅く確信していたのです。彼女がその物差しに近寄ると、彼女の背丈が縮み始めました。ますます小さく、小さく、小さくなっていき、とうとう、ちっぽけな小人になって、物差しの下端の背丈になってしまいました。皆がそれを見て、心底驚きました!「これが何某女史なのですか?結局のところ、キリストの度量は本当にこれだけなのでしょうか?」。天使は彼女に、力強い優しい忠告の言葉を与えて、こうした外面的な一切のものと内なるキリストの真の度量との違いを指摘しようとしました。そして、彼女は意気消沈して去って行きました。

そうして、一人一人、有名人たちが天使に呼ばれました。ある人の名前が呼ばれましたが、夢を見ていた少女はその人のことをとても貧しくて、か弱い、気の毒な人だと思っていました。だれも彼女のことを大したものとは思っていませんでした。彼女はとても、とても居心地の悪い状態にある辺ぴな所に住んでいました。だれ一人として、だれ一人として彼女の大親友にはなりませんでした。人々は彼女をずっと一人ぼっちのままにしていました。彼女は大事な人である、とは少しも思っていませんでした。天使が彼女の名を呼ぶと、彼女はとても震えながら、恐れに満たされて進み出ました。あの物差しの横に立つのが怖かったのです。彼女は来て、その横に立ちました。そして、彼女がそれに触れた時、彼女は大きく、大きく、大きくなり始めました。彼女の背丈は成長して高くなり、とうとう他のだれよりも大きくなりました!天使は彼女に対してあまり言うことはなく、ただ優しく、優しく語りかけました、「やりましたね、マリア、やりましたね、マリア。私はすべて知っていますよ、あなたの密かな戦いを、あなたの密かな苦難を。そして、あなたが他人の軽蔑をどのように忍んできたのかを、それに、そうした問題をすべて密かに祈りの中で主に持ち出して、前進するためのあなたの力を主からどのように引き出したのかを。主から見て、あなたには大きな価値があります」。

夢を見ていた少女の名前が呼ばれて、彼女もそこに立たなければなりませんでした。彼女はドレスや、この世的な外見や、そうした類のことが全部大好きでした。彼女にとって、この世のことがすべてでした。彼女は人気があり、人々は彼女を重んじて、いつも彼女を指さして、「彼女はおしゃれな人の模範です、だれもがそうなりたいと憧れるような人です」と言っていました。そういうわけで、「自分はこの物差しに十分耐えられる」と彼女は思いました。しかし、彼女が近づくと、自分が小さく、小さく縮んでいくのがわかりました……自尊心等々といった感覚はすっかりなくなりました。天使はペテロの手紙からの御言葉を少しばかり引用しただけでした。「髪を編み、金の飾りをつけ、服装を整えるような飾りではなく、柔和で穏やかな霊という飾りを身につけなさい。これこそ神の目にきわめて尊いものです」。

さて、私は思い切ってこれを紹介しました。これは空想的・幻想的に思われますが、おそらく、この問題全体に対する要点を与えてくれるでしょう。神の基準は、結局のところ、御子の霊的度量であることがわかります。

御子の霊的度量

これが実際のところ、このペテロの言葉の内在的意味です。「わたしはシオンに、シオンに隅のかしら石を据える(中略)ですから、みなこの基準を満たしなさい」。信じるあなたには尊いのですが、信じない者にはどうでしょうか?なんとまあ、なんと恐ろしい効力が、定規としての、霊性の定規――キリストの尺度――としてのこの隅の石にあるのでしょう。真の霊性を生み出さない何ものにも神は興味を持たれないことがわかります。これが要点です。そしてシオンは、この大会を通して述べてきたように、御民に対する神の御思いの総計であり、信仰を通して理解・経験・参与・享受するべき、主イエスの美徳・意義・勝利の総計です。シオンは偉大な試金石です。それは万物・万民に対する偉大な試金石です。

確かに、(別の比喩を用いると)シオンは神の測鉛線であり、万物に対する試金石です。神から何かを与えられたら、それに応えなければなりません。確かに、神が何かを与えてくださるとき、それはまるでなかったかのように存在・現存することはできません。これはとても厳粛な言葉です、とても厳粛な言葉です、とても困難な、心を探る言葉です。親愛なる友よ、神が何かを起こし、御子に関してご自身に属する何かを与え、私たちにそれを知らせ、その近くに、それとの関わりの中に置かれるとき、それが私たちの生活圏内に臨むとき、それを起きなかったことにすることは決してできません。遅かれ早かれ、私たちはそのことで神に応えなければなりません。これが万物の総計である黙示録が示す判決です。

たびたび指摘してきたように、黙示録の最初の諸章で神は秤にかけて、測鉛線を示し始められましたが、それは諸教会――それらを生み出すために使徒パウロが用いられました――に対してでした。特別・格別な方法でパウロに与えられた、キリストとそのからだに関するあの啓示、あの素晴らしい啓示を受けた、アジアにある諸教会に対してでした。この諸教会はあの務めを受けていました。パウロはだいぶ前に主のもとに去っていました。彼が自分の生涯を終えようとしていた時、「アジアにいる者たちはみな彼から離れて行きました……」。おそらく拒絶されたのでしょう。いずれにせよ、彼らは彼を去らせて、彼から離れ去りました。これで終わりだと思うでしょうか?ああ、いいえ!上等です、上等です!まさにこれらの諸教会は、パウロが与えた測鉛線のもとに連れて来られて、主が示されたことによって裁かれました。これが基準です。これが基準です。遅かれ早かれ、このとおりになります。それからは逃げられず、そうなります。おそらく、私が強調して述べるまでもないでしょう。それは厳しく聞こえますし、強面のようではないでしょうか?しかし、私たちが述べているのはこういうことです。すなわち、神は霊的意義のある何かを示されたのです。この霊的意義を帯びていて、それに適っている、このが失われました。最終的に神が裁きを下されたのは、存続していた諸教会の外形にしたがってではなく、その霊的意義からの逸脱にしたがってでした。それはこのとおりです、このとおりです、今も最後もこのとおりになります。まさにこういうことです。外枠や外形――たとえ神が用いてこられたものだとしても――よりもさらに深く、さらに内面的な何か、この何かが私たちを看破します。それが私たちを看破します。

「あなたたちはシオンに来ているのです(中略)見よ、わたしはシオンに隅のかしら石を据える」。隅のかしら石とは、もちろん、建築的には、すべての起点・終点を意味します。それはこれから起こり、これから上に向かって進みます。そして、それはみな遡って建造物全体と関係しています。隅のかしら石、隅のかしら石は、すべてが、すべてがそれと関係していることを意味します。「わたしはシオンにこれを据える、試金石となる何かを据える」。

午後の時間が過ぎてしまいました。そうでなければ、私は先に進んで次のことを示していたでしょう。すなわち、シオンを神はどのように用いて過去の諸々の経綸を試されたのか、そして、シオンがいま霊的資質と霊的度量に関して示していることが、最後にどのようにすべてを試すことになるのか、ということです。これはそうなります。さしあたってここでやめられると思います。

先に進むこともできますが、この午後の集会では、神の御旨により、この一つの特別な強調点が示されたと、私は信じています。もし私が間違っていて、あなたを誤導しているなら、私はそう信じようとは思いません。私は次の問いと共にこれをあなた自身の探究、観察、判断に委ねます。クリスチャンの活動に関するかぎり、この世界のいたって複雑な状況の中に、一つの変化、一つの真の変化を、私たちは目にしているでしょうか?どうでしょうか?どうでしょうか?これは地上中で成長しているでしょうか?到底違うのではないでしょうか?到底違います。クリスチャン活動に携わった私たちの若かりし頃、この一般的に受け入れられている線に沿って世界を福音化するこの企て全般に、自分たちがどんなにものすごく取り組んだのか、よく覚えている人たちも私たちの中にいます。

さて、再び言わせてください。神が主権的に用いてこられたもの――用いておられるもの――を一瞬たりとも過小評価してはなりません。しかし、私たちは知っています!今、今日、私たちは自分の人生をまだ終えておらず、うまくやっているかもしれませんが、これまで生きてきて目にしているのは、もはやそれをこのような方法ですることはできない、ということです。今日、宣教士たちに中国に行くようお願いして何の役に立つでしょう?そして、これに関して言えることは、ますます言えるようになっているのではないでしょうか?昔の路線、昔の方法では、今や無意味ではないでしょうか?宣教士たちが世界に出て行くのはすでに終わりを迎えたということではなく、私たちには物事の流れが見えているということです。ある変化が、ある変化が臨んでいます。もしこの問題が長引くなら(世界宣教は終わりを迎えているとは私は見なしていません)もし国々の間における証しのために時が伸ばされるなら、それは別の方法で、別の基礎に基づいて、別の手段によってなされるでしょう。すでに述べたように、次のような男女によってなされるでしょう。すなわち、肩書や団体等の下にはない、証し人である非専門家の男女です。おそらく、彼らは仕事や他の形で諸国民の間にいます。もしこれがとにかくそうなるとしたら、これこそ将来のための方法ではないでしょうか?こうなりつつあるのではないでしょうか?

さて、これはどうしてでしょう?その結末は何でしょう?神の観点ではそれは何を意味するのでしょう?ああ、神と天はまさに次のことを大いに強調していることがわかります。すなわち、神はこの時代の終わりにあたって、本質的かつ内在的なものに取り組んで、二次的なものを剥ぎ取ろうとしておられるのです。長大な円を描いて堂々巡りせずに、この問題に直ちに取り掛かろうとしておられるのです――直ちに取り掛かろうとしておられるのです。ここを見てください、諸国民の間にいるあなたたちよ、あなたたちが神を知るようになったのは直接的にであって、外来の手段によってではありません!あなたたちは自分自身で神を知るようになったのであり、外来の助けが何もなくても完全に立つことができます――じかに得られた霊的な男女です。そして、これらの諸国民に言えることは、すべての諸国民にも言えるようになります。この地上で言えるようになります。何かが起きて、私たちは神に全く頼らざるをえなくなります。そうなります、親愛なる友よ、この場所にいる私たちは主に頼らざるをえなくなります。

何らかの形で次のことが起きるでしょう。すなわち、もし私たちが神と共なる生活を送っておらず、主を知らないなら、状況がどうであれ、それは私たちを救うことも、私たちの助けになることもないでしょうし、十分でもないでしょう。私たちは圧迫されて、主を知る霊的な男女になるでしょう。これがその結果です。神はそれを得るためになんでもひっくり返されるでしょう。その伝統がどれほど長いのか、神がそれを過去にどれほど用いられたのかは関係ありません。神は、長期的には、ただ一点に集中しておられます。それは、あなたは主を知っているのか?ということです。あなたはどれくらい主を知っているでしょうか?主を知るあなたの知識は結局のところどうなっているでしょう?それはどんなことをあなたに切り抜けさせられるでしょう?どんなことにあなたを立ち向かわせられるでしょう?あなたが頼りにしてきた人々は折れた葦であることがわかるかもしれません。四方八方、絶望しか見あたらないかもしれません。自分に衝撃を与え、自分を逸らして、怒らせかねない物事に、あなたは出会うかもしれません。しかし、あなたは今シオンに関して試されているところなのです――立つか倒れるか試されているところなのです。彼はつまずきの石であることがわかります。

もし私たちが真に主を知っている男女でないなら……ああ、どうかこれを理解してください!これ以上に重要なことは私には言えません。親愛なる兄弟姉妹よ、神が私たちの経験の中で私たちに関して行おうとしておられるのは、神を自分自身で知るようにさせることであり、なんであれ間接的にではなく直接的に得るようにさせることです。これにより、私たちは互いに独立するのではなく、おそらく、ますます互いに依存するようになりますが、これはそうでなければなりません。神は震われうるすべてのものを震われるでしょう。それは、そのようなもの――シオンと一致するもの――がどれくらいあるのかを見極めるためなのです。