第二章 ケルビムの意義

T. オースチン-スパークス

聖書朗読:二列王記二・十九~二二。創世記三・二二~二四。出エジプト記二五・十八、三七・七。黙示録二二・一~四。

とても初歩的かもしれませんが、それにもかかわらず、次のことはきわめて重要です。すなわち、主の民は、自分たちが主の民としてなんのためにここにいるのかを自覚して、明確にしっかりと心に留めなければならないのです。

大多数のクリスチャンに「なぜクリスチャンとしてこの地上にいるのですか」と尋ねるなら、「主に仕えるためです」といった答えが返ってくるでしょう。私はそれが真実であることを疑いません。しかし、それは真実の一部にすぎず、相対的な部分でしかありません。つまり、それは他のなにかと関係しており、その他のなにかがなければ、効力を発揮するのに必要なものに欠けることになるのです。私たちがこの地上に主の民としているのは、それ以上のなにかのためであり、「それ以上」にはそれも含まれます。それはとても単純な表現で述べることができますが、表現が単純だからといって、単純なものとはかぎりません。それはこれです。すなわち、私たちはキリストを学ぶためにここにいる、ということです。

キリストを学ぶこと

主のための働きや主のための奉仕と、キリストを学ぶこととの関係は次のとおりです。すなわち、キリストを学ぶ最善の方法は積極的に働きや奉仕をすることであり、実際的・積極的方法の方が他の方法よりもキリストを多く学べるのです。しかし、実際的・積極的方法と言う時、それが意味するところについて、私たちは大いに注意深くなければなりません。主の民の多くは、キリストを知る知識において成長し、増し加わることに失敗しています。自分がすでに持っているものを活用していないからです。彼らは自分の神学的知識を積み上げますが、それは決して経験的知識に変換されることがありません。それを実践しないからです。彼らは日々の生活でそれを活用していないのです。

主が許してくださるなら、少しの間、この包括的な問題とこの相対的な問題に専念することにします。この包括的な問題とはキリストを知ることです。

キリストを知ること

これが私たちがここにいる目的であることについて、私は疑いや疑問をまったく心に抱いていません。神との私たちの関係のすべての領域と範囲に関して、すべてが、少しの例外もなく、御子イエス・キリストと結びついています。彼の外では神について知ることはできません。奉仕のために、生活のために、そして時と永遠におけるすべてのことのために、神について私たちが知る必要があることはすべてキリストの中にあります。それゆえ、私たちの主な仕事はキリストを学ぶこと、キリストを知ることです。

もし約束の地が型であり彼がその本体だとするなら、彼を掘って、金・銀・真鍮・鉄などが表している、その富、豊かさ、こうしたあらゆる貴重なものを発見する必要があることになります。彼は豊かな方であり、その豊かさは来たるべきすべての時代にわたって発掘されることになります。私たちは今、キリストを知ることを開始しなければなりません。それが私たちの仕事なのです。

すべての奉仕は、人々にキリストを知ってもらうことと共に始まり、進んで行きます。ひとたび魂が罪と救いに関してキリストを知るようになる時、その魂はキリストを知る、というのとはこれは異なります。私たちの奉仕は、他の人々をキリストを知るいっそう豊かな知識に導き続けることなのです。

このように、非常に広範に及ぶ包括的な点について述べたうえで、キリストを知ることに関連して、適用と手順に関する明確な具体的方法に進まなければなりません。そしてこれは少なくとも、前に言及した創世記三章から始まる節によって、示唆・提示されています。聖書の二つの路線を特徴づけている二つのものに、私たちは注目しなければなりません。

第一の路線はケルビムと関係しています。聖書全体を通して、ケルビムはある地位を占めています。すべての引用を参照することはしませんでしたが、その一連のつながりを示しました。他方の路線は、命の木と生ける水のほとりの生ける木々、命の川、神のパラダイスにある命の木です。この二つの路線は、ある霊的歴史を示しています。キリストを表しています。

ケルビムの意義

ケルビムの意義を理解するのは容易ではありません。それによって神秘の領域にもたらされるおそれがあります。ケルビムに関する多くの御言葉があります。まず、エデンの園の門で、命の木の道を守っています(創世記三・二二~二四)。次に、契約の箱のあわれみの座の上にいます(出エジプト二五・十八、三七・七)。それから、幕屋の幕に刺繡されています(出エジプト二六・一)。それから、イザヤ六・二、六の預言の中に登場します(そこでは「セラフィム」と呼ばれていますが、ケルビムと同じであることに疑いの余地はほとんどないと思います)。それから、エゼキエルの預言の中で、とても大きな地位を占めています(エゼキエル十・四~五、八、十九~二〇、四七・七~八)。それから、黙示録五・六、八~十四、十九・四、二二・一~四に移ると、その名は使われていませんが、旧新約聖書の両方の記述から、間違いなく生き物(living ones)は同じものを表しています。

ここで一つ修正をしなければなりません。欽定訳ではとても残念なことに「獣(beasts)」という言葉が使われています。この言葉を「獣」と訳してよい保証はまったくありません。また、「生ける被造物(living creatures)」という言葉を使ったとしても、依然として不完全です。真実に迫っていますが、完全に正しいわけではありません。ギリシャ語は一つの単語であり、「ゾーア(zoa)」です。「生き物(Living ones)」が得ることのできる最善の訳です。「ゾーエ(Zoe)」は「命」であり、あの特別・格別な種類の命です、それはキリストが与えてくださる命、永遠の命、「アイオニアン・ゾーエ(aionian zoe)」に関して使われています。「ゾーア(Zoa)」は複数形であり、「生者たち(livings)」もしくは「生き物たち(living ones)」です。

聖書がケルビムについて述べていることをすべて読むなら、恐れずに、それをすべてまとめてこう言えると思います。すなわち、ケルビムは受肉したキリストの霊的特徴と、彼の贖いの益に浴している教会の霊的特徴の象徴的表現なのです。この言葉を受け入れてそれに腰を据えて取り組み、それを携えて聖書に向かうなら、それがどのように証明されるのかがわかるでしょう。

ケルビムが取る姿、その四つの顔について考えてみてください。人の顔、獅子の顔、雄牛の顔、鷹の顔です。獅子は統治、雄牛は奉仕、鷹は天的奥義、人は神の表現、「人の子」を表しています。キリストのこの四つの霊的特徴を見るのは難しくありません。彼は主権者です。「統治権は彼の肩にある」。天と地の権威が人の子である彼に与えられています。その奉仕といけにえはまったく明らかです。天的奥義についても同じです。「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」。それから人の子、神のために語って地上で神を代表する預言者です。そこにはケルビムの姿があります。

この生き物、ケルビム、そして二十四人の長老たちは一緒になって、みなが小羊を礼拝していることに、あなたは気づいているでしょうか?彼らはみな贖いが意味するところに霊の中であずかります。彼らは天使や超天使ではありません。天使たちは贖いの栄光を知りません。小羊の歌を歌うことはできません。二十四人の長老たちは勝利の軍勢全体の代表者であり、小羊の歌を歌います。生き物は彼らと共にひれ伏して、御座に座しておられる方と小羊を礼拝します。

この二つの表現の基礎をすべて網羅するには数時間かかるでしょう。ここでは、受肉したキリスト・人の子と、贖われた群れとが、一つに結ばれています。ケルビムはその両者を含んでいます。ケルビムは受肉したキリストのすべての霊的特徴の化身であり、贖いの益に浴している教会を表しています。まさに「ケルビム」という名が示すとおりです。それはケルブの複数形ですが、それにとどまらず、この名は群衆を意味します。これを黙示録に適用して、ケルビムや生き物と共にいる、万の数万倍、数千の数千倍の者たちという言葉を読むと、確かに意義深いです。

命の問題

ケルビムが見られるすべての事例で問題となっているのは、命の問題です。永遠で、不滅の、死を征服する命です。再び創世記三章から始めることにします。そこでは、彼らは命の木の道を守るために置かれています。それは命の問題であり、誰がこの命によって生き、誰がこの無限の命の力で神に仕えるのかの問題です。

最初から命と奉仕は同行していることに注意してください。アダムは神の同労者と呼ばれており、神は被造物に関して彼をご自身の同労者に任命されました。全被造物に関して、神との交わりの中で共に働く者です。アダムが罪を犯した時、彼の使命は挫折して、神の同労者としての身分は終わりました。そして、地上における彼の生活は厳しい制限下に置かれ、(命の木が表す)あの特別で独特な命は彼に対して閉ざされました。これは、この人はこの働きに関して神との交わりを持てなくなったことを意味しました。

幕屋、幕、あわれみの座、そしてケルビムに移ります。よくご存じのように、あの幕を通って、あわれみの座のある所に入ろうとする者は、特別に定められた方法に従わないかぎり、みな死にました。それらの方法が主によって定められた時、その規定の最後の言葉は「彼が死ぬことのないために」でした。逆の言い方をすると、そこを通り抜けることによって死を征服しようとする人は、規定を守らなければならないのです。さもないと、その人の命も奉仕も断ち切られてしまいます。

ケルビムは、罪深い人には触れることのできない命の守護者です。この命は御子の中にあります。この命は彼の教会の中にあります。神が定められた方法以外の方法で、罪深い人が神の御業・神の事柄に触れたり、神に属するものを取り扱おうとするなら、災いがその人を襲います。

エゼキエルに移ります。エゼキエルの預言の歴史的背景はご存じでしょう。再びケルビムは命と関係しており、命と不可分に結びついています。車輪、翼、車輪の中の霊、車輪と一つであるケルビム、ケルビムと一つである車輪、そのため、ケルビムが翼を広げて上に上がると車輪も上がり、彼らが前に進む時も車輪は彼らから離れませんでした。彼らは一つです。それは命です。それはまったく命の問題です。エゼキエルの時代の主の民を見ると、死しか見当たりません。主はご自身の僕・預言者を通して、ご自身の民の前に命の意味、命の道、死からの解放をもたらそうとしておられます。それについて言えるのはこれだけです。

黙示録に移ります。そこでは、彼らに与えられている名――生者、生き物――だけで十分です。強調点は与えられた命にあります。生き物です。なぜ彼らを他の名、適切な名で呼べなかったのでしょう?いいえ、それは全く命の問題です。エゼキエルの川とその両岸にある木々、命の木と命の水の川を伴う神のパラダイス、これはみな、それは命の問題であることを示しています。

さて、一つか二つの点に注意することにしましょう。ケルビムがキリストの表現、もしくは、受肉したキリストの霊的諸原則の化身であり、命の問題がケルビムと不可分に結びついるとすると、これは新約聖書で何回も明確に述べられている偉大な事実を示しています。すなわち、この命はキリストから切り離せないという事実です。この命はキリストの中にあり、キリストの中でのみ、しかも贖いという根拠に基づいてのみ、持つことができます。贖いが必要なのは、炎の剣が罪深い人のための身代わりなる方を照らし、裁きが呪いの下に置かれたものに下ったからです。

エリシャが呪いの性質を帯びているものを水の泉から取り除くのを見てください(二列王二・十九~二二)。呪いのせいで実は熟す前に落ちてしまい、すべて未成熟で、決して成熟に至りませんでした。これは呪いの印です。

黙示録では、諸国民の健康のためのもの、この生ける水、この命の木を前にします。それはキリストであり、呪いは過ぎ去っています。これは命に至る贖いです。死を征服した命であり、朽ちることのない、死によって打ち負かされえない命です。これはキリストの中にしかありませんが、確かにキリストの中にあります。

この命の働きに進むことにします。この命の最も内在的な特徴は何でしょう?その本質的性質は何でしょう?エリシャを再び例に挙げると、それは落ちたり、しくじったり、未成熟だったり、不完全な状態で終わるものではなく、まっすぐに、いつまでも、死によって触れられることなく、常に完成度を高めていくものです。それは無限に持続するエネルギーであり、常に神の豊かさを表すものを生み出します。「木々はその実を毎月みのらせます」。これは驚くべき木です!その木の葉は、決して変色せず、決して色あせたり落ちたりしません。常に緑色です!これは天然を超えたものを表示・表現しています。それがみなここにあって、この命の本質的性質を告げます。毎月実がみのります!これは継続的な実り豊かさを意味します。旬の季節かどうか問わず、常に旬の季節であり、絶えず実がみのります。絶えず新鮮で、みずみずしく、秋の気配を感じさせることなく、常に新緑の盛りです。これがこの命の本質的性質です。

奉仕についても同様です。神の同労者だったアダムに戻って、彼の罪と堕落の後の、彼の働きの性質の変化を見てください。働きも、彼と同じように、ただちに死の影響を受けるようになりました。死、停滞、制約のしるしがみなそこにあり、完成・完璧なものはなにもありません。なぜケルビムがそこにいるのでしょう?聖書の他のすべての箇所の光に照らして、確実にはっきりと言えるのは、神の働きは神の命によってなされなければならないということです。そうでないかぎり、それは死の下に落ち込み、不十分になり、進み続けられなくなります。それはある点まで進みますが、そこで終わって色あせていきます。神ご自身の命という基礎に基づくあの命だけが、そして、神ご自身の命という基礎に基づいてなされるあの働きだけが、くぐり抜けて完成に、豊かさに至り、絶えず進み続けるのです。

キリストはあの命の化身です。「私は生きている者である。私は死んだが、見よ、永遠にわたって生きている」(黙示録一・十八)。「代々の時代に至るまで」(改定訳欄外)。彼は命の木です。信じる者たちに彼はあの命、永遠の命、進み続けるための命を与えてくださいます。しかし、彼はまたそれを、神の偉大な永遠の御旨におけるご自身との交わりの基礎とされました。この永遠の御旨は、どの期間にも、どの時代・世代にも属さない、永遠のものであり、永遠から出て来て、時間の中をまっすぐに進み、未来の永遠の大海原に自らを注ぎ込むものです。彼の命は私たちの関係の基礎であり、私たちの奉仕の基礎です。

少しのあいだ、警告のために別の面に向かうことにします。私たちはこの命のことをエネルギーと呼びました。人々の生活や奉仕に活力を与えるものです。すべては、長い目で見ると、何が私たちの生活や奉仕に活力を与えているのかにかかっています。私たちは自分自身の天然の命を引き出して、霊的な事柄や神の事柄に向かい、生活や働きをしているのでしょうか。あるいは、彼ご自身の神聖な命を引き出しているのでしょうか。これは大きな違いを生みます。

カインはその好例です。彼は自分自身のエネルギー、自分の天然の命を、神が受け入れてくれると期待したものに向けました。何が起きたでしょう?彼は空虚な壁に突き当たりました。自分のエネルギーを費やし、自分の頭と手を使って働き、自分自身のエネルギーとその成果を神のもとに持ってきましたが、そこには通れる道がなく、扉は閉じていることがわかったのです。カインの事例は歴史的悲劇となりました。彼の名前を聞くと不快に感じます。彼は次のような歴史上の記念碑の一つです。すなわち、神を満足させるために、自分自身の天然の命に基づいて、神に受け入れてもらえるものをささげようとした人々という記念碑です。聖書のページには、これを行なおうとしたことによる悲劇的な結果が散見されます。アブラハムですら、そうすることの悲劇の恐ろしい結果を残しています。ハガルとイシマエルです!なんという悲劇でしょう!この類のものを消すことはできません。それは生ける死です。それを抹消することはできません。アブラハムは神のためにあるものを、神聖なものを実現することに取り組みました。神から与えられたビジョンを実現し、神から与えられた約束を成就して、自分自身の天然のエネルギー、自分自身の天然の命によって、神の御心にあずかろうとしました。その結果がイシマエルでした。神は、たとえアブラハムであっても、これを記録に残すのは価値があるとお考えになりました。あなたはアブラハムのことを、信仰に満ち、忠信で、犠牲を払い、神のために尽くした、神の友と思うかもしれません。そして、「ああ、きっと優しく、寛大に、神は物語の中からその出来事を消し去ってくださったでしょう」と言うかもしれません。しかし神は、アブラハムの場合であっても、次のことを知らしめることには価値があるとお考えになったのです。すなわち、天然の命によって神の御旨を実現するために道を逸れるなら、その結果大きな代価を払うことになる、ということです。それは目的に達しません。神の御旨に決して至りません。

モーセを見てください。なんという忠実さ!なんという献身!なんという犠牲!多年にわたるなんという苦難!それから彼自身の力、彼自身の情熱から発したたった一つの行為……時として、それは知性――考察、理屈、計画、計略、企画――から発する場合もあります。人の知的側面からのものであり、人の天然の命によって活気づけられています。時として、それは心、情熱、感情から発します。モーセが言ったのは、結局のところ、「今、聞け、お前たち、反逆者どもよ、私たちがこの岩からお前たちのために水を流し出さなければならないのか?」ということでした。その結果、神は、「あなたは良き地に入ることはできません」と言われました。神の僕が神に嘆願するのを聞いてください!「お願いですから、私を渡らせてください」。神は、「この件でこれ以上私に話しかけてはなりません」と言われました。その後、この出来事は聖書に書き記されて、その後のすべての世代にわたって、この物語を親が子供に語り聞かせることになったのです。この偉大な人が、そのあらゆる犠牲・忍耐・苦難にもかかわらず、あのように一度失敗しただけで、神は彼を良き地に渡らせなかったのです。この物語を告げられた時、子供たちは親に、「でも、神はとても厳しくて冷酷だったのではないでしょうか?これはとても不親切な恐ろしいことに思われます」と言ったことでしょう。ああ、そのとおりです!しかし、神に対する不従順はとても恐ろしいことなのです!神に対する不従順がいかに恐るべきものか、あなたにはわからないでしょう。神はそれをこのように見なしておられます。子供たちは従順と不従順の意義を学んだことでしょう。

原理的に何が問題だったのでしょう?人自身の天然の命が、神のための熱意となって現れたのです。神は言われます、「だめです!あなたの天然の命が私のために熱心になることを、私は望んでいません!そうしてもどうにもなりません!それは呪いの下にあります。それは実を結びません!不毛です!それをこの領域に持ち込んではいけません。この領域は聖なるものなのです!」。御言葉からもっと多くの例を挙げることもできますが、これくらいにしておきます。

もしかすると、この問題に関してあなたにも経験があるかもしれません。私自身の人生で、恥と後悔と心の悲しみの原因となった顕著な事柄、苦悩や苦しみ(実りある苦しみではありません)という結果にしかならなかった事柄を見てみると、それらは、なにかをしよう、どこかへ行こうと心に決めて、それを実現しようとした時に生じたものでした。私はそれを実現するために決意し、それに手を付けました。それは神が望んでおられたことかもしれませんし、あるいはそうではなかったかもしれません。さしあたっての問題は、それは神のみこころだったのかどうかではありません。問題は、それは神の基礎に基づく神の方法だったのか?ということです。あるいは、それは天然の命の力だったのではないでしょうか?なにかを強く望むとき、私たちがどれほど手練手管を弄せるかは驚くほどです。それを手に入れるために、それを実現するために、なんらかの策略を弄するように思われます。その後それは、「主に関することである、主のみこころである、ビジョンを与えられた」等々の言葉で飾られはしますが、その間ずっと、それを実現するために小細工がなされていたのです。制限、停滞、行き詰まり、保留、遅延が生じます。そして往々にして、数か月、もしかしたら数年を失ったその地点に戻って、別の基礎に基づいて始める必要があるのです。

だめです!私たちのこの命は神の御思いや御旨を果たせませんし、神の働きを行うこともできません。それは神の御旨を実現するエネルギーにはなりえません。神の御言葉は、創世記以降、これを全く明らかにしています。アダムの場合であれ、カイン、アブラハム、モーセ、パウロの場合であれ、そうです。「私が限度を超えて思い上がらないように(中略)肉体に一つのとげが与えられました。それは、私を打つためのサタンの使いなのです」が、天然の命の中にある天然の人であるパウロに対する神の予防策でした!パウロが弱さとその必要性、欠点とその価値について述べたことはみな、「神の働きを最もよく果たせるのは、私たちの命ではなく、神の命によってである」という学課を学んだうえでのことだったのです。

自己を打つこと

どこかで打たれなければなりません。カインは打たれました。モーセは打たれました。パウロは(あの領域で)打たれました。別の部類では、アナニヤとサッピラは、自分自身の考え、自分の知性の働きを、神の聖なる事柄の中に持ち込んで、打たれました。そこには守護者――ケルビム――がいます。「彼が死ぬことのないように」。私たちの命は、その根源において罪深く、呪われています。それを神の事柄の中に持ち込むなら、遅かれ早かれ、あの打撃、あの炎に直面することになります。別の言い方をすると、キリストの十字架に直面することになります。

あなたも私もいずれそれに直面することになります。それは、キリストと共なる磔殺を受け入れたかどうかの問題ではありません。それは事実の問題であって、受け入れたかどうかの問題ではありません。私たちが受け入れていないからという理由で、神は私たちを放免してくださると思いますか?いいえ!受け入れることは、この偉大な事実についての私たちの認識という根拠に基づきます。それを受け入れたことがなかったとしても、それを見たことすらなかったとしても、だからといって最終的に放免してもらえるわけではありません。十字架を理解しているかどうかにかかわらず、私たちは十字架の法則の下にあります。しかし、神はとても忍耐強く、とても恵み深いです。いずれ私たちは自分の命について深く考えるようになります。私たちはあまり成長していません。かなり進みましたが、それ以上は進んでいないようです。途方もない量の労苦を注ぎ込み、自分自身を注ぎ出していますが、その霊的効力や真価はとてもわずかです。何が問題なのでしょう?私たちの中にはこれを経験して、主のもとに行き、「何が問題なのでしょう?」と尋ねた人もいます。主は私たちをローマ六章に連れて行き、それによりすべて解決されました。主は十字架の事実を私たちに示してくださいました。十字架で天然の命は、彼によって、人の命として、神との関係の中から永遠に取り除かれました。彼の復活の命は信者のための命であり、この命は進み続けます。流産、目標に達しないこと、しくじることはありません。ひたすら進み続けます。

豊かな命の道は、結局のところ、十字架の道です。主の民の多くは十字架のことを継続的な死の道であり、無に帰し、中和し、終わらせ、巻き戻すものである、と考えてきました。そうなのですが、それは一つの領域に限られています。キリストの十字架について述べていたとしても、霊的拡大と増し加わりがないなら、そのような人はみな、十字架を全く誤解しています。十字架の目的は、私たちを自分自身と自分の限界から解放して、彼――神のキリスト、満ち満ちた人――の中にもたらすことです。キリストのからだの肢体たちの交わり、すべての中ですべてを満たしている方の豊満の中にもたらすことです。これが十字架の目的です。十字架は、自分の存在――思い・心・意志――のエネルギーである自分の天然の命の終焉を意味すること、また、キリストの中にある命だけが今や、私たちの全存在のためのエネルギーであり、それによって生活と奉仕のために神と関係を持つのであることを認識しないかぎり、私たちが生きて成長し始めることはありません。そこに到達しないかぎり、私たちは停滞することになります。

これは信仰の生活です。これらの霊的事柄を新聞で報道することはできません。真の霊的成長と、奉仕における真の霊的成果は、常に書き記して他人に見せられるとはかぎりません。それは目に見えないものであり、天的なものです。過去十年の私の霊的成長を、見てもらうためにあなたの目の前に示すことはできません。霊的成長をある程度認めることはできるかもしれませんが、あなたはその価値の全容を判断することはできません。また、働きと奉仕に関して、目に見えるものはなにもないかもしれませんが、それでも神の御前では途方もないものかもしれません。十字架上のキリストを見てください。彼がそこにおられた時、彼の奉仕と生涯の働きに関して、何を見ることができたでしょう?彼が十字架上におられて、群衆はみな去り、親しい者たちも散り散りになった時、地上における彼の生涯にはいかなる価値が認められたでしょう?しかし、天においては価値がありました。その価値は永遠に尽きることがありません。その価値を霊的知性の持ち主は理解しました。

生涯の終わりにあるパウロを見てください。牢獄の中にあって、アジアの人々はみな彼から去りました。実質上一人だけ取り残されて、おそらく、当時地上にいた他のだれよりも孤立していたでしょう。彼ほど排斥され、中傷・誤解されている人はいなかったでしょう。他のだれよりも敵が多かったでしょう。神のために注ぎ出された生涯の終わりにある孤独な人でした。それには一体何の益があったのでしょう?それにはどのような霊的益があったのでしょう?その後の世紀を通じて、パウロの生涯の霊的価値は知れ渡っています。しかし、世人が物事を見るように彼を見るなら、パウロの生涯にはどのような価値があるでしょう?それは信仰の生活です。自分自身のエネルギーで神のために働く人は、大きな成果を築き上げることができます。その成果は、自分の努力の結果として、新聞に載せたり、集計したり、宣伝したり、世界に向けて発表できるようなものです。永遠になってはじめて、そこにどれだけ真の永続的な霊的価値があるのかが明らかになるでしょう。この法則は、私たちが好むと好まざるとにかかわらず、また受け入れるか否かにはかかわらず、支配します。この法則は明確です。復活した主の命の産物だけが永続するのです。

主の民にとって、これは信仰の生活です。「それゆえ、世は私たちを知りません」とヨハネは述べています、「それは彼を知らなかったからです」。主は、天的価値観、天的評価方法を私たちに与えてくださいます。また、いかなる代価を払っても自分自身を放棄して、彼の命によって生活・奉仕するための恵みを与えてくださいます。地上ではそれはあまりパッとしないかもしれませんが、この命には価値があります。それは強大なものであり、不滅の、朽ちない、必要不可欠な命です。それは進み続けて、実を結びます。