第八章 主の負担

T. オースチン-スパークス

「あなたたちはシオンに来ているのです……」。この言葉の豊かで完全な内容をもう一度見ることにします。今晩これを、シオンに関するこの最後のメッセージで、イザヤの預言書の六二章の最初の七つの節から見ることにします。「シオンのためにわたしは黙っていない、エルサレムのために休まない、その義が輝きのようにあらわれいで、その救いが燃えるともしびのようになるまでは。諸国民はあなたの義を見、すべての王はあなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名をもって呼ばれる。また、あなたは主の御手にある美の冠となり、あなたの神の御手にある王の冠となる。あなたはもはや『捨てられた』と言われず、あなたの地は『荒れ果てている』と言われない。むしろ、あなたは『ヘフジバ』と呼ばれ、あなたの地は『ベウラ』と呼ばれる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は夫を得るからである。若い男が処女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ばれる。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を立てた、ああ、エルサレムよ、彼らは決して昼も夜も黙していない。あなたたち、主に思い出していただく者たちよ、自ら休んではならない、彼がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを讃美とされるまで、彼を休ませてはならない」。

シオンに関する主の負担

ここで、旧約聖書のシオンに霊的に相当するものに関して再三述べてきたことを繰り返す必要はないでしょう。つまり、究極的御旨を成就するための器となるべく、御子との交わりの中に召された、神の天的な民です。「あなたたちはシオンに来ているのです」とあるのは、一つの述べ方にすぎません。文字どおり、実際には、この御言葉は「あなたたちはシオンなのです」ということです。あなたたちはシオンなのです。シオンは今や、昔の象徴の霊的意義をすべて帯びつつ、現存しているのです。シオンが何を意味し、象徴しているのかに関して、私が述べようとしていることは、これに尽きます。

直ちにイザヤの預言のこの箇所を見ることにします。この箇所は、シオンに関する主ご自身の負担を強く浮き彫りにしています。ここで、諸々の預言に関する前の章からの変化が見られます。前の章では、主のメッセージとしてこの預言者に課せられたことが記されています。繰り返し、前の章で、預言者は、「主は私に語られた」「主は私に言われた」と述べました。次に、主が彼に言われたことが彼の負担になりました。「負担」という言葉が、先立つ諸々の章で使われています。「その負担、主の御言葉の負担」というように。あのことやこのことに関する負担です。欄外を見ると、「託宣もしくは…に関する託宣の言葉」と記されています――それは主が預言者に告げるよう言われたことでした。しかし、この章でそれが変化します。主ご自身が直接個人的に述べておられることが示されているのです。これはのことでしょう?「シオンのためにわたしは黙っていない」。この「わたし」とは誰のことでしょう?メシヤご自身にほかなりません。

章の区切りは少し誤解を招きます。六一章にはこうあります、「主の霊がわたしの上におられる。主がわたしを油塗られたゆえに。それはわたしが柔和な者に良い知らせを宣べ伝えるためである」。誰がこれを述べているのでしょう?私たちはよく知っています。預言してメシヤが述べておられるのです――キリスト、主イエスは、肉身を取っていた当時、まさにこの言葉は自分と関係しており、自分によって成就された、と話されました。話しているのはであり、この同じ「わたし」が一章だけでなく二章でも話しておられるのです。彼はここで、わたしは黙っていない、わたしは休まない、と述べておられます。いつまででしょう、いつまででしょう……それは長い道のりの先のことであり、間違いなく、預言者イザヤの人生の先のことです。ここに、長期にわたるとりなしに専念している方がいます。シオンのためにこのようにとりなしているこの「方」は誰でしょう?イザヤ五三章十二節を述べている方、もしくは、そこで述べられている方です。「彼は違反した者たちのためにとりなす」。そして、ここに彼のとりなしが記されています――同じ方です。この箇所が直接示しているように、主イエスが、シオンは彼の個人的負担である、と述べておられるのです。たしかに、この負担は預言者の口や筆によって伝えられていますが、預言者はここでは主ご自身に次ぐ第二位の立場を取っています。彼はこのことで主と交わります。そして、もちろん、これは私たちのメッセージの主要な部分です。しかし、要点は、主な要点はこうです。つまり、これは主ご自身の個人的な関心事なのです。これは、主から切り離されて、他のだれかに回されたものではありません。他のだれかが拾い上げて、自分だけの働きにするようなものではありません。それは彼らのものになりますが、主ご自身がこれに関わっていること、これに専念しておられることを理解することが重要です。これは主の主要な問題なのです。

主の負担。主の負担とは何でしょう?主は何に関心を持っておられるのでしょう?このように主を引き寄せるものは何でしょう?あなたはこう尋ねるでしょう、「実際のところ、主は何を求めておられるのでしょう?主は何に関心を持っておられるのでしょう?実際に主の心にあることは何でしょう?」。これを知ることが重要です。主が最も気にかけておられるものは何でしょう?私たちはそれを知らなければなりません。それを知らなければなりません、それに触れなければなりません、それと連携しなければなりません。それは何でしょう?その答えはシオンです。シオン……シオンの何でしょう?この段落の残りの部分からわかります。シオンの何でしょう?各節の二、三の短い言葉から、これを見ることにしましょう。

シオンの何でしょう?「シオンのためにわたしは黙っていない、エルサレムのために休まない、その義が輝きのようにあらわれいでるまで」。

「その義が輝きのようにあらわれいでるまで」

主は常にここから開始されます。主が常にどこから開始されるのかを知ることは重要です、きわめて重要です。開始する方法が少し先に示されています。主は常に、ご自身の民の内側の状態から開始されます。すべてはそれにかかっており、すべてがそれに続きます。これ――彼が関わっておられる民の内側の状態――に直面しないかぎり、どうにもなりません。その、その内側の状況――その内側の状況が「輝きのように、燃えるともしびのように」あらわれいでないかぎり、どうにもなりません。それまで暗闇だったことを思い出さなければなりません。七十年の追放と捕囚という暗闇だったのです。暗闇がシオンを覆っていました。シオンは光彩を失って、暗い、暗い時代にありました。それは主の民の霊的状態のためです。

私たちはアブラハムの人生のあの出来事を覚えています。その日、主は彼に、四百年後にその国民がエジプトから脱出して解放されることを示されました。主がアブラハムにそのビジョンを与えられた時、彼の上に大いなる暗闇の恐怖が臨んだことを、あなたは覚えておられるでしょう。そして次に、その暗闇のただ中に、ともしびが現れました。その暗闇のただ中に燃えるともしびが現れたのです。それがここで繰り返されます。エジプトと、エジプトにおける、エジプト捕囚における、暗い年月とに関して、そして、希望のともしび、解放のともしび、贖いのともしびに関して言えたことが、ここでバビロンに関して繰り返されます。この民を覆っていた暗闇は、彼らの霊的状態を象徴していたのです。

そして、次に回復のともしび、贖いのともしびです。

回復のともしび、贖いのともしび

これは何でしょう?回復された彼らの義というともしびです。これが希望です。見てください、主が述べておられるような内面の霊的状態に関するかぎり、全く希望はありません。なんの将来も、なんの見込みもありません。なんの解放も、なんの救いもなく、なんの証しもありません。なにもありません。それに続くものはみな宙ぶらりんです。主が御心に適う民を、シオンが霊的に真に意味するところのものを得ないかぎりは、そのままです。ですから、これに注意しましょう。これが主の負担だからです。主の負担……親愛なる友よ、これに時間をすべて費やせたなら、大きな益を受けられたでしょう。

私たちは主の働きに大いに、大いに関心があります。効力やそういった類のこと――力、証し、そういった一切のこと――に大いに関心があります。そうです、私たちはそれに大いに関心があります。しかし、これはみな霊的状態にかかっていることを、私たちは理解しているでしょうか?内面の状況が正しくないなら、なにも正しくありませんし、なにもありえません。弱さ、欠点、効率の悪さ、そういった類のことはみな、その原因を内側の誤りまで辿ることができます。内側のなにかが誤っているのです……なにかが神の性質にかなっていないのです。彼は義なる神だからです。そうですし、そう言わざるをえません。なぜなら、不愉快ではありますが、私たちはこれについて大いに忠実でなければならないからです。すなわち、シオンに対する希望はみな、霊的にシオンの内面の状態から始まるのです。ですから、義がこの一覧全体の先頭にあります。「その義が……まで」。……まで。しかし、贖い主が来られました。「主、あなたたちの贖い主は仰せられる……」。これはイザヤ書の偉大な句ではないでしょうか?「あなたたちの贖い主なる主」。

これの示唆するところがなんとかわかるでしょうか?あの小著であるルツ記では、贖いの問題、嗣業の贖いがかかっていたことを、あなたは覚えておられるでしょう。嗣業を贖う責任、贖う近親者として振る舞う責任を、ボアズは引き受けるのでしょうか?ナオミはルツに言いました、「私の娘よ、じっとしていなさい。あの人は、この問題に決着がつくまでは、安息がないでしょうから」。この問題に決着がつくまで、彼は休みません。贖う近親者は休みません。「わたしは休まない……までは」。ここでこの贖う近親者は再び、この義の問題を顧みられます。それに専念して、洞察されます。「その義が輝きのようにあらわれいで、ともしびのように……なるまでは」。ああ、そうです、しかもこれは、「そして、その救いが燃えるともしびのようになる」ことと密接に関係しています。その救いが燃えるともしびのようにあらわれいでます――救いは義と結び付いています。

さて、この救いとは何でしょう?それは次のことにほかなりません。すなわち、主がシオンのために行われたこと、主がそのために行われたこと、つまり、シオンの救いです。シオンは、救いのために、主になにかを行ってもらう必要がありました。今、預言者の中の預言者であるキリストが、「わたしは黙っていない、休まない、主がその民のために行ったことが万民に対して明らかになるまでは」と述べておられます。シオンの救い――主はシオンを、その恐ろしい状況から、それ自身の病というこの暗闇から救われました。というのは、ここの「救い」という言葉は「健康」とも訳されるからです。そしてこれは、「健康がシオンに戻ったことが完全に明らかになるまでは」ということを意味します。シオンの健康状態はよくなります。これが救いです。救いとはよい健康状態です。よい健康状態……そしてこれは、なんらかの恐ろしい病、なんらかの恐ろしい疾病がイスラエルを襲っていたことを意味するように思われます。なにか異質な要素が自分の組織の中に侵入したせいで、イスラエルは苦しんでいました。そして、癒し主がシオンに戻って来て、仰せられます、「わたしは休まない、この癒し、このよい健康状態が、燃えるともしびのようにあらわれいでるまでは」と。主が何に関心を持っているのか、何を求めておられるのかがわかります。霊的に健康で、息災で、健全で、活力に満ちていて、自分を不調にしたこうした疾病から解放されている民を得ることです。

そして次は、「諸国民はあなたの義を見、すべての王はあなたの栄光を見る」です。

「諸国民はあなたの義を見、すべての王はあなたの栄光を見る」

これは何を意味するのでしょう?「わたしは黙っていない。わたしは休まない、シオンの影響力と証しが世界に再び確立されるまでは。シオンがその地位と影響力を取り戻して、その証しが諸国民の間で認知・感知されるようになるまでは」。主の負担は、その影響力と証しが世界に感知される民、真に感知される民を得ることです――世人はその民からなにかを感じるのです。

全般的に言って、これはいわゆる教会やキリスト教にはあてはまらない、と言っても、不当な批判ではないでしょう。それは真に価値あるもの、考慮に値するものとは見なされていません。いとも容易に蔑まれかねません。本当にどうでもいいもの、全く重要でないもの、なんの衝撃力もないものと思われかねません。この世のキリスト教についてごく一般的に述べると、そうではないでしょうか?世人は、これを大いに気にかける必要がある、とは感じていません。主は次のことに大いに関心を持っています、凄まじく関心を持っておられます。すなわち、これはそうであってはならず、むしろ、世人が考慮せざるをえない影響力を持つ人々がこの世にいなければならないのです。世人が「これはたいしたものだ、これにはたいした意味がある」と言わざるをえない影響力を持つ人々がいなければならないのです。

私たちは、なんの違いも生じさせないものとして、地上のこの世界にいるのではありません。ああ、親愛なる友よ、主はこれを願っておられます。「諸国民はあなたの義を見、すべての王はあなたの栄光を見る」。この民は、異なるもの、大いに異なるもの、力あるもの、大いに力あるものを持っていることを、彼らは認めて承認せざるをえないでしょう。

「あなたは、主の口が名づける新しい名をもって呼ばれる」

新しい名です。新しい名です。どんな名でしょう?名は名声を意味します。あなたがどう呼ばれるか、人々があなたをどう呼ぶかによって、通常、人々はあなたを評します。イスラエルの名は名誉に欠けるものになっていました。諸国民はイスラエルを、あまりほめられたものではない名で呼ぶことができました。そして、主はここでこう述べておられます、「今、わたしは黙っていないし、休まない、この世界であなたの名声が回復され、贖われるまでは。あなたが別の名、新しい名で呼ばれるようになるまでは。状況はすっかり変わって、人々はあなたについてなにか別のことを言うようになります。そのなにかとは、主が名づける名、主があなたを呼ぶ名です」。それによって彼らが知られるようになる名とは何だったのでしょう?この後に直ちに続く、「あなたはヘフジバ、ベウラと呼ばれる」がそれに対する答えである、と考えた人々もいますが、そうではありません。これはそれ以上のものです。それについてはすぐに見ることになりますが、それはシオンについてのさらに詳細な記述の一部なのです。

彼らはどのような名で呼ばれることになっていたのでしょう?その答えは聖書の中に明記されています、「彼らは主の名で呼ばれる、彼らは神の民と呼ばれる」。これが持つことになる名です。神の民と呼ばれるのです。この人々は神の民なのです!世人がクリスチャンたちについてこう言い始める時が来たら、たいしたことではないでしょうか?個人的にも集団的にも、この人々は神の民です。世人はこの人々を神と関係づけます。今日、そのようなことはあまりありません。これがその名であり、主はこう述べておられます、「わたしが関心を持っていること、深く大いに関心を持って専念していることは、わたしの民が神の民と呼ばれるようになることです――神の民と認められるようになることです」。彼らが真にしかるべく神と関係づけられ、神が彼らと関係づけられるようになること、御名がしかるべく彼らの上にとどまれるようになることです。御名によって呼ばれ、主の民、神の民と呼ばれるのです。確かにこれこそ、主が「わたしはこれを得よう。これを得るまでは休まない」と述べておられるものなのです。

さらに、

「あなたは主の御手にある美の冠となり、あなたの神の御手にある王の冠となる」

これは何を意味するのでしょう?もちろん、ここには絵図によって、真に興味深い価値あるものがたくさん示されています。ただし、時間をかけてそれを学び、考慮し、敷衍する必要があります。しかし、できるだけ全文を一つの意味合いに凝縮することにしましょう。そうすると、これはまさに次のものを意味します。すなわち、主にとって途方もない価値のあるものです。「あなたの神の御手にある王の冠」。この絵図がわかったでしょうか?価値あるもの、尊いもの、主が賞賛されるものです。主が持つことを喜ぶもの、主が賞賛の念を抱かれるものです。「わたしは黙っていない、休まない、地上にそのようなものが生じるまでは、そのような民が生じるまでは……」。神にとって尊いもの、主にとって価値あるもの、彼が高く評価されるものです。これを彼は喜びと歓喜をもって見て言われます、「ああ、これは、これは素晴らしい!これは素晴らしい!」と。「あなたの神の御手にある王の冠、美の冠」。美の冠。これがシオンです。

先に進みましょう。

「あなたはもはや『捨てられた』と言われず、あなたの地は『荒れ果てている』と言われない。むしろ、あなたは『ヘフジバ』と呼ばれ、あなたの地は『ベウラ』と呼ばれる」

ヘフジバとは何でしょう?これは今しがた述べたことの続きにほかなりません。ヘフジバは「わたしは彼女を喜ぶ」を意味します。わたしは彼女を喜ぶ。ああ、これを期待するのは行き過ぎでしょうか?これはあまりにも高い基準でしょうか?これが実現するという希望の根拠は何でしょう?主がこう言われたことにほかなりません、「わたしはそれを得るまで休まない!わたしはこれを追い求める、それが成就された事実となるまで」。主がそれに取り組み、心を傾け、専念しておられるからには、それは実現可能なのです。主は実現不可能なことに決して専念されません。これが私たちの希望です!素晴らしいです、素晴らしいです……主が実際にこのようなものを求めておられるとき、それ――主が喜んでおられるもの――と行動を共にしようではありませんか。

「あなたの地は『ベウラ』と呼ばれる」

これに続く句、「あなたの地は夫を得る」は、実際のところ、その説明であることがわかります。文字どおりには、ここの言葉は「乗っ取られる」ことを意味します。結婚のことをだれかを乗っ取ることと、あなたがずっと考えてきたかどうかはわかりませんが、これがまさにその意味です。さて、結婚をそのようなものにしてはなりません、さもないと、私は困ったことになるでしょう……(笑)。しかし、まさにこれがその意味なのです。なにかに不具合が起きて、あまり調子が良くないとしましょう――おそらくなにかの商売で、なんらかの資産が下落して、全く身動きが取れなくなったとしましょう……状況はかんばしくなく、非生産的で、経営が悪いか、全く無経営だとしましょう。その後、「乗っ取られた……」と言う羽目になります。おそらく、他の商社や会社や経営者によって乗っ取られることになります。すると、状況全体が、乗っ取られることで、変わります。非生産的だった所は生産的になり、栄えていなかった所は栄えるようになります。乗っ取られたおかげで、様相が一変します。「あなたの土地は乗っ取られる」。これがベウラ、既婚の地です。結婚についての新しい観念ではないでしょうか?主の満足のために乗っ取られて、主の基準に引き上げられます。乗っ取られます。それがシオンです。これが主が取り組んでおられることです。すなわち、まさに私たちを乗っ取ってご自身に結び付けることによって、展望・見通し・状況をすっかり変えてしまわれるのです。「あなたの地は夫を得る」。ベウラです。

さて、次に進みましょう。

「わたしはあなたの城壁の上に見張り人を立てた、ああ、エルサレムよ、彼らは決して昼も夜も黙していない」

「わたしはあなたの城壁の上に見張り人を立てた……」。これは何を意味するのでしょう?この見張り人たちは何のためにそこにいるのでしょう?彼らがそこでこのように熱心に警戒しているのは、異質な要素、邪悪な要素の侵犯・侵入からこれを守るためです。見張り人たちは警戒しています。警戒しているのは、なにがあってもこれを邪魔されないよう、大いに熱心だからです。ああ、親愛なる友よ、これは私たちに課題を突き付けます。もし主の負担が私たちの負担であるなら、もし主の関心の中に引き込まれて、この問題で真に彼と共にあるなら、こうしたことはみな、彼の関心事であるように私たちの関心事になっていなければなりません。どの関心事についてもそうでなければなりません。そして、どんな破壊的要素の侵犯・侵入に対しても熱心に警戒するこの立場に至らなければなりません。ああ、もしこのメッセージのある箇所を他の箇所よりも強調するとしたら、私はこの点を強調するでしょう。城壁の上で熱心に警戒している見張り人となる代わりに、多くの時、私たちは中に入れる者となってしまうのです!批判……批判やそういったあらゆる類のことを中に入れてしまいます。最初の兆候、この証しを損なうものの最初の兆候に際して、見張り人となる代わりに、それに味方してしまうのです。「さあ、ここを見てください、それを一切入れてはなりません!手を離しなさい!唇を離しなさい!」。そうする代わりに、多くの時、私たちはそれを中に入れてしまいます。それに加担しそうになるのです。

ああ、シオンの証しのための主のこの熱心さが、私たちの骨の中に入り込みますように。それは、私たちが熱心な見張り人となって、しっかりと警戒し、この証しを傷つけるものを察知して、直ちに打つためです。これがこの大会の非常に重要な問題です。これが主からの真のメッセージとして私たちに臨まなければなりません。「わたしは見張り人を立てた」。あなたはシオンの城壁の上に主によって立てられた見張り人でしょうか?昼も夜も、しっかりと警戒しているでしょうか?主のこの器、主のこの証し、主にとってとても尊いこのものを、損なうなにものも許さないようにしているでしょうか?

おお、神よ、私たちを忠実な見張り人、警戒している見張り人、熱心な見張り人としてください。

「あなたたち、主に思い出していただく者たちよ、自ら休んではならない、彼がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを讃美とされるまで、彼を休ませてはならない」

「主に思い出していただく……」。これはどういうことでしょう?主に思い出していただくには、まず、主が求めておられるものを知っていなければなりません。情報を得て、知っていなければなりません。知っていて初めて、なにかを主に持ち出して、「さあ主よ、さあ主よ思い出してください……」と言うことができます。あなたは主に思い出していただくことを知っていなければなりません。そして、休んではなりません、彼を休ませてはなりません。これが神の意図、神の御旨、神の御思いです。これを私たちは知り、絶えざる祈り、絶えざる祈り、絶えざるとりなしの問題としなければなりません。それは諸事を最新の状態に保つことです。「さあ、主よ、あなたは『これがわたしの求めているものである』と言われました。『これがわたしが得ようとしているものである』と言われました。あなたはこれを約束されました。あなたはこれに専念しておられます。さあ、主よ、あなたにこれを守っていただくよう要求することをお許しください」。主はこのような民を望んでおられます。

さて、私はあなたにこのメッセージを与えましたが、それをすべてまとめるとこうなります。すなわち主は、この地上の器に対するこの途方もない関心を、ご自身と共有する民を望んでおられるのです。その器は彼を正当に代表するものであり、それ自身が主に対する真の証しです。ああ、これがとりなしの真の負担となる日を、私は切に望んでいます。

私たちには自分たちの祈りの集会があります。それらのゆえに神に感謝します。そこには多くの祈りがあります。私たちは祈る民のゆえに彼を讃美します。しかし、私たちの祈りの集まりでは(疑いなく、ここではなく他の場所で集まっている人たちもそうでしょう)祈るために持ち出す多くのことがあります――だれかのことや、何人かの人のことや、一時的なもしくは霊的ななんらかの特定の必要があります――そうしたことについて祈るのは正しいことです。私たちはそうすべきです、しかし、ああ……私たちは耳にすることを願っています、神の民が、時には、このような些事を超えて、この地上における証しの器に対する情熱をもって直ちに出かけて行くのを。神の栄光、シオンの燃えるともしびのための民のことを。この重要性と比べたら、他のことはあまり重要ではありません。私たちの個人的関係は重要かもしれませんし、あちこちの働きや人々との関係もあるかもしれません。私たちはそれらを無視しませんし、それらのために祈ります――こういったすべての事柄や働きや人々、そうです、それらのために祈ってください――しかし、ああ、あなたがそれを果たして盛り込み終えるとき、神は私たちに、このような諸々の断片や部分よりも大きなビジョンを与えてくださるのです。私たちの特定の関心・関係・施設の外側にある、神のこの偉大な事柄全体についてのビジョンを与えてくださるのです。神がこの地上で、御心に適うものを民の中に獲得されるとき、正しい状態、良い健康状態にある民を獲得されるとき、そのような民に関して世人は言わざるをえません、「彼らは神の民です!彼らはなにかを持っています。彼らにはたいした価値があります」と。

最終的に、あなたはこれをこの大会のメッセージとして受け入れるでしょうか?主に「あなたの負担を私の心の上に置いてください」と求めなさい……「これがあなたの負担であることを私に示してください」と求めなさい。主が話しておられることがわかるでしょう。それでも主は、ご自身の民、ご自身の僕たち、彼らのとりなしに頼らずに、そうしようとはされません。主が開始して、「わたし、わたしは黙っていない、わたしは休まない」と言われる時、主は、「あなたたち、主に思い出していただく者たちよ」と言って終えられます。この意味で、これは主と共に始まり、私たちと共に終わります。「わたしは……しない、あなたたちは彼を休ませてはならない。わたしは休まない……あなたたちは休んではならない。わたしは黙っていない……あなたたちは黙ってはならない」。これは印象的ではないでしょうか?主が主導権を取って、自らこれに専念し、終える前に私たちを連れて来て、「あなたたちは……あなたたちは」と仰せられるのです。

主はこれを、ご自身の負担を、実際に私たちの心の上に置いてくださいます。次の言葉の一言一句を覚えるよう努めてください。そのどれもが真に重要だからです。その言葉とは、霊的基準、霊的名声、霊的影響力と証し、主に対する霊的尊さと価値、霊的誉れ・栄光・実り豊かさです。というのは、主に乗っ取られたからです。そして熱心さ……大いなる熱心さ、主の権益と主にとって尊いものを守る見張り人精神。警戒して、絶えざるとりなしによってこの負担を負い、彼を休ませないこと。主はご自身について、「わたしは……しない……までは」と言われ、その後、「あなたたちは……ならない……までは」と言われました。