第六章 シオンの論争

T. オースチン-スパークス

この大会の時、へブル人への手紙十二章二二節の「あなたたちはシオンに来ているのです」というささやかな句の今日的意義に集中してきました。

聖書の他の一つか二つの節を見ていただきたいと思います。一つ目は、イザヤの預言の三四章八節です。「それはエホバの報復の日、シオンの論争のために報いる年だからである」。三一章四節「主が私にこう語られたからである、『獅子、あるいは若獅子が、獲物に向かってほえる時、多くの牧者たちが呼び集められてこれに向かっても、彼らの声に驚かず、彼らの騒ぎに恐れることはない。そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘の上で戦う』」。

エレミヤの預言の二五章三一節「騒ぎは地の果てにまで至る。主が諸国民と論争するからである。彼はすべての肉なる者を裁き、悪しき者たちを剣に渡すからであると、主は言われる」。詩篇第二篇「なぜ諸国民は騒ぎ立ち、諸々の民はむなしいことをたくらむのか?地の王たちは立ち構え、支配者たちは共に謀り、主に逆らい、また主の油塗られた方に逆らって言う、『われわれは彼らのかせを壊し、彼らの綱をわれわれから投げ捨てよう』。天に座す方は笑い、主は彼らをあざけられる。そして、彼は怒りをもって彼らに語り、燃える激怒をもって彼らを恐れ惑わせて言われる、『しかし、私は私の王を、私の聖なる山シオンに立てた』と。私は布告を述べよう。主は私に言われた、『あなたは私の子。今日、私はあなたを生んだ。私に求めよ。私は諸国民をあなたの嗣業として与え、地の果てまであなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを砕き、陶器師の器のように彼らを粉々に砕く』」。

今朝、「シオンの論争」というこのささやかな句の意味に専念することにします。

シオンの論争

御言葉からご存じのように、シオンとエルサレムは同義語であることがしばしばです。違いがあるとしたら、それはまさにこういうことです。すなわち、エルサレムが表現・包含すべきあらゆるものの内在的意義を、シオンは意味するのです。私たちはこの違いを理解して、心に留めておかなければなりません。なぜなら、シオンに来る特、私たちは高嶺に来ているからです。その高嶺とは、エルサレムが象徴するあらゆるものの究極的意義です。

エルサレムと言えば、歴史から、聖書からわかるように、常に時代の嵐の中心でしたし、依然としてそうです。一つのささやかな句が旧約聖書の中でエルサレムについて使われています。それは「すべての諸国民をよろめかす杯」であり、エルサレムはこれになります。よろめかす杯です。この句の背景には一枚の絵図があります。それが実際に示しているのは一つの入口であり、その入口の上に一つの満ちた杯があります。そして、この入口の所に来てこの杯を飲む者は、ふらつき、よろめきます。そして、混乱に陥ります。このような絵図的方法で、エルサレムは諸国民に対してそのようなものである、と述べられています。

エルサレムに立ち向かう諸国民は、まさにその入口の所で自分たちが何かに遭遇したことに気づきます。その何かにより、彼らは混乱に陥り、計算は完全に狂います。それは諸国民をよろめかす杯です。諸国民に対して、確かに、エルサレムはそのようなものでしたし、依然としてそうです。文字通りそうです。エルサレムを弄ぶことはできないこと、エルサレムを対処することはできないことを、彼らは見いだします。エルサレムに対して好きなようにするなら――エルサレム以上のものに出会うのです。

諸国民に対してだけでなく、イスラエル自身にとっても、エルサレムは常に決定的地点でした。イスラエルの霊的状態を示すある種のしるし、指標、目印だったのです。エルサレムが優勢だったとき、それは民の霊的生活が優勢だったからでした。エルサレムが優勢ではなかったとき、それはイスラエルの霊的生活――その状態――を表していました。エルサレムは常に霊の命を示していました。そしてエルサレムの安全と平和は常に、神の民の霊的状態と結びついていました。ですから、それは常に、諸国民にとっても、イスラエルにとっても、論争の的、霊的論争の的だったのです。

これらのことが真実であり(歴史にもそう刻まれています)地上・現世のエルサレムと神の民に関して真実である以上、これはなおさら次のもの――結局のところ、地上のものはその絵図にすぎません――に関しても真実です。すなわち、パウロが「上なるエルサレム」と称しているもの、そして、へブル人への手紙のこの著者――それが誰であれ――が「あなたたちはシオンに来ているのです」と述べた時に言及したものに関しても事実なのです。この高度な最高のシオンを巡るこの論争に、今朝、私たちは注目しなければなりません。なぜなら、疑いなく、これ――霊的・天的シオンが意味するもの――は、地的シオンを巡って荒れ狂ってきた論争よりも、いっそう大きな論争の的になっているからです。

これこそまさに、パウロ自身がエペソ人への手紙で言及したことです。そこで彼は、主権者たち、権力者たち、この暗闇の世の支配者たち、天上にいる邪悪な霊の軍勢との、私たちの戦いについて述べています。教会、キリストのからだを示した後に続けて、これを述べています。そして、これは次のことを言い換えたものにほかなりません。すなわち、これを巡って天で途方もない論争がなされているのであり――これは宇宙的動乱、暴動、騒乱の原因なのです。これと直接じかに関係していて、激烈な性格を帯びている、目に見えない領域で起きている何かの原因なのです。それは教会、上なるエルサレム、神のシオンです。この同じものにペテロは言及し、イザヤ書から引用して言いました、「聖書にこう書かれています。『見よ、私はシオンに、選ばれた尊い隅のかしら石、つまずきの石、妨げの岩を据える』」。これは直ちに論争を生じさせるものです。状況を戦いと紛争の領域の中に放り込むものです。

また、まさにこれにヨハネは黙示録の中で言及しています。彼は大きな艱難から出て来た大群衆を見ました。彼らは自分の衣を小羊の血で洗って白くした人々であり、悪の全勢力に勝利した群衆でした。次に彼は言います、「私は見た、見よ、シオンの山の上に小羊を」。シオン山上の小羊――これこそ、これこそ、この途方もない戦い、シオンと称されているものを巡る戦いを引き起こすものです。確かに、現世の地的・歴史的エルサレム――なんならシオンと呼んでもかまいません――と同じように、それは時のしるしです。霊的事柄ではそうなのです。

時のしるし

私は預言に取りかかるつもりはありません。ですが、エルサレム、地上のエルサレムは常に時のしるしだったこと、そして依然としてそうであることは、はっきりと理解されていると思います。私たちは、「エルサレムを見なさい、そうすれば一日の何時かわかります。エルサレムを見なさい、そうすれば自分が経綸のどこにいるのかがわかります」と、ほとんど当たり前のように言うようになりました。時のしるしです。なぜでしょう?神はこの世界の中で連携して行動しておられるからです。見なさい、そうすれば諸国民の動き、政治の動きがわかります。全世界で物事が形成され、形造られ、動いているのがわかります。神は世界中で連携して動き、行動しておられます。地上の歴史の中でエルサレムに関連して行動しておられます。これはとても意義深いです。世界に関する限り、諸国民に関する限り、時のしるしです。神は動いておられます。

親愛なる友よ、私たちはしっかりと把握しなければなりません。すべてがるつぼの中にあるように思われる時、すべてが騒動と暴動と騒乱の中にあるように思われる時、私たちは思い出さなければなりません。神はクリスチャンの神であるだけでなく、天と地のすべての被造物の主なのです。そして、すべての諸国民は彼にとってバケツの中の一滴のようなものなのです。彼らは御手の中にあります。彼が歴史の流れ、諸国民の動きを操っておられます。そして、これらの出来事はみな、たんなる野蛮で、不法で、見境のない、この世の出来事ではありません。それらはみな、そのどれもが、天から支配されており、互いに関連しあっているのです。今このとき天の統治下にない政治的動きは何もありません。それらは互いに関連しあっており、何かと関係しているのです。諸国民はみな、主にとってそのようなものです。それはみな神の目的、神の関心を示しています。それは時のしるしであり、霊的状態のしるしです。なぜなら、神はそのような時系列的方法で行動したり、計画や時刻表に沿って冷たい機械的方法で働いているのではなく、ある霊的基礎に基づいて動いておられるからです。そして、それはみな霊的状態と関係しており、霊的状態はみなそれと関係しています。

さて、こう述べておいて、次の点に移ることにします。すなわち、神の御言葉が明らかにしているように(一時的なものと霊的なものとの区別に時間を費やすことはしません)神の御言葉が明らかにしているように、シオンは、この世界、この現在の世界体制の歴史の中で、最大最後の戦いの原因となります。シオン(なんならエルサレムと呼んでもかまいません)は、この世界の諸々の時代にわたる最後の究極的戦いの舞台・原因となります。シオンの上にすべてが焦点付けられます。

さて、この問題について、私たちの側の話をすることにしましょう。

シオンは何を象徴するのか?

この大会で何度も述べてきましたが、再び述べることにしましょう。シオン(地上のシオン、文字通りのシオン、物質的シオン、一時的なシオン)は、結局のところ、結局のところ、せいぜい象徴であり、霊的な事柄を表すものにすぎません。こうした霊的な事柄を物質的な事柄の中に察知することができます。なぜなら、神の物質的事柄は、神の霊的事柄の要素を常に内包しているからです。ですから、シオンが象徴しているのは、キリストに対する完全に天的・霊的な証しですキリストのパースンの意義とその御業の価値に対する証し、そして最後に、神が定められた彼の運命に対する証しです。さて、これは重大な声明です。これを噛み砕いて理解できれば、地上のシオン、エルサレムの歴史全体を把握して、それが何を意味するのかを理解できるでしょう。これは地上のイスラエルについて言えます。というのは、シオンが神が意図されたとおりのものである時、王と統治とその基礎――それは常に祭壇と聖所です――に関する神の御心が、天的・霊的に完全に表現・具現化されるからです。諸々の要素が揃います。それらをあまり詳しく追いかけるつもりはありません。すでに手一杯です。しかし、その霊的意義を、私たちが来ているこのシオンに当てはめることにしましょう。

では、私たちにとってシオンとは何でしょう?私たちがそれに来ているこのシオン、上なるこのエルサレム、のみならず、私たちが市民であるこのエルサレム、神のエルサレムである神の民自身から離れては存在しないこのエルサレムとは、何なのでしょう?それはこれです。すなわち、神の宇宙におけるキリストのパースンの意義の完全な天的霊的表示・具体化・表現です。彼の御業の十分な天的価値です。これは、もちろん、彼の十字架による贖いの御業を意味します。そして、彼が占めるよう神が永遠に定められた地位の完全な宣言を意味します。これがシオンの証しです。もしこれが真実であるなら、これは決して小さなことではありません。以下の三つのいずれも、一生あるいはそれ以上の間、クリスチャンを占有することができるからです。

神の宇宙におけるキリストのパースンの意義……あなたはその広さを測れるでしょうか?その深さを測れるでしょうか?余すところなく述べられるでしょうか?

十字架による彼の御業の価値……あなたはその広さを測ったことがあるでしょうか?

永遠に運命づけられ、予定されていた、神の宇宙で彼が占めるべき地位……あなたはそれを理解できるでしょうか?

この三つをまとめると、シオンの証しになります。論争が起きるのも不思議ではありません。この論争がこれほど大きいのも不思議ではありません。驚くにはあたらないのではないでしょうか?これは決して小さな戦役、小さな戦闘、小さな戦いではありません。

しかし、先に進むことにしましょう。この戦い・論争には三つの面があります。一つ目は、諸国面に関して。二つ目は、クリスチャンの職務の領域に関して。そして三つ目は、シオンの証しの務めに関してです。これらについてもっと詳しく見ることにしましょう。この論争は、第一に、諸国民と関係しています。

諸国民

これについてはすでに一般論を述べましたが、もっと詳しく見ることにします。というのは、私は御言葉に従っているからです。御言葉の章節をすべて引用するつもりはありませんが、私は御言葉から逸脱していません。国内・国際情勢における動乱・激変・紛争・不安・失敗は、すべてこのシオンの証しと関係しています。これは途方もないことを表しています。

これらはみな、言い換えると、神のキリストの嗣業と関係しています。諸国民が関係しています。「私に求めよ。私は諸国民をあなたの嗣業として与え、地の果てまであなたの所有として与える」。これは次の御言葉の続きです、「私は私の王を、私の聖なる山に立てた」。ですから、諸国民の中で、彼らの間で、彼らの内で起きていることはみな、神のキリストと、もちろん、彼と共にある聖徒たちとに関する、シオンの証しというこの問題全体と結び付いています。

聖書の中に、この類のことに関する非常に印象的で強力な絵図や事例があります。私たちはみな、エジプトにおけるパロとの、エジプトとの、エジプト人の神々との論争についてよく知っています。それはなんと凄まじい論争だったことでしょう!なんと長引き、なんと徹底的だったことでしょう!勢いと力を増しつつ絶えず展開し、ますます深まっていき、反対を論破し尽くしました。なんという戦いでしょう。宇宙のすべての領域が巻き込まれました。自然現象、太陽、天、暗黒、暗闇――自然全体が動乱の中にありました。すべてがエジプトとの、そしてパロとのこの論争の中に集められました。これはみな何に関するものだったのでしょう?神がその国の中に持っていた何か、神に属していた何か、神の主権の下にあった何かを、神は選んで、地上におけるご自身の証しの器とされたのです。それで、この国、この強大なエジプト王国は動乱の中に投げ込まれ、自然界もすべて動乱の中に投げ込まれました。その国の中心にあったこの一つの事のためにです。

バビロン……確かに、この民は主の期待を裏切って、バビロンに送られました。しかし、主はご自身の証しを見捨てず、諦めす、放棄されませんでした。どうしてでしょう……何と書いてあるでしょう?イザヤ四三章十四節を見ましょう、「主、あなたたちの贖い主はこう言われる……」。バビロンでも「あなたたちの贖い主」なのです。「イスラエルの聖なる方はこう言われる、『あなたたちのために私は人をバビロンに遣わした。あなたたちのために私は人をバビロンに遣わした。私は彼らをみな亡命者として突き落とし、船の中で歓喜しているカルデア人さえも突き落とす。私は主、あなたたちの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたたちの王である』」。「私は人をバビロンに遣わし、彼らをみな突き落とす」。欄外では「貴人たち」となっています。「私は彼らをみな亡命者として突き落とす……あなたたちのために」。バビロンで何が起きたかご存じでしょうか?バビロンで起きたことは素晴らしい物語ではないでしょうか?それはたんなる世界帝国の興亡劇のように見えます。一つの帝国に別の帝国が続きます。しかし、ああ、違います。神は、「私がそれをすべて引き起こしたのです」と言われます。これは素晴らしい物語ですが、それについて調べる時間を取ることはできません。バビロン帝国の打倒、クロスの進撃、門への接近の物語です――彼らはみな中にいて、酒宴で無防備でした。その晩、ベルシャザルは殺されました。門は閉ざされておらず、彼らは無防備でした。そして、次の帝国が始まりました。主はこれを次のように描写して言われます、「あなたたちのために私は人をバビロンに遣わした」。このように、諸々の帝国が打ち倒されます――バビロン帝国は世界史の中で最も偉大な帝国の一つです――諸々の帝国が打ち倒されます……なぜでしょう?何のためでしょう?そのただ中にいる一つの民のためです。これはみな、これはみな、神が諸国民の中に置かれたものを焦点としています。

この論争は諸国民とのものであり、ある目的についてです。その目的とはシオンです。シオンです!そして、親愛なる友よ、これが歴史的・地的なものに言える以上、なおさら、霊的・天的なものにも言えます。神はあるものを諸国民の中に置かれました。そして、彼は御名のために一つの民を諸国民の中から取り出そうとしておられる、と私たちは告げられています。彼は諸国民の中に、御名のために一つの民を持っておられます。そして、諸国民の中で起きている出来事は、たとえ私たちには感知・追跡・定義できなかったとしても、関連した形で起きているのです。

エジプトがそうしたように、諸国民はユダヤ人を吐き出し、喜んで排除するでしょう。諸国民はそうするでしょう。この地上にいる神の真の民はこの世をうんざりさせるので、この世は彼らを排除することを望むでしょう。そして、神の主権により、まさにこの敵意と憎悪と反発の姿勢は、ご自身の民を確保する彼ご自身の方法となります。彼は諸国民の中で働いておられます。この「あなたたちのために……」を理解することは途方もないことです。要点は、諸国民が昔のイスラエルに関して対処されつつあるように(あるいは、対処されてきたように)、この世は畑の中にあるこの教会に関して対処されているところである、ということです。

マタイ二四章に注目してください。時代の終わりのしるしがいくつか与えられています。戦争、戦争のうわさです。さて、ある人々のようにあなたは言うかもしれません、「まあ、これまで常に戦争がありましたし、これからも常に戦争があるでしょう。マタイ二四章に記されている戦争と他の戦争との間にどんな違いがあるのでしょう?」。まず初めに、あなたは近年の戦争の数を数えたことがあるでしょうか?この世界の歴史の昔のいかなる時代にもまして、近年、多くの戦争があります。熱戦であれ冷戦であれ、決して戦争はなくなりません。決して戦争はなくなりません。これらのしるしについて熟考するつもりはありませんが、これらのしるしや天のしるしが現存しています。しかし、ここに何と述べられているでしょう?主イエスは、「これらは産みの苦しみの始まりである」と言われました。理解されたでしょうか?「産みの苦しみの始まり」なのです。この問題に関して私たちはかなりの道のりを進んでいると思います。始まりを過ぎています。とにかく、産みの苦しみということは……何かが産まれるのです!主はこの状況全体――諸国民の中のこの混乱、この騒動、この不安――をこのようにご覧になりました。この言葉はこの状況にまさにうってつけであることがわかります。

「諸国民の悩み」と述べた時、彼はあるギリシャ語を使われました。その言葉は、出口のない状況にある貿易や商売の絵図を示す言葉です。追い詰められています。商売的に追い詰められています。このギリシャ語は商売を意味します。商取引がありません、商取引がありません、出口なしです。これが「悩み」と訳されている言葉です。しかし次に主は言われます、「出口のないこのような諸国民の状況をあなたたちが見る時、その……」。ああ、これはそうではないでしょうか?出口なしです!彼らは絶えず出口を探そうとしているのではないでしょうか?出口を、絶えず出口を、この矛盾、この窮状、この状況からの出口を、探していますが、見つけられません!彼らの急場しのぎ、政策、外交術を総動員しても、見つけられません。彼らは絶えず妥協しなければなりません。しかし、妥協しても出口は開かれません。出口なしです。

次に主は言われます、「これらのことを見たなら(中略)あなたたちの頭を上げなさいあなたたちの脱出の時が来るからです」。あなたたちの脱出の時――私たちは出口を知っているのです!しかし、これはついでの話です。これはみな次のことを強調するためです。すなわち、これは陣痛の始まり、産みの苦しみの始まりであり、何かが出てこようとしているのです。脱出しようとしているのです。諸国民の中に閉じ込められていたものが出てこようとしています。教会は脱出路を持つ唯一の団体です。教会は脱出しなければなりません。確かに、動乱……陣痛と御言葉は述べています。しかし、これはパウロがローマ人への手紙八章十九~二二節で述べていることとよく一致しているのではないでしょうか、「全被造物は今に至るまで、共に呻き、産みの苦しみをしていることを、私たちは知っています(中略)神の子らの出現を待ち望んでいます」。確かに、被造物は産みの苦しみをしており、呻いています。私たちにはそれが聞こえます。私たちの霊の耳には聞こえます。

さて、先に進みましょう。諸国民の中に一つの証しがなければなりません。その証しは、それに基づいて神が働けるものであり、諸国民に対する神の裁きを正当化するものであり、世界と諸国民に対する神の統治に意義を与えるものです。一つの証しが諸国民の中になければなりません。神が諸国民の間でねたむほどに慕う証しです。私たちはこの文脈で預言者の言葉をよく引用してきました、「私は大いなるねたみをもってイスラエルのためにねたみ、大いなる怒りをもってねたむ」。そして、これが諸々の預言でこれとつながっていることがわかります。主は諸国民と論争されます。あるもののためにねたまれます。そのあるものとは、彼にとってとても尊いものであり、とても重要なものです。主はそのような証しを得なければなりません。そして、彼がそれを獲得される時、彼の主権がそれに関してあらゆる方法で働き始めます。彼は長期間にわたって忍耐強く働かれるかもしれませんが、「彼の挽き臼は、ゆっくり回っている間は、とても細かく挽いている。忍耐が必要かもしれないが、彼は待ち続け、的確にすべてを臼で挽かれる」。これはみな、地上にある彼のものと関係しています。

何かがあります。この地上に、この世界に、不穏な要素である何かがあります。不穏な要素です。それは炎上を引き起こします。クリスチャン、真のクリスチャンが行く所ではどこでも、これが起きることがわかります。適切な証しを得ると、炎上、戦いが引き起こされるのを目にします。何かが起きるのを目にします。そこには何かがあります。問題を起こそうと努める必要はありません。問題を生じさせるために何もする必要はありません。自然に生じます。あなたは神の地上で最も柔和で、最も温和で、最も静かな人かもしれません。しかし、もしキリストがあなたの中に生きておられるなら、あるいはそのような群れなら、あなたの存在自体によって何かが引き起こされることに、あなたは気づきます。その出来事は次のような方向に向かいます、「私たちはこれを排除しなければなりません!それは私たちとは異質であり、私たちに属しておらず、私たちの組織に属するものではありません。私たちの組織からこれを排除しなければなりません」。これがこの世の姿勢です。これが悪魔とその王国の姿勢です。この地上に挑発的な何かがあります。不穏な何かがあります。多くのものがありますが、諸国民に対するシオンの関係について私たちに述べられるのはこれだけです。神がこの世界で適切な証しを持たれることの意義について、あなたは私が述べた以上にわかっていると思います。これはなんと途方もないことでしょう!

急いで次の点に移らなければなりません。クリスチャンの専門職の領域に関する、シオンと、シオンの証しです。

クリスチャンの専門職と伝統の領域

クリスチャンの名の下で、あるいはキリストの名の下で、天然の魂が王国を持っている領域についてです。言うのも恐ろしいことですが、次のことは大いに真実です。すなわち、クリスチャンの肩書を帯びているのに、結局のところ、人の魂の王国にすぎないものがあるのです。天然の命にすぎないものがあるのです。(悲しみをもって言いますが)クリスチャンの専門職の領域においても、この世にあるものに原則として相当するものが、すべて見いだされるのではないでしょうか。この世の商業や社交の中に働いているのと同じ要素がすべて働いています。

「嫉妬、敵対心、野心、個人的関心はどこから来るのでしょう」?いわゆる「クリスチャン」の領域の中に、それが広まって暴れているのがわかります。それらは神から来たものではありません。神の霊から来たものではありません。天から来たものではありません。それでも、そこに存在しているのです!そうです、繰り返しましょう。キリスト教の中に、クリスチャンの働きの中に、クリスチャンの関心の中に、敵対心があるのです。嫉妬……クリスチャンの事柄に対する嫉妬があるのです。人々に地位、名声、影響力を持たせようとする、個人的野心があるのです。それらに触れるなら、あなたは何かに遭遇します。反発に遭います。キリスト教は多くの利己的・個人的・天然的野心の領域です。人々はキリスト教の領域の中で、栄達のために、自分自身の天然的願望を満足させるために、自己をひけらかしています。言うのは悲しいですが、これは事実です。私たちはこれをよく知っています……この有様です。これがクリスチャンの専門職に関するあの領域の一つの面です。火の炎のような両目はそれを見抜いています。それを見抜いています。それをすべて知っています。

もう一つの面は、それは知識なき熱心さの領域であるということです。そして、これは恐ろしい領域です。ご存じのように、恐ろしいことです。熱心なのですが、知識にしたがっていません――ある種の幽冥界のようであり、人々が木々のように歩いているように見えます……つまり、霊的にはっきりと理解できないのです。魂的キリスト教と霊的キリスト教を区別する力、能力、機能がないのです。すべてがごちゃ混ぜで混乱しています。

最初に述べましたが、述べたことのいくつかを理解しないだろう人も、あなたたちの中にいるでしょう。おそらく、これはそれらの一つです。しかし、これはきわめて、最も卑しいことです。物事がごちゃ混ぜになっています。あまりにもごちゃ混ぜなので、人の魂とその野心・活動・熱気と、真に純粋に神の霊に属するものとの間に、細い線を引くことすらできません。それゆえ、多くの、多くの無邪気な人々が、見せかけのものに心を奪われています。それはとても良く、とても正しいものである、と思っているのです!すべてがぼんやりしています。混乱していて、ごく限られた啓示しかありません。

これがパウロがユダヤ主義について取り扱わなければならなかった点でした。ユダヤ主義とは旧契約と新契約、古い立場と新しい立場の混同であり、それらを混ぜ合わせてユダヤ教的キリスト教を造ろうとするものでした――それから一つのものを造ろうとするものでした。一つのものをユダヤ教とキリスト教から造り上げて、何の隔たりも違いもありません――ユダヤ教的キリスト教とキリスト教的ユダヤ教です。パウロはこれに反対しました。だめです、この二つは全く別の領域・王国に属しています。一方は魂の領域に属し、他方は御霊の領域に属しています。この両者を隔てて切り分けなければなりません。区別しなければなりません。しかし、クリスチャンの専門職と伝統の領域には、そのような区別をする余地はありません。すべてごちゃまぜになっています。キリストの比喩を使うと、「人々が木のように歩いています」――見ているものが何なのかはっきりさせる力がありません。見ているものはこう思われるのですが、それでも完全にはっきりしているわけではありません。混乱した状況にあります。

真理であると信じられている多くのもののために戦いがなされていますが、それは、結局のところ、真理の律法的解釈にすぎません。真理の意義を把握することに関して、多くの失敗があります。多くの失敗があります。到底無理です。ご存じのように、親愛なる友よ、御言葉が述べている真理と、その叙述についての神の意味との間には、大きな違いがあります。もしこの二つを区別できなければ、絶えず混乱することがわかります。これがまさに地上で起きていることです。ここにこの手紙がありますが、それによっては何を言わんとしておられるのでしょう?もし判別できなければ、あなたは無数の異なる反対の事を支持するために、この手紙を取り上げるおそれがあります!聖書のどこかの箇所を取り上げて、同じ聖書に基づく別の事とは全く反する事を支持するために用いるおそれがあります。御言葉の真理へ導いてもらうには、聖霊の解き明かし、照らし、証し、統治が必要です。しかし、クリスチャンの専門職の領域には、そのような余地や能力はありません。

さて、神はそのようなものと論争しなければなりません。ご自身の真の証しのために、彼はユダヤ教と論争したように、いわゆるキリスト教とも必ず論争しなければなりません。彼はきっとそうされるでしょう。そして、他のいかなる領域にもまして、その領域で状況は激化するでしょう。これについてこれ以上述べることはできませんが、これは主が実際に大いに、大いに関心を寄せておられる問題です。シオンは(それが表している他のすべての事柄にまさって)天の透明な光を表しています。シオンの光です。「あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上に昇る」――これは絶対的透明さです。これは問題に対する明確な洞察力、明確な識別力です。これが、パウロが別の事柄、異なる事柄について述べた時に言わんとしたことです。異なる事柄です……ご存じのように、彼が述べたのは、間違っているか正しいかについてではなく、次善か最善かについてでした。次善か最善かについてです。シオンは最善のものを表しています。そして神は、ご自身の完全な究極的証しより劣る何ものにも満足されません。

さて、今朝の最後の点に移らなければなりません。この論争の三番目の適用・領域はシオンの務めについてです。

シオンの務めに関して

もちろん、これには一つか二つの点が含まれます。すなわち、諸国民との戦いと、伝統や形式的キリスト教との戦いです。しかし、シオンの務めの問題になると、これは遥かに内面的なことになります……確かに、遥かに内面的なことになります。

この論争はあることにかかっています。親愛なる友よ、それを私たちは理解するよう努めなければなりません。それは、理解力を持つことについて私が最初に述べたことと、特に関係しています。シオンの務め、シオンの務めは、大きな論争の的であることがわかります。シオンの務めを巡って激しい戦いがなされています。おそらく、他のどの戦いよりも激しいでしょう。この務めの問題はすべて、神の全き御旨と関係しています。なんという戦い、なんという戦いでしょう!パウロはこれについて幾らか知っていました。なんと彼は信者たちに繰り返し、「言葉が与えられて、口を開いて奥義を告げられるように、また、奥義を語る扉が開かれるように、私のために熱心に祈ってください」と懇願したことでしょう。これはメッセージを書き上げて、気軽に出て行き、それを与え始める、といったことではありません。そのメッセージがもし適切にできているなら、それにはきわめて恐るべき戦いが伴うのです。

この務めは、それがシオンの真の務めである場合、第一に次のことにかかっており、次のことによって建て上げられます。

すなわち、そのための器を捕らえる主権的行為です。

そのための器を捕らえる主権的行為。もちろん、これは歴史上のシオンに大いに言えるのではないでしょうか?神は主権をもってシオンを選ばれました。これは聖書の中で宣言されており、大いに明確にされています。シオンを選んだのは神の主権的行動でした。しかし、シオンは器、象徴的器です。シオンのための(つまり、シオンの務めのための)器です。キリストと、彼の御業と、神の宇宙における彼の地位の全き意義のためです。この務めのための器を、神は主権をもって捕らえられます。神は興されます。

「主権をもって」と言う時、これは神に属する、ということ以外の意味ではありません。主以外のいかなるものによっても説明できません。それに触れるとき、主に出会います。その間にいるとき、主に出会います。どういうわけか、主がこれのために、その存在のために責任を負っておられます。それが団体であれ個人であれ、それは神によって主権をもって興されたものです。何ものもこれを行えません、選択してこれを行うことはできません。務めのこの問題ではあなたに選択肢はありません。これに志願することはできません。この中にぶらりと入ることはできません。これを手がけることはできません。この務めを引き受けることはできません。ああ、これはこのようにふるいにかけて区別するものなのです。多くの人がこれを好みます。この思想を好みます。そして、これらの思想を広めようとします。これを引き受けようとします。そして、それを自分たちのものにしようとします。しかし、そうはいきません!混乱に陥るか、他の人々がそれをすることになるか、何かが起きてうまくいきません。こっけいな状況、矛盾が生じます。決定的なものに欠けています。それはあなたが自分の意志でこのように引き受けられるものではありません。

神ご自身がその御旨のためにあなたを捕らえていない場合、彼はあなたを別の何かのために捕らえておられるかもしれません。しかし、彼があなたをそのために捕らえておられない場合、やっても無駄です。差し控えなさい。それは神の主権に属するものです。これは多くのことに触れるのではないでしょうか?親愛なる友よ、それはこういう結果になります。すなわち、このような証しというこの問題全体は、私たちにとって生きるか死ぬかの問題であり、それ以下の問題ではないのです。それは私たちが拾い上げて降ろせるものではありません。それは、私たちがそれに出くわした後、それが気に入らず、気分を損ねて辞退し、引き下がれるものではありません。それは生きるか死ぬかの問題です。私がそこにいるのは、そこにいることによって命を得ているからであり、脱落することは霊的自殺行為だからです。

神の主権は、この務めや、キリストの全き豊かさに満ちているあの務めでのみ働く、と述べているわけではありません。他の方法でも働きます。私が述べているのは、まず第一にシオンの証しに関する限り、それは神の主権から発したものであり、人はその中では信仰と従順以外の地位はない、ということです。人はこの中に何の所有権もありません。所有者ではありません。支配的立場にはありません。それは主のものです。まったく、徹底的に、主です。もしこれがそうでなくなるようなことがあれば、すべてが失われます。すべてが失われます。人はそれを引き継げません。その枠組みは引き継げますが、それを進めることはできません。依然としてシロに幕屋があるかもしれませんが、栄光は去っています。それは主です。これはとても厳粛な言葉であり、とても鋭い言葉です。

シオンは神の主権的捕獲によって建て上げられます。次に、

歴史の背後で働く神の主権的統治

によって建て上げられます。

もちろん、これには多くの説明が必要です。これは使徒パウロが述べている次の言葉によって説明できます。「誕生の時から私を選び分けられた神は、喜んで御子を私の中に啓示してくださいました……」。彼はまさにこの点に触れます、「 私の誕生の時から!私の誕生……私の誕生の時から。私はユダヤ人家庭に生まれました。私の出自――私の経歴、私の家族――は全く、百パーセントユダヤ的でした――そんな状況、こんな有様で、完全かつ徹底的なユダヤ的背景の中にありました。出生、血縁、訓練、教育はユダヤ的であり、キリストへの激しい敵対心がすべて依然として私の血の中にありました。それは刺激を受けるまで現れませんでしたが、それはみなそこにあったのです。私は異邦人のことを『犬』と呼び、彼らに対する憎しみが私の存在中に根付いていました。しかし、そんな時に、神はすでに私を選び分けてくださっていたのです。それは、私をこれらの異邦人に対するキリストの使者にするためであり、私の血の中にある御子に対するあの憎しみをすべて消すためです――むしろ、この御子への愛によって新たな火を燈すためです」。

しかし、要点はこうです。この人の地上の経歴のまさに背後に、神の主権があったのです。神は彼を予見し、予知し、予め選んで、すべてを案配されたのです!彼の究極的召命と彼の人生の目的に沿って、すべてを案配されたのです。これは信じるのが困難なことではないでしょうか?しかし、これはそうなのです。それでも、神がある目的のためにある器をご覧になる時、それは決してあとで思いついたことではありません。それは時の中のある時点でひょっこり生じたのではありません。神はそれを見ていたのであり、予見していたのであり、それについてすべて知っていたのであり、それに関して働いておられたのです。そして、その出生や環境は彼の主権の下にあり、究極的意義に関係する何らかの良い目的のためだったのです。それを発見するには、私たちは長生きしなければならないかもしれません。

いや、こう述べることにしましょう。私たちは神の御旨、神の御思いと直ちに一致しなければなりません。自分の出生・気質・環境といったものはみな、自分が召されているものと何らかの関係にある、ということの正しさが少しもわからなくてもです。これを理解・把握できなくても、そのことで心配しないでください。それは事実です。神の主権が私たちの地上の経験や経歴の背後に横たわっており、それは御旨と関係しています――これがこの器を建て上げます。

次に、三番目に、シオンのこの務めは

この器における徹底的な深い働き

によって建て上げられます。

この器における徹底的な働き、この器における深い働きです。これは、私たちの内になされたこと、神が私たちの内になしておられることから離れて、引き受けられるものではありません。神は私たちを台無しにし、粉々にし、剥ぎ取り、空にし、にもたらして、そこから私たちとすべてをやり直されます。これがシオンとシオンの務めに関係していることです。

これについて思い違いをしないでください。この務めの性質は、親愛なる友よ、私たちが述べているこの務め、シオンの務め、シオンに属する務めの性質と領域は、他のすべての務めとは全く異なるのです。それを眺めて称賛することは可能です。出入りしたり、中に座ったりして、真理を鑑賞し、考えに同意することは可能です。そして、価値あるものを理解すること、その恩恵を願うこと、それに加わろうとすることは可能です。そうしたことはみな可能ですが、その後、重大な「しかし」が生じて別れるかもしれません。心を尽くして同意し、称賛し、承認し、願っていても、シオンの構成に欠けているかもしれないのです。

シオンの構成……シオンの構成とは何でしょう?理解するための天然の器官や能力を神はきれいさっぱり破壊して、啓示によって、存在の中心の奥深くに、天然の知識とは異なる霊的な知識を植え付けてくださいました。これは専門用語や思想やそのようなものを拾い上げて、承認し、尊び、同意し、それから、行ってそれを繰り返すことではありません。それは内側になされたことであり、聖霊の啓示によって臨んだものなのです。これがシオンの務めです。いいですか、これは区別するものであり、分けるものです。そのような状況であるがゆえに、あなたは多くの戦いに遭っているのです。この務めの領域の中で、あなたはまさにこの戦いに気づきます。この戦いはそこで生じます。次のような領域で生じます。そこでは、人々は……確かに同意し、受け入れ、反復し、好み、望んだりするのですが、構成されていないのです。激しい、激しい戦いがその領域で生じます。

もし務めそのもの(つまり、今の場合、公の務め)の問題だけを取り上げるなら、それはキリスト教全体の中で最大の争点であることがわかるでしょう。多くの問題が、他の何もの――講壇の務め――にもまして多くの問題が、「務め」をめぐって生じてきました。シオンでは、務めを行う権利をだれも持っていません。務めのための資格をだれも持っていません。主が望まれるなら、大いに気楽に、くつろいで、務めを何もしないでいることもできます。理解されたでしょうか?シオンの奉仕者にとっては、後部席に座って、主を待ち、主を見つめることが、天然の魂があの講壇に立つことを望むのと同じくらい、容易でなければなりません。ごく限られた群れに対する話になるかもしれませんが、務め――シオンの務め――のこの問題に集中することにします。その性質、種類、構成は、研究したものではありません。本に向かって本から真理を得た結果ではありません……観察し、聞き、次に複製した結果ではありません。それは内側に造り込まれたものなのです!しかし、ああ、悪魔はこのような務めに対してどれほど激怒していることでしょう。というのは、このような務めは何かを成し遂げるからです。何かを成し遂げるからです。神の究極的御旨に触れるからです。もし可能なら、悪魔はそれを損ない、その器を損なおうとします。そのような務めを終わらせるために、悪魔は何があってもやめません。これは真実です。ここでシオンの論争が荒れ狂っています。シオンの務めをめぐって荒れ狂っています。

この論争と戦いはすべて、その実際、その本質、その本質的価値、まさにその命、まさにその力、まさにその独自性にあることがわかります。このような証しの諸々の面の中で、サタンが何よりも集中して損なおうとする面は、その独自性です――なんらかの方法で、それを一般的なものにし、公認されている組織に適合させ、その特徴的明確さを奪い去ろうとします。この証しを明確で、明瞭で、混じり気のないものに保つことは、全行程にわたって、恐ろしい戦いです。そうです、友よ、私の言っていることをすべてはわからないかもしれませんが、これは本当に真実です。これはたんなる知的理解とは異なる領域の事柄です。学んでも同じ真理を得ることはできません。