第四章 光の都

T. オースチン-スパークス

「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、彼を知る全き知識を得させ、知恵と啓示の霊をあなたたちに与えて、あなたたちの心の目が照らされ、神の召しの望みがどんなものであるかを、あなたたちが知るように。また聖徒たちの中にある神の嗣業の栄光が、どんなに豊富であるかを知るように。 また神の力強い大能の活動にしたがって、信じる私たちに働く彼の力が、どんなに超越して偉大であるかを知るように」エペソ一・十七~十九。

これは光に導きます。二番目の点は光の問題です。力と光は常に、神の御言葉では、関係しています。霊的力は霊の光、照らし、もしくは啓示とつながっています。ここでは、光と力は「彼を知る知識」と関係していることがわかります。エペソ三・十六、十八、十九、「力をもって、彼の霊を通して、あなたたちの内なる人を力づけてくださいますように(中略)それは、あなたたちが強くなって理解するためです」。行うことではなく、知ることです。

力との関係における啓示

私たちは啓示によって立ちます。「神は私たちの心を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光の知識の光を与えてくださいました」。「神は(中略)恵みを通して私を召し、私の中に御子を啓示してくださいました」――ガラテヤ一・十六。

どのようにして私たちは持ちこたえて確立されるのでしょう?どのようにこの耐久性が私たち中に生じるのでしょう?主イエスをこの内なる方法で知ることによって、啓示によってです。持ちこたえる人々は、自分の中でこれが生ける啓示となった人々です。「神は私たちの心を照らしてくださいました」、これが一方の面です。他方の面は、「四方から圧迫され、困惑し、迫害され、打ち倒されますが(中略)それでも絶望しません」です――二コリント四・六~十。私たちは悩まされ、圧迫されます……なぜでしょう?「イエスが私たちの死すべき体において現わされるためです」――二コリント四・十一。

これは耐久性ではないでしょうか?四方から圧迫されても絞め殺されないのです!「圧迫の中であなたは私を広げてくださいました」――詩篇四・一。

「圧迫する」ものを、神は拡大するためのものとされました。打ち倒されますが、見事に立ち上がります。なぜでしょう?どうやってでしょう?「神は私たちの心を照らして(中略)イエス・キリストの御顔にある……」。そのおかげで、あなたは切り抜けて生き延びることができるのです。聖霊によって私たちの心の中に示される主イエスの啓示以外のなにものも、私たちを切り抜けさせることはできません。それは彼を知る内なる知識です――信条や教理に対する知的同意ではなく、私たちの存在そのものにおける生き生きとした、力強い現実です。

勝利して突き進む力を十分に与えることができるのは、私たちの中におられる聖霊の啓示だけです――しかし、この啓示にはできます!それは人の霊の内側における啓示であって、真理についての――たとえそれが神に関する真理だとしても――知的理解ではありません。ああ、「私は知っています」と言えることにはなんという力があることでしょう。聞いたことがあるとか、読んだことがあるとかではなく、「私は知っている」と言えることです。それは、なにものも私たちから奪えない経験です。聖霊によるこの啓示を持つことが絶対に必要です。なぜなら私たちは、神に属するものしか立ち向かえない悪の勢力を対処しなければならないからです。

「圧迫の中であなたは私を広げてくださいました」。どうやってでしょう?内なるこの命の絶えざる興隆によってです。問題、試練、悲しみ……私たちはこれらのものにさらされます。これらは万人に共通のものですが、私たちは内なる「彼の力強い大能」を通して乗り越えます。私たちが強いのは、神を知る知識によって与えられる光のおかげです――エペソ一・十九。これは成長していく啓示です。パウロはエペソの聖徒たちに書き送っていますが、この人々にはなんと素晴らしい過去があったことでしょう!別れ際の、彼らに対するパウロの言葉を見てください(使徒二〇・十七~三八)。このような人々に対して彼は、「あなたたちが強くなって理解するためです」と述べて、啓示をもたらす神の強力な力の必要性を示しています。敵は啓示に激しく抵抗します。それを損なったり、阻止したりするために、なにがあってもやめません!

光と力は同行します。耐久性は啓示によります。「私は知っています」によります。真理の啓示によって真理の中に確立されること、これがサタンとその軍勢に打撃を与えます。光は力に導きます。

主が目を開かれる時、なにが起きるかわかります。「あなたたちの心の目が照らされて、あなたたちが知りますように」、これが目が開かれた結果です。「主イエスを復活させた方は、私たちをもイエスと共に復活させてくださることを知っています」――二コリント四・十四。

「私はあなたを遣わして彼らの目を開く。それは彼らが暗闇から光へ、サタンの権威から神へ立ち返るためである」――使徒二六・十八。パウロは主イエスによって、ある知らせと共に遣わされました。それは人々の目を開くためであり、彼らを暗闇から光へ、サタンの権威から神にある彼らの嗣業へと立ち返らせるためでした。これは、目を開かれることによる嗣業です。主権が目を開かれることに続きます。

神聖な統治の都

黙示録二一章は、人における神聖な統治のまさに現われです。この章の内容はみな、なんらかのかたちで数字の十二について述べています!十二は統治を示す聖書の数であり、完全な統治を意味します。この都はそれであり、統治・主権にあずかります。

ここには、中心から周辺まで、御座の権威があることがわかります。これにより、この都は主権の都に構成されます。「また彼は、水晶のように輝く命の水の川を私に見せた。それは神と小羊の御座から、大通りの中央を流れていた」――黙示録二二・一、二。

小羊の命にあずかることによって、私たちは御座の生活にもあずかります。しかし、御座の生活が可能になるのは、小羊の命にあずかっている所でだけです。将来あずかるには、私たちは今それを自分で経験して知らなければなりません。これは知的知識ではありません。すべての権威が主イエス、神の小羊に与えられています。それは彼が死に至るまで神のみこころに従順に従われたからです――ピリピ二・五、十一。同じように、私たちも従順であるなら、彼は敵のすべての力に対する権威を私たちに与えることができます。

私たちは今、主権を学ばなければなりません。私たちは今、御座の交わりに召されており、今、統治することを学ばなければなりません。これは霊的支配権です。しかし、どうすれば霊的支配権をもって生活・統治することができるのでしょう?それは、聖霊によってあなたの心の中に主イエスが啓示されることから始まります。そして、これにより私たちの内なる人は強められて、圧迫のただ中で超越します。これは日々の試練です。私たちは沈み込むのでしょうか、それとも、起き上がって霊の中でこの立場に立つのでしょうか?私たちの霊が上に立つまで、主は決してその中から解放してくださいません。私たちは下になるべきではありません、「あなたはただ上におり、下になることはない」――申命記二八・十三。

モーセを見てください。「エホバは言われた(中略)『あなたは、あなたの杖を上げ、海の上にあなたの手を伸ばして、海を分けなさい』」――出エジプト十四・十六。言い換えると、主の御名の中にある立場を取りなさい、そうすれば、切り抜ける道を見いだします、ということです。私たちはすべてを霊の中で得ることを学びます。そして、霊の中で主権を得るとき、そのときはじめて、私たちは主権の杖を上げられるようになります。

あることが主から臨む時、恵みがそれと共に臨みます。しかし、その時でもないのにそれを得ても、主はその中にはおられません。パロに関してモーセがどうやって勝利の力と共に権威の杖を上げることができたのかを見てください。それはただ主の御言葉に応じるものだったのです。

「見よ、私はあなたたちに(中略)敵のすべての力に対する権威を授けた。だから、なにものも決してあなたたちを害することはない」――ルカ十・十九。

「あなたが地上で縛るものはすべて、天でも縛られ、あなたが地上で解くものはすべて、天でも解かれる」――マタイ十六・十八。