第五章 神の都

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:詩篇二四篇、黙示録二一・九~二一。

さて、神の都というこの象徴的表現が示している、神の民のさらなる特徴について考えることにします。そうするとき、私たちは城壁と門によって示唆されているこれらの特徴・要素を前にすることになります。

城壁と門

黙示録を読むと、この都の城壁と門についてなんと多く述べられているのかに気づきます。この「城壁」と「門」という二つの単語に下線を引くだけで、それらの占める地位と、どれだけ多くの注意がそれらに向けられているのかが、直ちにわかります。「それには大きな高い城壁があり、十二の門があって、その門には十二人の御使いがおり、その上に名が記されていた。その名はイスラエルの子たちの十二の部族の名である。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があった」。「私に語りかけた者は金の葦を持っていた。それは、彼が都と門と城壁とを測るためであった(中略)彼がその葦で都を測ると、一万二千スタデヤであり、その長さと幅と高さとはみな等しい。彼がその城壁を測ると、人の尺度、すなわち御使いの尺度で百四十四キュビトであった」。

さて、城壁と門は一般的に何を意味するのでしょう?その意味はとても豊かで、大いに心を探るものだと思います。城壁はこの都の境界を示し、この都の境界はこの都に含まれるものを決定・規定します。すべてがこれらの城壁の内側に集められます。それらはこの都の大きさと内容をすべて示します。これらの寸法はとても興味深いです。この都はなんと途方もない大きさなのでしょう!すでに述べたように、腰を据えて考えてみるなら、考慮すべき問題が見えてくるでしょう。この世界の西半球全体のどこを見ても、海の中に落ち込ませずに、この都を置ける土地は一つもないことがわかるでしょう。それは巨大さ、偉大さを物語っており、その包括性は途方もないものです。

さて、これらの思想を一緒にしてみましょう。直ちに、この都、神のこの民の包括性・内容・広範性は途方もないことがわかります。しかし、主の民の包括性はいかなるものでしょうか?ああ!主がご自身の民に与えておられるものを正確・適切に示して、救われていない人の心を魅了することが私にできれば。使徒パウロはたびたびこれに大いに夢中になりました。彼はこれをとても明確に見たので、「ああ!その豊富の深さよ」と叫ぶことしかできませんでした。

エペソ人への手紙三章十四、十六、十九節に再び戻ることにしましょう。「彼の栄光の豊富にしたがい(中略)あなたたちが満たされて、神の全豊満へと至るように」。聞いてください、「彼の栄光の豊富にしたがい、満たされて、神の全豊満へと至る」。これは大きな都です。エペソ三章の言葉は黙示録二一章の言葉と同じです――「その幅と長さと高さと深さ!」。壮大です!巨大です!満たされて神の全豊満へと至ることが必要です。それには大きな器、大きな容器、とても大きな入れ物が必要です。「神の全豊満へと至る!」。私たちには思い描けません、想像できません。しかし、明らかに使徒パウロは第三の天に引き上げられて語ることのできないことを示されました――「語ることのできないこと」です。彼が言うには、それは「人の語ることが許されていないこと」です。その彼はこれについていくらか知っていました。そこで彼はここで神の豊満について述べます。「私は、私たちの主イエス・キリストの御父に向かってひざをかがめて祈ります。どうか御父が、あなたたちの内側を大いに力づけてくださいますように。それは、あなたたちがすべての聖徒と共にその幅と長さと高さと深さを理解し、知識を超越したキリストの愛を知り、満たされて神の全豊満へと至るためです」。パウロはこれについて少しばかり知っていました――私たちと比べたらかなりよく知っていました。それでも、パウロですら、自分が知る以上のものを見いだすでしょう。

そうです!城壁は包括性を表しています。神が私たちをそれへと召されたものの大きさと豊かさについて、私たちに語りかけます。ああ!どうかこれが偉大な霊的現実の力を帯びて、私たちに臨みますように。なぜなら、神の民の神聖な豊かさに関するこの思想を理解する時、あなたはそれを至る所に見いだすようになるからです。

ですから、愛する人よ、一万二千スタデヤ、百四十四キュビト、四つの寸法、神の豊かさ、これが私たちの召しです。これを失うおそれがあります。おそらく他の多くのことよりも、失ったものを知ることによる後悔の方が、強烈な永遠の悔恨になるだろうと思います。私はこう信じています、ひとたび人が目覚めて自分が失ったものをことごとく知る時、地獄が始まるのである、と。地獄がたんなる記憶にすぎなかったとしても、それでも十分すぎるほどです。神聖な性質にあずかるために造られて、神聖な栄光の中に入るようにされ、神のすべての民と共に神の全豊満を持つようにされたのに、門・道・真理・光である主イエスを拒否したせいで、それを失ったとするなら――確かにそれこそ地獄でしょう!しかし、愛する人よ、私たちには、私たちの多くには、それよりもよい前途があります――「私はあなたたちについてはさらに良いことを確信しています」。これが私たちの召しです。これが神がもたらそうとしておられるものです。これが神が行っておられることです――「彼の栄光の豊富にしたがい」。この点を離れて、すぐに先に進まなければなりません。

次の点は、これらの城壁は主の民の性格を示している、ということです。包括性の次は性格です。すでに述べたように、この都は神の民であり、城壁は主の民の性格を示しています。それらの城壁を見てください!碧玉、透明な輝くダイヤモンドがあります。幽玄な青色の美しいサファイヤ、暗深紅のざくろ石の玉髄、透明で純粋な緑がかったエメラルド、黒と白が混ざった縞瑪瑙、紅玉髄またの名をルビー、淡黄色の金色の石である貴かんらん石、結晶の岩である緑柱石、きわめて豊かな黄色の色彩を帯びた黄玉、緑玉髄・瑪瑙、橙と赤と紫が混ざった今日リギュールと呼ばれているジルコン、そして柔らかな紫の色彩を帯びた紫水晶があります。これはみな素晴らしく美しい描写です。しかし、それは私たちに何を語りかけているのでしょう?

そうです!それは少なくとも多様性を物語っているのではないでしょうか?そこに虹を並べることができます。原色と二次色がすべてそこに見いだされます――素晴らしい多様性と美しさです。神の御業に同じものはありません。恵みの働きにありふれたものはありません。恵みは多くの色彩を帯びています。恵みには多くの相があります。恵みの栄光には多くの面があります。そして、神の民は大いに異なっています。二つと同じものはまずありません。途方もなく様々なものがここに集まっています。しかし、主は恵みを通して、様々なものをすべて一つにして、それを一つの完整な、麗しい、完全なまとまりにすることができます。あなたはおそらく私に失望したことがあるかもしれませんし、私もおそらくあなたに失望したことがあるかもしれません。私たちがどんなに異なっていたとしても、主の恵みは私たち全員を調和させます。うり二つな人に関する話がありますが、あらゆる点で全く同じ人がこの世にいるとは私は信じません。どこかに異なる点が見つかります。これが民族関係の問題です。さて、主はこの問題を恵みの中で克服されました。私たちはみなここにいます、あらゆる相違がここにあります。ああ!そして明るく輝いており、栄光で満たされています。これが神の民の性格です。神はあなたに失望しておられません!愛する人よ、あなたが自分のことをどう思っていたとしても、自分のことをどう感じていたとしても、自分自身の性質・気質・気性・性格についてどんなに落胆していたとしても、主にはあなたを完成に至らせる方法があります。主イエスの血は十分です、神の恵みは十分です。厄介で、気難しい、怒りっぽい、どうしようもない他人に、あなたは失望したことがあるでしょうか?主は彼らを諦めてはおられません!いわゆる「粗末なダイヤモンド」から主が何を造り上げることができたのかを私たちが見いだす時、それはこの都の栄光の一つになるだろうと私は思います。主は彼らを碧玉、明るく輝くダイヤモンドとされるのです。

ですからこれらの石は、神が一つに混ぜ合わせて一体とされた多様性について、私たちに告げます。旧経綸に戻って、イスラエルの子らの十二部族の物語を読むと、その大半は残念な物語です。ベニヤミン族についての物語のとても、とても暗い物語が思い出されます。それは聖書全体の中で最も恐ろしい物語です。それらの物語の一つは、今日、読むのに適さないという理由で、道徳的な人々が削除することを願っているものです。ああ!ではどうしてそれが記されているのでしょう?それは読むのに適している、と主は考えておられるのでしょうか?なぜ、ベニヤミンの名がこの栄えある都にあり、あの暗い名がここで栄光を受けているのでしょうか?神にこれができるからには、彼にできないことがなにかあるでしょうか!

諸部族について読み通して、その歴史を辿るなら、なぜ神はこれらの部族を消し去られないのだろうと、あなたはしばしば不思議に思うでしょう。なぜ彼は言うことを聞かないイスラエルをこれほど忍耐・辛抱されるのでしょう?彼はバラムに呪うことを許されませんでした。ああ!恵みにできないことが何かあるでしょうか?イスラエルの子らの十二部族の名が、ここでは永遠の栄光の輝きをもって輝いています。小羊の十二使徒の名もです。見限るべきだと、昔のこの十二人についてしばしば思ったことを、私は告白しなければなりません。彼らは嘆かわしい者たちであり、間違った言動ばかりしています。「主よ、私たちが天から火を下して、彼らを焼き尽くすことを、あなたは望まれますか?」。主は言われました、「あなたたちは自分がどのような霊であるのかわかっていない」。「主よ、彼女を追い払ってください、彼女は叫びながら私たちの後についてきます」。ここに自分の娘のことで苦しんでいる女がいます――それなのにキリスト者の弟子たちは、「彼女を追い払ってください」と思ったのです。それはキリストの霊ではありません。「主よ、私たちはあなたのためにすべてを捨てました。私たちは何をいただけるでしょう?」。主への献身の領域に強欲な霊が入り込むのがわかります。そこ――私たちは何をいただけるでしょう?――に無私の奉仕はありません。そのような霊が私たちの中にどれほどあったとしても、私たちはそのような霊であってはなりません。また、ペテロは最後に誓いと呪いをもって否み、彼らは彼を見捨てて逃げました。しかも、これは長い物語のすべてではないのです。

彼らの名がすべてこの城壁に記されており、神が与えられた輝きをもって輝いています。多様であり、様々ですが、すべて恵みを通して栄光の中にあります。十二部族のこれらの名と十二使徒のこれらの名はなにかを表しています。二つの経綸における贖われた群れ全体を表しています。彼らは救われ、聖別され、栄化されました――彼の十字架の血を通してです。恵みは別として、どんな人をこれは表しているのでしょう?あなたが聖書に関して次のような問題を抱えてきたことを私は知っています――すなわち、どうしてヤコブはこのような地位を与えられているのか、という問題です。どれほど私たちは押しのける者であるヤコブを軽蔑していることでしょう。彼はとても卑しい、評判の悪い人です。ヤコブのすべてを私たちは嫌っています。どうして彼にこのような地位が与えられているのでしょう?神の恵みに栄光を帰すためです。私たち全員に希望があります!「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪人を悔い改めへと招くためである」。神の恵みに栄光を帰すのは罪人です。それでも、神の目に義しい人は一人もいません、全く、一人たりともいません。ですからこれらの名は、とても惨めな人が恵みによって救われ、引き上げられたことを表しているのです。

これらの城壁は、主の民の神聖な豊満の包括性・総括性を表すだけではありません。この贖われた群れの性格を表すだけではありません。排他性をも表しています。直ちに警告の言葉を発しなければならないのではないでしょうか?なぜなら、ここでは、外にあるもの、入ってはならないものについて、はっきりと述べられているからです。「汚れたもの、また忌むべきことと偽りを行う者は、決してそこに入ることはない。ただ小羊の命の書に書き記されている者だけが入るのである。犬ども、魔術を行う者、淫行の者、人を殺す者、偶像を拝む者、偽りを行うすべての者は外にいる」。確かに、これは強烈な言葉です。これはとても強烈な言葉であり、「これはきっと、とても、とても悪い連中のことにちがいない」とあなたは言うかもしれません。しかし、聖書を見ると、これ――淫行の者、偶像を拝む者――はみな象徴的な言葉でもあることがわかります。自分はそうではない!とあなたは言います。本当でしょうか?聖書ではそれは何を意味するでしょう?それは、神の永遠のみこころにしたがって、主イエスの純潔な花嫁となるように召されたのに、彼が持つべき地位を他のものに与えた人々を意味します。つまりはそういうことです。彼は神の御旨では花婿なのです!

パウロは、自分の務め・使命はこの純潔な処女の教会をキリストにささげて、彼の花嫁とすることであることを見ました。私たちは、世が造られる前に、神の永遠のみこころにしたがって、そのために召されました。そのために召され、そのために創造されました。そして次に、御子が来て、私たちをそのために贖ってくださいました。そして、彼の尊い血により、この教会は彼の花嫁となるべく獲得されました。御言葉はそう述べています。そのために創造された者たちは、そのために贖われました。というのは、キリストはそのために死なれたからです。他のものに彼の地位を与えること――これが偶像崇拝であり、姦淫です!ああ!これは私たち一人一人にもあてはまることです。私たちの心の中で何が主イエスの地位を占めているでしょう?私たちは彼の代わりに何を愛しているでしょう?それによって私たちは神の都から締め出されるかもしれません。姦淫は霊的です。それは主イエスが持つべき地位を他のなにかに与えることです。つまりはそういうことです。

人を殺す者!ああ!主イエスに耳を傾けてください。殺人を犯すまでもありません。あなたの兄弟に腹を立てるだけで、殺人を犯すのです。愛する人よ、肉体の罪だけでなく霊の罪も神は考慮されます。この人々は最終的にその霊を聖められた人々であることがわかります。その霊を聖められています。殺人とは、文字どおり他人を殺すことではなく、他人に向けられた憎しみの霊です。神の目から見てこれが殺人です。それを抑えないならどうなるか、その結末を神は見ておられます。これが諸々の時代の間ずっとどのように働いてきたのかを、神は見ておられます。カインはまず自分の兄弟に腹を立てて、それから殺しました。彼は、自分の弟を打つ前に、殺人の罪を犯していたのです。それが彼の心の中にありました。これは心の問題であることがわかります。ですから、この人々はその心を主イエスの血によって清められた人々であり、それに反するものはなにもここに入れません。ああ、ですから、これは排他的であり、神の性質に反するものをなにも許しません。「この望みを彼に置いている者は、自分を清くします」。清くなければなりません。「私は聖なる都を見た」。「わたしが聖であるから、あなたたちも聖でなければならない、と主は言われる」。「聖くなければ、だれも主を見ることはありません」。しかし、私たちの確信、力、望みは、どこにあるのでしょう?彼は、私たちの心の中に住んでそれを行うために、ご自身の聖霊を遣わしてくださいました。なぜなら、神はそれを私たちには任されないからです。