第一章 賛美の意義

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:二歴二〇・一~二五。

「だれでも感謝のいけにえをささげる者は、わたしに栄光を帰する。自分の道を正しくする者に、わたしは神の救いを示す。」詩篇五〇・二三。

しばらく前から強く何度も私の心に思い浮かぶ一つの言葉がありますが、それは主はご自身の民の賛美と協力して働かれることに関するものです。歴代誌第二の二〇章二二節、「彼らが歌って賛美を始めた時、主は伏兵を設けて、アンモン、モアブ、セイル山の子たちを襲わせた」。これは詩篇五〇篇のこの句の壮大な注釈です。「だれでも感謝のいけにえをささげる者は、わたしに栄光を帰する。また、わたしが神の救いを示せるよう道を用意する者も」(アメリカ標準訳、欄外)。彼らの賛美に基づいて彼はその救いを大いに示されました。

賛美の務め

この務めについて考えていた時、賛美が神の御言葉の中でどれほど大きな地位を占めているのかに私は気づきました。私は賛美に対する最初の言及に思いを馳せました。そして次に、少しずつ進み続けて、それが発展していくのを見、ついにダビデの時に至りました。その時、賛美が最高潮に達したのです。

ダビデは御霊の啓示によって、宮とそのすべての奉仕・務めの型を受けました。そして次に、これをすべて運用・整備しました。そして、その大半を占めるものとして、とても大がかりで包括的な賛美の務めを設けました。ご存じのように、彼の歌の務めは、四千人をくだらないものに拡大して彼の聖歌隊になりました。二十四組の務めの中には、二十四組の務めのために選ばれた指導者たちの指揮下にある、四千人の歌う者たちや奏者たちがいて、主の民のただ中で絶えず賛美の務めを続けていました。

このように最高潮に達した賛美を見て、私はそこで立ち止まりました。そして、これがダビデの下で実現したことに注目しました。ダビデは主権を表しました。それまでイスラエルでは決して実現されたことがないほどの主権です。王職、主権的統治、権威は、息子を通して世に伝えられました(というのは、その務めを整備・指揮したのはソロモンではなく、ダビデだったからです。ソロモンはそれを受け継いで、ダビデが実現したものを表現したにすぎません)。ソロモンは子たる身分を表しており、ダビデは王権と統治を表しています。

ダビデにおいて最高の表現に至ったこの賛美の務めは、自然に人の心を主イエスに向かわせます。主の民の間に賛美を生じさせる真の基礎に、すなわち、彼は至高の権威の地位についておられるという事実に向かわせます。彼は万物の主です。これが確立される時、賛美の務めが始まります。しかし、歴代誌第二のこの章に来る時、この問題の適用という点でダビデよりも進んでいるように思われます。ここでは、ダビデが確立・実現して整った形にしたこの務めを受け継いで、信仰が自らを表す手段として用いられているのです。

勝利の前の賛美

神の御言葉の中には、偉大な解放の後で会衆が歌った多くの事例があります。「そのときモーセとイスラエルの子らは歌った」(出エジプト十五・一)。これは紅海の向こう側でのことでした。あずかった解放や勝利のゆえに主を賛美することは、大いに良いことであり、大いに正しいことです。デボラも偉大な歌を歌いましたが、それは戦いから遠く離れた所でであり、勝利が得られた時のことでした。エリザベツは歌を歌いましたが、それは祝福を得たときでした。そのような例がたくさんあります。こう述べることによって、賛美の価値を差し引くつもりは私にはありません。しかし、ここにはもっと高い水準のなにかがあります。ここには戦いの前の賛美、得る前の感謝があります。実際に獲得したものを享受する前に、自分は得たという立場を取って宣言しているのです。それで、ダビデの一大聖歌隊が軍隊の前面に遣わされて、戦いの前に勝利を得る信仰の象徴となったのです。

これは、主が特に喜ばれる立場のように思われます。この問題は決して小さな問題ではありません。第一に、戦わずに、犠牲者もなく、勝利が得られました。さらに、戦利品があまりにも多かったので、彼らはそれにどう対応すればいいかわかりませんでした。これは勝利者以上の者になることです。これは最高の勝利です。

これが主がご自身の民の間に得ることを目指しておられる立場であるように、私には思われます。主はしばしばご自身の民を次のような状況に導かれるのを、少なからぬ人が確かに経験してきました。すなわち、彼らが助けを求めて叫んでいるのに、主は後ろに離れて立っておられる、という状況です。主権的行為を求めて彼らが叫んでいるのに、彼は来て解放してくださいません。彼らが絶望・恐れ・疑問・疑いといった領域から抜け出して、実際には答えを得ていなくてもその問題全体に関して心の中で全く安息する境地に至るまで、彼は待たれます。主が状況を握っておられること、そして、彼らはその問題に関して彼と一つであることが、はっきりします。主が私たちをそこに至らせられる時、往々にして事が起きます。私たちはなんらかの恐るべき試練を予期していました。もしくは、神の力の素晴らしい現われを期待していました。あの大きな戦い、客観的な形で起きると予想された衝突が、自分自身の心の中で起きて、すっかり終わります。まるですべて果たされたかのようであり、その後、他の事柄は丸く収まります。大きな試練は一切ありません。事が起きて、過ぎ去ります。あるいは、さらに果たされるべきことがある場合でも、それは自分が恐れていた試練ではなく、自分が予想していた途方もない試みでもありません。主は、外側で事をなす前に、私たちの心の中で勝利を得ようとされます。私たちを次のような境地に導こうとされます。すなわち、その問題に関するかぎり、主に感謝をささげる用意が私たちにできている境地です。それが私たちに対する神の取り扱いの法則であるように思われます。もちろん、その核心には最も偉大なものが含まれています。

ここに、アンモン、モアブ、セイル山の人々、大群衆がいます。主の民は、自然に圧倒されるようなものに直面しました。ヨシャパテは言いました、「私たちを攻めて来るこの大軍の前に、私たちに力はありません」。当然のことながら、彼らに勝ち目はありませんでした。どう転んでも、そうでした。天然的観点から見ると、勝ち目は完全に敵の側にありました。主の民は全く不利であり、劣勢でした。状況的には、私たちに敵対しているものが勝利しそうに思われました。このような状況――それがどんなものであれ――に直面して、もし当事者たちが歌って賛美する境地に導かれえたとするなら、何が起きるでしょう?まぎれもなく、敵対するなにものにもまして主が高められます。敵対するなにものよりも遥かに高い地位が主に与えられます。確かに、これはその地位でなければならず、その意味でなければなりません。これは次のことを告げるものにほかなりません。すなわち、これらすべてが私たちに敵対し、自分自身では私たちに勝ち目がなくても、主はなにものよりも優っておられるのです。このようなとんでもない勝率を前にして、私たちが歌い賛美する時、それはこういう結果になります。この立場の上で主は働かれます。主はこれを待っておられます。「わたしにこれができると、あなたは信じますか?わたしはこれらすべてよりも優っていると、あなたは信じますか?」。はい、信じます――こわごわと、なおも恐れつつ、なおも心配しつつ、これはどうなるのかと戸惑うのでしょうか?それとも、大喜びで、勝利のうちに、賛美の歌を歌うのでしょうか?時として主はこの歌を待っておられるように私には思われます。暗闇の中、家に向かう少年が、恐怖心を追い払うために歌うような見せかけの歌ではなく、真に信仰の歌です。主はこの立場の上にやって来られます。そうであることを私たちは一度ならず見いだしました。そして、この立場に主はご自分の民を導こうとしておられます。主がなにかをされるのを私たちは待っていますが、主はおそらく、それはすべてなされると私たちが信じるのを待っておられるのです。「彼らが呼ぶ前に、わたしは答える」。しかし、私たちを戦いの向こう側に連れて行ってくれる信仰が示されなければなりません。

主の主権的行為は私たちにとって必ずしも道徳的価値があるとは限らないことを、覚えておく必要があります。あなたが大きな困難の中にあり、そこからどうしても抜け出せないとしましょう。あなたは主に叫んで、「主よ、この困難から私を助け出してください!」と言います。すると主は言われます、「よろしい、わたしの子よ、わたしはここにいます。あなたを救ってあげましょう」。そして、主は雑作なく御手を伸べてあなたを困難から助け出してくださったとしましょう。あなたにどんな道徳的益があるでしょう?あなたが別の困難の中にあるとき、同じことがまた起きたとしましょう。あなたが困難の中にあるとき、毎日毎回主が来てあなたを困難から助け出してくださったとしましょう。あなたにどんな道徳的・霊的益があるでしょう?ありません!主はそれで満足される、とあなたは思うでしょうか?幼児にはそれでもいいでしょう。私たちは自分の幼子らをそのように世話するかもしれません。それでも、自分なら差し控えると思います。彼らが困難の中にある時、彼らがひたすら私たちに助けを求めるのを見るよりは、彼らの中にさらに優ったものが発達するのを見ることを願うと思います。彼らになにかを学んでほしいと願うでしょう。彼らの知性や理解力が増し加わることを願うでしょう。甘えん坊の子供はとても嫌な子供です。だれも甘えん坊の子供をあまり偉いとは思いません。困難に遭うたびにひたすら助けを求めてめそめそと自分の親の所に行く子供は、まさに甘えん坊です。主は甘えん坊の子供を欲しておられません。彼は、私たちがいつまでも幼児でいることを願っておられません。それゆえ、彼は主権をもって行動されないのです。なぜなら、彼は霊的・道徳的価値を増し加えることを願っておられるからです。主は主権的に行動することをご自身の民に対してやめてしまったわけではありません。往々にして、主が主権的に行動するのを遅らされるのは、ご自身の民が霊的・道徳的に優位に立つある地点に達していないからなのです。

バビロンのあの三人を主は火から救いませんでしたが、火の中で救われました。これは三人にとって実際に益になった、とあなたは思わないでしょうか?それは彼らにって大きな益になった、と私は確信しています。それは主権的行為でしたが、火の中に彼らが入らないようにするための主権的行為ではありませんでした。彼らを火の外に保つことよりも遥かに大きな問題がかかっていたのです。私たちは往々にして、主になにかを行ってくださいと求めます!主がことを行ってくださらないのはなぜか、私たちにはわかりません。主には可能です。彼にはできます。彼にはそうする力があります――どうして彼はそれをしてくださらないのでしょう?往々にして私たちは主と論争します。もしかすると、主とけんかするかもしれません。「あなたはこの問題に踏み込んで主権をもって行動しておられません。そうしてください」と主を非難しさえするかもしれません。

神が主権的に行動される前に私たちが勝利の地位に達するとき、それはまさに現実に霊的増し加わりを意味します。つまり、「私たちの神は救うことができます(中略)たとえそうでなくても……」という立場です。別の選択肢は次のようなものです。「私たちの神は救うことができます!神は救うことができる、と私たちは信じます!もし救ってくださらないなら、それについてどうすればいいのかわかりません!神についてどうすればいいのかわかりません!これ以上神を信じられるかどうかわかりません!神は私を救ってくださると信じたのに、神は私を救ってくださいませんでした。信じる相手を間違ったのではないでしょうか!」。主は私たちのことをお見通しであり、よくご存じです。時々、私たちは自分自身のことを自分が思う以上にましであると思うことがあります。つまり、実際とは異なる状態にあると思い込もうとします。主は私たちのことを私たち以上にご存じであり、私たちの言い訳や思い込みは通用しません。彼は、ご自身を試す最後の要素がなくなった時をご存じです。「主なるあなたの神を試みてはならない」(マタイ四・七)。「あなたたちが試みたように、主・あなたたちの神を試みてはならない」(申命記六・十六)。主は、ご自身を試す最後の要素がなくなって、私たちが乗り越えた時のことをご存じです。そして今や、それがどちらに転んでも、私たちは主に信頼します。それがどちらに転んでも、主は正しいのです。私たちが真にそこに到達する時、聖霊は私たちの心の中で立ち上がって神聖な承認を与えてくださいます。それはただの反応ではありません。聖霊は立ち上がって、安息の感覚を与えてくださいます。主は満足しておられ、私たちは今や平安の中にあります。争いはやみます。内なる葛藤は終わります。霊的に勝利します。そのとき主は、ご自身がなしたいことを行う道を獲得されます。

私たちが自分自身の道を進むために戦っているかぎり、主と喧嘩しているかぎり、疑念を持っているかぎり、恐れてびくびくしているかぎり、主はなにもすることができません。勝利が事実上明らかになるのは依然として先のことでも、それにもかかわらず心の中で戦いをくぐり抜ける境地に私たちが達する時、主は望むことをなんでも行うための道を得て、神の救いを示してくださいます。主は主です。主は御座に着いておられます。主は勝利者です。

これがこの節の賛美の意味です。真の純粋な賛美は神の中に安息している心、主に信頼し、主を信じ、なにものにもまして他のなによりも高い地位を主に与える心から発します。それは主権・王職・支配権に基づく賛美です。

真実な賛美には途方もない力があるように思われます。大問題がそれと関係しています。歴史の中に霊的な真理の例証があります。神の民にとって圧倒的に大きすぎる強大な恐ろしい軍隊が、全く無に帰されて、主の民に戦利品をすべて差し出さざるをえなかったのです。それは主の民が、戦いに入る前に、賛美の中で乗り切ったからでした。そこには、あなたや私が学ぶべきなにかがあります。

私たちはこの問題について主と取り引きをして、主とその御力に信頼して、賛美の霊の中で事に立ち向かえるようにされなければなりません。くぐり抜けて解放のゆえに主を賛美するまで待つのではなく、先に賛美するのです。感謝のいけにえをささげて、主のために道を用意するのです。主は私たちがそのような勝利の立場に到達できるようにしてくださいます!