第七章 シオンの宿命

T. オースチン-スパークス

この午後、へブル人への手紙十二章二二節の「あなたたちはシオンに来ているのです」というささやかな節の深さと豊かさの探索を続けることにします。

「へブル人への手紙」と称されているこの文書は、一つの経綸から別の経綸への移行を示していることは、一般的に知られています――一つの体制、体系、エコノミーから、全く異なるものへの移行です――イスラエルによる神の方法や神の手段という一時的・地的・物質的な一切のものから、霊的にそれに対応するもの――それはこの経綸と教会に関係しています――への移行です。「シオン」というこの言葉は、旧経綸の内容をすべて含んでいます。この言葉は、イスラエルがエジプトを出て行って、このビジョンが完全に示され、そして、彼らが彼の嗣業の山に連れてこられてそこに植え付けられた日以降、すべてを総括するようになりました。それに続くものはみな、「シオン」と称されているものの中に蓄積されて、そこで完成されます。それがみな霊的な形で継承されて、教会の相続財産、私たちの相続財産、信仰の相続財産とされています。

「あなたたちはシオンに来ているのです」。すでに述べたように、私たちはこの相続財産の豊かさを探求・開拓しようとしてきました。この午後、それをもう一点だけ紹介することにします。基礎となる言葉は詩篇一三二篇十三節です。「主はシオンを選び、それをご自分の住まいに選ばれた。『これは、永遠にわたしの安息する場所である。ここにわたしは住む。わたしがそれを願ったからである』」。この詩篇に記されているシオンに関する記述の中で、私たちが今取り組む句は、「主はシオンを選ばれた」です。

真のイスラエル人なら、まさにその血の中に、自分は選ばれているという意識が根付いています。つまり、自分は他の人々とは異なっており、使命がある、という意識です。真のイスラエル人はみな、その血の中にこの意識が根付いています。それはその存在のまさに一部であり、その性質の一部です。その人、その人の意識、その人のまさに成り立ちの最も深い所に、自分は他の人々とは異なっている、自分には特別な使命がある、という意識があります。イスラエル人のことを「選ばれた民」「神に選ばれた民」と述べることが習慣になっていますが、まさにこれがイスラエル人の意識です――神に選ばれ、神によって取り分けられている、という意識です。なにか特別な目的のために、神によって定められ、取り分けられている、という意識です。これがその血の中に根付いています。使命感があるのです。

相違と使命、差異と目的、この二つは同行します。これが彼らの存在のまさに構成要素です。彼らにはどうしようもありません。それは必ず現れます。それに出会うことになります。時として、それは傲岸さ、独立心、優越感、他の多くの形で現れますが、確かに存在します!彼らはそれを自覚しています。そこには目的と使命の性質的差異と関係している何かがあります。それが彼らの遺産です。そして、この使命感が、これまで常に、彼らの歴史の中にあった途方もない要素であり、彼らが持ちこたえてきた途方もない原因でした。これによって彼らは持ちこたえることができたのです。彼らが苦難の中で、働きの中で、召命の中で、何に耐え忍ばねばならなかったかは、ただ神だけがご存じです。これが彼らが生き延びた、彼らがまさに生き延びた、強力な原因でした。このような意識に満ちていた時、彼らには力がありました。この意識が衰えて、疑いや疑問の雲の下に陥った時、彼らは切れ味を失い、弱くなりました。

彼らの強弱は、次の一事の強弱と関係していました。つまり、召命に対するこの感覚、使命に対するこの感覚、宿命に対するこの感覚です。彼らが神と正しい関係にあった時は、この意識が支配的でした。それが彼らの生活の支配的要素でした。強力な動機・原理でした。神との関係が正しくなかった時、この意識は衰えて、原動力ではなくなりました。彼らは自分の琴をやなぎの木にかけて、シオンの歌を歌うのをやめました。

シオンには、使命・目的・召命という要素・原理・動力があることがわかります。詩篇ではこれが支配的です。この午後、一つの例を読みました。シオンのこの栄光、シオンの召命・目的・選択・選び・使命のこの栄光……それが詩篇では支配的です。人々はそこでは凄まじく快活な状態にあります。シオンは雲らされておらず、霞んでもいないからです。預言書では、これは隠れているか欠けてさえいます。そのため、まさにこれを回復することが、預言者たちの主な使命・目的となりました。預言者たちの声は常に一つの音色と調和していました、「わたしが選んだわたしの僕……わたしの魂の喜ぶわたしが選んだ者……わたしは彼を選んだ……あなたはわたしの選んだ者」(イザヤ四一・八)。見てください、これが預言書の基調です。再びイザヤ書四三章を見てください。これがその最高の基調であることがわかります、「あなたの贖い主である主はこう言われる……」。あなたの贖い主……彼らの贖いは「わたしはあなたを選んだ」というこの再保証と手を取り合って進みます。さて、これはみな、旧約聖書の地的民と地的シオンに関係しています。

私たちに話を戻すと、新約聖書のこの著者が「あなたたちはシオンに来ているのです」と述べているのを、私たちは耳にします。昔のシオンではなく、別のシオンです。さらに優っている、卓越したシオン、天のエルサレム、霊的シオンです。「あなたたちはシオンに来ているのです」。シオンに来ることがとりわけ意味するのは、まさに次のものに来ることです。すなわち、この一時的なものに対応する永遠のものに、あの神聖な選択に、あの神聖な選びに、あの神聖な召命に、あの天的な使命に来ることです。新約聖書ではこれが二つの方法で明らかにされていることがわかります。第一に、新生によってです。

新生

イスラエル人は生まれつき、使命と宿命に対するこの感覚が、その血と性質の中にとても強く、とても強力に根付いていました。そうだったからには、これは神の子供の新生にも言えます。これが一つの大きな要素としてそこにあります。現存しています。しかし、これは誕生全般に言えます。私たちは新生をこのようには定義しません。新生を言葉でこのようには定義しません。しかし、こう言われると、確かに、これはまさに私たちが自覚していることです。つまり、私たちが再生された時、私たちが再生された時、私たちは、自分が地上にいることには、結局のところ、なんらかの目的があることを、直ちに意識するようになったのです。その時、人生は真の意義を持つようになりました。それまで人生についてどう考え、どう感じていたとしても、今や、人生にはそれまで意識していなかったなんらかの意味があることを意識するようになったのです。

今や私たちはまさにこう感じています。、自分は生き始めたのであり、、人生は意味、目的を帯びているのである、と。一般的原則として、新生にはまさにこのような性質があります。それが実際に新生しているかどうかの試金石です。これはまさに次の偉大な事実の証拠です。すなわち、私たちの誕生の背後には、全く未知の、私たちの理解や了解を超えた、ある計画、ある目的がある、という事実です。私たちは偶然の産物ではありません。そこにはある意味があります。それが新生により(この言葉を霊的なものに使ってもかまわなければ)私たちの血の中にあります。これを、もちろん、あなたは証明することができます。それが正しいことを、あなたはご存じです。

それは、少なくとも、少なくとも、信仰による神の子供の誕生の場合も、ユダヤ人の場合と同じように、強力な現実であり事実です。新生によってそのような結果が生じていないとしましょう。つまり、私が述べた言葉や形で述べることはできるものの、次のような感覚に欠けているとしましょう。すなわち、人生は始まったばかりであり、目的を得たばかりであり、使命感が生じたばかりである、という意識です。もし、これがあなたの回心に言えないなら、あなたはなにかを得そこなったのです。あなたはなにかを得そこなっています。というのは、これが新しく生まれた者の性質だからです。これが新生の一般的原則であり、新しく生まれることの意義です。しかし、新約聖書が続けて私たちに示しているように、御霊による生活(これは結局のところ、新生の意義の拡充です)御霊による生活では、目的・使命・相違というこの問題に関して理解するようになります。明確に理解するようになります。

理解するようになる……つまり、私たちは、パウロが語った「世の基が据えられる前から彼にあって選ばれていた」ということを、ペテロが「私たちは選ばれた(elect)種族です」と述べた時に、彼が教会について言わんとしたことを、理解するようになるのです。この言葉(elect)は原語の同じ言葉「選択された、選択された、選ばれた(chosen、chosen、elect)」に対する別訳にすぎません。私たちは次のことを知的に理解するようになります。すなわち、今や自分は、どういうわけか、神によって選ばれていることを。しかも、生まれる前から。また、これが新生の時に私たちに導入されたことを。私たちはこれを意識するようになります。神が私たちを選んでくださった!ことの意味が何なのかを理解し始めます。主イエスが、「あなたたちがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたたちを選びました。わたしがあなたたちを選んだのです」と仰せられた時に言わんとされたことを、私たちは理解できます。これを神は行ってくださったのです。神がそれをしてくださった、という理由以外では説明できません。これは神の主権的行為です。私たちはこれを理解し始めます、これがそうであることを理解し始めます。知的に私たちは、特にパウロを通して、選び・選択・召命というこの問題に関する教えを、ますます理解できるようになります。

召命…パウロのお気に入りの言葉は、「召命」「御旨にしたがって召された」です。御旨にしたがって召されたのです。召された…御旨!御旨、「御旨にしたがって…彼の御旨」云々。これらの偉大な言葉はみな、「宿命」という一つの言葉に集約されます。

宿命

そして、御霊による生活、御霊による生活は、よく聞いてください、それに関する知能の成長、それに関する理解の成長を意味します。今や、それについての基本的意識があるだけでなく、それについての理解も成長します。そして、選ばれたこと、御旨にしたがって召されたことの意味に関する理解が成長するにつれて、人生はますます豊かな意味と価値と力を帯びるようになります。ますますこれを理解するようになるにつれて、それは私たちの生活の中で途方もない力と可能性を持つものになります。それは強力な原動力、強力な原動力です。これにより私たちはまた、競争、旅、戦いのために備えられます。

これはこのへブル人への手紙とぴったりと符合します。なぜなら、まさにこの使命感について、アベル以降の人々に関連して述べられているからです。アベル、エノク、ノア以降の、いわゆるこの旅団全体に関連して述べられています。この人々の内には、ある目標、ある目的のために、神の御手が自分の上に臨んだのである、という感覚がありました。そして、この使命感のゆえに、彼らは一方において、この世と、その諸事と、その権益と、その所有物を放棄できたのであり、他方において、辛抱強く、辛抱強く、長い年月をかけて進んで行けたのです。彼らはなにかを見た人々でした。なにかを見たのです!「アブラハムはわたしの日を見ました」と主イエスは言われました。「アブラハムはわたしの日を見ました」そして見て喜びました。彼らはなにかを見ました。アブラハムはなにかを見ました。この世が決してかなえられなかったものです。都と天のふるさとです。この地上のものを彼らがいかに多く持っていたとしても、決してそれをかなえられませんでした。彼らはなにかを見たのであり、それによってなおも進み続けたのです。

モーセはなにかを見ました。確かに、イスラエルの神を見ました。天の事柄の型を見ました。しかし、それ以上のものを見ました。それ以上のものを見たのです!「キリストのそしりを、エジプトの富にまさる富と考えました」という御言葉は、なんと途方もないことを示唆しているのでしょう。「キリストのそしり」!彼はなにかを見ました。地的表現の限りを尽くした型や絵図や象徴をもってしても、その答えを見いだせないものをです。彼は天的なものを見たのです!

そして、このようにこの人々はなにかを見たことがわかります。そして、このように見ることは、召命感、使命感と密接につながっていました。そして、それによってこの人々は進み続けたのです。モーセについて、「見えない方を見ているようにして、忍び通した」と述べられています。彼はなにかを見て、忍び通しました……。忍び通したのです!彼らは忍び通しました。まだ得ていなくても、信仰によって信じて、耐え忍び、苦しみ、死ぬように、彼らを整えた力・物は何だったのでしょう?それは彼らの内にあるものでした。それは彼らの一部でした。後天的なものではなく、先天的なものでした。つまり、目的意識、神に定められた使命感です。そうです。

へブル人への手紙はこれをすべて集約して述べています、「こんなにも大きな証し人たちの雲に囲まれているのですから、走ろうではありませんか……」。「(彼らが走ったように)忍耐をもって競争を走ろうではありませんか」。すべての重荷と、いとも容易に絡みつく罪をかなぐり捨てようではありませんか。この罪とは、文脈からわかるように、あの疑い、あの疑い――あの不信仰のことです。それをかなぐり捨てなさい……忍耐をもって走りなさい。自分は召され、選ばれ、途方もない宿命と関係していることを、同じように見て、感じて、知るのは素晴らしいことです。これによって整えられなさい。しかし、その後、これは特別なことになります。特別なものになります。たんなる一般的なものではなくなります。

シオンはイスラエルにおいて非常に具体的なものになります。それは、言わば、その国民の意義、その土地の意義、その都の意義を、すべて集約して、言わば、一点に集中したものです。それは非常に具体的・中心的なものです。そのため、この使命感は、一般的に広まった不明確なものではなく、大いに中心的なものになります。中心的なので、「あなたたちはシオンに来ているのです」。これはこの大会で再三述べて来たことの繰り返しにほかなりません。これが信仰に対して示されています。また、これをあなたも私も、自分たちに関係している問題として認識しなければなりません。ですから、使徒はこの真理を示して、キリストにあって選ばれたこと、父なる神の予知によって選ばれたこと等に関する諸々の事実を私たちに告げようとする一方で、それをすべて私たちに告げようとする一方で、「ここを見てください、あなたたちが召された使命にふさわしく歩みなさい」と述べようとしているのです。これをあなたの日々の生活の中に取り入れなさい。そうすれば、それによってあなたの日々の生活は、凡庸さから、単調さから、些事から解放されるでしょう。それによってあなたは別の水準に高められるでしょう。自分は神の子供として、途方もない目的と関係していることを知るでしょう。そして、偉大な目的に基づいて生きるようになるでしょう。これはこのような形で特別なものになります。しかし、これを分析することにしましょう。

すでに述べたように、シオンは集団的観念です。

集団的観念

つまり、シオンは主の民を全員一つに結びつけるものなのです。主の民は国家としての中心をシオンに見いだしました。シオンが彼らをまとめる力であり、一つにするものでした。もちろん、これは、彼らが所定の時に全員シオンに登って行った時は、当然文字どおりそのとおりでした。すべての部族から人々がそこに来て、国民の一体性を祝い、享受しました。彼らは多くの場所で離れて生活しなければならず、その間の数ヵ月は孤立しているように見えましたが、実際はそうではありませんでした。シオンは、彼らが国民として一つであることを証しするものであり、また、それを経験する所だったのです。

さて、次の点がこのシオンの問題全体に関する一つの大きな要素であり、これに私たちは霊的に関わっています。すなわち、それは集団的であるという点です……もっと馴染み深い言葉を使ってもいいでしょうか?それは「団体的」なものなのです。おそらくすべての、すべての個々のユダヤ人の中に、召命と使命のこの感覚が実在していた一方で、ユダヤ人はみなこの感覚を民族的に持っていたのです。自分は選ばれており、神の御旨はすべて自分にしか関係がない、と考えるユダヤ人は一人もいませんでした。自分があずかっているこのこと、この召し、この選び、この使命は、民族的なものであることを知っており、その強さはこの民族性にあることに気づいていました。見てください、この民は個々人の寄せ集めではありません。各人はそれを民族的にその民全体と共有していたのです。神は、ある目的のために、御旨のために、一つのを求めておられます。そして、あなたと私は、共有的な形で、使命と目的に関する主たる感覚と力を得ることになります。

自分こそが選民であり、自分の働きは選り抜きの働きであって、神から与えられたものである、と考えている個々人には、常に大きな制限と危険がつきまといます。そのようなものはなんであれ、原則に反しており、確実に行き詰まることになります。私たちはこれを共有しているのです。つまり、神の御旨は一つの民、彼の教会と関係しているのです。彼の教会を真に表現しているもの、つまり、真の教会、天的からだの性格を帯びているものと関係しているのです。これが集団的に表現されている所ではどこでも、こうしたものが優勢になります。そして、この関係性の中で、私たちは神の御旨にあずかるようになります。また、神はなにかを求めておられる、というこの強力な感覚にあずかるようになります。彼はなにかを求めておられ、私たちはそれと関係しています。この関係性が、この動機、この御旨には不可欠であることがわかります。

もし正しい関係、正しい霊的関係、全き霊的関係から外れたらどうなるでしょう――その関係は、真に神によって選ばれ、神によって形成され、神によって御子との交わりの中に召されているものとの関係であり、御子を中心とする永遠の御旨に関するものだとします。もしそれとの適切な全き関係から外れたらどうなるでしょう。その場合、生活は制限され、私たちは全く脱線しかねません。弱さが入り込んで、まもなく、まもなく、「結局のところ、自分たちは間違っていたのではないでしょうか、召しと選びに関するこの素晴らしい真理は自分たちと本当に関係しているのでしょうか……」と自問しだすでしょう。

さて、これがまさに、イスラエルがシオンから離れた時に起きたことがわかります。彼らがシオンにいた間は、安泰であり、なんの問題もありませんでした。力、命、豊かさに満ちており、事は順調に進んでいました。しかし、霊的に衰退して、シオンから離れ去った時、彼らはシオンと直接的に接触できなくなって、散らされたことがわかります。その時、大きな疑問が生じました。「結局のところ、自分たちは選民なのでしょうか。本当に神の民なのでしょうか?特別な目的のために召された、というのは、すべて素晴らしい見事な幻想ではないのでしょうか」。彼らはこれをすっかり疑問視するようになって、自分たちのビジョンを失いました。ビジョンのない所では、民は散り散りになります。これを言い換えると、「使命と召命の感覚が失われている所では」となります。

次に、シオンは関係性を意味します。

関係性

真の霊的関係から離れるなら、恐ろしい喪失と損失に身をさらすことになります。おそらく、遅かれ早かれ、それはみな真実なのかどうか、この教えはみな実際に正しくて有効なのかどうかに関する、大きな疑問に身をさらすことになるでしょう。正しい関係、正しい立場にあるなら、それは確かに正しく、確かに有効であることがわかるでしょう。確かにそうです!それには素晴らしい効力があり、恐るべき効力があります!それはあなたのために働きます。また、自らに逆らうものに対して働きます。

さて、とても多くの人々が次のような困難を抱えていることを私は承知しています。「ある偉大な目的のために召され、選ばれたことについて、あなたは話しておられますが、私の人生の目的は何でしょうか?それのどこに私は収まればいいのでしょう、私の機能は何でしょう?」。こうしてあなたはいつも、間違った方法でこれを個別の個人的問題にしています。もう一度これに集中してください、もう一度集中してください。もしイスラエル人が、「私の地位は何でしょう?私の機能は何でしょう?私の使命は何でしょう?何のためには召されているのでしょう?」という質問をしたとするなら、その答えは「シオン」!だったでしょう。シオンです。あらゆる点で、その答えはシオンです。私が言わんとしていることがわかるでしょうか?それが関係しているのは、多くの個々人としてのあなたたちではなく、神がなさっている一つの集団的なものです。あなたはそれとの関連であなたの地位、あなたの機能を見いだします。孤立した立場で出て行って、神の御旨全体を引き受け、それを自分に引き寄せてはいけません。その中に入り込まなければなりません。

それは、使命、交わり、力、目的、交わりにおける、途方も無い要素です……そして、敵はこの働きを台無しにし、この目的を台無しにします――弱さを持ち込んで崩壊させ、直ちに私たちを交わりから追い出します。こういうわけで、敵はそうすることに大いに取り組んでいるのです。しかし、あなた自身の心に耳を傾けてください、あなた自身の新しい性質に耳を傾けてください。正しい状況にあった時代、すべてのイスラエル人の内にあったものは何だったでしょう?彼らはダンからベエルシバまで、最果ての辺境から辺境まで、全土に分散していました。散らばっていました。しかし、次のことが彼ら全員に言えました。すなわち、シオンに向かう重力が内側に働いていたのです。彼らはシオンを切望し、その思いはシオンに向かっていました。「シオンに行けさえすれば、行けさえすれば……シオンに登る日が待ちきれません!」。彼らの内なる存在は常にその方向に向かっていました。親愛なる友よ、あなたの新しい性質と気質に耳を傾けてください。あなたの存在のまさに一部が、神の民の交わりを望んでいないでしょうか?私たちもそうではないでしょうか?私たちはまさにそれを得なければなりません。私たちの命はそれにかかっているように思われます。一つの、一つの大きな困難は、それを得られない時です。

孤立した生活を送るのはとても困難です。確かに、私たちの存在中には、交わりと関係性に向かうこの重力が働いています。それは私たちの内における御霊の御業であることがわかります。したがって、交わりの外にあること、無関係であること、独立していること、いわゆる「フリーランス」であることは、私たちの命に反することであり、御霊と、私たちの内におられる神の霊の御業に反することです。フリーランスというこの句の由来はご存じでしょう。それはジャーナリズムの世界に由来します。「フリーランス」は字義的には、特定の関係をなにも持たずに、あらゆる場所を駆け回って、此処彼処で僅かな情報を拾い上げる人のことです。どの雑誌とも無関係で、あらゆる場所に突撃して、そのようなあらゆるものを拾い上げます。その生活はすっかり分散していて散らかっています。それにはなんの中心も、まとまりもありません。まさにフリーランスです!まあ、それで生計を立てられるかもしれません。ある意味で、それで存在を維持して、それを役立てられるかもしれません。しかし、シオンではそんなことはできません。シオンではそんなことはできないのです!

シオンは、神の民がどこにいたとしても、何者だったとしても、私たちは彼らと一緒に結ばれていることを意味します。確かに、彼らは神の民です。それは、彼らが神の民だからであり、彼らが私たちの協会に属していて私たちの路線に従っているからではありません。彼らが神の民だからです。私たちはキリストに基づいて彼らと一つです。注意してください、もしこれがそうなら、もしこれがそうなら、神は事をなすことができます。神は私たちの傍らに立ってくださいます。

イスラエルの場合、この問題全体は彼らの霊の命の豊かさに大いにかかっていました。また、その命に治めてもらうことを彼らが許すこと、あの内なる命に治めてもらってそれに応答することに大いにかかっていました。だれでも自分の命の引き寄せに抵抗しようものなら、とても困難な立場に陥ることになりました。時には部族がそれを行いました。そして、災難が続きました。主の復活後の主の弟子たちの場合、少なくとも一人の人がそれを試みて、とても惨めな時を過ごしました――あわれなトマスです――彼は外にとどまりました。外にとどまりました。人々が中で素晴らしい時を過ごしている時に、彼は外にとどまりました。離れていました。彼が外にとどまっていたその当時、地上に彼よりも惨めな人はいなかったと思います。中に入った時、彼はすべてを見いだしました。自分のすべての疑問への答えと、命の新しい流れを見いだしました。彼は頭を垂れて、「私の主、私の神よ」と礼拝しました。

関係性と交わりに関するシオンの価値については以上です。覚えておいてください、これは二つの基礎があって初めて可能です。一方において、十字架が私たちの中で大いに徹底的な働きをしなければなりません。それは私たち自身を道からどけるためです。私たちこそが真の困難なのです。詳しくは説明しませんが、私たち自身私たちの利益、私たちの野心、私たちの空想、私たちの好み、私たちの選り好み、私たち個人のものにすぎない一切のもの、それをすべて道からどけてもらう大きな必要があります。徹底的に十字架につけられて葬られる必要があります。また他方において、積極面において、全く聖霊の主権の下に服さなければなりません。聖霊の主権の下では、聖霊がすべてを指示されます。私たちは彼の指示に応答します。

さて、別の点に移りたいと思います。シオンは今も昔もリバイバルの原動力です。

リバイバルの原動力

一般的にリバイバルと呼ばれているものは、その目的・目標として、一つのことと関係しています。魂の救い・回心と関係しています。「リバイバル」という言葉に関する一般的観念を、ほぼ完全に要約してこう言えると思います、すなわち、大々的に人々が救われることである、と。まあ、私たちはこれに反対はしません、どうか主がこれを与えてくださいますように。しかし、リバイバルというこの問題は、教会の霊的状態とほとんど関係づけられていません。それは客観的なものです。ある種の活動――特定の客観的結果を伴う客観的活動――と結び付いているものであり、内側の霊的状態とは無関係であり無縁です。そして、よく聞いてください、このリバイバルの問題は、真の必要を見えなくさせるおそれがあるのです(しばしばそうなっているのではないかと私は恐れます)。

神が恵みをもって訪れて多くの人を救われるのは、主権的行為です。それは主権的恵みの行為です。神の主権的行為と主権的恵みの行為は一つのことです。それに関して多くの働きや配慮がなされています。つまり、神が恵みの中で魂の救いのために訪れてくださる主権的行為に関してです。これは正しいことであり、良いことです。これまでもそうでした。どうか神が再びこれを与えてくださいますように。人がもっぱら関心を寄せているのは、外側の出来事を意味する、いわゆる「リバイバル」です。神と聖書の観念によると、リバイバル(revival)とはなにかを回復すること(recovery)です。それは再び生かす(re-vival)ことです。失われていたものを回復することです。さて、聖書の預言的・預言書の区分はすべて、このような意味のリバイバルで占められていました。シオンの回復、シオンの回復で占められていました。預言書を読み通して、これがその負担、預言者たちのメッセージの負担、彼らの叫びの負担、彼らの祈りの負担ではなかったかどうか見てください。その負担はみな、どうかシオンが回復され、復興され、再来しますように、というものでした。シオンの栄光が回復されますように、シオンがかつての地位につきますように、というものでした。これが預言書を貫いています!ですから、預言の務めは、外面的・客観的な神の恵みの主権的行為だけでなく、神の民自身の内になにかが回復されることとも関係しているのです。そして、これこそ真に、神が諸国民に触れる方法なのです。

これがイスラエルに実現しないかぎり、神は諸国民に触れませんでした。神はこの内的状況を、諸国民に触れるための基本的条件とされました。他の事はそれに続きます。確かに、昼が夜に自然に続くように、神がご自身の望んでいるものをご自身の民の中に得る時、他の事はそれに続きます。魂が救われるために特別な努力をする必要はありません。人々は絶えず静かに救われるでしょう。なにかが外に出て行って、生活に触れ続け、ますますその輪が広がっていくでしょう。神がご自身の望んでいるものをご自身の民の間に得る時、そうなります。そうでなければなりません!これはそのとおりです。自発的であり、必然的なのです。

ですから、預言者たちが第一に叫び祈り求めたのは、諸国民の救いではありませんでした。イスラエルが救われるように祈ったのです。その後、諸国民が影響を受けるだろうことを彼らは見ました。これについては、おそらく今晩見ることになるでしょうが、これは事実を述べたものです。すなわち、聖書的観点から見たリバイバルとは、外面的なものである前に内面的なものなのです。それは回復されること、回復です。そしてそのために、預言の務め、シオンに関する務めが必要です。それは、シオンが霊的に真に意味し、象徴しているところを、その天的面を見るためです。また、あの負担、あのビジョンと負担、務めを得るためです――これは宣べ伝えの務めを意味するだけでなく、同じように祈りの務めをも意味します。時として、それは壇上に上がらない務めです。あなたの心に負担を負って、「ああ、これは主の民です……私は彼らと共にあります、どうか主が彼らをシオンの全き意義に回復してくださいますように!」と言い表すことです。

これに続けて述べる最後の言葉は、シオンは神のいっそう大きい偉大な目的のための手段である、ということです。

神のいっそう大きい偉大な目的の手段

ですから、それが表しているもの、あの証し、主イエスのパースンと御業と神に定められた地位に対するあの全き証し、心に対する、神の民の心に対する啓示であるものが、諸国民の中に植え付けられなければなりません。植え付けられなければなりません。そこに植え付けられなければなりません。神の戦略は次のとおりです。彼は一つの証しを植え付けられます。その証しは御心に適うものであり、御思いに応えるものであり、「これに加えても全く安全である」と神が思われるものです。これが神の方法です。これが新約聖書が示しているものであり、まさに神がなさったことです。神は、こちらの核やそちらの群れの中に、一つの証しを植え付けられました。そして、そこで彼らはキリスト――その御業とその地位――の益に浴して生活しました。すると何が起きたでしょう?神は、救われつつある者たちを、毎日教会に加え続けてくださったのです。神は加えてくださいました。しかし、神は安心してそれに加えられるものを得なければなりません。

神は私たちの施設に加えようとはされません。キリスト教における私たちの特定の個人的利益を増し加えて建て上げようとはされません。神は御子に、ご自身の民によって表される御子に、加えようとされます。神は御子の度量に応じてお加えになります。私を信じてください、これが鍵です、これが教会成長への鍵です。次の点は驚くべきことです、歴史と一致する驚くべきことです。すなわち、神のいっそう豊かな御思いに応えるものがあって、そこにキリストがおられ、キリストが基礎でありキリストがそこで表現されている所では、神はそれにお加えになるのです。神はそれにお加えになるのです。空っぽの諸教会、空っぽの諸教会等々の問題は、この線に沿って解決されます。もしこれを完全に解決したければ、これがそれを解決する唯一の道です。安心してそれに加えられるものを得る時、神はお加えになるのです。

ですから神は、シオンを建て上げるために、シオンを得なければなりません。彼は事物を建て上げようとはされません、シオンを建て上げられます。そして、シオンは御子の豊かさに対する証し、生ける証しであって、その表現です。神は加えるために植え付けられます。神が植え付けられるのは、他のすべてのものに対する論拠を得るためです。驚くべきことです。これにより別の領域が開かれますが、それを探求する時間はありません。しかし、シオンは神が他のすべての人々と議論するための道具でした。彼はシオンに関して諸国民と議論されました。「神はどこにおられるのでしょう、神は何をしておられるのでしょう?」という疑問が生じた場合、ここにその答えがあります。「これはいったい本当なのでしょうか?」。ここにその答えがあります。「今日、神は本当に人々と共に住んでおられるのでしょうか?」。ここにその答えがあることがわかります。どんな疑問だろうと、どんな姿勢だろうと、神は具体的な証拠を御手に握って議論されます。「それは有効なのでしょうか?」。これ(なんならこれを「教え」と呼んでもかまいません)は有効なのでしょうか?ここにその答えがあります。神はなにかを得なければなりません。それをもって議論するためであり、反駁するためです。

哀れなほど悲劇的なことに、神は、他のものや他の領域と議論するための論拠を、ほとんど持っておられません。具体的・適切な答えを得ておられません。それを得ておられません。しかし、シオンは神の論拠でした。今朝見たように、諸国民はシオンを巡って神と論争しました。確かに、論争でした。神は諸国民と論争された、それはシオンを巡ってだった、と預言者は述べました。「あなたたちのために、わたしは人をバビロンに遣わし、その貴人たちをみな亡命者として突き落とす。わたしはエジプトをあなたに与える……」。わかるでしょうか?その論拠はシオンです。ああ、神が論拠を得られていれば、御手の中にあるものをもって答えられていれば……「ここに証拠があります。見よ!ここに証拠があります」と言える手段を持っておられれば。

そして最後に、シオンはサタンの王国全体を打ち倒す契機となるものです。これが御言葉に啓示されていることです。シオンはエジプト、バビロン、アッシリア、ローマを打ち倒す契機でした。ローマはシオンに対して頭をもたげました(私は今、霊的な言語でシオンについて述べています)。すると、ローマに何が起きたでしょう?あの強力な鉄の帝国はどこにあるでしょう?打ち砕かれ、粉々にされ、散り散りになりました……塵になりました。神はシオンという根拠に基づいて諸国民や諸帝国と議論されたことがわかります。神はそうされます。そして、それらの背後に控えているものはみな、サタンの強力な王国です。シオンはサタンの王国とサタンの体系を完全に打ち倒す契機となります。ですから、シオンに相当するものを神が獲得されることがなんと重要でしょう、なんと重要でしょう。

これは、全き証しを滅ぼそうとする、敵の絶え間ない、不断の、たゆみない活動の上に、多くの光を投じるのではないでしょうか?敵はそれを阻止・破壊しようとしており、いっそう大きなキリストの豊かさを表す器を傷つけようとしており、それを破壊し、粉々にし、非難を浴びせ、醜聞の種にしようとしているのではないでしょうか?ああ、神のためのその道具を台無しにするためなら、なんでもします、あらゆることをします。神がサタンに反論するには、地上のなんらかの手段だけでは無理です。これがヨブ記の全容ではないでしょうか?サタンは神と神の御座に挑みますが、神は一人の人によって彼にお答えになります。一人の人によって彼を疲弊させられます。この物語ではある時からサタンが舞台から姿を消して、もはやその消息を聞かなくなります。彼は退廷します。神がこの人によって彼にお答えになったのです。神はサタンと議論するための論拠を得なければなりません。シオンがそれです。

私は信じていますが、あなたはシオンについて客観的観点から考えているのではなく、「そうです、私はそこで生まれました、私の名前はシオンの市民名簿に載っています。ですから、これは私のことを述べているのであり、私と関係しているのです」と言っておられることでしょう。親愛なる友よ、これをそのように受け取ってください。