勝利者誌 一九二六年 七巻 十月号 掲載。一九二五年十二月にエクルストン・ホールで与えられたメッセージの縮約版。講演者による校正はなされていません。
主の御言葉の負担は、この午後、十字架と永遠の一つ(one-ness)についてです。しかし、主ご自身がそれを私たちに開いてくださる時、それは多くのことを意味しており、今日の私たちにとって特別で非常に重大・重要な意味があることがわかるようになります。
大いに注目すべきことに、神の御言葉を読み進んで行くと、この本質的一つについて何度も述べられています。神は「聞け、おお、イスラエルよ、あなたの神である主は唯一の神である」という御言葉で何を言わんとされたのでしょう。その意味・目的は何だったのでしょう。異教の神々には多くの神々がありました。主の神聖な存在は本質的に唯一であり、この唯一性から主は行動し、働かれます。また、この本質的一つという法則・原則に基づいて、主は永遠の御旨・御計画を構築されます。
新約聖書の中に次のような句があります。「今や平和の神が」「神は私たちの主イエス・キリストを死者の中からよみがえらされました」。その真の内容・意味を理解するとき、これは意義深いものになります。「平和」という言葉は、もっと文字どおりに「調和」と訳せますし、そう訳すべきです――「今や調和の神が」――というのは平和は、新約聖書的な意味によると、穏やかさや静けさではないからです。それは結果であって、根本的合一と調和を得ないかぎり、それは得られません。
世の中のすべての問題は、相争う意志、相争う企て、相争う権益による、調和の乱れや破れによって引き起こされます。二つの性質が衝突したせいで、この宇宙は衝撃を受けて混沌に陥りました。調和は破れ、本質的一つは脅かされ、この世界に関するかぎり、覆されました。邪悪な影響が入り込んで、この主権の唯一性を脅かしてきました。神が御旨を実現して、目的を遂げるには、この本質的一つを回復するしかありません。本質的一つにおいては、不調和、争い、相争う要素、反対勢力、神の調和の中にあるこの本質的一つと衝突するものは、何もありません。
主に平和を求めようとするなら、できるだけ不調和を生じさせないように気をつけなければなりません。これにより私たちは、平和を求めて祈る時、より深い祈りをするよう促されます。騒音、雑音、騒乱から救われることだけでなく、主が来てくださって物事を調整してご自身の輝かしい調和の中にもたらしてくださることを、終始心に留めるようになるのです。
神の存在は一つであって調和が取れています。二つの要素は全くありません。神の動きはそれから発します。この原則がよく確立されている、この領域内、この水準上でのみ、私たちは動き回れます。これが損なわれていて、不調和や分裂の要素があるかぎり、神の御旨は阻まれ、神の意図は麻痺させられ、神の主権は脅かされます。この異質な要素の活動が、この宇宙に忍び込みました。神に変化はありません――彼の御心は一つです。もし私たちが神の性質にあずかる者とされているなら、その表れはこの線に沿ったものになります。私たちが神の性質を受けた度合いに応じて、すべての破壊的・分裂的要素に対する勝利が表されるのです。
愛の問題を取り上げましょう。愛は神聖な調和の基調です。聖霊が人生を所有されるやいなや、彼はその人生を力づける原則となられます。そして、彼は直ちに力づけて霊的調和を生じさせられます。彼はそれを内側に生じさせて、私たちの性質の中にあるすべての破壊的・対立的要素を正されます。そして、内なる調和という幸いな静けさが生じます。これが「神との平和」です。しかし、内なる御霊のこの力づけは外側をも力づけます。そして、この宇宙の途方もない大混乱に立ち向かいます。この大混乱は、神聖な一つと調和への脅かし、選り好み、好き嫌い、気性の不一致、問題を招く衝突、宇宙の調和を損なうすべてのものによって生じたのです。聖霊は、ご自身が内住しているすべての人の間でこれを正すこと、それを神のあの一つに戻すことを、直ちに開始されます。これは証しであるだけでなく、幸いな真理です。私を好きになることはあなたにとってきわめて難しいかもしれません。自分の反感を克服して、自分の毛嫌いを抑えようと、あなたは決意するかもしれません。あなたは人々に関する自分の感情と戦おうとします――しかし、どうにもなりません、どこかよそで爆発します。状況は悪化し、努力はすべて無駄であることが判明します。最終的に聖霊が介入して力づけてくださいます――「ご自身の大いなる喜びにしたがって、内側を力づけて願わせ働かせるのは、神だからです」。神は、ご自身の大能のエネルゲオ(energeo、エネルギー)にしたがって、内側を力づけてくださいます。このエネルゲオは、神が死者の中からキリストをよみがえらせた時に、彼の内に働かせたものです。これは神の内なる力づけでした。クリスチャン生活とは、神の御霊によって内側を全く完全に力づけてもらう生活です。もしそうでなければ、それは失敗と絶望が募っていく恐るべき戦いです。
聖霊が来臨されたのは、私たちが神の性質にあずかる者となるためです。ですから、霊的な人々の間における、御霊の内住の結果は調和であり、それを破ることは聖霊に逆らう働きです。なお、これに注意することがきわめて重要です。なぜなら神は、私たちを神の性質にあずかる者とすることにより、あの太古の原初の一つを回復しようとしておられるからです。この原初の一つを通して、またそれにより、神は、この世界を創造するときに御心の中にあった御旨をすべて成就されるのです。
悪魔はやっきになって、神の永遠の御旨に逆らって破壊しようとします。神が御旨に至るのを阻止しようとします。彼の主たる目的は、信者たちをバラバラにして、その間に分派や分裂を生じさせることです。そして、それを行うことができる時、彼は、その信者たちに関するかぎり、神の御旨を挫折させようとします。
新約聖書の書簡に見られる、いっそう豊かな啓示、いっそう発達した啓示を見ると、まさにこの点をきわめて強く強調している領域に入り込んだことに気づきます。神の御言葉のきわめて高度な啓示を取り上げましょう。コロサイ人への手紙によると、万物は栄光を受けられたかしらであるキリストにあってまとまっています(コロサイ一・十五~二〇)。次にエペソ書を見ると、それは彼をかしらとするからだについて扱っています。このより高度な啓示の圏内に入る時、「奥義」「代々の昔から隠されてきた」「神の中に隠されてきた奥義」といった言葉に自分が直面していることに気づきます。この奥義とは何でしょう?代々の昔から隠されてきた奥義とは、奥義的キリスト、団体的キリスト以外の何ものでもありません。キリストは、一つのからだを有する多くの肢体から成る、一つの団体的まとまりです。団体的な形で神が受肉されたものです。一つ神、一つからだ、奥義的キリスト、団体的キリスト――これが奥義です。この領域の中に入る時、私たちはこの奥義にあずかって、多かれ少なかれ「奥義(mysteries)」になります。しかし、私たちはその奥義(the mystery)ではありません。この奥義とは奥義的一つであり、この奥義的一つはまさに神の存在とパースンに由来します。そして、それはすべての不協和的要素を滅ぼし、あらゆる多様な気質、性質、民族、国民性、そしてすべてに勝利して、あの一つを一つからだ、一つ種族、一つ民の中に生み出します。この一つは神ご自身の存在のまさに性質であり本質です。
永遠に唯一である神、神の永遠の一つが、男女からなる大きな群れの中に生み出されます。一言で言うとこうなります。神の一体性が、いわゆる教会、キリストのからだにおいて、この世界に現わされるのです。ですから、一つ主、一つ信仰、一つバプテスマとあります。このバプテスマとは何でしょう?キリストの中へのバプテスマです。キリストの中にバプテスマされるのです。これがその目的であり、成就です。この意味でそれはただ一つです――一つ主、一つ信仰、一つバプテスマ、一つ神また父です。ここに本質的一つがあります。この全き啓示の中に入る時、聖書は一つであって矛盾はないことがわかります。この啓示はずっと一貫して一つです。
さて、この豊かな、あるいはより豊かな啓示に関する顕著な点に注意することにしましょう。神の僕たちの側における、神とのきわめて豊かで壮大な交わりの結果に、注意することにしましょう。パウロがローマの獄中で一人静かに座していた時、彼は神との大いに実際的な交わりを持ちました。それにより、主は彼にますます多くのことを語れるようになりました――きわめて注目すべきことに、牢獄の中から送られた諸々の手紙では、拍子抜けのように見える箇所があります。彼は手紙の中ほどに至るまで、あなたを遥か天にまで連れて行きます――すると突然、彼は降りて来て人間関係について述べます。この天的一つをこの世で現すこと、地上で示すことについて述べます。
天上の中に入り込みすぎるあまり、これらの関係をすっかり見失わないようにしましょう。使徒が、豊かな驚くべき啓示について述べた後で、突如として、子供、夫や妻、奴隷や主人に訴えているのは、拍子抜けではありませんし、天上から俗世の事柄に下りたわけでもありません。彼は事実上こう言っているのです、「あなたは自分が置かれている世の中で、この天的調和と一つを示さなければならないのです」と。さもないと、これは全く無駄です。
「彼がご自身の血で買い取られた神の教会」。最後のアダムの裂かれた脇腹から取り出されて、教会はすべての生けるものの母となりました。キリストに対してこのような関係にある教会――そこに十字架が臨みます。この同じ原則に基づいて、私たちの家族関係も確立されなければなりません。調和を確保するために他の人々のために注ぎ出された命というこの原則に基づいてです。永遠の奥義を世界に現わすために、神の御子はご自身の命を代価として支払われました。その永遠の奥義とは、教会における神の一つと調和です。言わば、「キリストとその教会」という奥義です。
この奥義は神による実を結び、最後の時代に現わされます。カルバリはその証しを、キリストにある人々、彼のからだの一部である人々の生活のあらゆる関係の中に文字どおり確立しなければなりません。それは永遠の一つ霊による表現であり、世の人々にとって真に謎です。なぜなら、そのための天然的根拠が彼らにはさっぱりわからないからです。私は正直に要求・確証しますが、私たちの人間的気質の違いが、私たちの霊的生活で、私たちの間に壁として立ちはだかることがあってはなりません。おそらく、気質上の困難を私以上に覚えている人はいないでしょうが、確かにその困難が存在します。私たちは断固としてこれらの困難を覚えることを拒否しなければなりません。そして、私たちは天上でそれを超越するよう召されていることを思い出して、絶対的調和の場を見いださなければなりません。
これは日毎の十字架抜きでは不可能です。十字架は、こうした個人的感情、願望、好き嫌いを死の中に保ちます。敵意を取り除いて、諸々の種族や家族をキリストにあって一つにするには、十字架が必要です。十字架はそれを可能にします……。永遠の御霊を通してキリストはご自身をささげられました。聖霊はキリストを死に導かれました。それを受け入れて、神のエネルゲオ、聖霊のエネルゲオに、これを実現するよう要求するとき、何も努力しなくても、それは効力を表します。神のエネルゲオはあなたを死に連れ下ります。この死を現実のものとするのは神の御業です。彼はそれを聖霊に委ねて成就させられます。そして、神のエネルギーが私たちの内でこの死を現実のものにするのと同じように、彼が死者の中からキリストをよみがえらせた時にキリストの内に働かせた「彼の大能のエネルギー」も現実です。地上に、天上の同じ御霊がおられるのです。天上に登る必要はありません、苦闘して墓から抜け出て天上に登る必要はありません。全能者のエネルギーがそれをしてくれます。
さて、この調和の問題についてですが、聖霊によって働いておられる神のエネルギーの主な目的は、私たちを力づけて一つにすることです。すでに述べたように、今や十字架がこれを実現します。十字架こそ、この本質的一つの基礎です。この十字架を通して、神の素晴らしい力づける命によって、一つが実現されます。神の命は内なる力づけの表われです。「御霊の実は愛です」。それはすべてを含みます。愛を得る時、あなたは愛の中に喜び、忍耐、平和、とりわけ調和を得ます。それは御霊の表われです。御霊の実は愛です――それがすべてです。他のものはみなその中にあります。
御霊は一つであることを思い出してください。聖霊は決して自己矛盾したり、ご自身に反する啓示を与えたりなさいません。一つ御霊であり、一つからだです。一つ望み、一つ召し、一つ命です。教会史のどの時代にもまして、私たちは分派、分裂、分離という切羽詰まった危機の中にあります。なぜなら、以前にもまして、今日、この本質的一つに多くのことがかかっているからです。私たちは時代の終わりに来ています。この土台に基づいてすべてを得るか、永遠に失うかです。私たちは分裂を生じさせるものに大いに注意しなければなりません。分裂を生じさせるものに注意しなさい。分裂を引き起こす人間的組織、分裂を引き起こす独特なビジョンに気をつけなさい。独特なビジョン――キリストのからだの中に分裂を生じさせるビジョンがあるなら、そのビジョンはどこかが間違っています。あるいは、そのビジョンの理解にどこか間違いがあります。ビジョンはすべてからだの益のためです。「これは私たちのビジョンです――これは私たちの啓示です。もしこれを見たことがないなら、あなたは部外者です」と言ってはなりません。
「割礼の者への使徒職のためにペテロを力づけられたこの同じ神が、異邦人への使徒職のために私を力づけてくださいました」(ガラテヤ二・八)。ああ、しかしペテロは、「私の務めは割礼の者に対するものです」と言います。同じ神が力づけてくださるのであり、エネルギーは同じであり、その源も一つです。パウロは、異邦人に奉仕するとき、「ペテロよ、あなたは間違っています。私と同じビジョンを持っていないからです」と言うことはできません。もちろん、私たちには基礎が必要です。あなたは「アフリカに対するビジョン」を持っているかもしれませんし、他の人はインドに対するビジョンを持っているかもしれませんが、分裂を生じさせるような計画は立てないでください。あなたたちは一緒に働くことができます。なぜなら、同じ力づけを受けているからです。神は一つです。また、聖書を体系化しないように注意してください。聖書をひとまとまりの本として保持しなければなりません。聖書を機械的な教えの体系にすることが、とても多くの分裂の原因です。天上から見るときだけ、この書の絶対的調和・一つを理解できます。神よ、人が開発・考案したすべての体系から私たち全員を救ってください。