今しがた歌った詩歌のもとになっている、神の御言葉の例の箇所を読むことにします。詩篇八七篇です。
「彼の土台は聖なる山々にある。主はヤコブのすべての住まいにまさって、シオンの諸々の門を愛される。ああ、神の都よ、栄光ある事があなたについて語られる。わたしはエジプトとバビロンをわたしを知る者として挙げる。見よ、ペリシテとツロをエチオピヤと共に。『この者はそこで生まれた』と言われる。実に、シオンについては、『この者もあの者もここで生まれた』と言われる。いと高き方がそれを確立される。主が諸々の民を記録される時、『この者はそこで生まれた』と数えられる。セラ(これについて考えよ、の意)歌う者も踊る者も共に言う、『私の泉はすべて、あなたの中にある』。」
へブル人への手紙十二章二二節「あなたたちはシオンに来ているのです」。
宣べ伝えに適した環境があることは、常に、きわめて幸いできわめて有益なことです。今晩、私たちはクリスチャン生活の幸いについて述べたいと思います。そして、その幸いを知らず、享受していない人々に、主に属することがいかに良いことなのかを告げたいと思います。これにより多くのことを述べ、それらについて論じ尽くし、説得しようと努めることになるかもしれませんが、それはある種の環境がなければ困難でしょう。この集会の雰囲気そのものが、この事実に対する最善の論拠であり、この事実を最もよく表していると思います。
あなたたちが歌っている時、私はこう考えていました、もし自分が救われていない人で主を知らず、救いを真に享受している人でなかったなら、そして、あの歌が歌われている間に入って来たとしたなら、正直に言って、「この人々は素晴らしい時を過ごしています。何か素晴らしいものを持っています!」と言わざるをえなかっただろう、と。これこそ真に最善の宣べ伝えではないでしょうか?ですから、あなたたちに申し上げたいのですが、私が言葉で述べることにはみな、良い、しっかりした、純粋な裏付けがあるのです。その裏付けとは今晩の私たちの状況です。もしこの話を受け入れられないなら、もし言葉によるこの話が腑に落ちないなら、この人々を見て、この人々に耳を傾けてください。それでも、この神の民は何か価値あるものを持っていると納得できないなら、あなたはとても鈍い人です。頑固な人です。
さて、以上がささやかな序論です。この詩篇八七篇についての黙想にふさわしい背景・序論です。それを今日に適用すると、それはこれについて示しており、シオンとシオンの民について述べています。そして、新約聖書のこの箇所では、「あなたたちはそれに来ているのです」と述べています。これは遠い昔、遥か彼方の、旧約聖書の中の事柄ではありません……今あなたのためにここにあるものです。それは現存しており、あなたはそれを知り、所有することができます:シオン――私たちはシオンに来ているのです。
さて、この詩篇八七篇を見て、今このとき主イエスにあって私たちに示されている事柄をいくつか、これから引き出すことにしましょう。
「彼の土台は聖なる山々にある。主はヤコブのすべての住まいにまさって、シオンの諸々の門を愛される。ああ、神の都よ、栄光ある事があなたについて語られる」。これが最初の区分であり、ご覧のように、最初の対比をいくつか含んでいます。その対比は双方の側の二つの言葉によって示されています。一方の側は「ヤコブ」であり、他方の側の「シオン」と対比されています。一方の側は「ヤコブの諸々の天幕」であり、他方の側は「シオンの諸々の門」です。二重の対比がなされています。そして、主は一方よりも他方を遥かに好まれる、と述べられています。確かに、これは強い言葉で表現されています。「主はそれよりもこれを愛される」。そして、もちろん、私たちが問いたいのは、主がこのように差別・えこひいきをされる、その根拠・理由は何か、ということです。主が遥かにまさってこれを愛されるのはどういうことでしょう?主はヤコブを愛しておられないとか、ヤコブの諸々の天幕を愛しておられない、と述べているわけではありません。彼は愛しておられます。しかし、彼はそれよりも遥かにシオンとシオンの諸々の門を愛しておられるのです。ヤコブは神の素朴で純粋なあわれみを表していることがわかります。
神の素朴で純粋なあわれみ
私たちがヤコブという言葉に出くわす時はいつでも、それが当人のことであれ、あるいは、その名で通っている民のことであれ、常に、必ず、神のあわれみが必要なものを前にします。
「押しのける者」を意味する「ヤコブ」という名前自体、神のあわれみがなければ、何の希望もありませんし、何の立場もありません。それでも、神のあわれみがヤコブに関してなんと大いに表されることでしょう!預言書の中にこの名がどれほど出てくることでしょう。預言書の中にです(これは意義深いです。というのは、イスラエルはヤコブの領域の中に再び落ち込んだからです。偉大なイスラエル、神の皇子の地位から、肉によって支配されている人々の地位に、肉的関心に、落ち込んでしまったのです)ですから、預言者たちはしばしば、イスラエルの名をヤコブという名で呼びました。しかしそれでも、預言書の中にヤコブに対する神の大きなあわれみがなんと示されていることでしょう。彼はヤコブをあわれまれます。実に素晴らしいです!この名が意味するところを考え尽くして、神がどのようにヤコブをあわれまれたのかを見るなら、これは実に素晴らしいことがわかります。神は忍耐して、辛抱強く我慢されました。ヤコブが最悪の状態にあった時でも、神は決して諦めませんでした。確かに、ヤコブは神のあわれみを誘うものを常に象徴します。
ヤコブはあわれみを必要とします。主はヤコブを愛して、ヤコブに大きなあわれみを示されました。忍耐、辛抱強さ、自制、切望する愛といったものによってです。たしかに、主は愛されました。しかし、主が望んでおられるのはこれだけである、始終ご自身のあわれみ、あわれみ、あわれみを要求するものだけである、とあなたはお考えでしょうか?その現状のゆえに忍耐して辛抱強くなければならないものを、主は望んでおられるのでしょうか?これは主の御心に全くかなっている、とあなたはお考えでしょうか?断じて違います!断じて違います。では、主がこれ以上に求め、願い、喜ばれるものは何でしょう?
神に感謝すべきことに、彼はあわれみの神であり、私たちがヤコブの状態にある時でも私たちに対してあわれみ深くあられます。私たちは罪人であり、人間的弱さやもろさの中にあり、失敗し、挫折してばかりですが、そんな私たちに対して神はとてもあわれみ深くあられます。しかし、彼のあわれみがいかに大きくても、私たちをあわれみの対象として持つだけで彼は全く満足される、と結論しないようにしようではありませんか。
ですから、彼はヤコブとシオンを対比されます。そして、シオンは神のあわれみ以上のものを表します。それは、神のあわれみに対する十分な応答を表します。
神のあわれみに対する十分な応答
これはさらにまさっています。シオンによって表されているものの中に入る時、神のあわれみに応答するもの、そのあわれみは無駄ではなかったと証言するものと出会います。なんなら、言葉を「あわれみ」から「恵み」に変えてもかまいません。神の恵みは無駄ではありませんでした。神はひたすらあわれみ深くあり続ける必要はありませんでした……始終あわれむ必要はありませんでした。そうです、彼の恵みは何かを生み出しました。彼の恵みは何かを生じさせました。彼の恵みは何かを発達させました。そして、シオンは常に賛美、賛美、賛美の場所として示されます。
いやそれどころか、シオンでコラの子たちは歌い続けました。歌ったのです!シオンは歌の場所であり、賛美の歌が心からの純粋なものであるとき、それは神の恵みに対する感謝の表明を意味します。これがキリスト教の真のしるしではないでしょうか?私たちは大いに歌います(キリスト教は実際のところ、世界で唯一真の歌う宗教です。他の宗教には哀歌や凄まじい騒音があります)。歌い、賛美し、喜ぶことは、他のどの宗教にも見あたりません。それはキリスト教にしかありません。その大半は詩歌から成っているのではないでしょうか?そして、私たちの詩歌の多くは、神の恵みに対する心からの応答にほかなりません。
神はイスラエルの賛美を住まいとされました。ですから、シオンはあわれみ以上のものを表します。それは、神のあわれみゆえの、神への応答を表します。それは、主イエスがなしたこと、発効させられたものが、私たちの内に実際に何かを生み出しつつあることを意味します。主はそれを愛されます。「主はヤコブのすべての住まいにまさって、シオンの諸々の門を愛される」。主はシオンを愛されます。ヤコブを愛する一方で、それよりも遥かにシオンを愛されます。主は次のような民を愛されます。すなわち、彼のあわれみと恵みをよく理解しているがゆえに、彼のありがたいあわれみに報いること以外に今や生きる目的のない人々です。これがシオンです。
「ヤコブの諸々の天幕」――「シオンの諸々の門」。これがこの対比、最初の対比のもう一つの面です。これは今しがた述べたことの続きにほかなりません。というのは、これらの対句は同行するからです。互いに互いの一部なのです。ヤコブの諸々の住まい・天幕とシオンの諸々の門。
この二番目の対句、諸々の天幕と諸々の門は、何を表しているのでしょう?これを認めてもらえるなら、これらは二つの異なる絵図であることがわかります。それは移行を示しています。立場と時がすっかり変わったことを示しています。ヤコブの諸々の天幕について黙想する時、あなたは荒野での諸々の天幕について黙想することになります。もう一度見てください、そうすれば、ヤコブが諸々の天幕にいた時、彼らは荒野にいたことが旧約聖書からわかります。民がシオンにいる時、彼らはもはや荒野ではなく都にいます。立場も時もすっかり変わりました。ほとんど別の経綸です。彼らは荒野から出て、今や良き地に入ります。彼らは都に到着しました。シオンは実現済みのものです。彼らは荒野を貫いてシオンの方を見ていました。今や到着しました!諸々の天幕と諸々の門。しかし、これは何を意味するのでしょう?荒野で、自分の天幕に住んだ荒野で、彼らは主を知ることを訓練によって学んでいたのであり、経験によって学んでいたのです。霊的歴史を刻みつつあったのです。
これは荒野でのなんという霊的教育の時だったことでしょう。神の御手の下で霊的教育を受けたのです。なんと厳しい学課を彼らは学ばなければなかったことか!なんと激しい打撃を被ったことか。確かに、それは試験の時、試みの時でした。それは四十年でした。四十年という期間は常に試験期間を意味します。検査し、実証し、この線に沿った何らかの立場につかせるための、試験の時を意味します。これがヤコブの諸々の天幕の意味です。すなわち、彼らが通ったものはみな、荒野での学びのためだったのです――荒野は学校だったのです。
シオンの諸々の門――都の門で何が起きているのでしょう?なんと、ここに長老たち、円熟した人々、議会が集まっています――あの知識を有する立場についています。この知識は経験を通して獲得されるものであり、彼らはこの知識を神の民のために役立てます。門は聖書では協議の場、有識者の会議の場です。裁判官たちが門の所に座します。知識人たちがそこにいて、共に協議し、神の民の権益を担って決定を下します。彼らは博学な人々であり、自分たちの博識、教育、訓練を役立てて、国民に対して実際に適用します。要点がおわかりでしょうか?
たしかに、主は荒野の天幕にいた彼らを愛されました。これに疑いはありません。しかし、四十年の間、どれほど忍耐・我慢しなければならなかったことでしょう。ここの、都の門では、彼らの修練、訓練、教育の益が総結集して、外側に向かって他の人々の益のために転用されます。主はこれを愛されることがわかります。私たちが一生ずっと荒野でひたすら学び続けること、荒野を通り、試験・試みを受けて、理解するようになることを、主は望まれません……主が私たちに教えたことを他の人々のために転用する立場にあなたや私がつく時を、主は期待しておられます。これは彼にとって遥かに尊いことです。
さて、あなたは荒野にいるでしょうか、それとも門にいるでしょうか?依然として外をさまよっていて、訓練と逆境によってゆっくりと学んでいる民でしょうか、それとも、門の所で責任を担っている人でしょうか?
聖書を知っている人々は、もちろん、そうでない人々よりも、門と門での協議というこの問題に関してよくわかっています。しかし、私は他の人々のためにそれについてヒントを与えましょう。聖書では、門という概念は次のことを表します。すなわち、都の議会がそこで開かれて、民の益のために諸問題に決着をつけて裁いたのです。主はそのような民を望んでおられます。そのような民です!ご存じのように、これが使徒がコリント人たちに述べていること、パウロがコリント人たちに述べていること、コリント人たちに対する彼の言葉です。彼は彼らにこう言わなければなりませんでした、「さて、これを見てください。あなたたちの中には互いに問題を抱えていて、自分たちの問題をこの世の法廷に訴えている人々がいます。これは、これは円熟していないしるしです!これは、あなたたちがこの道をあまり進んでいないしるしです。今や、あなたたちは互いを裁くこと、自分自身の問題を裁くことができなければなりません!もしあなたたちが自分自身を裁くなら、主に裁かれることはありません。あなたたちはこれらの問題をこの世の知恵に委ねるのではなく、自分たちで決着をつける立場につかなければなりません」。わかるでしょうか?主が愛されるのはこのような円熟です。これが意味するところを私たちは、主が私たちを教え、訓練してこられた方法から知っています。行うべきこと、できてしかるべきことを私たちは知っています。それは助言を与えて他の人々を助けることです。
諸々の天幕と諸々の門の違いがわかります。そして主は、たしかに、あなたが荒野にいるとき、あなたに対して大いに忍耐してくださいます、しかし、始終そうしてばかりいることを彼は望んでおられる、とは思わないでください。彼はその日を期待しておられます。その日は彼にとって遥かに大きな喜びの日になるでしょう。その日とは、あなたと私がシオンの門にいるようになる日のことです。「主はヤコブのすべての天幕にまさって、シオンの諸々の門を愛される」。
次に、詩篇作者は先に進んで別の対比の組を示します。それはこう始まっています、「わたしはエジプト、バビロン、ペリシテ、ツロ、エチオピヤを挙げる」。全部ひっくるめたものと対比されています。個別にではなく、全部ひっくるめたものが、一つの言葉と、一つの名と対比されています。この世で最も偉大な諸々の名を一緒に一くくりにしたとしても、すべてを一緒にしたものよりも遥かに優る名があります。それはシオンです。わかるでしょうか?
この対比:シオン
エジプト云々といったこの様々なものが何を物語っているのか、延々と述べる必要はないと思います。ご存じのように、エジプトはこの世の勢力を象徴します。バビロンはこの世の驕りです。ペリシテはこの世の僭越さです。ツロはこの世の商業的栄華です。エチオピヤはこの世の人心の暗愚さです。これと反対のもの、対照的なもの、天の観点から見て価値あるものがシオンです。
詩篇作者が言うには、ここにはエジプトで生まれたこと、エジプトに属することを誇る人々がいました。彼らはそこで生まれたこと、その国の特権を持っていることを誇りました。他の人々は、バビロンが自分の祖国、出身都市であることを誇りました。「ああ、素晴らしいバビロン!素晴らしいバビロン、私はバビロンに生まれた!」と誇る人もいれば、ペリシテに生まれたことを誇る人もいました。このようにさらに続きます、「ツロ、素晴らしいツロ……」。エゼキエルの預言書の三七章を読むと、人々がツロの何を誇ったのかがわかります。ツロは天にまでそびえ立ち、天に届くほど高くなりました。この世の商業界で栄えました。よろしい、あなたの驕り・高ぶりのかぎりを尽くして、それをすべて結集させなさい。それがあなたの相続財産です。それがあなたの相続財産です。それをすべて一緒にして、ありったけのものを結集させたとしましょう(それは決して少なくありません、少なくありません)。モーセはキリストのそしりをエジプトの財宝にまさる富と考えた、と御言葉は述べていますが、それはエジプトの財宝は嘲笑されるべきものだったという意味ではありません。キリストのそしりを遥かに上位に置いているにすぎません。というのは、エジプトの財宝は疑いなくとても膨大だったからです。
全盛期のエジプトの栄光を少しでも知るなら、それは決して小さなものではないことがわかります。そしてバビロン等も、そこに生まれること、出身がそれらの場所であることは、決して小さなことではありません。しかし、それらに帰すべきものを帰して、それらの栄光と地位について正当に述べうるかぎりのことを述べ尽くしたとしても、なおそれを上回るものがあるのです。「シオンについては……と言われる」。この文章が「実に……」という言葉で始まっていることに注意してください。「しかし」という言葉で始まっていればよかったのにと思いますが、この「実に」という言葉はとても素晴らしい言葉です。それは強調的感嘆詞であり、「それらすべてにまさって、シオンについては『この者もあの者もここで生まれた』と言われる」ということをまさに意味します。シオンの市民、シオンの市民がエジプトを上回っているのです。
モーセはシオンの真の霊的市民でした。決して文字どおり、文字どおり、シオンに行ったことはありませんでしたが、彼は霊的にシオンの真の市民でした。彼は四十年間、エジプトを重んじ、エジプトを統括し、エジプトの手段を用いました。四十年間、彼はエジプトの手段を用い、その後、慎重に計算してある結論に至りました。すなわち、これをすべて持つよりは、キリストのそしりを受けた方がいい、という結論です。注意してください、キリストの最終的栄光ではなく、キリストのそしりと述べられています。なんと、キリストとの合一の最低水準の方がエジプトとの合一の最高水準よりもまさっているとは!これは誇張ではないでしょうか?この言葉はまさにこれを意味します。この世がキリストの外側で与えられる一切のものにあずかるよりも、キリストと共に彼の苦難にあずかる方が、遥かに、遥かにまさっているのです。これがクリスチャンの証しです。これこそ真にそれが意味することです。ただし、あなたはキリストが行って提示してくださったものを正しく理解しなければなりません。それはすべてにまさっています。結局のところ、結局のところ、単純なクリスチャン、自分の主を真に知っている単純なクリスチャンは、この世のこれらの哀れな人々を悲しげに見つめて言います、「あなたたちはそれをすべて持っています。でも、お気の毒に。自分は素晴らしい時をすごしている、とあなたたちは思っています。でも、本当にかわいそうに。実際のところ、あなたたちはそれについて何も知らないのです」。これがその結論であり、それが意味するところです。シオンの市民はエジプトをはかりにかけ、バビロンをはかりにかけ、ペリシテ、ツロ、エチオピヤをはかりにかけてきましたが、もしキリストを失うならそれは損な取引であると書き記したのです。
パウロはシオンの偉大な市民でした。彼は自分の先天的な相続財産をすべて見ました。彼の出自、彼の出自は、そうです、実にイスラエル人であり、へブル人の中のへブル人であり、ベニヤミン族の者であり、パリサイ人の中のパリサイ人……云々でした。彼はそれをみな正面から真剣に眺めて、他の人々がそれをどう思っているのか、また、自分自身どのようにそれをすべてとしていたのかを考えます。それは彼の命であり、彼の栄光であり、彼の大志であり、彼が関心を寄せる領域でした。しかしその後、彼はキリストを見いだしました。彼はこれらすべてを見て言います、「よろしい、キリストと比較して、私はそれをまさに塵芥と見なします……」。彼はそれらすべてに関して「塵芥」という言葉を使いました。しかし、比較対象を得ないかぎり、決してこの言葉は使えません!これは比較の問題です!キリストさえあれば他にはなにもいらない人々にとって、これはとても素晴らしいことです。もし自分がシオンの市民なら、それは貧弱なものにすぎません。結局のところ、どんなに代価が大きくても、それはささやかな価にすぎません。対照的です。そしてこれらの対比のただ中で詩篇作者はこう述べます、「ああ、神の都よ、栄光ある事があなたについて語られる……栄光ある事があなたについて語られる」。シオンの諸々の栄光について考えるには長い時間が必要でしょう。しかし、この文脈で述べられる二つのことがあります。
自分の人生で実現したら何が最も栄光なことだと、あなたはお考えでしょうか?最終的に自分の人生の要約として言えること、実際に真に自分の人生の価値を表明・表示するものが、どんなことだったら最も栄光だとお考えでしょうか?まあ、それを述べる最善の方法は具体的にはわかりませんが、私の見解ではこう言えると思います。すなわち、神の御心を満足させることです。もし私の人生が神に喜ばれるものであり、神の喜びが私の人生の上にとどまって、「よくやった、よくやった、良い忠実な僕よ」と神に言ってもらえさえするなら、私はそれ以上なにも望みません。それ以上のことがあるでしょうか?何を求めることができるでしょう?シオンは神を満足させるものであることがわかります。そして、これは最も栄光なことであり、筆舌に尽くせません。栄光なことです……栄光なことです。これは、この大会を通して述べてきたこと、すなわち、シオンが神の喜びのために神に応えるとき、それが神にとってどんな意味を持つのかを、裏付けるものにほかなりません。
彼はシオンの石や城壁を喜ばれます。確かに、彼はシオンを尊いもの、ご自身にとって尊いものと呼ばれます。「信じるあなたたちには尊いものです」。これは神にとってのシオンの尊さです。こう述べてもらうのは栄光ある事ではないでしょうか?親愛なる友よ、あなたたちはシオンに来ているのです。ここに、御父を全く決定的かつ徹底的に喜ばせた主イエスがおられます。彼の人生のゆえに、彼の御業のゆえに、御父は大いに喜んで、「わたしの喜ぶわたしの愛する者」と言われます。神があなたや私にこう言ってくださるなら、私たちはどう感じるでしょう?喜びのあまり一年中眠れないでしょう!「愛する者にあって私たちを受け入れてくださいました」――「あなたたちはシオンに来ているのです」。完全に神によしと認められている方にあって、私たちは受け入れられています!ああ、これを信じること、これを受け入れること、これを理解することは、私たちにとってなんと困難なことでしょう。しかしそれでも、これは避け所であって、あの訴える者によって悩まされ、つきまとわれる時、常に逃げ込むべき所なのです。あの訴える者は、私たちの罪深さや失敗を私たちに思い出させようとしますし、良心の咎めという鞭で絶えず私たちを打とうとします。
私たちの避け所は何でしょう?キリストの中に逃げ込んで言いなさい、「彼にあって神は私の罪をすべて覆ってくださいます……キリスト・イエスにある者たちが罪に定められることはありません」。敵の手から鞭を奪い取って、それで敵を打ちなさい。信仰によって義と認められ、信仰を通して正しいとされ、愛されている方にあって受け入れられました。愛されている方にあってです。それで、この言葉が繰り返し現れます――神に愛されている者、神に愛されている者、神に愛されている者、あなたや私のような惨めな被造物に対してこう述べられているのです。「あなたたちはシオンに来ているのです……栄光ある事が、栄光ある事があなたについて語られる」。
そして次に――
シオンの展望
すでに述べたように、シオンはたんなる場所や物ではなく、人々、神の御子との合一の中にある民です。シオンの展望、この民の展望はどのようなものでしょう?ああ、来るべき代々の時代における教会について述べられていることを、もう一度よく考えてみてください。来るべき代々の時代における教会、なんという所でしょう!なんという使命でしょう!代々の時代に至るのです。また、その最後を飾る言葉として、「今……今、教会の中で、キリスト・イエスによって、彼に栄光が代々の時代に至るまでかぎりなくありますように」と述べられています。「教会」というこの言葉はシオンの同義語にほかなりません。「栄光ある事があなたについて語られる……」。神はこの栄光を用意し、与え、来るべき代々の時代のためにご自身の教会をそれに召されましたが、これについて考える時間はありません。それは素晴らしい事です。
親愛なる友よ、もしキリストの外側にいるなら、あなたは何かを失っています。何かを失っています。確かに、すべてを失っています。あなたが今得ているものはなんであれ、あなたはそれをすべて失って、なにも残らないでしょう。しかし、栄光ある事が神の民シオンについて語られます。地上で何も持っていなくても、私たちはすべてにまさるものを得ています。「主が諸々の民を記録される時、『この者はシオンで生まれた』と数えられる」。これにより直ちに次のような問いが生じます、「あなたはシオンで生まれたでしょうか?上から再び生まれたでしょうか?神の霊によって新たに生まれたでしょうか?小羊の命の書に名を登録されたでしょうか?天に登録されているでしょうか?新生の証拠を示せるでしょうか?この天の祖国の証明書があなたの心の中に、あなたの生活の中にあるでしょうか?どうでしょうか?」
絶対的な保証があります。あなたはご存じです。それを、それをあなたはご存じです。あなたは私たちの主イエス・キリストを通して神との平和を得ています。天との戦いの中にはなく、天との幸いな関係にあります。平和を得ています。これらが新生の証拠です。他にも多くのことがあります。あなたはこれについてご存じでしょうか?私が述べていることをご存じでしょうか?あなたたちの大半はご存じであることを、私は承知しています。しかし、そうでない人がいるかもしれません。あなたに言わせてください。主イエスは、この世界におられた時、皆に向かって、「あなたは再び生まれなければならない」と言われましたが、それは、「あなたは再び生まれることができる」という意味だったのです――そうしなければならない以上、そうできるのです――あなたは再び生まれることができます。
最後の言葉、「主が諸々の民を記録される時、『この者はそこで生まれた』と数えられる。セラ……」について考えてみてください。これについて考えてみてください!「歌う者も踊る者も共に言う、『私の泉はすべて、あなたの中にある』」。シオンの市民には利用できる諸々の資源があります。それらについて他の人々はなにも知りません。シオンの市民には、自分たちを支えてくれる目に見えない諸々の手段があります。自分たちを支えてくれる目に見える手段がなにもないと言っている人々がいますが、大丈夫です!もしあなたがシオンの市民なら、そのような境遇にあることは栄光なことです――支えてくれる目に見える手段はなにもありませんが、支えてくれる目に見えない手段はたくさんあって、同じように現実なのです。主イエスはこれに基づいて生活されました。荒野にサタンがやって来て、「これらの石に、パンになれ、と命じなさい」と言いましたが、主にはパンがありました――サタンの知らないパンです。弟子たちはスカルの井戸で彼の所にやって来て、「主よ、召し上がってください……」と言いましたが――主は「わたしにはあなたたちの知らない食物があります」と言われました。そうです、霊的資源です。そして、これらの資源はシオンの民のためのものです。「私の泉はすべて、あなたの中にある……」。私たちはこれについて知っています。自分の命のために、自分の生活のために、主に頼ることがどういうことか、そしてそれ以上に、このような豊かさから汲み出すことがどういうことか、私たちは知っています。半ば飢餓状態でうろつくようなことはありません。十分にあるのです!神はほむべきかな、あなたたちが何人来たとしても、私たちはあなたたちに与えるものを持っています。そうではないでしょうか?そのような立場にあるのは素晴らしいことです。飢えている人々よ、来なさい。列に並びなさい。私たちにはまだ与えるものがあります。確かに、これこそ常にシオンの市民の証しではないでしょうか。
私たちに不足しているものは何もありません。ふんだんに持っています。常に他の人々のための余裕があります。私たちは豊かに持っています。私たちは裕福な民です。「私の泉はすべて、あなたの中にある」。これが証しです。しかし、これが差し出されているものであることがわかります。これはそうでなければなりません。「あなたたちはシオンに来ているのです」。これが示されています。これはみな信仰に対して示されています。どうか主が私たちに新しい心を与えて、シオンの子らのこの相続財産を握らせてくださいますように。